空を覆う橙色の光が弱まり、闇へと変わりつつある頃。
黒羽四葉は理事長室の入り口に立ち、ドアを二度ノックした。
「どうぞ」
「失礼いたします」
中からの返事、鳳の声を待ってから入室。
半秒ほどの間を置き、丁寧に背後を振り返ってドアを閉じると、執務机に腰かけている婚約者に向けて一礼する。
理事長と一生徒という立場を弁えると共に、年上の婚約者を敬う意味も籠もったその仕草に、鳳が鷹揚に手を上げて応じる。
「ご苦労様。準備は滞りなく済んでいるようだね」
「ええ。生徒会の仕事は全て無事に終わりました」
まだ残って作業しているクラスがあるし、実行委員会も最後の仕上げを行っている。風紀委員会は泊まり込みで作業する生徒の監督役として数名を校内に残すらしい。
全体で見れば準備は終わっていないが、後はもう何事もなく明日を迎えられることを祈るだけだ。
四葉の返事に鳳は頷き、立ち上がって窓の外を振り返った。
「明日か。楽しみだね」
「そうですね」
生徒達にとっては待ちに待った学園祭だ。都合三度、経験する機会があるわけだが、毎回それぞれに別の思い出を残してくれるはず。
四葉にしても、生徒会長として迎える今回の学園祭には感慨がある。
「……由司さんにとっては、もう飽き飽きかもしれませんが」
「手厳しいな」
身体の向きを室内に戻した鳳が苦笑を浮かべる。
彼はそこで何かに気づいたように眉を顰めた。
「しかし、珍しいな。こんな時間に会いたいと指定してきたかと思えば、世間話とは。君らしくもない」
「そうですね」
くすりと笑って指摘を肯定。
夕方、邪魔者のいない理事長室とはいえ、学園内にはまだ多くの生徒が残っている。このタイミングでプライベートな会話、幼馴染であり婚約者としての顔を覗かせるのは「いつもの四葉」らしくはないだろう。
しかし、それはどうでもいいのだ。
一歩、四葉は前へと踏み出した。足が絨毯に下り重心が移動しきってからもう一歩。ゆっくりと鳳へと近づいていく。
そんな態度に違和感を覚えたのだろう。
「四葉?」
人の台詞を咎めておきながら、自分もプライベートな呼称を用いつつ、彼が穏やかに呼びかけてくる。
「目が赤いが、大丈夫か? あまり寝てないんじゃないのか?」
「大丈夫です。それよりも……」
更には自分から執務机を回り込み迎えてくれる。
優しい人なのだ。
誠実で、仕事に対する責任感もあり、四葉には勿体ないくらいの男性。
四葉は彼の顔を見上げ、ほんのりと頬を染めながら告げた。
「それよりも、実はお願いがあるのです」
「お願い?」
「はい。どうしても、これ以上我慢するのが難しくて。……聞いていただけますか?」
「………」
上目遣いの視線に彼が戸惑うのがわかった。
女性から誘惑されるシチュエーションに慣れていないのだ。四葉よりだいぶ年上で、普段は大人の貫禄を見せてくれているが、実は女性経験に乏しいことに四葉は薄々気づいていた。
……可愛い。
かすかに優越感の混じった想いが胸に浮かぶ。
普段は格好いい男の人のギャップのある姿にきゅんと来る女性は多い――いつだったか、綾瀬がそんな怪しい知識を披露していたのを思い出した。
あれもあながち間違いではなかったのかもしれない。
ふう。
軽く息を吐いた鳳が微笑む。
「私にできることなら聞くよ。言ってみるといい」
「ありがとうございます。では、私の下僕になってくださいませんか?」
「……え?」
端正な顔立ちに絶句の表情が浮かんだ。
何の返事も出てこないまま数秒が流れる。その間、四葉は微笑んだままただ彼を見上げていた。
果たして、彼は信じられないという顔で聞き返してきた。
「今、なんて言った?」
「ですから、私の下僕になってください」
「……何かの冗談か? それとも隠語だとか」
「いいえ。もちろん違います」
そう言いたくなる気持ちもわかる。
実際、四葉自身だって数日前に聞かされていれば似たような反応を示しただろう。
「プライベートな時間だけで構いません。私に跪き、私に従い、私の意のままに嬲られる奴隷になれ、と申し上げています。……ああ、金銭的に無茶な要求をしたりはいたしませんからご安心を」
「待つんだ、四葉」
鳳の手が四葉の肩を掴んだ。
「一体、何を言っているんだ。冗談でないというなら猶更笑えない。君が理由もなしにこんな話をする子ではないとわかっているが……」
「痛いです、由司さん」
「……っ。す、すまない」
小さく上げた声にはっとした鳳は慌てて手を離した。
解放された四葉は肩を軽く手で払うと、ふう、と息を吐いた。
見上げた彼の瞳には動揺がある。
理解できないモノを見るような表情。未だかつて、彼からこんな視線を向けられたことは一度もなかった。
……やっぱり、そうなるか。
半ば予想していたこととはいえ胸が痛んだ。
「私は、ずっと我慢していました」
「……我慢?」
「はい。優等生を演じ続けなければ重圧を。そして……人を、男性を支配したいという欲望を」
