深い意識の底からゆっくりと浮上する。
眠りから目覚めるにつれて身体の感覚が明確になってくる。疲労による重みはまだ残っているものの、動くのに支障はない程度。感覚からして二時間程度は眠っていただろうか。
――二時間?
そうだ、対抗戦は。一体どっちが勝ったのか。
「っ」
目を開く。
これまでにも何度か見た医務室の天井が見える。
それから、右斜め上に、こちらを覗き込む端正な顔立ち。
「目が覚めたか?」
深海灰人。
さっぱりしたシャツにスラックス姿。見た目はホストか何かのようだが、纏う雰囲気は超然とした支配者のそれだ。
「な……っ!?」
がばっと身を起こした知尋は、殆ど反射的に灰人から距離を取る。そうしてベッドの逆側に落ちかけて――。
ふわりと、何か柔らかなものに受け止められた。
「大丈夫です、知尋様。あの人も取って食いはしませんから」
「……真里亜?」
「はい」
知尋を上半身全体で受け止めた真里亜が優しく微笑む。
と思えば、カーテンの向こうから愛華とまどか、つかさまでが現れた。
「このメンバーは……?」
「閉会式に間に合わなかった組と、その付き添い……かな? 李狐ちゃんは鈴さんを引っ張って先に帰ったし、黒羽先輩は四校合同のお食事会のホストだから」
もう終わったかもしれないけど、と愛華。
なるほど。どうやら長々眠っていたせいで、知尋は閉会式に出られなかったらしい。その後の食事会というのも、いつ目覚めるかわからない知尋を待てなかったのだろう。第五種目でギリギリまで争っていた二人の少女も、治療の関係で同じ目にあった模様。
まどか達――もう制服姿に戻っている――に軽く睨まれ、少しだけ申し訳ない気分になった。
そういえば、知尋自身は素肌にジャージを羽織っただけの姿だ。愛華達に裸を見られるのには慣れているせいであまり気にしていなかったが、とりあえずジャージのファスナーだけでも閉じておく。
聞けば、この医務室に残っているのはこれで全員だという。則子ともう一人の校医も全ての処置を終えた後、片づけを愛華に任せて帰宅したらしい。
今回は彼も疲れて寝てるだけだから、と。
「それで、最後の種目はどっちが勝ったの……?」
「……はあ、これですわ」
恐る恐る尋ねると、なんとまどかから返答があった。
彼女は深いため息を吐いてから言葉を続ける。
「勝者がこれでは締まりませんわ。そちらのチームのイケメンなども、あなたの安否を随分気にしていらっしゃいましたし」
「……じゃあ」
「ええ。対抗戦はあなた方の勝ちですわ。和泉知尋さん」
ふん、と、そっぽを向きながらまどかが告げた。
「…………そっか」
勝った。
あの第五種目、ギリギリの戦いに勝利できた。
ふっ、と灰人が笑って言う。
「第五種目の勝者は柴鳳学園。よって今年の四校対抗戦は二勝した柴鳳の勝利だ」
「そして、兄さんと知尋様の賭けも。ありがとうございます、知尋様。私はこれからもあなたの傍に居られます」
「真里亜」
彼女の笑顔がすぐ傍にある。
思えば、真里亜が灰人と対岸にいた時点で予感はあった。そして、それは今確信に変わって――。
知尋はこみ上げる衝動のまま、真里亜に向けて手を伸ばした。
真里亜も逆らわない。どころか、自分から身を乗り出し、ベッドに手をついて身体を支える。
二人の唇がそっと触れ、更に深く重なろうとして。
「ストップ! そこまで!」
むぅ、っと頬を膨らませた愛華が二人を制止した。
「そういうのは二人っきりの時にやってよ。私、さすがにこんな場所で、しかも目の前でやられたら困る」
真里亜と二人、何度か瞬きを繰り返してから身を離す。
……あのままならディープキスに発展していただろうから、止めてくれたのはありがたいが。少しだけ残念な気もしてしまう。
ぷっ、と灰人が噴き出す。
「楽しそうだな。まどか、つかさ。俺達もああいう風にしてみるか?」
「ご冗談を。ご主人様にあそこまでヘタレられては、わたくし達が困りますわ」
「それもそうだな」
あっさりと知尋に対して酷いことを言うまどかに、これまたあっさりと頷いてみせる灰人。
「まあ、そういうわけだ。賭けはお前の勝ちだ。約束通り真里亜は諦めるし、今後お前達に手は出さない。証文でも書こうか?」
「いえ。結局、法的な効力があるわけではないですし」
約束を違える行為を、灰人のプライドが押しとどめてくれることに期待する。
「でも、簡単に認めてくれるんですね。もっと難癖をつけられるかと思いました」
