四葉の家は、父いわく「ちょっとした資産家」である。
家業はいわゆる投資家。利益を優先した取り引きを繰り返すタイプではなく、対象の有望さを見極め、将来性に期待した中長期的な投資を行うことを信条としている。
いわば、人助けのための投資。
まあ、もちろん――それで利益を得ている以上、綺麗なお題目通りの話でないことも今の四葉は理解しているが。
それでも、父の投資を受けて助かった人間は数多くいる。
一番苦しい時に援助してやり大成後に見返りを貰う、いわゆるギブアンドテイクの行為、『持つ者の義務』を無理のなく行うための手法なのだと理解している。
また、父は作家を兼業しており、母は音楽家。
家業の投資によって得たコネクションを個人の仕事にも役立てることで、先代から継いだ資産をより増やし次代に残そうとしている。
鳳家との繋がりも柴鳳学園の運営資金を援助した縁によるものだ。
――黒羽家の家の跡継ぎは姉の鈴だと、四葉が物心ついた頃にはもう決まっていた。
鈴が直接継ぐのか鈴の伴侶に任せるのかは流動的だったが、とにかく長女の鈴が大事な役目を果たす。鈴も四葉も、その決定に不満はなかった。
四葉は幼く素直だったし、鈴は聡明な少女だった。
身体が弱く病気がちな反面、物事の本質を見通す『目』を持っており、座学についても優秀な成績を収めていた。
姉妹仲も良好で、四葉は優しい姉が大好きだった。
しかしそんな環境は時の流れに伴い少しずつ変化していく。
最初の変化は姉の婚約。
相手は鳳家の長男で、学園の理事長を務めている男性だった。申し分ない縁談ではあったが、彼は多忙故に黒羽家の後継ぎをこなすのは難しい立場。
これに伴って鈴は相手方の家に入ることが決まり、黒羽家の後継ぎは四葉となった。
『頑張ってね、四葉。応援しているから』
『はい。ありがとうございます、お姉様』
これにも不満はなかった。勉強をして学校を出て、伴侶を見つけ一緒になる。四葉がやるべきことは殆ど変わらない。
むしろ、姉の役目を引き継ぐのは光栄だとさえ思った。
婚約が決まってからの鈴は楽しそうだった。休日にデートに出かけては楽しそうに土産話をしてくれる、その姿は四葉の理想の女性と言ってよかった。
自分も姉のように。
その一心で勉強や運動、人付き合いに励んだ。鈴と違い身体も丈夫だった四葉は、次第に各方面において、かつての鈴以上の成果を上げるようになった。
天運、というものもあったと思う。
良い教師、良い友人に恵まれた。転んだり事故に遭ったりしても不思議と大きな怪我をすることはなかった。個人的な外出先で雨に降られたことは殆どなく、探していた物や欲しかった物が偶然手に入るのは日常茶飯事。
――まるで世界が四葉ちゃんを祝福しているようだ。
ある日誰かにそう言われた。
四葉の『幸運』が『落とし物』の能力として認められたのはそれからしばらく経った頃だった。常に自分を助ける方向へと因果を捻じ曲げる、その力はランクBと認定された。
全てが上手くいっていた。
世界が幸福に満ちていた。
姉の、鈴の婚約者が重い病気にかかるまでは。
病気を知らされて以来、鈴は塞ぎこむようになった。四葉の前ではなんとか笑顔を見せようとしてくれていたが、だんだんとそれも無理になって。
彼が旅立ってからは人が変わったようになってしまった。
無気力で、自暴自棄な姿。
『これでは、お姉様も死んでいるのと同じです』
『……あはは。そうだね。死んじゃおうかな』
頬を叩いて訂正を求めても、彼女はへらへらと笑うだけだった。
それでも立ち直ってくれるのを期待して身の回りの世話をすれば、彼女は四葉の見ている前で自慰を始めた。
吐き気を堪えながら姉の部屋を出て――以来、一度も会わなかった。つい最近になって再会するまでは。
両親は「鈴のことは忘れなさい」と彼女に言ったが、四葉は忘れられなかった。ただし良い意味ではなく悪い意味で。
嫌悪と反感を向ける対象として、だ。
……あんな風にはならない。
かつての憧れは反転し、猛烈な敵意となって渦巻いた。
四葉はそれ以来、今まで以上に自分を高めた。
学業に決して手抜きをしないまま数々の習い事をこなし、同時に友達付き合いも疎かにせず、クラス委員等の面倒な仕事も率先して引き受けた。
理想の優等生、そう言われるに足るだけの努力と実績を積み重ねた。
持つ者の務め――父の教えを実践し、彼の後を継ぐために。
『幸運』には頼らなかった。