「……君は、自分が何を言っているのかわかっているのか?」
「もちろん、わかっています」
世間一般からは白い目で見られるような欲求だということも。
下手をすれば今ある信頼が全て崩れ去るような言動だということも。
「それでも。限界だから、こうしてお願いしているのです。他ならぬ由司さんになら打ち明けられる、と」
「……それは」
「私の買いかぶりすぎ、でしたか?」
「その言い方は好ましくないな」
鳳はそう言って首を横に振った。
彼は深く息を吐き、瞼を閉じて数秒思案する。
唐突すぎる話をたった数秒で理解し、意見を纏められる冷静さは、その人柄と能力を表していると言っていいだろう。
静かな瞳が四葉を見下ろす。
子供に言い聞かせるような言葉が婚約者の唇から紡がれる。
「君が本気で言っているのなら、私はその考えを正さなければならない。たとえどんな理由があろうと、人が人を支配するのは悪しき行為だ」
「……由司さん」
「わかってくれるね、四葉?」
彼の声も、瞳も極めて優しい。
本気で四葉のことを考えてそう言ってくれていることがよくわかる。
だから、四葉は首を縦に落とした。
「……ええ、よくわかりました」
「そうか、良かった」
この時の鳳の顔を彼女は見なかったが、声色からほっとしているのが伝わってきた。
話せばわかってくれる、一時的に気の迷いに陥ってもすぐに立ち直る――そんな風に彼が信頼してくれていることが手に取るようにわかった。
……それが、気に食わない。
その上から目線はなんだ。
ほんの二、三言、話を聞いただけで四葉の苦しみを理解したつもりなのか。
間違いを指摘しただけで、内にある思いを理解しようともせずに全て終わった気になっているのか。
支配を悪しき行為だと言いながら、彼がやっていることは性差の、年齢差の、権力の差の押し付けではないのか。
そんな思いを押し殺しながら四葉は一歩、後ろに下がる。
鳳は動かない。おそらくは彼女の動きを何気なく見守っているだけだろう。
「よくわかりました。言葉だけでは無駄だと言うことが……っ」
そんな鳳の隙を突き、四葉は己の右足を勢いよく振り上げた。
ほぼ予備動作なし。構えからの動きではなく力の入り方も中途半端な蹴り。しかし四葉とて、この学園で三年近く戦闘訓練を受けてきた身だ。
上履きを履いた足の甲は、狙い違わず鳳の急所を蹴り上げた。
スーツのズボン越しに感じる、妙に柔らかな質感。授業では基本的に急所攻撃が禁止されているため、味わうのはこれが初めてだ。
生憎、潰すところまではいかなかった。
急所とは言っても、そう簡単に破壊できる部位ではないらしい。おそらく全力で蹴り上げなければ潰すのは難しいだろう。
などと、四葉が悠長な思考を続けている間に。
「―――!?」
鳳は激痛に顔を歪め涙を滲ませ、ふらりと身体を揺らめかせた。しかしなんとかその場に踏みとどまると、なおも痛みを堪えながら体勢を整えようとする。
「隙だらけですよ」
足払いが成功。
利き足である右を払われた鳳は不格好に転倒。尻餅をついて四葉を見上げる。
上下関係が逆転。
……ほう。
四葉は婚約者を見下ろして恍惚の息を漏らした。
ああ。
普段見上げている相手を見下ろすのはなんて心地いいのだろう。
「よ、四葉?」
「なんでしょう、由司さん?」
尋ね返しながら足を持ち上げ、鳳の股間にゆっくり下ろした。
力を入れすぎないように注意しつつぐりぐりと責めれば、成人男性である彼の口から「うっ」と呻き声が漏れた。
鳳はなおも続く股間の痛みを堪えながら四葉を睨みつけてくる。
「何の、つもりだ?」
「見ての通りです。お願いしても聞いていただけないなら、無理矢理言うことを聞かせて差し上げようかと」
「……馬鹿な真似はよすんだ。こんなことをして何の意味がある?」
「私が楽しい。それ以上の意味が必要ですか?」
「……な」
絶句した鳳をよそに、四葉は制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
カメラを起動し、自分の足と鳳の姿を画面に収めてシャッターを押す。
パシャ、パシャ、パシャ。
連続撮影モードにより、何枚も写真が撮影されていく。鳳はスマホを向けられた時点で身を起こそうと動き出していたが、股間を押さえられている時点で四葉の意のままだった。
四葉は更に保存したばかりの写真を操作し、端末をしまう。
「メールで送りましたから、私からこれを奪っても無駄ですよ?」
「……本気、なんだな?」
「あら。本気なのはとっくに理解していただいたと思いましたが」
股間に乗った足に体重をかけながら言えば、彼は簡単に沈黙してしまう。
くすくすと、優越感から笑みをこぼしながら、四葉は更なる準備を施すことにした。
これも制服のポケットから――今度は金属製の手錠を取り出して、鳳を後ろ手に拘束する。
