……だいぶ遅くなってしまった。
一日の仕事を終えた鳳は、住処であるアパートへの道を歩きながら夜空を見上げた。
星々の下、ちらちらと雪が舞う。積もりそうな気配はなく、いつ雨に変わってもおかしくないが、雪は雪。
今日、十二月二十四日においては特別な意味を持つ。
三十をとっくに過ぎた独身男にも、ホワイトクリスマスにはそれなりの感慨があった。
もっとも彼の場合、本当なら今頃、年下の婚約者とディナーを楽しんでいるはずだったというのもあるだろう。
婚約者である四葉が通い、鳳が理事長を務める柴鳳学園は先日終業式を迎えた。普段校内などでは無関係を装っているものの、せっかくのクリスマス、プライベートで少しくらい「らしい」ことをしてもいいと思ったのだが。
『……すまない。まだ仕事が片付かないんだ。その、食事の件は――』
『キャンセル、ですね。わかりました。お気になさらないでください。由司さんのお仕事が大切なものだというのは良くわかっていますから』
本当に申し訳ないと電話越しに繰り返す鳳に、四葉は聞き分けよく応じてくれた。
『はい。楽しみに待っていますね』
彼女は手がかからない。
学園では生徒会長を務め、成績も優秀。友人や後輩たちからの信頼も厚い。今年の四校対抗戦で活躍したルシル・オーウェルや葉月万里歌、和泉知尋らを見出したのも主に彼女だったと聞く。
本当に、姉の鈴とは大違いだ。
酒好きで、暇があれば昼間でもビールの缶に手を伸ばす。男癖こそ悪くないものの、傍に鳳がいようと構わず自慰を始める奔放さ。料理も掃除も洗濯も、十分にこなすだけのスキルがありながらしない自堕落ぶり。
鈴も昔はこうではなかった。人当たりや人望という面では四葉すら凌ぐ優等生だったのだが、どうしてこうなったのか。
数か月前まで鈴がログハウスで暮らしていた頃は、仕事前と終わった後に彼女の様子を見に行くのがほぼ日課だった。何しろ、鳳が世話を焼いてやらないと服は着替えないし、ちゃんとした食事も碌に取らない。十分なのは睡眠くらいという酷い有様だったのだ。
彼女がログハウスを出た分、今は自宅で過ごせる時間も増えたが。
手元から離れたら離れたで心配が募る。いつもしていた作業がなくなって手持無沙汰になり、その割に鳳自身の私生活が潤っていなかったりする。
「……駄目だな、俺は」
気を抜くとつい、鈴を連れ去っていった少年、知尋に八つ当たりをしてしまう。
彼は彼で、鈴を説得して仕事に向かわせたり、四葉との関係についてアドバイスをくれたりしている。お蔭で鈴とは昔ほど口論しなくなったし、鳳の気遣いに四葉が喜んでくれることが増えたと思うのだが。
今日、仕事が長引いた理由の一つに国家機関への対応があったこと――それが件の少年に関係していたことも苛立ちの原因だろうか。
だとしたら、それこそ八つ当たりなのだが。
思ううちにアパートの入り口に到着。
ふと、夕食のことを何も考えていなかったことに気づいだ。引き返してスーパーかコンビニに行こうか一瞬迷い、疲れもあって結局断念。
まあ、買い置きのラーメンか冷凍食品でも食べればいいだろう。
クリスマスだというのに侘しいことを思いつつ、アパートの階段を上がる。しばらく廊下を進むと部屋の扉が見えてきた。
と、扉の前に誰かが座り込んでいる。
臙脂色のコートに白い手袋、同色の耳当てをした若い少女。頭の左右に一つずつある巻き髪が印象的だ。
……何故、子供がこんな所に。
そんなことを考えてから、鳳は少女が顔見知りであることに気づいた。
「城崎さん?」
声をかけると、少女――まどかは顔を上げ、鳳を見た。
整った顔立ちの人物、特に女性は素の表情だとやや冷たい印象を受けたりする。まどかもその例に漏れないが、目が合った途端、顔がぱっと華やいで、印象を劇的に変えてしまう。
「鳳様、お帰りなさいませ」
主人の帰りを察知した大型犬のように、勢いよく立ち上がると駆けてくる。
ぽふっと胸に飛び込んでくる彼女を、鳳は慌てて抱き留めた。
「こんな所に、どうして?」
「決まっていますわ。鳳様のことですから、きっとクリスマスでも適当なお食事をされているでしょうから……わたくしが作って差し上げようと思いましたの」
言って、まどかはふふん、と、どこか勝ち誇るような笑顔を浮かべた。
☆ ☆ ☆
鳳がまどかと初めて会ったのは、二週間ほど前の学校対抗戦でのことだった。
彼女は札幌の柴鶴学園――その代表生徒の一人として柴鳳学園を訪れ、大きな活躍を見せた。
