スマートフォンを握る手につい力が籠もった。
四葉は端末に視線を向けたまま一人、深くため息をつく。見たものに対し、一体、どういう感情を抱けばいいのか持て余した結果だ。
彼女が見たもの。
ディスプレイに表示されているのは一通のメールだった。
『寝顔ゲット、ですわ』
そんな一文と共に、一枚の写真が添付されている。
写真の中には四葉の婚約者、鳳由司の姿がある。彼はシンプルな寝間着に身を包み、床に敷いた布団でぐっすり眠っている。角度からして撮影者は彼より上方、ベッドの上か何かにいたものと思われる。
――ファイルの作成日時は今日、十二月二十五日の夜中。
つまり、鳳はイブの夜を写真の撮影者と過ごしたということだ。
「四葉さん、大丈夫ですか?」
かけられた声に顔を上げる。
四葉の友人、いや、大切な仲間である深海真里亜が心配そうな表情を浮かべていた。
二人がいるのはマンション、真里亜の部屋の寝室。遅めの朝食を終えた後、四葉は、真里亜からこの部屋に呼び出されたのだ。
なお、四葉達が腰かけているベッドのシーツは清潔なものに交換されている。昨夜の情事により汚れたそれは李狐の手で洗濯に回されているはずだ。
「ええ、大丈夫」
にこりと笑って真里亜に答える。
そう、大丈夫。別にどうということはない。
「大方、予想していたことだもの」
メールの送信者は城崎まどか。私立柴鶴学園の二年生にして『落とし物』能力者集団『アブソリュート』の準構成員でもある少女。
彼女からのメールを受信したのは真里亜だった。
単に、真里亜以外のメールアドレスを知らなかったからだろう。四葉は真里亜からの転送という形でメールを受け取った。
婚約者の浮気の証拠とも取れる先のメールを、だ。
もちろん、実際に不貞が働かれたわけではないだろう。
まどかが鳳の攻略に乗り出したことは、前もって聞かされていた。
対抗戦の際、深海灰人との賭けに勝利した報酬として知尋が灰人に願った。
四葉以外からの積極的な誘惑に鳳がどう出るかのテストなのだと。
だから、こうなったのは予定調和。
今回の写真にしても、まどかが無理矢理押しかけた挙げ句、鳳からベッドを譲られただけだと容易に想像できる。
しかし。
本当は、どうにも憤りを感じてしまう。
原因を作ったのは知尋だと言うなかれ。四葉に主を恨む気持ちはない。
何故ならイブに食事へ誘ってきたのは鳳で、それを仕事で台無しにしたのも鳳。まどかを拒絶しなかったのも、寝顔を撮られるほど気を許したのも全部、鳳自身だからだ。
『四葉に余計な気遣いは不要だろう。あの子は完璧だ』
しばらく前、鳳が知尋に言ったという言葉。
信頼の証なのだろうが、捉え方によっては単なる放置、釣った魚には餌を与えない方針となってしまう。
……完璧でないといけないの?
四葉のプライドの高さ、そして強いS性を知尋は認めてくれた。真里亜や華は四葉の責めを嫌がることなく受け入れ、感じてくれる。
鳳は? 以前、責めてやって以来、あの時のことにすら触れて来ない。
無かったことに――自分の中の四葉のイメージを壊したくないとでもいうように。
これ以上、彼を信頼する必要があるだろうか。
人としてはいい。しかし、女としてはもう、本当に愛想が尽きかけている。
「七瀬さん。貞操帯、ありがたく使わせていただきます」
寝室を出た四葉はすぐに荷物を手に取った。その中には昨夜、七瀬から受け取ったばかりの貞操帯も入っている。
使い方のレクチャーも簡単に受けた。
「うん。……さっそく使うの?」
「はい。早い方がいいですから」
微笑んで答え、居間にいた知尋にも頭を下げる。
「ご主人様、昨夜はありがとうございました。今日はこれで失礼します」
「四葉」
「何も言わないでください」
言葉を続けようとした知尋を制し、踵を返す。
真里亜や愛華、華と視線を交わし、そのまま廊下を進んで。
「待った」
ぎゅう、と。
憎らしいほど豊満な胸を背中に押し付けられ、抱きしめられる。
振り向かなくてもわかる。この感触、この声はたった一人の姉のものだ。
「ゆーちゃんのとこでしょ?」
「はい。終わらせてきます。万に一つくらいは、終わらないかもしれませんが」
ぎゅうう。更に拘束が強くなった。
「四葉のことだから大丈夫だと思うけど、あんまり思いつめないでね。何があっても私達は四葉の味方だから」
……全く、この姉は。
タイミングを外さない上に、逃げる暇も目を擦る隙すら与えてくれないとは。
「ええ。また、すぐに旅行だもの。無茶はしないわ」
簡単に外泊許可が取り付けられないことを見越してだろう。
四葉の実家には、灰人と観月、二人のSランク能力者の連名で旅行への招待状が届いた。四校対抗戦時の感想と、四葉への印象まで付け加えてあれば、さすがの両親も即座にOKを出してくれた。
