気づいたら母も姉もいなくて、とても不安になった。
周りには知らない人ばかり。大人の人や、高校生くらいのお兄さんやお姉さん、家族連れが皆、笑顔で歩いている。
一人ぼっちなのは知尋一人だけ。
楽しいはずの遊園地なのに全然楽しくない。
お母さん、お姉ちゃん。
何度も大きな声で呼んだのに、見つからない。
――知尋は男の子だから強くならないと。
いつもそう言われているから頑張ったけど、そのうちどうしようもなく心細くなって泣いてしまった。
そうしたら涙が止まらなくなって、わんわん泣きながら母や姉を呼び続けた。
心配して声をかけてくれた人もいたけど涙は止まらなかった。
「知尋」
どれくらい後だっただろう。
ようやく、名前を呼んでくれる人が現れたのは。
駆け寄ると、当時中学生だった姉が優しく抱きしめてくれた。今度は安心から泣き出したのを母と姉から優しく宥められ、ようやく落ち着いた。
そうして顔を上げた時、知尋は見た。
知尋を抱いた姉、母を背にした彼女の瞳が知尋を見ていなかったこと。
どこか遠くをぼんやりと見つめていたことを。
今となってはもう、一人ぼっちの寂しさよりもずっと、あの時の姉の瞳が記憶に残って――。
☆ ☆ ☆
「知尋、起きろ」
「ん……」
微睡の中、耳元で姉の声がした。
「起きろ、朝食だ」
「……ん」
もう朝なのか。
朝の倦怠感を無視して目を開け、身を起こした。一、二分もすると眠気が晴れてすっきり目が覚める。
体調は殆ど全快していた。
ベッドに座ったまま自分を見下ろすと、知尋は全裸だった。
肌のあちこちには精液や愛液の跡があり、服は床の上に散乱している。
……昨夜、楓に何度もイかされたんだったか。
思考が追いつく。
昨夜の淫らな行為が脳裏に蘇り、口からは自然と深いため息が漏れた。
さすがに乱れ過ぎた。
幸い『睡眠促進』のお蔭で疲労も、快楽の余韻もすっかり抜けているが――逆に怒りの感情も湧いてこない。姉に関しては万事、諦める癖がついてしまっているせいもあるだろう。
思い返せば、最初から最後まで楓にされるがまま、射精どころか声すら抑えられなかった。周囲の部屋に聞こえていなければいいのだが。
それはとりあえず後回しにして、楓を振り返る。
彼女はさっぱりとした風情だった。
相変わらずブラウスと下着だけの姿だが、シャワーを浴びたらしく髪や肌はすっかり綺麗になっている。
「ご飯って、食材は?」
冷蔵庫には調味料くらいしか入っていなかったはずだ。
すると、八つ年上の姉は悪びれもせずにしれっと答えた。
「いや。だから、早くシャワーを浴びて朝食を買ってきてくれ」
「……ああ、なるほど」
納得した。
何を言っても駄目だろうし時間が勿体ないので、知尋は抗議を諦めた。手早くシャワーと着替えを済ませ、近くのハンバーガーショップで朝メニューを見繕う。
真里亜達が傍にいないと途端に外食頼りである。
……料理の腕もきっと錆びついてるだろう。
もともと上手でもなかったが、ここ数か月全く料理をしていないので余計下手になっているはずだ。
というか、最近は料理だけでなく掃除や洗濯も碌にしていない。
実生活面での命綱を少女達に握られている。真里亜の唱える「主人の振る舞い」が、いつの間にか身に着きつつあるのだろうか。
「お待たせ」
「助かる」
この食事の支払いも楓持ちである。
二人はそれぞれ、もそもそとハンバーガーを食べ進めた。その間、会話らしい会話は殆どない。話題を提供する人間がいないと極端に口数が落ちるのが、和泉楓という人間なのだ。
「姉さん、今日はどうするの?」
「少し学園祭を見て回って、幾つか用事を済ませてから帰る。あらためて挨拶する暇はないだろう」
「そっか。……まあ、身体には気をつけて」
「ふむ。社交辞令として受け取っておこう」
せっかくの会話もそれで途切れる。まあ、実際ほぼ社交辞令だ。むしろ帰ってくれてほっとする部分が大きい。
しばらくして互いの食事が終わりかかった頃、楓がぽつりと言った。
「知尋。『アブソリュート』という名に聞き覚えはあるか?」
「アブソリュート?」
耳慣れない単語に、知尋は眉を顰めて首を傾げた。
確か、絶対だとかそういう意味を持つ言葉だったはずだが、名、と言うからには何かの名称なのか。
人か物、集団に付けられた通称、称号のようなものかもしれない。
敢えて楓が口にするからには漫画の話とかでもないだろう。念のため、かなり真剣に記憶を探ってみる。