「つける理由がないだろう。俺から持ち出した賭けだし、お前が勝ったのは『アブソリュート』の数パーセント程度の戦力に過ぎない」
組織全体としての負けならもう少し拘るかもしれないが、そうではないと灰人。
確かに。向こうは在学中かつ、灰人の奴隷になっている少女だけで挑んできたわけで。これで彼らに勝ったとは思わない方がいいだろう。
「それから、もう一つの条件。お前の望みを一つだけ何でも聞こう。何がいい?」
「……そうですね」
勝った場合の報酬については色々考えていた。
真里亜達にも意見を募り、単純に現金だとか、今いるマンションの部屋の権利、あるいは『アブソリュート』の全メンバーリスト等々、様々な意見が出た。
しかし、これだという案は浮かばず。
自力では実現が難しいことを要求するのがいいだろう、という方針を決めたところで止まっていた。
知尋はしばらく考えてから答えた。
「うちの理事長……鳳さんに、誰か交際相手を紹介してくれませんか?」
「うん?」
よくわからないという顔の灰人にもう少し説明する。
鳳と四葉が婚約していること、しかし四葉には鳳への恋愛感情がないこと等々。この辺は広く知られた情報でないにせよ、特別秘匿されてもいないはずなので遠慮せず伝えてしまう。
話を聞いた灰人は数秒考えるようにしてから口を開いた。
「柴鳳の理事長を洗脳して誰か女を宛がえばいいか? 構わないが、男を洗脳するのは少々手間が……」
「い、いえ。あくまで紹介してくれるだけでいいんです。選ぶのは理事長と四葉だと思いますから」
灰人の指示を受けた誰かが鳳に接触し、彼を誘惑するだけでいい。
結果、現れた相手に転ぶかどうかは鳳次第。コロッと騙されるようならそれは本人の責任。
……この間、彼を応援するようなことを言った手前、知尋にできる裏工作はそれが限度だろう。
「理事長の男としての甲斐性を試す、ということか」
「そんなところです」
「ま、それなら簡単だな。だが、いいのか?」
不可解そうに灰人が尋ねてくる。
「はい。こんなこと、他の誰にも頼めませんから」
「そうじゃない。俺と『アブソリュート』が柴鳳学園に取り入る余地を与えることについて、だ」
灰人の手の者が鳳に近づくということは、つまりそういうこと。
鳳に近づいた女性を利用し、間接的に柴鳳学園の運営を操るような真似も可能かもしれない。
しかし。
「する気があるなら、もうとっくにやっていると思います。それに、今の理事長がいつまで理事長でいるかもわかりませんし」
理事長の一存で学園の運営全てが決まるわけでもない。それに知尋の印象では、鳳は公私を分けるタイプだ。
出会ったばかりの女性にほいほい乗せられ、仕事の方針を変えるほど短絡的ではないと思う。
「なるほど、な。なら、いいだろう」
ある程度、期待した答えに沿っていたのか、灰人はどこか上機嫌に頷いた。
彼は早速、そうと決まれば誰を使うか、と考え始める。
「何か希望はあるか、和泉知尋?」
「そうですね……。手のかからない女性より、ある程度、理事長を煩わせられるタイプの方がいいと思います」
鈴と四葉の顔を思い浮かべながら答える。
と、そこにまどかが手を挙げた。
「でしたらご主人様。わたくしにお任せくださいな」
「まどかが? ……ああ、そういえば金持ちに嫁ぎたいとか前に言っていたか」
「ええ。あの方なら生活に不自由はしないでしょうし、顔も悪くありません。何より扱いやすそうです」
言って含み笑いをする彼女は、いかにも悪女といった雰囲気だった。
しかしまあ、第五種目で接した印象からして彼女はグイグイ来るタイプ。それならば女性経験の少ない鳳にも有効かもしれない。
「構いませんわよね、和泉知尋さん?」
「はい、僕はそれで」
頷くと、まどかは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。……では、善は急げ。さっそく今日から行動した方がよろしいですわね。ご主人様、後でその鳳さんに紹介してくださいます?」
「いいだろう。どうせ用事もあったからな。なら、さっさと行くとしようか」
食事会が終わっていれば鳳も戻っているだろう。
灰人はまどか、つかさを伴って立ち上がる。
「あの、灰人さん」
「男に名前で呼ばれるのもぞっとしないな。何だい?」
「真里亜と、話さなくていいんですか?」
傍らの少女をちらりと見て言う。
すると、灰人はそんなことかと言いたげに肩を竦めた。
「話ならお前が寝ている間に済ませた。それに、俺の物にならない女と長々話すことはない」
