昼食を挟み、午後は訓練となる。
その日のメニューは実戦形式でのトレーニング。
『落とし物』達は戦闘のための存在ではないものの、単身で超常の力を発揮する彼らが非日常の世界でこそ必要とされているのも事実。
紛争地帯での活動や災害救助、あるいは治安維持のための警察活動等、フィジカルな能力を必要とする仕事に就く者も多いため、柴鳳学園ほか多くの機関でカリキュラムに戦闘訓練が盛り込まれている。
トレーニングウェアは体操着やジャージの他に、競泳水着めいたぴっちりした素材の専用スーツもある。両手両足から首まで全身を覆うこれの着用が、学園側からは強く推奨されている。
ウェアは難燃性かつ防水、帯電性も低い素材でできており、着用者の身体を様々な現象から守るため、着用率はほぼ百パーセント。
また、このウェアの上から普通の運動着を羽織る者も多い。知尋も、全身一体型のウェアの上に学校指定のジャージを羽織るのを好んでいた。
「相変わらずいい身体してるよなー」
「はは、さんきゅ」
着替え中、神代と他の男子との会話が聞こえてくる。
二人の会話通り、神代の身体はクラスの男子の中でも特に引き締まっている。身長や腕の筋肉量など、一部の項目だけ見れば彼以上の生徒もいるが、総合的にな性能では神代が群を抜いている。
対して、知尋の身体能力はいたって人並み。
胸板は薄く筋肉量も同世代のアスリートには劣るだろう。もともと体格に恵まれている方ではなく、体質的にも筋肉がつきにくいらしい。
当然、成績も芳しくない。
はあ。
密かについたため息は誰にも聞かれることなく、更衣室の喧騒にかき消された。
「さて。恨みっこなしでやりましょーか」
実戦訓練は屋内の訓練場にて行われた。
担当教員の指導のもと念入りに準備運動を行ったうえ、一対一で組んで模擬戦を行う。時間は五分で、その後五分の休憩を挟んで組み合わせを入れ替え、時間いっぱい繰り返す。
身体を酷く傷つけるような行為は禁止されているものの、男女混合であり、ルールも基本的に何でもあり。木刀等、ある程度の武器も使用が許可されていた。
「……よろしくお願いします」
初戦の相手は李狐だった。
薄い赤色のジャージを着た彼女は、わざとらしい笑みを浮かべながら知尋に相対する。
知尋は顔を正面に向けたまま、視線だけを僅かに外して立った。
「始め」
号令と共に訓練場のあちこちで戦いが始まる。
知尋もまた、数メートル離れて立つ李狐へ向かって駆け出した。彼の能力は攻撃的なものではないため、距離を詰めて攻めるしかない。
しかし、李孤は笑ったまま一歩も動かない。
訝しむ間に、知尋の行く手を阻む形で突如、何かが出現した。
体長三メートル近い大熊が獰猛に牙を剥いて立ち上がり、知尋を威嚇してくる。
その赤ん坊の胴体ほどもある太い腕に殴られたら、例え直撃でなくても行動に大きな支障を負うだろう。……熊が本物であれば、の話だが。
西崎李狐の能力は、光の加減などを操作して立体的な幻影を作りだすこと。幻影は李孤のイマジネーション次第で様々に形作ることが可能だが、直接的な殺傷能力は皆無。
彼女とクラスメートである知尋は当然、そのことを知っている。
だから、知尋は前に進み続けた。
恐れるな。
幻だとわかっていても竦みそうになる足を必死に動かし、大熊に正面からぶつかっていく。
接触による衝撃はなかった。
するりと、緞帳を潜るように幻影をすり抜け、先の景色が――。
「はい、いらっしゃいー」
見えたと思った瞬間、李狐の拳が知尋の顔面へめり込んだ。
決して重くはない一撃、しかし意図しない衝撃は踏ん張る暇を与えず、知尋を軽く吹き飛ばした。
仰向けの状態で床に叩きつけられる。
浅く息を吐いて上を見上げれば、歩み寄ってきた李狐が足を持ち上げるところだった。
咄嗟に顔を庇った両手を、運動靴の底が容赦なく蹴りつけた。
「っぁ!」
「あはっ」
思わず悲鳴を上げると、李狐は楽しそうな声を出す。
こうなったらもう止まらない。
