土曜日。
気づけばもう学校対抗戦は翌日に迫っていた。
その日、知尋達、柴鳳学園の代表選手は簡単な打ち合わせを終え、翌日の集合場所や時間等を確認してから解散する。
「黒羽先輩、良かったら一緒にお昼を食べませんか?」
「いいわね。是非、お願いするわ」
若干白々しい演技をしつつ、知尋と華は四葉と共に帰宅を決める。
残って訓練をしていくという神代、一度生徒会室に寄ってから帰るらしい万里歌とは校内で別れ、昇降口を出る。
そうして校門をくぐりかけた時。
「初めまして、和泉知尋君」
――声がした。
校門により多少視界が遮られているものの、それなりに開けた場所。
当然、近くに誰もいないことは確認していたというのに。
唐突に聞こえた声は男のもの。
囁き声ではないが、決して大声でもない。なのに、風の音や木々のざわめきと干渉する様子もなく妙にはっきりと知尋の耳に届いた。
まるで、そう。
人の目を耳を、興味関心を悉く自らに惹きつける力が備わっているかのように。
立ち止まって振り返る。
そこに彼がいた。
年齢は二十代後半。
黒髪に、黒い瞳。
顔立ちは美しく整っているのに、色以外に特筆すべきところが思い浮かばない。突き詰められた美人や美形とは、特徴を失い平均化された形だという理論を聞いたことがあるが――。
すらりとした立ち姿はまさに、ある種の完成形と呼ぶべきものだった。
基本的には細身。それでいて頼りないわけではなく、一定の肉付きは保っている。身長は知尋よりかなり高く、百七十センチ台の半ばといったところだろうか。
名乗られるまでもなくわかった。
彼こそが――。
「深海、灰人」
知尋の傍らで華が呟いた。
数メートル先に立つ男を愕然と見つめたまま、凍り付いたように立ち尽くす。
「……和泉君」
華の呟きから状況を察した四葉が一歩、前に踏み出して知尋を守る。
男、灰人がふっと微笑んだ。
「そう。俺が深海灰人。真里亜の兄であり、ランクSの『落とし物』。そして『アブソリュート』のリーダーだ」
見る者を安心させる、若い女性ならそれだけで心惹かれるような笑みだった。
「大丈夫。君達を傷つけるつもりはない。だから安心して欲しい」
「……信じられると思いますか?」
応じる四葉の声は、かすかに震えていた。
(兄さん。この人、危険だよ)
不意にちさとが脳内で囁いてくる。
(なんていうか、話してるだけで信用しそうになる感じ。この間、あの子が言っていた通り)
ただ彼の存在、声や姿を認識するだけで抗えなくなる。
男性よりも女性に効きやすく、影響を受けた者は最終的に人格すら歪められて彼の奴隷となってしまう。そんな理不尽な能力。
かなめの『端末』によって行使された時は何の意味もなさなかったが、どうやら、当人が行使した場合のそれは段違いらしい。
知尋の中にいるちさとにすら影響があるとするならば、四葉と華には。
「御宿さん、黒羽先輩。今すぐここから離れてください」
「和泉君?」
「この人は僕に用事のはずです。二人がこの場にいる必要はありません」
何より、他者に支配される彼女達は見たくない。
言葉の裏にある知尋の思いを察したのだろう。華と四葉は重く押し黙り、しかしそれでも逡巡を見せた。
「でも」
「この状況で、あなたを残していくなんて」
危険だと二人の目が告げている。
土曜日、昼時の校門前。
人通りは皆無ではないが、既に生徒の大半は帰宅している。今この時も知尋達以外に誰もおらず、華達が去れば知尋を一人で残すことになる。
しかし、知尋としても意見は曲げたくない。
灰人の能力に比較的抵抗しやすい彼一人が対峙する方が被害を減らしやすいはずだ。
と。
「話し合う必要はないよ。どうせ逃げられないから」
|背後からも声(・・・・・・)。
もちろんそこにも誰もいなかったはずだ。
ばっ、と振り返れば、二人の少女が立っている。
声の主はそのうちの一方、初めて見る相手だ。
ショートヘアをラフに散らし、私立柴鶴学園の制服――古式ゆかしいセーラー服を纏っている。
制服が薄手かつ半袖なところを見ると、おそらく夏服を着ているのだろう。
「ボク達がいること、気づかなかったでしょ?」
にっと笑う彼女の傍らにはもう一人。
こちらはきちんと冬服のセーラーを着こんだ、顔見知りの少女。