「あー。もう、わたしが行けないのわかっててそういうこと言う」
ぱっと鈴が離れてくれる。おどけた口調は安堵の表れだ。
ありがとう、と、心の中で思いつつ振り返らずに進んだ。
今は声が震えない自信がないし、振り返ったら潤んだ瞳が見られてしまう。
「じゃあ」
何とかそれだけを言って部屋を出る。
「うん。行ってらっしゃい」
鳳のアパートまではタクシーを使った。
敢えて前までは行かず、少し離れたところで降りる。外の空気を吸って気持ちを落ち着けてからの方がいい。
と、歩くうちに前方に臙脂色のコートが現れる。
コートを纏うのは四葉に負けず劣らず豊かな胸を持った少女、城崎まどか。一歳年下ながら、溢れ出る色気では四葉を上回っているようにすら思える。
「あら。奇遇ですわね」
「城崎さん」
四葉は足を止めて目を瞬いた。
まどかもまた悠然と立ち止まり微笑んでくる。
「今、帰るところ?」
「ええ。北海道は遠いですから、あまりのんびりもできなくて。……でも、『彼』に朝食を作って一緒に食べさせていただきましたわ」
これ見よがしな言い方に一瞬、苛立った。
しかし思ったより不快感が少ない。感じている気持ちも婚約者を奪われようとしている怒りではなく同族嫌悪に近い。
どうやら、単純に彼女とウマが合わないだけの話のようだ。
軽く頷いて微笑む。
「そう」
「余裕ですわね。既に彼の気持ちは私の方に傾いているかもしれませんわよ?」
「どうぞお好きに。私がとやかく言えることではありませんから」
「……へえ」
ぺろり。まどかが舌を覗かせる。
「あなたとは案外、気が合いそうですわね」
「そう? 私は逆のことを思っていたけれど」
軽口を挑発で返すと、まどかはふっと笑って足を踏み出した。
脇をすり抜けた際に小さな風が吹き抜け、四葉の髪を揺らした。
「では、また。次にお会いする時には、立場が入れ替わっているかもしれませんわね」
などと嘯きながら、まどかは去っていった。
ふう。
四葉は軽くまどかを見送ると、息を吐いて逆方向に歩き出した。
アパートの敷地に入り、記憶の中にある部屋番号をまっすぐに目指す。今日、鳳の仕事は午後から。気兼ねなくディナーを楽しめるように調整したと以前に聞いている。
まどかが今、出ていったことを考えても、彼はまだ部屋にいるだろう。
インターフォンのボタンを押して数秒。
『どうした? 忘れ物か?』
聞こえてきたのはそんな婚約者の声だった。
ふっ、と、思わず冷笑をこぼしながら、四葉は素知らぬ声で返した。
「どなたかいらしていたのですか?」
『……四葉?』
「はい。家に戻る前に寄ったのですが、お邪魔でしたか?」
『い、いや。少し待ってくれ』
待つこと約一分。
四葉を出迎えた鳳はシャツとスラックスを身に着けていた。もともと着ていたのか、それとも……と、待ち時間と照らしてつい邪推してしまう。
もちろん表には出さずに微笑んで。
「お邪魔しますね」
室内へ入り、靴をきちんと揃えてから奥へ。
ふわり。
何気なく鼻を鳴らした四葉は、鳳の匂いに混じって女の匂いを感じた。
窓に視線をやると小さく開いていたが、約十二時間、まどかがここに滞在していたならその程度ではすぐに匂いが消えることはないだろう。
――洗面所を通り過ぎる際、さりげなく脱衣籠をチェック。
女物のエプロンが鳳のパジャマの下に入っていた。まどかの行為は意図的だろうが、果たして鳳はまずエプロンの存在に気付いているかどうか。
「それで、急にどうしたんだ?」
「急にではありません。昨夜はご一緒できませんでしたから、もしよろしければ朝食でもと思っただけです」
すると鳳は「……ああ」と表情を曇らせた。
それはそうだろう。まどかと食事をしてからまだあまり経っていないだろうから。
「済まない。朝食はもう済ませたんだ」
「そうですか。でしたら構いません。私ももう少し早く来られれば良かったのですが」
ひくっと、鳳の頬が引きつった。
「……まあ、君にも付き合いがあるだろう」
「……そうですね」
ひとまずは素直に頷いておく。
鳳の生活スペースまで踏み入った四葉は、バッグを開いて中から貞操帯を取り出した。透明なビニールで包んだ上、中身が見えないよう紙袋に入っている。
「四葉、それは?」
「由司さんへのクリスマスプレゼントです。開けてみていただけますか?」
紙袋を手渡して鳳自身に開かせる。
訝しげだった鳳の表情は、ビニールを紙袋から取り出した時点で困惑に変わった。しばらく観察した後はもはや理解が追いつかないのか無言だった。
「それは貞操帯、という拘束具の一種です。男性器の勃起を制御して自由な射精を禁じるのが目的ですね」
「な……」
鳳が目を見開いた。
