昨日よりもだいぶ早い時間に帰り着く。
玄関の扉を施錠し、靴を脱いでほっと息を吐いた途端、知尋は身体の重さに耐えきれなくなってへたり込んだ。
冷たい床の感触が今は心地いい。
「ふみゅう……」
一足早く廊下に上がった鈴もまた似たような状態らしい。
二人で背中合わせに体重を預け合っていると、異変を察した李狐が顔を出してくる。おそらく彼女も帰宅してからあまり経っていないはずだ。
そうすると、真里亜達はまだ学園か。
「ど、どうしたの知尋。調子悪い?」
「いや、ちょっと気が抜けただけ。でも、今日の晩御飯は食べやすいものがいいかな」
あくまでも精神的な疲労だし食べられない程でもない。
自分では軽い症状と判断しての返答は、何故か李狐にオーバーな反応を起こさせた。
「……やば。今、お布団敷……かなくていいんだっけ。とりあえずベッドで寝ときなよ。真里亜とか愛華もそのうち帰ってくるだろうし」
「李狐? そこまで重症じゃないってば」
「嘘つかないでよ。だって、いつもは『寝とけば治る』とか言う癖に」
いつの間にか健康優良児みたいな認識になっていたらしい。確かに、睡眠促進能力のお蔭で寝れば大抵治るので、無理が常態化してはいるが。
と、一緒にへたりこんでいる鈴が呻く。
「せっかくだから休ませてもらおうよ。二人でベッド行こ?」
「すみません、鈴さん。今はちょっとそういうことする気力が……」
「わたしだって無理だよ。ただ寝るだけ」
「ならいいですけど」
「……ちょっと、あんた達すぐ熱を計りなさい! なんかヤバい病気だったらどうする気!?」
休む話をしていたら余計に心配された。
なお、幸いにも体温計に表示された数字は平熱よりやや高い程度だった。
「なんだ、咥えるタイプの体温計でじゃないんだね。てっきりそういうプレイもしてるかと思った」
「するか。さすがに病気が移ったら洒落にならないでしょ」
病気を気にしなくていいならやりたい、と言っているように聞こえてどうしようかと思った。
☆ ☆ ☆
『もしもし、和泉君?』
『はい。……えっと、これは葉月先輩の能力ですよね? いきなり頭の中から声がするからびっくりしました』
『ごめんね。身体は、大丈夫?』
『はい、ご迷惑かけてすみません。葉月先輩、黒羽先輩は僕の分まで無理したりしてませんでしたか?』
『様子はいつもと違った。でも、無理はしてなかったと思う。何かあったの?』
『ええと、ちょっと個人的な話があったんですけど』
『四葉も似たようなこと言ってた。明日は来られる?』
『大丈夫だと思います。今日はなるべく早く寝ますね』
『うん、待ってる』
☆ ☆ ☆
結局、真里亜達が帰ってきて食事の支度ができるまでの間、寝室のベッドで少しだけ休憩した。
途中、万里歌からの『伝心』に応じたりしつつ、一時間もせず李狐に起こされたが、『睡眠促進』の効果もあって気分はかなりすっきりした。
なお、鈴は本当に隣で寝ているだけだったことを付け加えておく。
「鈴さんは大丈夫ですか?」
「うん。この『刻印』のお蔭かな。寝つきが良くなったし、疲れも取れやすくなってる気がする」
「ああ、便利ですよね。疲れてても調子の良い時と同じに動けますし、風邪引いた記憶も殆どないです」
なんと三日連続の訪問となった華が鈴の呟きに答えた。
……なんだか、話を聞いていると知尋もその効果が羨ましくなってくるから不思議だ。
「知尋様。何があったのかお伺いしても?」
夕食は鶏肉と野菜のスープカレー。
さらさらしていて食べやすく、香辛料が食欲をそそるそれを口に運びながら放課後の出来事について話す。
四葉からの呼び出し、要求された内容、そして鈴と四葉の喧嘩。
最後の件については細部を省いてニュアンスだけを伝えた。言葉をそのまま伝えられるのは当人達の精神衛生上よくないだろう。
話がクライマックス……激情のぶつけ合いと知尋からの提案に至ったところで、愛華がスプーンを止めた。
空いた手を胸に寄せて尋ねてくる。
「それで……どうなったの?」
「黒羽先輩は納得いかない反応だった。でも、なんとか了承してもらったよ」
女性の本質的価値と社会進出なんて方向に飛びかけていた話を引き戻し、鈴の価値観を頭ごなしに否定するのか、という論調に持っていった。
そう言われれば、誠実な四葉が突っぱねにくいのを承知の上で。
男に抱かれることや子供を宿すこと、性行為の喜びを体験せずにくだらないと断じて欲しくない、一度でいいから体験してから言ってはどうかと押し込んだ。
『どうせオナニーも碌にしたことないでしょ?』