「……いや、知らないよ」
一度も耳にした覚えのない名前だった。
「それが、どうかしたの?」
「いや、大したことじゃない。物のついでのようなものだ」
「ふうん……」
彼女の言葉をどこまで信用していいものか。
態度を決めかねてじっと見つめると、姉は淡々と言葉を紡ぐ。
「……『読心』、か」
「………」
楓からそういう言い方をされると、どうしても馬鹿にされているような心持ちになる。知尋は黙ったまま視線を鋭くした。
ふっ、と楓が息を吐いた。
「例え話をしようか」
「え?」
話を逸らされたのか。
一瞬そう思うも、続いて投げかけられた言葉に知尋は困惑した。
「お前は犯罪者――人殺しや狂人、魑魅魍魎の類と対面したとしても、その『読心』の力を使うか?」
「……何を急に」
「物のついでだよ。さっきと同じだ」
言われて思考を巡らせる。
先の問いに比べれば、今回の問いは簡単に答えが出た。
「使うよ。相手が普通の人間じゃなくても。……いや、普通の人間じゃないからこそ、僕は『読心』の力を使うと思う」
「そうか」
頷いて、それきり楓は何も言わなかった。
姉はそれ以上『アブソリュート』の名を口にすることも、二つの問いの意味を説明することもなく、スーツに着替えて部屋を出ていった。
「では、またな」
短い言葉と寮の鍵だけを残して。
……全く、一体なんだったというのか。
嘆息した知尋は自身の身支度を整え、ついでにガスの元栓やら何やらを確認、長期不在にしても大丈夫な状態に戻してから部屋を出た。
幸い、朝のHRまでにはまだそれなりの時間がある。
まずは昨日の約束を果たそうと、知尋はスマートフォンを手に取った。
☆ ☆ ☆
「……この体勢、ちょっと無理がない?」
「うん、超無理矢理。でも仕方ないよ。他に方法ないんだから」
ぼやく李狐に鈴が答える。
二人は――というか、新メンバーの四葉を除いた知尋の関係者全員が、学園祭におかる1-Cの更衣室、すなわち一年生の教室が並ぶ廊下の一番奥の部屋にいた。
では、二人の言う無理な体勢がどんなものかというと、まず鈴が部屋の床にごろんと寝そべっている。腕と足も軽く開いた状態で床に投げ出されており、両手には知尋と愛華、両足には真里亜と李狐が触れている。
そして鈴のお腹の上には、メンバー中で最軽量の華が座る。
こうでもしないと、全員でゆっくり話ができないからだ。
「昨日のことは、愛華がもう話してくれてるんだよね?」
「うん、話したよ」
「はい、一通りは聞きました。高槻さんが帰った後のことはもちろん聞いていませんけど」
話題はもちろん楓のこと。
しかし、多少時間があると言っても後には予定がつかえている。
真里亜のマンションに集まって話をしていると、HRどころか学園祭の開始まで話し込んでしまいそうなので、あらかじめ学園内まで移動してから話をすることにしたわけだ。
そして、誰にも邪魔されずに話をするには鈴の『認識疎外』が絶対必要なので、全員でどこかしら鈴に触れることになった。
……こういう時は万里歌の『伝心』が心底羨ましい。
「知尋様。あなたの姉――和泉楓という女性は、私が思っていた以上に癖のある人物のようですが」
「……うん、そうだね」
真里亜の促しに知尋は頷いた。
振り返って瞳を見つめると、漆黒の少女は薄く頬を染めて目を逸らした。残りのメンバーのうち三人が頬を膨らませ、もう一人がジト目になる。
しかし知尋は構わず言葉を紡いだ。
「先に、愛華と別れた後のことを話しちゃおうか」
楓から強烈な責めを受けたことを簡単に話す。ただし、今朝彼女と話した内容については省略した。今、優先して話すべきは楓の人となりであって、本筋と関係ない内容まで口にしている余裕もない。
「……と、いうわけなんだけど」
「………」
「………」
話を終えると、沈黙が生まれた。
何故か誰も喋ろうとしない。少女達は全員が全員、口を閉じたまま表情を硬くし、互いに視線を交わし合っている。
そして李狐が。
「ん、そいつ殺そう」
目いっぱい剣呑な目つきで言った。
いきなり何を言い出すのかと思ったら、鈴と愛華も李狐に頷く。
「いいよ、手伝う」
「私も、殺すのは反対だけど、懲らしめるのなら賛成」
「あ、愛華?」
あの心優しい少女がセーブ役に回っていない時点で異常事態だった。知尋は慌てて恋人に声をかけるが、首を振られる。
「ごめんなさい。でも、知尋君にそんな酷いことをするなんて許せないよ」