自称・猟奇的残虐系アイドル、指宿かなめ。
「お久しぶりですぅ、和泉君。その首、洗って待っててくれましたかぁ?」
言って、彼女は凶暴に歯を見せて笑う。
かなめの瞳は決して笑っておらず、知尋に対する殺意でぎらぎらと光っていた。
あれだけのことをしたのだから、当然といえば当然なのだが、どうやら相当な恨みを買っているらしい。
ともあれ。
誰もいないはずの場所に突如、人が三人も現れた。
灰人一人だけなら、まだ知尋達の不注意である可能性もあった。
しかし、三人もの人間を見逃したとなれば、そこに何らかの力が働いていたと見るのが自然だ。
相手は『アブソリュート』の支配者、深海灰人。
そして私立柴鶴学園に所属する生徒が二名。
となれば見逃しの原因は、おそらく。
「……認識疎外系の能力」
「少し違うな。認識の方向性は間違っていないけれど」
灰人の声。
再び振り返った知尋達に、彼は軽く肩をすくめてみせた。
「そんなに怖い顔をしなくてもいいだろう? せっかく俺が、君達に挨拶しに来たというのに」
「信じられると、思いますか?」
先程、四葉が言った台詞を華が繰り返した。
ようやく呪縛から解き放たれたように、彼女はすっと知尋の背後に付いた。制服越しに互いの背中が触れ合う。
ぎゅっ。
細い指が知尋の左手に絡まり、握られた。
「ふうん。随分、その男に入れ込んでるんだ?」
「そうなんですよぉ。華ちゃんってば趣味悪いったらないですよねぇ」
先程の少女に、かなめが答えた。
どちらの声も妙に明るいのが逆に恐ろしい。
この間のかなめが、真里亜達に知尋を犯すよう命じたように――彼女達はきっと、灰人の命令なら笑顔で人を傷つけられるだろう。
「止めておきなさい、かなめ、早稀(さき)」
「はい、ご主人様」
その灰人が指示を出すと、少女達は素直に従い口を噤んだ。
しかも、この公共の場で躊躇いもなく『ご主人様』と口にするとは。
(普通じゃない、ね)
(……うん。絶対に気は抜けない)
そもそも、知尋達の退路を断って来た時点である種の敵対行動だ。
傷つけるつもりがないという言葉を、素直に信じることなどできはしない。それに、例えば能力を使って三人を洗脳するつもりだったとしても「傷付けてはいない」ことになるのだから。
洗脳されるとわかっていれば心の持ちようはある。
どこまで通用するかはわからないが、無いよりはずっとマシなはずだ。
できる限りの対策を取りつつ、穏便にこの場を済ませる方向を模索する。
「どうして、あなたが急に?」
頭の中で方針を纏めた知尋は灰人をじっと見据えた。
ちくっ。
視線を交わした途端、胸にかすかな痛みが走った。同時に彼の感情が流れ込んでくるも、それは靄がかかったように不鮮明で、意味合いを理解することができなかった。
思わず顔をしかめてしまう。
そんな知尋の様子に気づいたのか気づかなかったのか、灰人はふっと笑い、後方にいるかなめ達を見やった。
「彼女達の付き添いだよ。明日、学校対抗戦が行われるだろう? 君達とも『当たる』ことになるから、挨拶をしておこうと思ったんだ」
「……なるほど」
ある意味では宣戦布告とも言い換えられる。
組織の総力を持って潰す気はない。しかし、与えられた場の中でルールに則り、正々堂々と争うことは躊躇わない。
むしろ積極的に、己の手駒をぶつけてくる腹積もりか。
「各校の代表者が到着するのは午後だと聞いていました」
何しろ北海道や大阪、九州からやってくるのだ。
どうしても移動に時間がかかるため、彼らは前日にあたる今日から学園の施設に泊まることになっている。
それはいいのだが、代表者である生徒達には授業があるはず。受けてから来るのではとてもこの時間には到着できない。
対抗戦の準備のために免除されたのか、あるいは。
「先回りという奴だよ。そこのかなめは元々、仕事関係で休みが多いしね。早稀は……まあ、俺の都合で休ませてしまったけれど」
「気にしないでください。ご主人様のご用事の方が大事ですから」
ちらりと振り返れば、少女――早稀がにこにこしながら言っていた。もしも尻尾があればぶんぶんと振っていそうな勢いである。
そんな態度の彼女を、灰人は特に驚くでもなく見て頷く。