「写真、流出されたくなければ暴れないでくださいね」
「今、大声を出せば困るのは君だぞ」
「どうぞお好きに。私は運が良いので、あまり困った事態にはならないかと思いますが」
「……『幸運』を使っているのか」
「ええ。一昨日と昨夜、自慰に耽っていたせいで寝不足でして。普通に歩いていては事故に遭わない自信がなかったものですから」
四葉は羞恥に頬を染めつつも悪びれず、はっきりとそう答えた。
……そう。知尋によって願望を開放された彼女は、更にもう一晩を自慰に費やした。
むしろ、興奮の度合いは二日目の方が高かった。
よりハードなビジョンを見せられたせいでもあるし、寝不足で逆に理性が働かなかったせいもある。そして一番は、四葉の望みが自慰では代替できないものだったことだろう。
我慢しようとすればするだけ、欲求は高まっていく。
はしたないこと、いけないことをしている罪悪感。早く眠らなければ明日に差し支えるという常識的思考がストレスを加速させ、より深みにはまった。
したい。男を跪かせたい。
できるなら大人の男がいい。それも真面目で誠実な――そう、鳳のような。
数えきれないくらい絶頂に達し、気づけば朝を迎えていた。二日間続けての睡眠不足に自慰の疲労が重なり、ついベッドに倒れ込みながら思った。
……登校、したくないな。
普段なら絶対に考えないこと。それをよりによって「学園祭の前日準備」の日に思った。しかもその思いは即座に振り払われることなく、たっぷり数分もの間、四葉の胸に揺蕩い続けた。
そしてようやく、四葉は理解した。
……ああ、私は弱い。
自分の欲望すら制御できない。挙げ句、責任を放棄して独りよがりな安らぎに逃げようとしている。姉の鈴を笑ったり、非難する資格など自分には存在しない。
『……ふふ。あはははっ』
四葉は、使用人が何事かと見に来るまで笑い続けていた。
心が急速に堕ちていくのがわかった。自分を厳しく律してきた彼女だからこそ、一度堕落の味を覚えてしまえばそれに抗えなかった。
――『幸運分与』の能力をオフにし、分け与えていた『幸運』を取り戻した。
久しぶりの全能感が身体に満ち心が落ち着いた。疲労も眠気も消えていないが、この状態なら注意力が散漫だろうと『幸運』が守ってくれる。
彼に会わなければ、と思った。
シャワーを浴び、制服に袖を通し朝食を胃に落とし込んでから学園に向かう。送迎の車の中ではどういう訳か興奮して眠れなかった。
『四葉、答えを聞こうか。僕の物になるか、ならないか』
和泉知尋の問いかけが、これまでとは全く別物に思えた。
『ふふ。……和泉君。どうして私が、|あなた程度(・・・・・)の物にならなければいけないんですか?』
『また極端に走ったなあ……別にいいけど、知尋くんを虐めるなら許さないよ』
『はあ。姉さんに何ができるんですか?』
思考力の低下、堕落の興奮、能力による全能感から、四葉は狂気のごとき高慢さを発揮していた。
財力、権力、能力の強さ……いずれにおいても自分に劣る知尋達に何ができる。そう思って見下した態度を取れば――『認識疎外』で気配を隠した鈴から容赦なく殴り倒された。
こと肉弾戦において、鈴の能力は極めて強力だ。
良くも悪くも、鈴と戦闘のイメージが結びつかないせいで忘れていた。
『……女性に守られるなんて、情けないですね』
転んだ身を起こしながら呟けば、知尋が目を細めて進み出た。
だんっ。
大きな踏み込みと共に繰り出された右拳を両腕で防御。すると想像よりもずっと重い、互いの骨が軋むような衝撃が走った。思わず一、二歩後退してしまう。
今の狙いが顔だったら、腕を弾かれて頬を痛めていたかもしれない。
お返しに渾身の後ろ回し蹴りを放てば、なんと知尋は軽いステップでそれを回避してみせた。
『できるだけ女の子を殴りたくはないんだ』
『私が、あなたを攻撃しても、ですか?」
『もちろん』
挑発のつもりの言葉に当然のように頷かれて言葉が出なくなった。
そこへ鈴が静かに。
『四葉こそ、一人で何ができるつもりでいるの?』
『今の四葉は前よりずっと好きだけど……その態度を続けていたら破滅するよ。君の欲望はきっと誰も理解してくれない。皆から見放されて孤立して、満たされないまま死ぬしかない』
『……随分、実感が籠もっていますね』
『似たようなことになった子を知っているからね』
その上で知尋は再度尋ねてきた。
『僕は四葉を認める。……四葉は、僕の物になる気はあるかな?』
……もう、選択肢などありはしなかった。
いや。本当はこうなることを望んでいたのかもしれない。
醜い本心を曝け出してなお認めてくれる人。素の自分のままでいられる相手。彼の傍には姉もいて、互いに認め合うことができる。
回想を終えた四葉は微笑みながら手をお腹に当てる。
「今は、寝不足なのにとても調子がいいんです。絶好調……さあ、もう一度聞きますね。由司さん、私の下僕になってください」