顔を上げると、隣の机あたりに立つ少女の姿。金髪に学園の制服を纏っている。いつもなら開けているはずのブラウスのボタンはしっかりと閉じているが――。
「西崎、さん?」
「あ……」
少女は気まずそうな顔で視線を彷徨わせる。
釣られるように辺りを見回せば、教室には他に誰もいなかった。とすると、さっきの物音は彼女が立てたものか。
どうして彼女がここにいるのか。
寝ている知尋に何をしようとしていたのか。
考えて、一つの思考に至る。
放課後、一対一で会いにくる。
それは昨日、知尋が李狐にしたことの繰り返しだ。
なら、彼女の目的は。
揺らめく李狐の瞳を見つめて尋ねる。
「……昨日の復讐をしに来たの?」
「ひっ……」
がたん。
身じろぎした李狐が机にぶつかる。
その様子はとても、知尋に害意があって来たようには見えなかった。
読み取れた感情も、不安。
「西崎さん?」
ぴくりと、少女の肩が震える。
今にも泣きだしそうな表情をした李狐が小さく呟く。
「ごめんなさい」
謝罪の言葉。
昨日、何度も何度も繰り返し言わせた台詞。
それを少女が、一日経った今、自らの意思で口にした。
……何だ、これ。
不意に身体を走ったぞくりという感覚に知尋は戸惑う。
妙な充足感が心を満たす。
そんな知尋の様子に気づいていないのか、李狐は震える声で言葉を続ける。
「あたし、どうしたらいいのかわからなくて。どれだけ考えてもわからなくて。そのうち、和泉に会わなきゃって思って」
制服を着て学園に来た、らしい。
「隠れて校門を見てたんだけど、和泉が出てこないから。……人がいなくなるのを待って教室に来てみたの。そしたら、寝てたから」
「今のうちに殺そうとした?」
「違う!」
李孤の瞳に涙が浮かぶ。
知尋は椅子から立ち上がると正面から李狐を見た。
恐怖。かなり強いそれは知尋の能力を受けて増幅されていく。
「……あたし、そんなことしない。信じて」
弱々しい。
これじゃあ、ただの女の子だ。
二か月間、知尋を嬲り続けていたあの西崎李狐だとは思えない。
「西崎さんって、こんなに弱かったんだ」
「あ……」
反応は劇的だった。
李孤はぺたんと床に座り込むと突然叫びだす。
「あああああああっ!」
そして、わんわんと泣き出した。
涙を流し、上を見上げながら恥も外聞もなく。
校舎にはまだ人も残っているだろうに。こんなところを見られたらいったい、どういう風に捉えられるだろう。
……泣き止ませるべきか。
知尋は迷った。迷惑ではあるが、李狐の様子はただ事ではない。わざと叫んで困らせようとしているようには見えないし、気が済むまで泣かせてあげた方が話もしやすくなるのではないか。
と。
足早に教室へと入ってくる人影。もう泣き声を聞きつけられたのかと思いきや、入ってきたのは真里亜だった。
彼女は足を止めないまま室内の状況を一瞥し、李狐へ歩み寄ると。
ぱん。
躊躇なく彼女の頬に平手を打った。
「え……?」
何がなんだかわからないのだろう。ぽかんと顔を上げる李狐。
真里亜は、そんな彼女の髪を掴むと顔を近づけて囁く。
「黙りなさい。和泉くんの迷惑になるってわからないの?」
「な、深海さ……っ」
「恭順を示したいなら、それ相応の態度を示しなさい。それとも、見捨てられたくてわざとやっているの?」
「ち、違……」
李狐に向けられた真里亜の横顔は、ある意味、李狐へ殺すと告げたあの時よりも恐ろしいものだった。
強烈な侮蔑。
押しつぶすような迫力に、向けられた当人でない知尋すら震える。
一度は泣き止んだ李狐が再び涙を浮かべるが、彼女も泣いてはいけないと悟ったのだろう。涙を拭い、口を閉じる。
すると、真里亜は手のひらで李狐の頭を撫でていく。一転して慈愛に満ちた、見る者を虜にするような笑顔を浮かべて。
「良くできたわね。あなたが素直な良い子なら、私たちも痛いことや、怖いことなんてしたりしないわ」
「……ぁ」
飴と鞭。
砕かれた心に、真里亜の優しい声は大層染みたらしい。
李狐は表情を緩めてぼうっと真里亜を見つめ、はっとして首を振った。
「ど、どうして深海さんがそんなこと……っ」
「あら。和泉くん以外に支配されるのは嫌だってこと?」
「な、何を言って……」
ちらり、と李狐が知尋を見る。助けを求められているような気もするが、対処しづらいのでとりあえずスルーする。
と、李狐は真里亜に視線を戻す。
「あんたには関係ないじゃ……」
「関係あるわ。だって、私は和泉くんの奴隷だもの。躾けのなっていない後輩を躾けるのは先輩奴隷の役目でしょう?」
「どっ……な、何言って。意味わかんない……っ」
それは、李狐からすれば理解不能だろう。
奴隷という言葉に顔を赤らめ、更には青ざめさせる李狐は、この上なく混乱した状態になっているようだ。
