「よく来たな。時間通りか」
理事長室へ入ってすぐに部屋の奥から声がした。
知尋は入り口のドアを閉じ、愛華の手作り弁当を手に振り返る。
「まさか、呼び出されるとは思いませんでした」
なるべく普通にと思っていても、返答はつい硬いものになった。
何しろ、このシチュエーションにはいい思い出がない。
もっとも、それは相手も同じだったらしい。
「……そういうこともあるさ」
やや恰幅のいい身体に、仕立てのいいスーツを纏った三十代の男性――学園の理事長である鳳は、知尋からやや視線を逸らしながら言った。
ちょうど仕事を終えたのか、彼は机の引き出しを閉じると立ち上がった。
入り口付近に立つ知尋は反射的に身を固くする。
しかし、歩き出した鳳は、単にテーブルとソファの応接セットへと近づいただけだった。
「昼休みも長くはない。君も座ったらどうだ」
「あ、はい」
ぶっきらぼうな声に頷く。
鳳の向かいにおずおずと腰かけ、テーブルの上に弁当箱を置いた。
と、既にテーブルに置かれていたものが目に入る。
蓋をされた丼と、ざるに乗った蕎麦。簡易容器に入った沢庵と麺つゆに割り箸一膳。
「お昼、出前なんですか?」
「そういうこともある」
先程と同じような返答。
ややむっとした色がある辺り、不摂生を咎められたと感じたのかもしれない。特別、そういうつもりはなかったのだが。
男同士のコミュニケーションというのは難しい。
相互理解を好む傾向が強い女性と違い、男は案外、会話がなければないで平気だったりする。その上、歳の差や考え方の違いがあれば余計にややこしい。
鳳がふっと息を吐きながら箸を割る。
「学食や購買を利用することもあるが、大人がいると生徒が委縮するからな」
できるだけ、別の形で出来あいの物を用意していると鳳。
「気を遣ってくださっているんですね。……別の形というのは、コンビニとかですか?」
「ああ。パンや弁当、インスタント食品の場合もあるが」
そういえば部屋の片隅、目に付きづらい位置に電気ポットがある。仕事の合間、手が空いた時にささっとカップ麺を啜ったりパンを齧るわけか。
さすがに電子レンジはないようなので、そうすると店屋物だとか、温める必要のない食べ物に偏ってしまうのだろう。
知尋が納得していると、何やら鳳に顔をしかめられた。
「君と話していると、鈴や四葉が面倒くさい時のようだ」
「面倒くさい?」
「口煩い、と言い換えてもいい」
ぐさりと胸に刺さった。
……普段、女の子とばかり会話をしているせいで、彼女達のペースが移ってしまっているのだろうか。
しかし、会話の基本はキャッチボール、質問と回答だと思うのだが。
(兄さんは気にしなくてもいいと思う)
(ん。ありがとう、ちさと)
妹に心の中で答えつつ、弁当箱を開く。
卵焼きにミニハンバーグ(合い挽き肉&鰯ミンチの二種類)、マヨネーズ控え目のポテトサラダ、それからプチトマトと、海苔の敷かれたご飯。
いつも通り、栄養バランスと彩の考えられた内容だった。
毎日は申し訳なくて「簡単なもので構わない」と何度か言ったこともあるのだが、その度、これでも十分楽してると言われている。
愛華には感謝するしかない。
「……いい弁当だな」
呟く鳳も丼の蓋を開けていた。
途端、立ち上る湯気。届いてからあまり時間が経っていなかったようで、中のカツ丼はいい具合に食べごろだった。
この辺りの蕎麦屋には全く縁がなかったが、揚がり方も衣のしっとり具合も良好だ。カツと一緒に玉葱がたっぷり卵とじになっているのもポイントが高い。
「そのカツ丼も美味しそうですよ」
「なら、一口食べるか?」
「いいんですか?」
「君に分けることになってもいいように、少し多めに注文したからな」
嘘か誠か。
まだ使っていない箸でカツを一切れ渡してくれるので、代わりに合い挽きのハンバーグを差し出した。
ハンバーグを口にした鳳は、思わず、といった具合で口もとを綻ばせる。
「……美味いな」
「ありがとうございます」
愛華が褒められると自分のことのように嬉しかった。
しかしお礼まで言うのはやりすぎだったかもしれないと、照れ隠しにカツを口にする。思った通りいい味だった。