「うん。あたし、今まで結局誰も殺してないけど、今回は割と桁違いで許せない」
「李狐」
彼女達が怒っている理由はわかる。
知尋への危害。今回の場合は、楓が知尋を女の子のように嬲り、限界まで射精させ続けたこと。
「でも、別に怪我したわけじゃないし。単にレイプされただけで」
「……はあ、わかってないですね」
と、ため息をついて首を振ったのは華だった。
黒縁眼鏡、小動物のような容姿を持った毒舌小悪魔は、先程から続く白い目で知尋をじとりと見た。
「和泉君はされる方も割と慣れてるかもしれませんが、レイプって本来大事なんですよ? 特に男の子が女の子に犯されるのは……まあ、色んな意味で私には想像できませんが、尊厳を踏みにじられる行為で間違いないでしょう」
「……なんていうか、御宿さんが言うと説得力あるよね」
「喧嘩売ってますか?」
華が睨む矛先を変えると、先程の呟きを放った李狐は肩をすくめた。
「別に。……知尋の奴隷がやる分には、あたしもそこまで気にしないよ。だから御宿さんには怒ってない。でも、その知尋のお姉さんは別でしょ」
『ちさと』が華にレイプされた時はいくらでも抵抗できた。
『刻印』による『支配』の効力をボーナスからペナルティに反転させ、華を押しのけてやればそれで事足りたし、そうしなかったのは、華に対するある種の信頼があったからだ。
向こうも自分を信頼してくれている、という。
しかし、楓は違う。彼女はプレイとしてではなく、単に自分の都合で知尋を犯した。そして、もしかしたら彼女の責めで知尋が廃人になったり、性癖を大幅に変化させていた可能性だってあった。
だから許せないのだと李狐は、そして鈴と愛華も知尋に示した。
「真里亜も、そう思うでしょ?」
そうして李狐が振り返ったのは最後の一人。
黙したまま思考を続けていた真里亜だった。
「……そうね。李狐の言うことはとても良く分かる」
彼女は顔を上げて頷き、それから「でも」と続けた。
「私は彼女の詳細の方が気になるわ。……知尋様、和泉楓の能力は、いったい何なのですか?」
「『ベクトル操作』」
知尋は端的に答えた。
「正確に言うと、ベクトルを感知する方がメインだけど。姉さんは物の移動する時とかの『向き』や『流れ』を感知して操作できるんだ」
「……それは、酷く万能な力ですね」
「うん。日本の中か、下手したら世界的に見ても強い能力だと思う」
例えば戦闘に使う場合。相手がどういう風に移動し、どういう攻撃をしてくるのかを事前に察知することができる。また、効率の良いベクトルのずらし方、すなわち攻撃の捌き方もわかる。
無駄な方向にかかっている力をずらし真っすぐに向けることで、徒手格闘や武器戦闘、飛び道具を問わず、自身の攻撃をより強力にすることもできる。
昨夜、知尋をイかせ続けたのもテクニックではなく、能力の作用だ。
もちろん、力を増幅するわけではなく集めるだけだし、遠隔操作もほぼ不可能という制限もある。なので、足踏みしただけで地割れを起こすとか、風を操って竜巻を起こすとかは無理だが。
「神代君と楓さんなら、どっちが強い?」
「二人が戦ったら、百回やっても全部姉さんが勝つよ。少なくとも今の神代君じゃ、姉さんには絶対勝てない」
「じゃあ、私達が全員でかかったらどうですか?」
「姉さんが勝つ」
知尋は断言した。
知尋や李狐、愛華に華は論外。子供をあしらうように倒されるだろう。真里亜の『報復』も楓には十中八九通用しない。『報復』によって発生したエネルギーのベクトルを捻じ曲げて消滅させたり、あるいは真里亜自身に返すことさえできるかもしれない。
そして、鈴が『認識疎外』で不意打とうとしたとしても。
「姉さんなら事前に気づくよ。気配を隠蔽しても、多分、動きのエネルギーまでは隠蔽できない」
「……それじゃ、無敵じゃん」
「無敵じゃないよ。感知も対応もできない規模や速度で攻撃すれば勝てる」
本人が油断しない限りは「ほぼ」無敵だとは言っていいが。
……はあ、と誰かが息を吐いた。
殺そうとしても、そもそも殺せない――というのはさすがに堪えたのだろう。
一人、冷静に見える真里亜もまた瞳に冷たい怒りを忍ばせながら、再び知尋に尋ねてくる。
「知尋様。彼女の能力がベクトル操作だとして、あなたの『読心』が効かないというのは」
「簡単だよ。姉さんの能力は視線とか、あとは人の気持ちとかにも使えるんだ。……さすがに、人の気持ちを直接操作したりはできないみたいだけど」