「いい子だ。じゃあ、後でご褒美をあげよう」
「わあ。ありがとうございます!」
おそらく『ご褒美』というのは性的な行為なのだろう。
交わされる会話の異常さに閉口しそうになりつつ、知尋はなんとか平静を保って更に尋ねた。
「あの。この場所で、これ以上話を続けますか?」
「ん? ああ、それもそうか」
言われてようやく気づいた。
そんな調子で頷くと、灰人は笑って告げた。
「じゃあ、適当に食事でもしながら話そうか」
☆ ☆ ☆
学園から歩くこと十分程。
食べたいものがある、という灰人のリクエストに基づき知尋が案内した先は、とある個人経営の蕎麦屋だった。
立地的に、この間、鳳が出前を取っていたのはこの店かもしれない。
だとすると味はかなりいいことになるが――。
いや、それにしても蕎麦って。
思わず突っ込みたくなるも、彼とはそういう間柄ではない。軽くため息を吐くだけで堪え、先に暖簾をくぐる灰人の後に続いた。
「いらっしゃい」
「ああ。この店、俺達の貸しきりにしたいんだけど、いいよね?」
「……え?」
テーブルと座敷、カウンター席がいくつかある店内に入るなり宣言する灰人に、つい理解が追いつかず硬直した。
今はお昼時。席について食事をしている客が何人もいる。
まさか、いきなりやってきて貸し切りにしろなどと、一流芸能人でもない限りは不可能だろうに。
しかし、更に理解不能だったのは店主の反応だった。
「あいよ」
彼は何の瑕疵もなく軽く答えてみせたのだ。
両者の会話が聞こえていたのだろう――店内にいた客達は、それを合図に食事のペースを上げ始める。
「ああ、慌てなくて構いません。俺達の注文が届くまでに出ていってくれればそれで」
まるで寛大な処置をする有力者のような態度で灰人が手を広げた。
間違いない。
確実に、彼が何かをやったのだ。
座敷席の一つを六人で囲んだ――卓の一方にかなめ、灰人、早稀が座り、もう一方に華、知尋、四葉が座った――後、知尋はまず懸念事項を尋ねた。
「さっきのが、あなたの能力ですか?」
「ああ、そうだよ」
いともあっさり灰人が答えた。
「あれが、俺の『支配者』としての能力だ」
「支配者」
「君の『支配』とは名前が似ていても、全くの別の能力だよ」
誇らしげに笑む灰人。
彼はメニューを手に取り、楽しそうに眺めながら言葉を続けた。
「俺がそこにいて、話しかけるだけで。目を見つめるだけで。人は俺のことを好きになる。俺の思う通りに動きたくなる」
「心を、支配するってことですか?」
「そうだね。能力の影響は、長時間に及べば及ぶほど強くなる。この店の人達のように、一時的なものならすぐに元に戻るが、俺が気に入った相手はそうもいかない。時間をかけて徹底的に染め上げる」
この子達のように、と、灰人は空いている左手で早稀の顎を掴んだ。
顎を無造作に撫でると、更に指を唇に触れさせて口を開かせる。そうして彼女の口内と舌を弄ぶ――。
そこまでを、彼は早稀の方を見もせずにやってのけた。
弄ばれた早稀はといえば、嫌がるどころか恍惚の表情。
灰人の指が離れると、ほう、と息を吐き、どこからか取り出したハンカチで彼の指を拭う。その動作には何の躊躇いも見られなかった。
「なんて、酷いことを」
ぽつり、四葉が呟いた。
「酷い? 君を奴隷化しているそこの彼だって、俺と同類だと思うけれど」
「違うわ。彼は人の心を軽々しく弄んだりしないわ。絶対に」
「違わないさ。今は外面を取り繕っているだけだ。内面を曝け出し、思うままに振る舞えば彼も俺と同じになる。そうだろう、和泉知尋君?」
穏やかな瞳が知尋を射抜いた。
当然のことを言っている、少なくとも本人はそう信じているからこそ、穏やかなのだろう。
そしてある意味、彼の指摘は正しいのかもしない。
きっと知尋も、完全に欲望のまま振る舞えば彼と同じになる。
それは正しい。
(でも、兄さんは違う)
心の中のちさとの声に、じっさいに首を振って頷き、知尋は答えた。
「僕は、あなたのようにはなりません。なりたいとも思いません」
「……ほう」
灰人の目がすっと細められる。
彼は知尋をしばし見つめた後、ふっと息を吐いた。
「果たして、これを見てもそう言えるかな?」
そして、かなめと早稀に思いがけないことを命じたのだった。