ただ、ちょっと味が濃いだろうか。
もしかしたら、李狐や真里亜、愛華らの手料理に慣れたせいでそう感じるのかもしれない。
「そういえば、理事長は料理できるんですよね?」
「……できないことはない。時間が無いから弁当は作らないが、どうしてだ?」
「いえ。鈴さんが色々世話を焼かれた、と言っていたので」
何しろあの鈴のことである。
掃除や洗濯だけでなく、世話された内容に料理も含まれていただろう。
なお、その鈴も料理はできる。
ただ、自分一人の食事の場合、面倒だからと際限なく手を抜くだけだ。
はあ。
鳳がため息を漏らした。
「あいつにも困ったものだ。私が何度言っても聞きはしない。……まあ、今は世話を焼いてくれる者がいるようだが」
「え……ええと、はい。まあ」
嫌味を言われているのか。
どうにも判別しがたく、お弁当を食べながら苦笑した。
すると鳳は案外、穏やかな表情で言ってくる。
「……いや。君には一応、感謝しているんだ」
声音にはどこか不本意そうな響きもあったが。
(……感謝)
(……一応)
つい、ちさとと一言ずつ呟いてしまった。
その間に鳳は更に言葉を続けてくる。
視線はカツ丼と蕎麦の方に落としたままで。
「仕事に戻るように、鈴を説得してくれたんだろう? お蔭で別の調査員を探さずに済んだ。危うく次の判定に支障をきたすところだった」
「いえ、そんな」
まさか、礼を言われるとは思っていなかった知尋は慌てて首を振る。
「僕は少し話をしただけで。鈴さんがビール代を稼ぐと言って了承してくれたんです」
「そう、それだ」
「え」
藪蛇だったか。
先程の殊勝な態度とは打って変わって、鳳の目がぎらりと輝くのを知尋は見た。
彼は割り箸を使って蕎麦を持ち上げつつ、愚痴を吐くように言う。
「あいつは飲み過ぎる。酒は百薬の長と言うが、量が過ぎればただの毒だ。私は日頃から一日二缶までにしろと言っていたのだが……まさか、際限なく飲ませているなんてことはないだろうな?」
「あ、あはは」
鳳こそ酒でも飲んでいそうな饒舌ぶりだった。
これには作り笑いをするしかない。
(飲ませてるよね、兄さん)
(さすがに四缶超えたら注意はしてるよ。注意は)
(……でも、人の不摂生について言う前にこの人、自分が太って)
(ストップ。それ以上はやめよう)
男の私生活なんて適当なものだ。
鳳の場合は仕事が忙しいというのもあるだろうし、四葉と婚約している身である以上、当然奥さんなどいないから人の目が入りにくい。
それに、自分のことはおざなりでも、綺麗な女性が自堕落な生活を送っていれば気になるのは仕方ない。それが身内となれば猶更だ。
知尋の場合、姉の私生活については諦めているが。
「鈴さんへのお小言も、そんな感じなんですか?」
尋ねると、鳳はふん、と鼻を鳴らした。
「私が言わなければ治らないからな。それに、あのログハウスを使わなくなった分だけ、前よりも話す機会は減っている」
「……そう、ですか」
これは駄目だな、と知尋は思った。
(うーん。気にする相手が違うと思うんだけど)
(そうだね。……僕も、ちさとがいなかったらあんまり気にしてなかったかもしれないけど)
(兄さんの鈍感)
(う)
何だかとばっちりを受けつつも口を開く。
「それより、黒羽先輩を気にしてあげたらどうですか?」
お節介だとは思いつつ。
彼女の処女を奪った自分が言うことではないと理解した上で。
幼馴染ではなく、婚約者に目を向けろと告げれば、意外にも鳳の反応は、きょとんと目を瞬くものだった。
「? 四葉に余計な気遣いは不要だろう。あの子は完璧だ」
「………」
つい、口から何かが漏れそうになるのを知尋は堪えた。
(うわぁ)
内心の代弁は、ちさとが行ってくれた。
いや、まあ、気持ちはわかる。確かに四葉なら不摂生な生活などそうそうしないだろうし、実家暮らしだから使用人や両親の助けもある。
社会人の一人暮らしで、親元からも離れた鈴の方が危うさはある。
「でも、婚約者ですよね?」
「婚約者だからこそ、お互いに自立した立場であるべきだろう。彼女の人格を尊重し、私の我が儘でそれを捻じ曲げるべきではない」
