知愛は知尋達に比べると大分小さいとはいえ、ずっと膝へ乗せているのは少々、難しい年頃である。
『苦痛軽減』のお蔭で足の痺れにも強い知尋だが、それでもいい加減膝が疲れてきたので、適当なところで愛華に代わってもらうことにする。
「えっと……知愛。愛華の方に抱っこしてもらってくれるかな?」
先程決まったばかりの名前を、少女はまだ「自分のこと」だと理解できない様子だった。ただ知尋の方を見つめ返してくるだけ。
仕方ないので再度、愛華が呼びかける。
「知愛ちゃん。こっちにおいで」
振り返った彼女の腰辺りを両手で支え、愛華が知愛を持ち上げる。
抵抗されるかと思ったものの、意外にも少女は嫌がることなく愛華の膝に収まってくれた。
真里亜がくすりと笑って微笑む。
「その子も、本能的にママがわかるのかもしれないわね」
「ま、ママって。真里亜」
「それは事実でしょう? お腹を痛めてはいなくても、愛華さんの子には違いないわ」
明らかにからかわれている。
これだけ軽口を叩きあえるのだから、愛華と真里亜も仲良くなったものである。
などと、知尋が現実逃避しているうちに、他の少女達も真里亜を援護し始めた。特に率先して動いたのは華だ。
「ほら、知愛ちゃん。あれがママですよ」
「……?」
「ママ、です。それから向こうの頼りないのがパパです」
一言余計である。
首を傾げるばかりの知愛に、華は根気よく繰り返し「ママ」の言葉を教える。これは別に悪いことではないので愛華も怒るに怒れない様子。困った微笑と、軽い不満げな顔を交互に浮かべて二人を見守る。
そのうち李狐が「あたし、ご飯作ってくるね」と静かに離脱。そろそろ昼時なのを見越してだろう。
なお、自炊用の食材は食堂から分けて貰えるとのこと。
「………」
「ママ、です。あなたの遺伝子提供者ですよ」
しばらく様子を見守るうち、華は何を思ったか難しい言葉を使いだした。遺伝子提供者なんて迂遠な言い方、日常生活ではまず使わないというのに。
頬を引きつらせた知尋だったが、意外にも知愛の反応はそう悪くなく。
じっと愛華を見たかと思えば手を伸ばして彼女に触れる。愛華もされるがままになっていると、十数秒が経って。
「……ま」
「あれ」
何か聞こえた。
一同、それぞれに目を瞬く。ふっと笑った四葉が口元に人差し指を当てて「静かに」のポーズ。
誰も反論することもなく沈黙が下りた。
知愛の小さな唇がゆっくりと開く。
「まま」
漏れ出たのは小さな音。
子供らしいたどたどしさを持ち、また、単なる呻きに聞こえかねないような小さな声だったが、それは確かに言葉の体を成していた。
少女、知愛が初めて発した言葉。
「……あ、どうしよう。私」
見ると愛華が涙ぐんでいた。
「こんなにどんどん夢が叶っちゃったら、なんだか逆に、残りの寿命が短いんじゃないかなって思っちゃう」
「そんなことはないよ、大丈夫」
縁起でもないことを言わないで欲しいと笑い、知尋は愛華に歩み寄った。ゆっくり体重を預けてくる彼女を抱きしめると、知愛が見上げてくるので一緒に腕の中に包んでやった。
子供の体温というのは温かいんだな、と今更ながらに思った。
☆ ☆ ☆
「お昼は雑炊にしてみたよ。たくさん作るのが楽だからね」
八人、プラス知愛、プラスちさとという面々で食卓を囲んだ。
李狐お手製の雑炊は、本人が「楽をした」という割にはきっちりと拘って作られた品だった。塩加減が絶妙で、箸休め兼薬味として用意された炒り卵や海苔、刻みネギなどが良いアクセントになっている。
また、李狐は知愛のためにお粥も用意していた。子供は消化の良い物の方がいいかもしれない、という理由からだ。
「そうだよね。この子、普通のご飯食べられるのかな?」
「見た目相応の身体構造をしているのなら、消化能力などに問題はないと思うけれど」
試しに知尋が雑炊を一口、匙で掬って口に近づけてみる。
見た目は小学生、しかし中身はほぼ幼児な少女は、くんくんと雑炊の匂いを嗅いだ後、ぱくっと口を開けた。
白い歯が綺麗に生え揃い、並んでいるのが見て取れる。
「噛むのは問題なさそうだね」
李狐の呟きとほぼ同時に、匙の中身が知愛の口に入った。
きちんと食べてくれるか。ちさとを含めた九人がじっと見守る中、少女はもぐもぐと口を動かし始める。
こくん。
喉がかすかに鳴るのを聞くと、一斉に安堵の吐息が漏れる。
「………」