少女は立て続けに知尋の身体を蹴り、踏みつけ、嬲り続ける。浅い痛みが断続的に襲ってきて、じんじんと知尋の思考を犯していく。
このままじゃ駄目だ。
そう思って足を振り払って起き上がろうとすれば、容赦なく靴底が顔面に降ってくる。一度劣勢になってしまうと挽回は如何ともしがたかった。
「ねえ、和泉?」
不意に、李狐が知尋の腹に片足を乗せた姿勢で言ってくる。
見上げると、正面から彼女の瞳を目が合った。
「今日、ちょっと調子に乗ってたよね? あたしのこと無視しようとしたり、高槻さんに話しかけられてニヤニヤしたり、深海さんと見つめあったり」
吐き気がした。
李狐の抱いている嗜虐的な愉悦が伝わり、悪寒となって全身を襲う。
「ね、今、あたしってどんな気持ち?」
知尋の能力は、読心。
ただし効果は対象と目を合わせている間だけ。
また、読み取れるのは相手がその時一番強く抱いている感情や思考だけで、心を読まれたことは相手にも伝わる。
目を逸らされればそもそも意味がなく、戦闘に使おうにも読み取れる情報が限定的すぎて有効に使えるとは限らない。特に李狐のように知尋を下に見ている相手の場合、ほぼ確実に「優越感」を読み取ってしまうためまるで意味がない。
うまく相手の戦闘意図を読み取れたとしても、戦い慣れた人間なら「心を読まれたことを前提に」行動を切り替えてくる。
ランクは、最低のE。
あるだけマシな最底辺の能力であり、また、相手のプライバシーを覗くという意味ですこぶる外聞が悪い。
「ちょっと虐めすぎで可哀そうかなあ、って思うんだけどぉ。どお? ちゃんと受け取ってくれた?」
李狐がこうして知尋を目の敵にしてくるのも、初めて彼女の「心を読んだ」時からだった。
――ホント気持ち悪い。ま、こうやっていたぶるには丁度いいけど。
憐憫など欠片もない愉悦の感情を受け取りながら、知尋は歯を食いしばった。
悔しい。
痛い。
でも、抵抗するだけの力が知尋にはない。
再開される攻撃を堪えながら、知尋は瞳に涙を浮かべた。
「うわ、泣いてるし。気持ち悪い、本っ当に気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!」
愛華に話しかけられて。美貌の転校生と目が合って、ほんの少し期待したのがいけなかったのか。
李狐に抵抗しようと、抵抗できると考えたのがいけなかったのか。
そもそも、こんな能力で『落とし物』を名乗ろうとしたのが間違いだったのか。
試合が終わるまでの五分間、知尋は李狐から一方的に嬲られ続けた。
その間、涙が枯れることはなく。
愛華と神代だけは気づかわしげな視線を送ってきたものの、クラスの誰も知尋に話しかけてくることはなく。
そんな知尋を、真里亜がただ、黙ったまま横目で見つめていた。
☆ ☆ ☆
一戦目から気力を削りに削られ、以降の戦いに臨まなければならなかった知尋には周りを気にする余裕もなかったが、実戦訓練でも真里亜は大活躍だったらしい。
能力と試合形式の相性もあり、初日にして全戦全勝。
愛華や神代とは当たらなかったようだが、それでもCランクの実力を存分に見せつけた。
知尋は全敗。
できうる限り立ち向かったつもりだが、試合のたびに殴られ、蹴られ、投げ飛ばされて負け続けた。仕舞いにはクラスメートからため息を吐かれる始末である。
「やっぱり凄いね、深海さん」
「わたし、全然相手にならなかったよー」
帰りのHR後もわいわい騒ぐ生徒達を迂回して、知尋はまっすぐ教室を後にした。
入り口の扉を閉める際、李狐が振り返ってにっと笑ったが、もはや反応する気力もありはしない。
一人で廊下を歩き、階段を下りて校舎を出た。
空を見上げると黒い雲が一面を覆っていった。今にも降りだしそうだが、生憎傘はもっていない。
仕方なくそのまま歩き出す。
果たして、雨はすぐに降り始めた。
髪が、肌が、制服が水を吸って身体に張り付いても、知尋は走り出すことなく寮への道を歩き続けた。
しかしペースは次第に落ち、やがて人気のない路地で立ち止まってしまう。