このままではどうにも収集がつかない。
そう判断した知尋は真里亜に向きなおった。
「真里亜」
「はい、ご主人様」
李狐にああいった手前か、いつになく丁寧な口調で答える彼女。その声にも先程感じたような快感を覚えた。
「場所を変えない? ここで長話するのもアレだし」
「そうですね。……じゃあ、こうしましょう」
真里亜は何かを思いついたのか、ぱっと顔を輝かせた。
机からメモ帳を取り出し一枚破ると、表面に何やら文字を書きつける。更に裏には地図らしきものを描き、李狐に渡した。
「西崎さん。スーパーでここに書いた食材を買って来て頂戴。終わったら地図の場所に来ること」
「な。何であたしがそんなこと……っ」
「へえ。逆らうの?」
どうやらお使いをさせるつもりらしい。
確かに、ある意味、良い方法と言えるような気もするが。人使いが荒いというか、情け容赦のない考え方をする少女だった。
「……わかった。買って、持っていけばいいのね?」
「ええ。よろしくね。……それじゃあ行きましょう、ご主人様?」
「あ、ああ」
真里亜に促されるまま荷物を持つ。
とはいえ、このまま李狐を完全に無視して帰るのも酷い気がした。
「ごめん、西崎さん。頼りにしてる」
「え……」
真里亜に「早く」と引っ張られたので、その後の李狐の表情は見られなかったが、教室を出る直前に「わかった」と答える声が聞こえた気がした。
というか、期せずして真里亜と一緒に帰ることになっている。
「さて。帰ったら色々支度しないとね」
「ああ。……西崎さんに何を話すかとか、決めておかないとまずいよね」
「え? そうじゃなくて、あの子の調教の話よ?」
「そこなんだ」
思わず突っ込みを入れるも、心外だと言う風に首を傾げられた。
「当然でしょう? 今のうちに完全な従属を誓わせないといけないし……昨日、私は若干欲求不満だったから役得が欲しいし」
「今の、後半が本音だよね?」
「気のせいよ」
などと言いつつマンションへ到着する。
部屋に入ると、調教がどうのと言っていた真里亜もきちんと他の準備を進めてくれた。とりあえず着替えたら、各種洗い物をまとめて洗濯乾燥機に放り込み、居間のテーブルには椅子が二脚しかないのでもう一脚を運び込む。
更に、グラスにアイスティーを注いで作戦会議。
「真里亜、身体はもう大丈夫なの?」
「ええ。何度も言う通り痛みには強い方だし、こうしている間にも痛みは治っていく体質だから。……むしろ、あなたの方が心配なくらい」
「僕は別に。神代君も手加減してくれていたし」
お互い早急に休息をとる必要はなし。
後は李狐をどうするかだが、別に考えるまでもないというのが真里亜の意見だった。
「もう切り札は握っているんだから、後はより強く心と身体を染めてあげればいいだけでしょう? だから、何も考えず調教してしまえばいいの」
「簡単に言うなあ」
そもそも、真里亜もこういう状況は初めてのはずだが。
「私はこの手の物語は読んだり見たりして慣れてるもの」
「……自慢するところじゃない気がする」
結局、知尋と真里亜の関係は「ご主人様と奴隷」で押し通し、李狐にも自身が奴隷であると認めさせる方向で話が決まった。
しばらく待つとマンションの入り口に李狐が到着。
真里亜が迎え入れると、重そうな買い物袋を抱えた彼女が部屋へと入ってきた。
「ご苦労さま、西崎さん」
「……本当に、何で私がこんなことしなくちゃいけないのよ」
どうやら、買い物をしているうちに多少調子が戻ったらしい。
李狐は労いの言葉をかける真里亜を睨みながら、どさりと袋を置いた。
「そういえば、メモにはなんて書いたの?」
「あら。ナチュラルにこの子を無視するのね。まあいいけど」
肉に魚、野菜に卵……ひととおりの食材を頼んだと真里亜は告げた。それは重いわけである。
肝心のお使いの成果はというと、
「へえ。……文句はないわ、完璧」
袋を開き、中の品々を確認した真里亜は目を丸くして李狐を見た。
「あんた、あたしを何だと思ってるわけ?」
「外食とコンビニ弁当だけで済ませるタイプ」
「うわ、殴りたい。あたしだって自炊くらいするっての」
……正直、知尋としても意外だったが、それは言わない方が良さそうだ。
「それじゃあ西崎さん。とりあえずそこに座って」
「……うん」
知尋に視線を送りつつ頷く李狐。
彼女は言われた通り椅子へ腰かける。廊下から見て奥側、真里亜と向かい合う位置。これまでの知尋の定位置だが、知尋は今三つ目の椅子に座っている。
真里亜は袋を持って台所へ。
ごそごそと冷蔵庫に食材をしまう音が聞こえる中、知尋はなんとなく気まずい気分になる。
今の李狐にどの程度の声をかけていいものか。