――実の妹相手にしては冷たい言葉だ。
鼻白む知尋に、真里亜が動じた様子もなく告げる。
「知尋様、彼の言う通りです。兄と私は兄妹ではあっても、歩む道が違うのですから」
「……そっか」
微笑む少女を見て、頷く。
灰人と真里亜。普通ではない二人の関係も、やはり普通の兄妹とは大きく違っているのだろう。
ある意味、お互いのスタンスを理解しているからこその不干渉、なのかもしれない。
「じゃあな。また、近いうちに会おう」
『アブソリュート』の主、深海灰人はあっさりと去っていった。
ただ、最後に意味ありげな言葉を残して。
「近いうち、って」
まだ何か知尋達に用があるというのだろうか。
正直、もう彼には会いたくないのだが。向こうが会いに来るというのなら拒むこともできないのだろう。
……とりあえず、今は考えないことにしておく。
知尋は息を吐いて真里亜と愛華を振り返った。
「二人とも、また心配かけてごめん」
「本当だよ、全くもう」
ベッドサイド――真里亜の傍に歩み寄った愛華がベッドに腰かけながら頬を膨らませる。
「でも、今回はそんなに心配してなかったよ。怪我も大したことなかったし」
むしろ、まどか達の治療の方が大変だったらしい。手加減する余裕もなかったためついついやり過ぎてしまったようだ。
「お疲れ様、知尋君。格好良かったよ」
「……ありがとう」
知尋がやったことというと女の子に抱きつかれたり、女の子を叩きのめしたり、各方面から恨まれそうなことばっかりだった気もするが。
愛華にそう言って貰えると肩の荷が下りる。
そっと、愛華が倒れ込んできた。彼女の身体を軽く抱きしめ、右手を持ち上げて髪を梳く。
気持ちよさそうに目を細めた愛華がじっと見つめてくる。
キスしたい、と全力で主張していた。
すっ、と目を閉じる彼女に、知尋はゆっくりと唇を近づけ――。
「ずるいわ、愛華さん。私にはお預けしておいて」
今度は真里亜の物言いにより、二人のキスは軽く触れ合うだけで終わった。
知尋は苦笑し、二人の少女に告げた。
「帰ろうか。李狐と鈴さんも待ってるだろうし」
窓の外を見れば、空はもうすっかり暗くなっていた。
☆ ☆ ☆
「……さて、と」
柴鳳学園の理事長室。
その窓から月を見上げた灰人は、室内にいる三人の人物を振り返った。
一人は学園の理事長、鳳由司。もう一人はAランクの警察特殊チームメンバー、和泉楓。
そして最後の一人はSランク、燕条観月。
先程までは城崎まどか、磐木つかさの両名がいて、代わりに観月がいなかった。
早速実行開始された色仕掛け――まどかが甘い声でしきりに話しかけ、鳳が困惑しながらもそれに応えるという絵面がしばし展開されていたのだが、開いた『門』から観月が現れたところで生徒二人はお役御免となった。
別れ際、まどかはちゃっかり自身の連絡先を鳳の懐に忍ばせていた――しかも、鳳はまだそれに気づいていないが。
「どうだった、観月? 和泉知尋は」
「……もう、灰人くん、相変わらず女性に馴れ馴れしすぎるわ。私はあなたの物にならないって、何度言えばわかってくれるの?」
「いや、観月ほどの女を諦めるのは惜しいからさ」
Sランク同士、二人は顔見知りだ。観月が結婚する以前からの付き合いだが、能力の効果も威力も知られている観月には『支配者』の効力も薄い。
また、彼女の背後には甲斐甲斐しいバックアップチームもいるため、観月を手中に収めることはできていない。
観月も、それをわかった上で、手のかかる弟を叱るような対応だ。
ふう、と、彼女は息を吐いて話題を本題へ切り替える。
「……いいと思う。灰人くんが随分買っているから、どんな子かと思ったけど、灰人くんとは全然タイプが違ったわ」
「まあ、それはそうだな」
知尋と灰人では目指すものが違う。
それは昨日直接話し、まどか達から今日の戦いの顛末を聞いて理解したことだ。
「彼の『読心』なら可能性があるかもしれない。少なくとも、試してみる価値はあると思う」
「……あの知尋が、な」
重苦しいため息を吐いたのは楓だ。
弟とはあまり仲が良くないらしい彼女としては複雑なのだろう。
「だけど、これは個人的な話でもないからな」
「わかっている。……では、推薦するのだな。知尋を、アレに」
「ああ」
灰人は観月、そして楓と共に鳳を見る。
まだ学生である知尋を『派遣』してもらうには学園側の承認が必要だからだ。
「では、鳳さん。近いうちに彼に協力を要請することになると思いますので、その時はよろしくお願いいたします」