何を言っているのかわからないのだろう。
無理もない。が、冗談だと告げるつもりもなければ、彼の理解を待つつもりもなかった。
四葉はバッグを置き、鳳に歩み寄ると彼の顔を見上げた。
「由司さん。私にあなたの性欲を管理させて?」
――鳳は、思い出したことだろう。
学園祭の前夜。四葉に惨めな方法で射精させられたことを。
夢だと思いかけていた、あの時の『四葉』が再び、目の前に現れたら。
鳳が取ったのは笑い飛ばす、という手段だった。
「……意味が、わからない」
首を振る彼の姿を見て、本当につまらないと四葉は思った。
仕方なく説明を加える。
「私はサディスト、加虐愛好者なんです。他人を、特に男の人を責めるのが好き。誰かを支配したくてたまらないんです」
「……以前の冗談の続きか?」
「冗談ではありません」
首を振って互いの「逃げ道」を潰す。
すると、鳳は見るからに表情を強張らせた。誤魔化せない、逃げられないとようやく観念したのだ。
「私にはそういう、普通と異なる性癖があります。こんなこと家族にだって言えません。言えるとしたらパートナーだけ。わかりますよね?」
「それは、そうだろうが」
四葉と、手にした貞操帯。両者へ視線を往復させる婚約者。
四葉は彼に冷たく告げた。
「もう一度お願いします。私に管理されて、マゾに調教されてください。もちろん、これはプライベートでの話。もし私の望みを叶えてくださるなら……外ではこれまで通り貴方の望む『完璧』をこなしましょう」
交換条件と言うほどのものでもない。
言い方が一方的過ぎることには申し訳なさもあるが――結婚を前提にした交際である以上、いずれ明かさなければならないことだ。
死ぬまでずっと隠し続ける、なんてできるわけがない。
「君はまだ未成年だ。こういったことは」
「では、成人すれば調教を受けてくださいますか?」
「っ。そうじゃない。そんな異常な欲求は長続きしない。成長すればいずれ収まる。それまで私は君を見捨てたりしないし、誰にも言わない」
はあ。
息を吐いた鳳が腕を持ち上げる。
両肩に男の手が乗る。
見上げると、優しすぎるほど優しい目が四葉を見下ろしていた。
「大丈夫だ、四葉。君には私がついている」
……どの口が。
四葉は唇から漏れそうになる口汚い言葉を必死に堪えた。
彼は四葉の性癖を「異常」と言う。S性は治療すべきものであり、異常な欲求に取りつかれた今の四葉は「見捨てる」ことも視野に入るような劣った存在、憐憫の対象なのだと。
彼にそんなつもりがなくても、そうとしか聞こえなかった。
「なら、これはどう説明されますか?」
四葉はスマートフォンを取り出し、画面を操作すると彼に突きつけた。
昨夜撮られた彼の写真――まどかの宿泊を示す証拠。それを見た鳳の表情は見る間に変わり、勢いよく首が振られる。
「これは、違う。君が考えているようなものじゃない。これは……そうだ。あの子の悪戯で」
「もういいです」
言い訳なんて聞きたくないと、四葉はきっぱり切って捨てた。
踵を返して荷物を拾う。鳳の隣を横切るように入り口へ取って返し、靴の前で振り返った。
「私達は距離を置きましょう。しばらくの間、必要な連絡以外はしないでください」
「っ、ま、待て、四葉!」
慌てて追い縋ってくる彼の腕を振り払い、四葉は部屋の扉を開けた。
「私を引き留めたいなら――今日のお仕事を休む覚悟で来てください」
「………」
部屋を出てからしばらくゆっくり歩いた。
鳳は追いかけては来なかった。
代わりに何度かスマートフォンに着信があったが、四葉はその全てを無視した。適当なところでタクシーを拾い、家に帰る。
「お母様、お話があります」
母親には、鳳と距離を置いたことをすぐに伝えた。
これまでも碌にデートもしてくれず放置されていたこと。
イブの夜にディナーの約束をしていたが仕事を理由にキャンセルされたこと。
そのイブの夜に別の女性と眠っていたこと。
彼の部屋には女性物のエプロンが落ちていたこと。
経緯をかいつまんで話すと、母も四葉の方針に賛成してくれた。鳳に反省が見られないようなら何かしらの対応を考えると。
黒羽家と鳳家は持ちつ持たれつの関係だが、別の見方をすれば、黒羽は鳳に頼らなくても潰れはしない。鳳が別のパイプを重用するというなら娘の婚約を解消し、鳳への資金援助を打ち切っても構わないのだ。
今日はゆっくり休みなさい、と、優しい言葉に殊勝な表情で答え、四葉は自室へと戻った。
――明後日、二十七日からは旅行の予定となっている。
準備は前日に回すとしてベッドに入り、目を閉じた。
胸のもやもやは、自分の身体を抱きしめることで無理矢理やり過ごした。
なんだか、知尋や真里亜達に会えるのが待ち遠しかった。