「ねえ、和泉」
「……何?」
「深海さんとそういう関係だって、本当なの?」
恐る恐る、といった感じで尋ねられる。
縮こまった猫のように座り、こちらの様子が気になるのかちらちらと見てくる。しかし目が合うのは怖いらしく、知尋が視線を送ると目を逸らす。
なんだか可愛らしいと感じて、思わずくすりと笑ってしまった。
「な、何?」
びくっとして声を上げる李狐。
「ごめん。さっき真里亜と話してる時と全然違うから」
「あ、あれは、だって……」
しゅん、と肩を落とす。
「あいつに偉そうにされる覚えはないし。だけど和泉は……その、別だし」
彼女はぽつぽつとそんなことを言った。
……調教が必要だと真里亜は言っていたが、案外もう反抗の芽は摘まれているのではないだろうか。
思いつつも質問に答えてやる。
「本当だよ。僕は真里亜のご主人様ってことになってる」
あらためて口に出すと少し気恥ずかしかった。
しかし、事実だ。
知尋の返答に、李狐は呆然としたようだった。「本当なんだ」と呟き、台所の方をちらりと見る。
「どうして?」
「どうして、って言われても……」
心情面からも経緯の面からも説明はしづらい。
なので、もっともらしい答え方をする。
「西崎さんにそこまで答える必要がある?」
「あ……っ、ごめん、なさい」
途端に李狐は顔を歪め、俯いた。
そんな仕草に、やはり可愛い、と思ってしまう。
数秒の沈黙の後、李狐がゆっくり顔を上げる。
彼女は再び恐る恐る、
「……でも。あたしにも、その。そういうことをするんでしょ?」
「……ああ」
確かに、そういうことになる。
知尋は李狐を犯し、支配することを望んだ。それは昨日の行為によっていったんは果たされたわけだが、可能であるなら継続的な関係である方が望ましい。
つまり、真里亜が言っていたように、李狐を知尋の奴隷とするということだ。
「そうよ。あなたはご主人様の奴隷になるの」
真里亜がアイスティーのグラスを手に戻ってきた。
ことん、と李狐の前に置いて自分の席へ座る。
「ご主人様に抱かれ、奉仕し、命令には絶対服従。そういう存在になるの。……いえ、もうなっている、といった方が正しいかしら」
置かれたグラスに伸びようとしていた手がぴたりと止まる。
「あたしが……奴隷になってる?」
「そうよ。ご主人様に会いに来たのは、命令が欲しかったからなんでしょう?」
知尋には、真里亜の言葉は強引な誘導に聞こえた。
しかし李狐はそれを否定しようとしない。それどころか、考えるように口を閉ざしたうえで小さく言った。
「……そう、かもしれない。あたし、自分じゃどうしていいかわからなかったから」
決めて欲しかった。
あれだけの事をされて、自分の全てを壊されたのに。
起きたら誰もいなくて、何も残っていなくて。
これからどうなるのか。どうすればいいのか、教えてくれなかったから不安だったのだと。
……それで、李狐はしきりに知尋の様子を窺っていたのだ。
真里亜の言う通り、それは奴隷の気質に違いない。
アイデンティティを壊されたことで、短期間で無理矢理そういう気質が植え付けられてしまったのだろう。もちろん、何か彼女の中に確固たる「何か」があったのなら、こんなに簡単にはいかなかっただろうが。
何もなくなった彼女が、他者に理由を求めるのは自然なことだ。
「……わかった」
知尋は頷いた。
李狐を見てはっきりと告げる。
こういう状況は慣れていない。他人に命令できるほど強くもないが、ここはしっかりと決めるべき場面だ。
「西崎さん。いや、李狐。僕の奴隷になるんだ。何も余計なことは考えなくていい。僕の言う通りにしていればいい」
李狐の瞳は、よく見るととても綺麗だった。
吸い込まれそうな真里亜の瞳とは質感が違う。純粋で、何もかもを吸い込んでしまいそうな瞳。
あれだけ奔放に振る舞っていた少女のものとは思えないが、同時にだからこそ、という気もした。
李狐の心が揺れ動く。
強い孤独感が、代わりに知尋への執着へ。
「いいの?」
縋るような声。
「もちろん」
頷くと、執着が信頼へと変わっていく。
己の処女を奪った相手に。
はあ、と李狐が吐息を漏らした。
「……すごく変なこと言われてるはずなのに、なんで拒めないんだろう」
膨れ上がっていく信頼。
やがて、李狐はこくりと頷いた。
「わかった。あたしは、和泉の奴隷になります」
言った途端、少女の頬が真っ赤になった。
同時に瞳が蕩け、ある種の色香を纏い始める。
「……どうすればいい?」
続く声すらもどこか甘く聞こえた。
従順な態度だ。期待している、とまではさすがに言えないかもしれないが。
真里亜がちらりと知尋を見る。
知尋はそれに気づいたが、特に反応せず李狐に命じた。