『馬鹿にしないでください。自慰行為くらい……っ』
売り言葉に買い言葉で答えかけた四葉はそこで真っ赤になって言葉を止めてしまい、自慰の頻度は聞きそびれたが。
鳳は前理事長同様、四葉にまだ手を出していないだろう――そんな推測が四葉の反応から裏付けられた。
四葉はまだ処女。性知識もおそらくかなり少ない。
最初の関門はうまい具合にクリアされ、次の関門である『願望暴露』への同意もなんとか勝ち取ることができた。
『何も本当にしろなんて言いません。僕の能力を受けてしばらく……数日考えてみて欲しいだけです』
『和泉君の、能力?』
『僕の読心には別の使い方があるんです。人の心の奥底にある性的な願望を暴く機能、なんですけど』
気高い生徒会長がその端正な顔に疑問を浮かべた。
初耳だったらしい。
原因は鈴が自己判断で『上』への報告を漏らしたこと。性質上、無駄に悪印象を持たれる可能性を恐れたから。
『本当に、和泉君の言った通りの能力なのですね?』
『もっと便利な力ならとっくに使っています』
『……確かに。いくら姉さんでも、真に危険な能力なら放ってはおかないでしょう』
四葉は『願望暴露』を受け入れた。
効果は滞りなく発揮され、知尋と四葉、双方が同じ淫らなビジョンを視た。
たっぷりと、以前李狐達にした時よりも長めに。
『……こんなもの。どうということはありません』
視線を外した四葉はそう吐き捨てた。
しかし彼女の瞳は潤み、頬は明らかに紅潮していた。もちろん直後の一時的ショックに過ぎない可能性はあるのだが。
数日間、様子を見た上で結論を出してもらう約束。
それをあらためて確認すると、少女の口から熱っぽい吐息が漏れた。
『わかりました。……ひとまず今日のところは帰ってください。理事長やルー達には私から伝えておきます。明日は忙しくなりますからこれまで通りに』
『はい』
明日は木曜。
その翌日、金曜日は前日準備で一日がかりの作業となるため、明日が実質的に最後の計画期間となる。
当然、これまで以上の激務が予想されるわけで、保留となった事柄はいったん忘れて一致団結しなくては間に合わない。
……四葉は一晩かけて心の整理をつけるつもりなのだろう。
知尋達は四葉と廊下で別れ、マンションに帰った。
帰り着くと姉妹喧嘩のストレスと交渉中のプレッシャーが一気に襲ってきて、精神的にダウンしてしまったというわけだ。
「はあ。じゃあ、今のところは一応、順調なんですね」
「一応はね」
華の気の抜けた問いに頷く。
波乱含みであり、思っていたのと違う展開ばかりだが、今のところ首の皮一枚のところで繋がっている。今後の交渉がどうなるかが四葉の秘めた性欲次第というのもまあ、何ともはや。
勝算は低い、と言わざるを得ない。
「でさ。生徒会長はどんなエロいこと考えてたの?」
「……気になる?」
「そりゃ気になるでしょ。生徒会長、三年にもなって処女なんでしょ?」
李狐の言い分ももっともか。
「まあ、ね」
「……うーん」
しかしどう言ったものかと、知尋は鈴と顔を見合わせた。
「強烈、ではあったんだけど」
「鈴さんも知っていらっしゃるのですね。何か、特殊な性癖だったのですか?」
「うん、特殊。さすがにわたしも予想外」
鈴が困り顔で笑う。
あの彼女がこうなるあたり相当だと少女達にも伝わったはずだ。
実際、下手に伝えれば嘘だと思われてしまいそうな内容だったのだ。
「とりあえず、今の段階だと説明しづらいから……『そのうちわかる』ってことにしておいて欲しいかな」
勿体つけるわけではないのだが、知尋はそう言って詳しい話を誤魔化した。
☆ ☆ ☆
その夜は、どうにも女の子と抱き合う気分になれなかった。
知尋は居間の隣――特別な用途を設けておらず、普段は荷物置き場や着替えなどに使っている部屋を抜けてベランダに出る。
物干し竿と空調の室外機、テレビのアンテナ。必要最低限の物しかベランダには置かれていない。
外と内を遮る金属製の柵に寄りかかって空を見上げると雲間から月が見えた。
こうして夜空を眺めるのはいつ以来だろう。
便利かつ忙しい生活を送っているせいか、夜はついつい室内で完結してしまいがちになる。それはそのまま、自分を見つめ直す機会の欠如を意味する。
――目まぐるしく変わる日常になんとか対処するのに精いっぱいで。
忘れてしまっていた。見逃してしまっていた。
しようと思えばいつでもできたはずなのに。
「黄昏てるね」
カラカラと、引き戸を開けて誰かが出てくる。
何をするでもなく知尋の隣に収まったのは、ロングヘアを適当に縛り、高そうなシルクのパジャマに身を包んだ鈴だった。