四葉の強い意志が、常時発動だった『幸運』に新たな機能を加えたのだ。
『幸運分与』。
四葉の持つ類稀な幸運を他者に分け与える力。分ける相手が増えれば増えるだけ効果は等分され、平等に発揮される。
皆で少しずつ幸せになろうという意思の具現。
この力を、四葉は親しい人物、親しくなった人物に「おまじない」として使ってきた。その数は今や百に届くほどであり、もはや能力によっては意味のあるレベルの幸運など起こりえない。
それでもやり遂げた。
鳳と婚約した。
柴鳳学園にて優秀な成績を取り、生徒会長に就任した。
何もかもが上手くいっていた。
なのに。
「……どうして」
☆ ☆ ☆
ベンチに腰掛けたまま、四葉は誰にともなく呟く。
――二度目のビジョンの内容は、一度目とほぼ同じだった。
異なるのは、一度目よりも過激になっていたということだけ。
鳳を見下し、足を舐めるよう命じて実際に舐めさせる。その様を見て、感じて快感に打ち震え、絶頂せんばかりの高揚を覚える――ここまでは同じ。
今回はそれに加え、足を使って鳳のズボンからペニスを取り出し、靴下のままそれを扱いて射精させた。
そして、今度こそ愉悦による絶頂。
……今回と前回、二度のビジョンには四葉の知らない変態的行為が含まれていた。知尋によれば、それは四葉の抱える不定形の想いが知尋の知識によって『翻訳』された結果だろう、とのことだった。
その真偽のほどはわからないが。
「どうして私は、あんな望みを」
もう、四葉には自分を騙すことができなかった。
二度目の『願望暴露』から脱した今、四葉の全身には途方もない高揚感が駆け巡っている。今すぐにでも自慰に耽りたい衝動を抑えこもうと、彼女は己の身体を両腕で抱きしめた。
……間違いなく、あれは四葉自身の望みだ。
でなければ、これほどの興奮を覚えるはずがない。
どれだけ信じられなくとも認めるより他にない。しかし理由が、
「ストレス」
「え?」
「辛かったんでしょ? 皆にいい顔して、いっぱい努力して、完璧な優等生を演じるのが。だから我が儘になりたかった。だから、絶対やっちゃいけないことをやりたかったんだよね?」
何を言うのか。
反論しようとして振り返った四葉は、姉の表情を見て絶句した。
目を細めた穏やかな微笑。
慈愛に溢れた態度にかつて憧れたあの姿を幻視する。
違う、と言いたいのに言葉が出て来なくなる。
思わず縋ってしまいたくなるのを必死に堪えながら口を開いた。
「……辛くなんて。頑張るのは当たり前のことで」
「他の子が頑張っている何倍も、四葉だけが頑張るのが?」
「私はそういう家に生まれたのですから、当然の義務で」
「黒羽の家に、望んで生まれてきたわけでもないのに?」
言葉が突き刺さる。
「言ったよね、四葉。『背負うものも何もない癖に』って。重たくない持ち物のこと、そんな風に言ったりするかな」
「……やめ、て」
目を閉じて首を振る。
聞きたくないのは、声を遮ろうとするのは図星の証拠だと認識しながら。
「違う。私は違う。私は今まで頑張って」
「……何のために?」
「……え?」
左側。
知尋が静かに問いかけてくる。
「人並み以上に努力する人を、僕も何人か見たことがあります。そういう人達は皆、必ず努力する理由を持っていました。先輩は、どうして努力してきたんですか?」
「それは、家を継ぐために」
「継いで、どうしたいんですか?」
「投資で、困っている人を助けたいと」
そうだ。
小さい頃からそう教えられてきたし、自分でもそれが正しいと思っている。
だから人を助けられる人間になるために努力してきた。
「本当に? 他にやりたいことはなかったんですか?」
……ほかに、やりたいこと。
そんなもの、ないと。
言おうとした四葉にほんの一瞬、先んじて鈴が言った。
「中学の頃、毎日やってたテニスは辞めちゃったの?」
「――っ!?」
忘れていた……いや、忘れようとしていた思い出。
記憶の隅に追いやっていた過去をピンポイントで掘り起こされた。
鈴の言う通り、四葉は中学時代テニスに熱中していた。才能があると思ったし、プロになりたいと思った時期もあった。家には今も、大会で好成績を修めた際のトロフィーが飾られている。
昔の話だ。
高校入学と同時にテニスの道は諦めている。
柴鳳学園にはテニス部が無かったし、地区やその他の団体に所属する程の時間的余裕はなかったから。
「私の代わりに家の後なんて継がなければ、テニスができたのにね」