所属する柴鶴学園は惜しくも敗れこそしたものの、第二種目で自校に勝ち星を入れ、第四種目において数に勝る相手と果敢に戦い、第五種目でも知尋と最後まで勝ちを巡って争った。
その活躍ぶりは鳳の印象にも強く残っている。
また、まどかとは対抗戦終了後にも会話をした。柴鶴学園のスポンサーの一人でありSランク能力者の一人、深海灰人が理事長室に連れて来たのだ。
どういうわけか、その時からまどかは鳳に興味津々な様子で色々な話題を振ってきた。四葉とはタイプの違う歳の離れた少女にどう対応していいか、物凄く困惑したのを覚えている。
幸い、その時は別件の用事があったため、短時間で話が終わったのだが。
『絶対、連絡くださいませ。くださらなかったら一生恨みますから』
などと恐ろしい文言の書かれたメモが、いつの間にか懐に忍び込んでいた。
渋々、数日後に連絡を取ると、まどかは上機嫌で応対してくれた。何でも鳳と話をするのが楽しいのだという。
『開会式の時にお見掛けして、素敵な方だなと思ったんですの』
ただのお世辞だろう。
そう思った鳳だったが、まどかはその後も頻繁に鳳とのコミュニケーションを望んできた。最初に鳳から連絡を取った結果、プライベートの連絡先を知られたため、以降はメールや電話でまどかから接触してくるようになったのだ。
煩わしい、と思う部分はもちろんあったが――。
一方、まどかとの会話を好ましく思う部分もあった。彼女の家は平均より裕福な家柄で、かつ両親が厳しい人だったらしく、礼儀作法の面ではしっかりと行き届いていた。また、考え方にシビアな面があり、感情に囚われない鋭い意見をふっと口にすることがあった。
電話をかけてくる時間帯も、仕事をしている鳳を十分に気遣ったもの。そのせいか、鳳はついつい、まどかとのやりとりを続けてしまった。
もちろん、別に疚しい感情があったわけではない。仕事上の情報も漏らさないようにしていたし、聞かれもしなかった。話題の中心は最近のニュースだったり、まどかの近況だったり、鳳の食生活だったりした。
『もう、殿方というのはすぐご自分のことを疎かにしますのね。これだから放っておけないのですわ』
と、まどかは鳳の普段の食事を聞いて憤慨。
そういえば知尋にも突っ込まれたことを思い出して苦笑していると、話題は何故か、まどかが鳳の家に来るという話に移っていた。
『たまには栄養のあるものを食べなければ病気になってしまいます。作ってくださる方もいないのでしたら、わたくしが作るしかないではありませんか』
さすがにこれは断ろうとした。
しかし、まどかの意思は固く、彼女は言葉巧みに鳳の家を聞き出すと、次の週末に宣言通りやってきた。
『旅費はどうしたんですか?』
『そのくらい、どうとでもなりますわ。普段、無駄遣いする方ではありませんし』
親に養育されている未成年とはいえ、彼女も『落とし物』。
毎月一定額の援助金が国から保証されているし、家庭環境的に小遣いもそれなりの額を貰っているようだった。
とはいえ子供に飛行機代を出させるわけにもいかない。鳳は自分が費用を払うと主張したが、まどかは頑として受け取らなかった。
『では、せめて料理の材料費に多少色をつけるくらいは許してください』
『……ふふ。ええ、そういうことでしたら喜んで。ありがたく受け取らせていただきますわ』
札幌からはるばるやってきた少女を追い返すわけにもいかず。
台所を貸して作ってもらったカレー――野菜たっぷりで、かつ数日は食べられるよう大鍋に入っていた――を二人で食べ、日帰りで戻るという彼女を途中まで送った。
だから、まどかが鳳の家に来るのは初めてではないのだが。
「せめて連絡をくだされば、どうにか対応できたのですが」
「あら。サプライズをしたかったわたくしの気持ち、わかってくださいませんか?」
とりあえず、鳳はすぐにまどかを家に入れた。
冬、しかも日が暮れた後の空気は冷たい。そんな中を長時間待っていたのだとしたら風邪を引いてしまうかもしれない。もしそうなれば彼女の親御さんに申し訳が立たないと思ったのだ。
まどか自身は「向こうの冬に比べたら、このくらいどうってことありませんわ」と平気な顔だったが。
二人で部屋の中に入り、エアコンをつけてやると、ほうっと息を吐き出していた。
「ですが、私はもっと遅くまで帰ってこなかったかもしれませんよ」