彼女は、手にしたビールの缶を開封すると一口、冷たい液体を喉に流し込んでから尋ねてくる。
「知尋くん、間接キスする?」
差し出される飲みかけのビール。
「ちょっと、お言葉に甘えたくなっちゃいますけど」
もちろん間接キスではなく、単に酒に逃げたい気分という意味で。
未成年の知尋には「お酒」というものが本当に飲むとすっきりするものなのか、よくわかっていないのが本音だが。
「何か考え事?」
「はい。……これで良かったのかな、って」
このところ胸にわだかまり続けている気持ち。
今日の四葉との一件でようやく形が見えてきたそれは、簡単に言ってしまえば一種の自己嫌悪だ。
これまで知尋がやってきたこと。
感情の赴くままに女の子を抱き、気に食わない相手に暴力を叩きつけ、時には卑怯な手段で脅し、正論を極論や感情論でねじ伏せてきた。鈴の処遇を巡るあれこれはちょうど、知尋のやり方とその意味を象徴している。
大人を振り回し、信頼を打ち壊し、騒動を拡大させて愛華達をも危険に晒す。
当の愛華達は知尋のやり方に納得してくれている。今、知尋がこうしていられるのは彼女達の信頼や協力のお蔭だし、それが余計だとは決して思わない。
そして、もちろん、知尋だって自分なりの想いでこの道を進んできたのだが。
四葉に、無垢で清廉な生徒会長に淫らなビジョンを与えて、今。
これでいいのか、とあらためて考えてしまう。
「……まあね、わたしもさすがに考えるよ。ゆーちゃんならともかく、四葉にまで言われちゃったし」
放っておかれる鳳。
かつて好きになりかけたこともある幼馴染に辛辣な気がするが、指摘する空気でもないのでスルーして。
ぐびぐびと鈴はビールを飲んで。
「でもさ、四葉の言ってることって本当に正論かな?」
「……ええと」
言われた意味が掴めず瞬きをする。
そんな知尋に、これでもれっきとした成人女性である元お嬢様はくすりと笑って。
「自分の一番したいことを我慢して、皆に合わせながら生きる……それが当たり前で、正しいってこと? それで幸せになれるの? それとも、幸せにならなきゃいけないの?」
「………」
「知尋くんは、わたし達は、人に迷惑をかけようとしているわけじゃない。今回のことだって、わたしはゆーちゃんが過剰反応してるだけだと思う」
やはり、鈴はどこか真里亜と似ている。
あの黒い美貌の少女は、自分が孤独だと認識している――世界にとって、社会にとって異物であり、望むままに振る舞えないことを自覚し諦めている。
だから、多少は賢くやり過ごす方法を知っているし、知尋という主人を見つけることもできた。
しかし鈴は諦めきれていない。
発端が恋愛感情だというのも原因だろう。好きな人を失っても立ち上がらなければならない――立ち直って、新しい恋を見つけなければならないと言われても納得できない者は多いはずだ。
鈴の場合は溜まり溜まった性欲という事情がそこに重なる。
爆発させて行きずりの相手を探せる程度に頭のネジが外れていれば、あるいは違ったのかもしれないが。ある意味、彼女の育ちの良さが変なところで理性的な判断をさせてしまったのだろう。
「わたしは嫌だよ。わたしや、あの真里亜ちゃんみたいな子を認めてくれて、助けてくれる人がいてもいいと思う。それが知尋くんならとっても嬉しい」
「でも、僕には力がありません」
「ないなら手に入れればいいんだよ」
物凄く簡単に言われた。
正直、それができたら苦労はしない。
今、知尋が求めているのは戦闘力ではなく権力や財力、あるいはコネクションといったものだ。単なる力以上に、一朝一夕で、何の手順も踏まずにぽんと手に入るものではない。
「そうかなあ。なんとかなると思うよ。例えば……いるじゃない、お金持ちの家の実質一人娘で、学園の理事長と婚約してる処女の女の子とか」
黒羽四葉。
「黒羽先輩を手に入れろ、ってことですか?」
「そうだよ」
実の妹を調教しろ。
そう告げているにしては鈴の表情は穏やかで、むしろ愉しげですらあった。
残ったビールが全て飲み干される。
「わたしは、知尋くんがそのために四葉に『あれ』をやったんだと思ってたけどな。強烈なエッチの体験が忘れられなくなる、なんて定番でしょ?」
「漫画とか小説とかの定番ですね」
「そういう話もあるね」
間に冗談を挟みつつも。
堕落の道を選んだ姉は、道連れの少年に、未だ清廉を保つ妹を堕とせと囁きかける。
「あの四葉に、奴隷にしてくださいって自分からお願いさせるの。興奮しない?」
その誘いは確かに、抗いがたい魅力を放っていた。