「なるほど」
知尋は頷いた。
考え方に決定的な相違があることがよくわかった。
鳳の言い分もわかる。特に、歳相応以上に大人びている四葉が相手だ。認め合い、尊重し合うやり方もあるだろう。
(でも、女の子って、放っておかれると不安になると思う)
不安は、心の不安定を生む。
不安定な状態は、いずれ私生活にも影響を及ぼしかねない。実際、気づかないうちに溜まっていたフラストレーションが、四葉のS性を生み出したのだろうし。
「なら、せめてもう少し話をしてあげてください。理事長がどう思っているのか、言葉にしないと伝わらない部分もあると思います」
「……言葉に、か」
重い呟きが鳳の口から漏れた。
「君は案外、まともなことを言うんだな」
褒められている気がしなかった。
蕎麦を完食した鳳は再びカツ丼に戻りつつ言う。
「少し、君を誤解していたかもしれない。後先考えない子供だと思っていたのだが」
「……いえ。それで合っていると思います」
「謙遜はよせ。少なくとも、鈴を仕事に戻したことだけは評価している。納得できない部分も多々あるがな」
「………」
何と返答していいかわからず、知尋は黙った。
静かに箸を進めるうちに弁当を食べ終える。一緒に持って来た水筒から紅茶を口にした。
「生徒会役員に立候補するそうだな」
「はい」
立候補の受付期間が始まったため、エントリーを行った。
「……副会長、とは意外だったが」
「僕も裏方がいいと言ったんですが、副会長にしろと言ってくる人がいたので」
ルシルである。
当の彼女は生徒会長に立候補しており、曰く「あたしを補佐する人間が必要でしょ?」とのこと。
庶務の綾瀬が繰り上がりで副会長でもいいのではとも言ったのだが、彼女、もとい彼は今の庶務が適任だとのこと。
『それに、大人気のちさとちゃんなら前に出しといても受けがいいでしょ』
『それならやっぱり綾瀬先輩の方が』
『うるさい。いいから、あたしの代わりに挨拶とか諸々引き受けなさい』
物凄く横暴だった。
要するに、ルシルは生徒会長になっても今と同じスタンスを続けるつもりらしい。そして、生徒会長の四葉がやっていた位置を知尋が担う。
宥め役と、イベントの度にちょっと話をする程度なら今と大差ないか……ということで引き受けることになった。
「まあ、頑張ってみるといい。応援はしないが文句も言わない」
「……ありがとうございます」
「不満そうだな」
「いえ。なんていうか、意外だったので」
ふん、と、鳳が再び華を鳴らした。
気づけば丼も空になっていた。その体型の原因は食べ過ぎにもあるのではないか、と思った。
「個人の感情と、理事長としての評価は別だ」
「……すみません」
「ん?」
「いえ、なんでも」
謝罪の意味がわからなかったらしい。
首を傾げた鳳に、知尋は曖昧な笑顔を返した。
多少、彼のことを誤解していたかもしれない。そう思ったら、四葉を奴隷にしたことを謝りたくなった。
もちろん、謝って許されることではないし、今更返すつもりもない。
だから、口から漏れた謝罪はなかったことにした。
「失礼します」
程なく、知尋は理事長室を後にした。
「学校対抗戦の方も期待している。理事長として、我が校が活躍するのは嬉しいからな」
「はい。もし出ることになれば、できる限り頑張ります」
最後に交わしたのはそんな言葉だった。
鳳は、知尋が四葉にしたことを知ったらどう思うだろう。
しかし過去は覆らない。
彼が四葉との間に、十分な信頼関係を築けていなかったことは彼の落ち度だ。もし、そうでなければ、四葉が知尋の物になることはなかったかもしれない。
もしも、を語っても無意味なら、これからどうするかで勝負するしかない。
四葉と鳳。
二人の関係は、究極的には二人だけの問題だ。
知尋が深入りしようとも限界があるし、鳳が行動を改め、四葉がそれに応えるのなら理解すべきことだと思う。
(兄さん、敵に塩まで送っちゃったもんね)
(敵じゃないよ。一応、今は)
廊下に予鈴が鳴り響いた。
心の中でちさとと会話をしつつ、知尋は急ぎ足で教室へ戻った。