数分間、知尋はそのまま立ち尽くし、やがて呟く。
「……辞めようかな」
しばらく前から考えていたことだった。
このまま続けたところで身になるとは思えない。知尋がクラスにいる限り李狐のスタンスも変わらないだろう。
ならいっそ、辞めて働くか、普通の学校に転校した方がマシなのではないか。
きっとそうなってもクラスメートは誰も気にしない。
と。
「――諦めるの?」
背後から知尋に声がかけられた。
その声は雨音にかき消されることなく、妙にクリアに響く。
振り返る。
男物なのか、黒い大きな傘をさした真里亜が知尋をじっと見つめていた。
教室で皆に囲まれていたはずなのに。
追いかけてきた。追いついてきたの、だろうか。
「罵られて、嘲られて、腫れ物みたいに扱われて悔しくないの? やり返したい、見返して逆に笑ってやりたいとは思わないの?」
彼女は静かに、知尋へ問いかけてくる。
これまで何度も、何度も知尋が自問してきた問いを突き付ける。
「……無理だよ」
知尋の答えは今までと同じ。
「僕の能力は役に立たない。運動神経だって良くないし、正直、度胸でも負けてる。運良く一回勝てたって、調子に乗ればまた報復されるだけだ」
真里亜から目を逸らしながらそう告げる。
訓練は基本的にクラスごとに行われる。互いに切磋琢磨するためという名目だが、それはつまり関係が一回で終わらないということだ。
弱者が努力で一度上に立とうとそれはゴールではない。
強者から再び、より激しく攻め立てられる日々のスタートだ。
しかし、真里亜はつまらなそうに首を振る。
ゆっくりと知尋に歩み寄りながら告げてくる。
「そんなことはどうでもいいの。あなたに欲望は、嫉妬は、憎悪はないのか聞いてるの」
「なんで、そんなことを……」
すぐ傍で足を止めた真里亜に尋ねれば、彼女は知尋を見上げ、目線を合わせながら言う。
「あなたが望むなら、私が叶えてあげられるから」
心に流れこんできたのは果てしない情念だった。
熱く、切なく、ドロドロとした感情。知尋の経験ではそれを名付けることはできないが、敢えて言うなら強烈な恋慕の情に近いだろうか。
それが、知尋の中にあった欝々としたものを飲み込み、押し流し、更に知尋の中へと侵入してくる。
わけがわからなかった。
優秀な転校生が何故か自分を気にかけ、後を追いかけてきて奇妙な挑発をしてくる。自ら「心を読ませる」ような行動までしたかと思えば、伝わってきたのは初対面の相手に与えるものとは思えない「何か」。
「深海さんは、一体……」
「真里亜。そう呼んで」
呆然と口を開いた知尋の言葉を遮って真里亜は囁き、そして。
軽く背伸びをするようにして、知尋の唇へキスをした。
「っ!?」
驚きから硬直する知尋。
見開いた目に飛び込んでくるのは、誘うように揺らめく真里亜の瞳だった。
読心によって伝わってくる思いがますます強くなる。次第に知尋は、それが自分の感情なのか相手の感情なのかもわからなくなり始める。
つぷ。
触れ合う唇が押し開かれ、真里亜の舌先が口の中に入ろうとする。
「っ、止めっ!」
我に返った知尋は目を閉じ、真里亜を強く突き飛ばした。
どさっという音を聞きながら数秒間、呼吸を整えて目を開くと、真里亜はすぐ傍で尻餅をついていた。怪我はなさそうだが、鞄と傘は放り出され、美しい身体が雨に濡れてしまっている。
放心したようにこちらを見上げる彼女を、知尋は慌てて助け起こした。
「……ご、ごめん。大丈夫?」
自分の鞄を捨て、真里亜の背中と肩にそっと手を置いて持ち上げる。
すると、知尋の耳にくすくすという真里亜の笑い声が飛び込んできた。
「なんだ、できるじゃない。それでいいの。もっとあなたは素直になった方がいいと思うわ」
「………」
いったん冷静になった頭では何と答えるべきかわからなかった。
立ち上がった真里亜は傘と、鞄を二人分拾うと、黒い傘で自分と知尋を守りながら言った。
「さて。とりあえず、あなたのせいで濡れちゃったから、責任とってくれる?」
知尋に拒否権は存在しなかった。