「それは、誰のせいだと……っ」
言ってから失言だと気づいた。
……確かに、四葉が家を継ぐことになった原因は鈴にある。
前理事長が亡くなり婚約が破談になった時点で、鈴はフリーになっていた。あそこで塞ぎこんでいなければ、鳳と婚約するのは鈴だっただろう。後継者は再び長女に戻り、次女の四葉は好きなように生きられた。
しかし、その考え方は「今の環境に不満がある」と認める行為だ。
「うん。私のせいだよね」
あっさりと、鈴が頷く。
「私のせいで四葉は、背負わなくていい物を背負うことになった。ごめんね。苦労も迷惑も心配も、沢山かけちゃって」
「な、んで」
今更、謝るのか。
昔みたいな声で、顔で、四葉の心を追い詰め責めたてるのか。
正しいことを言っているはずの。
優等生として皆の役に立って来た四葉を、何故、駄々っ子みたいにあやそうとするのか。
「辛いよね、苦しいよね。いいんだよ、いくらでも文句言って。だって私のせいなんだから、私には聞く権利があるの」
「そんなの今更聞きたくない! 私が今、弱音を吐いたら、役目を投げ出したら、誰が家を継ぐの!?」
膝に乗ったままになっている鈴達の手を振り払い、四葉は立ち上がった。
振り返った先に鈴の姿はない。当たり前だ。能力が発揮されている限り、鈴に触れていない対象は彼女を認識できない。
鈴からの返事も四葉には聞こえない。
代わりに答えたのは知尋だった。
「そんなことは知りませんし、今はどうでもいいことです」
「……な」
彼は冷たい瞳をしていた。
まるで四葉の心の奥底までを見通そうとするような、恐ろしい瞳。
そして、それはあながち間違いではない。『読心』の能力が、四葉の胸にわだかまる某かの感情を読み取ったはずだ。
「黒羽先輩。いや、四葉(・・)」
名前で呼ばれた、ただそれだけで胸がざわめく。
「立場も建前も要らない。本当の君の望みを、欲望を聞かせて欲しい。そうして、ありのままの君に、僕の物になって欲しい」
――その言葉は、四葉の心を驚くほどに揺さぶった。
家柄が良く成績も良好で、かつ社交的な四葉は男子生徒からも人気がある。愛の告白自体は数多く受けて来たし、その中には似たような台詞をかけてきた者もいた。
しかし知尋のそれは、何も知らない男の出任せとは重みが違う。
彼は、知っている。
下手をすれば両親や鳳よりも深く、四葉の事情と内面に入り込んでいる。
あのビジョンを。
男を嬲って喜ぶ光景を直接共有してなお、彼は四葉が欲しいと言っているのだ。
加えて言えば「自分の物にしたい」と言い切る姿は尊大な主を――『願望』における四葉自身の姿をなぞっているように思えた。
きっと、彼なら本当に「ありのままの四葉」を肯定してくれる。
姉を、何もかも放棄し停滞していた鈴に恋心を抱かせたように。
「……でも、駄目です。そんなことをしたら私は弱くなってしまう。それに和泉君には恋人がいるはずです」
「愛華は全部知った上で了承してくれてる。それに、難しく考える必要はないよ。もし気が咎めるなら『取り引き』だと考えてくれてもいい」
「取り引き」
頑なになりかけた心にその単語がするりと入り込む。
「そう。僕は四葉の欲望を肯定して、四葉が満足できるように協力する。代わりに四葉は僕の物になる」
ただし物といっても四六時中束縛するつもりはない、と知尋は言った。
鳳との婚約を解消しろという話でもない。
――婚約や恋人関係と、主従関係とは矛盾しない。
婚約を続けたまま、鳳への愛を保ったまま知尋を心の最上位に置け、という話。
「生徒会長も家の後継者も、続けたければ続ければいい。四葉の望みは束縛しない。心の重荷さえなくなれば、同じことをしても結果は変わるはずだから」
ギブアンドテイクだ、と彼は言った。
四葉が得るのは心の安寧。
差し出すのは忠誠心と、いざという時の便宜。
「……虫のいい話です」
「なら、断ってくれてもいいよ」
「いえ」
首を振って答える。
虫のいい話だ。安らぎなどという形のない物のために魂を差し出せと、周囲を取り巻く全ての人の信頼を裏切れという。
……なのに、断れない。
心が理解しているのだ。
彼に身を委ねれば、心には安寧が訪れると。
四葉の欲望を肯定し、解放してくれるのだと。
「……一晩、考えさせてください」
だから、四葉は彼にそう答えていた。
それが相手の思う壺なのだと薄々気づいていながら、肝心の部分から目を逸らしたのだ。
他ならぬ、彼女自身の意思で。