「構いませんわ。わたくしは、あなたにお食事を作れればそれでいいんですもの。お帰りになるまで何時間でも待ちます」
「……どうしてそこまで」
微笑むまどかの意図がわからず、鳳は首を振った。
いや、正直に言えば一つ、思い当たることはある。
今日はクリスマス。そんな日に、年頃の少女が男の家に来るということは。
「好きな人に尽くしたいと思うのは、いけないことでしょうか?」
コートや耳当て、手袋を外したまどかが一歩、近づいてくる。
上目遣いに鳳を見つめる瞳はかすかに潤み、年齢以上の色気を彼女に与えていた。
今この時だけでなく、まどかには時折そういう瞬間があった。あくまで礼儀正しく上品なのに、妙に『女』を感じる。
――不意に、対抗戦の時のトレーニングウェア姿が思い起こされ、鳳は必死に妄想を打ち消した。
敢えて重く息を吐いてまどかに告げる。
「……城崎さん。私には婚約者がいます」
「ええ、存じておりますわ」
十分すぎる断り文句だと思ったのだが、まどかはさらりと頷くだけだった。
静かな室内――二人の他に誰もいないことを確認して、微笑む。
「聖夜だというのに、鳳さんの傍にいてくださらない薄情な婚約者さん……ですわよね」
「それは、私の仕事が長引いたからで。本当は食事をする予定だったんです」
「なら、合い鍵でも渡してお家で食事に切り替えればいいじゃありませんか。婚約者に手料理を振る舞うくらい、女なら当然のことでしょう?」
……もちろん、まどかの言い分にも一理ある。
鳳だって似たようなことを考えなかったわけではない。しかし四葉はまだ未成年で、それも自分の学校の生徒だ。夜、男の部屋へ気軽に連れ込むのは気が引ける。
四葉の方も、鳳の心の機微を理解してくれていた。
『せっかくですから、友人の家に泊まることにします。メリークリスマス、由司さん』
恨み言も言わず、彼の罪悪感が軽くなるような対応をしてくれた。
友人との約束よりも自分を優先してくれていたのだ、という満足と、友達付き合いも大事だという思いから、鳳も四葉に「メリークリスマス」と穏やかに返したのだ。
「随分、冷たい関係なのですね」
目を細め、悲しげに呟くまどか。
そうされるとかすかに胸が痛む。
もちろん、自分たちの関係が冷たいなどとは思わない。
しかし同時に、脳裏をいつかの四葉の姿がよぎる。鳳のペニスを足蹴にして冷たく笑う彼女。
――いや。あれ以来、彼女はいつも通りに戻っている。
あれはきっと気の迷い。夢のようなものだったのだ。
「婚約者との接し方なんて人それぞれでしょう。それより、そういうことなので、申し訳ありませんが暖まったら帰っていただけますか?」
突然、冷たすぎるだろうか。
しかし、彼女の意図がはっきりした以上、ここに置いておくわけにはいかない。鳳にそんな気がなかったとしても『間違い』が起こる可能性は無くさなくてはならない。
鳳にとってもこの選択は苦しいものだが――。
「あら。わたくし、帰りの飛行機は取っていませんし、宿の手配もありませんわよ?」
「なっ」
もし、鳳がここで放り出したら野宿することになる。
今時はネットカフェなどといった便利なものもあるが、だからといって年頃の少女を一人で追い出すわけにもいかない。
「友人は……」
「ここは東京ですわよ?」
「ぐ」
……後から思い返すと、本当はこの時点で近隣にはまどかの知人が住んでいた。柴鶴学園からの転入生を三学期から受け入れることが決まっていて、彼女達二人はもう引っ越しをしているはずだったのだ。
しかし生憎、この時の鳳はそこまで頭が回らなかった。
「君という子は、男を甘く見過ぎているんじゃないか?」
「あら。敬語を止めてくださいますの? 嬉しいです」
「っ。ああもう、泊まるのは構わないが、俺は絶対に手を出さない。明日には絶対に帰ってもらう。それでいいな!?」
「もちろんですわ。……では、料理をいたしましょう。何か食べたいものはございますか?」
仏頂面を作りつつ「肉じゃがが食べたい」と言うと、まどかは嬉しそうに了承してくれた。もともとシチューを作るつもりで材料を買い込んでいたらしく、何の問題もなく料理が出来上がった。
一人暮らしではなかなか食べられない家庭の味は、必要以上に心に染みた。
「ふふ。鳳さん。わたくしに惚れていただいても一向に構いませんわよ?」
「無いから安心しろ」
淡々と答えつつ、鳳は心のどこかで、ある種、幼馴染の鈴を相手にするのと似た安心感を抱き始めていた。