「あはは。うん、良かった」
もっと、とばかりに見上げてくる知愛を見て、知尋は笑った。ひとまずは食べさせる量と一口の量にさえ気をつければ大丈夫そうである。
それでも、帰ったらたまごとひよこがモチーフの雑誌を買うべきかも。
「で、和泉君。知愛ちゃんはこれからどうなるんですか?」
「どうなるって?」
「誤魔化さないでください。このまま和泉君達が連れて帰って育てる、なんて簡単に行くはずがないじゃないですか」
「……まあ、ね」
仕方なく頷く。
もともと本気で誤魔化すつもりも、誤魔化しきれるつもりもなかった。
華の言う通り、今後、知愛がどうなるかについては色々難しいところなのだ。それもそのはず、今は女の子の姿になっているものの、彼女は元々隕石。
前世紀末に地球上へ飛来し、『落とし物』誕生の原因を作った――らしい、意志を持つ物質なのである。
「知愛、っていうか元の隕石は、日本とアメリカの共同所有っていうことになってるらしいんだ」
落ちた場所が両国に近く、両国が同盟関係にあること。
また、特殊な由来の品であることから共同研究を行い、少しでも早く多くの情報を得る方が得策だと判断されたこと、などがその理由である。
そのため、隕石をどうこうするには日本とアメリカ、両国の合意が必要となる。
「でもさ」
早稀が首を傾げた。
「知尋に実験させるのはその『合意の上』って奴だったんでしょ? なら、まだ実験は続いてるってことにならない?」
隕石はこうして人の姿を取ったものの、まだ話ができる状態ではない。
知愛から情報を引き出すのが実験の最終目標と捉えるのであれば、確かにまだ実験中と考えられる。
「でも、実験の第一目標はもうクリアしてる」
知尋が呼ばれたのは停滞した研究に対するブレイクスルー、突破口が必要だったからだ。そういう意味では知尋はもう十分に役割を果たしている。
ぶっちゃけ、知愛に知識を与えて会話ができるようにする作業は知尋でないとできないわけではない。
だから、後は専門の研究者が引き受けるべき――というのが研究者の片割れ、ナタリーの見解。
「加賀見さんは僕達に任せるべきだ、って言ってくれてる。知愛と仲良くするに越したことはないから」
これだけ知尋にべったりなのだから、無理に引き剥がすより利用した方がいいという意見。言い方は悪いが、できるだけ人道的配慮をしようとしてくれているとも受け取れる。
こうして意見の対立する加賀見とナタリー、そこにアドバイザーとして灰人、日本の国家機関の代理人というか見届け役として楓、この面子により今も議論が行われているはずだ。少なくとも知尋と愛華が研究室を出る段階ではそう簡単に終わりそうな感じはなかった。
更に言えば、二人の研究者の見解が、そのまま両国の見解と一致するとも限らない。第三、第四の意見が出る可能性もかなり高いだろう。
知愛を一時的に預かることができているのは、ナタリー達の手が離せないからだ。
「せっかく仲良くなれたのに、知愛ちゃんとお別れしないといけないのかな」
愛華が食事の手を止めて視線を落とした。
――このまま行けば十中八九、そうなるだろう。
四葉が顔を上げて、
「現実的な問題として、ご主人も私達もただの学生です。子育てできる環境が整っているか、という問題もありますね」
幸い知愛は本物の赤ん坊よりも手がかからない。とはいえ一人で置いておくのは色々心配なので、世話をする人間はやはり必要だ。
では、誰が世話をするのか?
基本的に知尋と愛華が担当し、真里亜達にも手伝ってもらう。成人している鈴もいるので多少融通は効くだろう。しかし知尋達には学校があるし、鈴だって仕事をしている身だ。
冬休みが終わった後、知愛の相手をする余裕が本当にあるのか。
託児所などを利用するのでは本末転倒だし、教室に連れ込むのも無理がある。もしも知愛にこのまま関わるなら問題は山積みだ。
――現状をしっかり認識した上で、知尋は首を振った。
「……だとしても、今がチャンスだと思う」
「チャンス?」
「うん。今はこうして、知愛が傍にいてくれてる」
雑炊を咀嚼している少女を見下ろす。
やはりお腹が膨れるのは嬉しいのか、心なしか顔が綻んでいた。
「今のうちにもっと仲良くなって、僕達じゃないと駄目だって思わせれば」
「もっと一緒にいられるかな?」
「可能性は高くなるんじゃないか、って思う」
ナタリーはそれも織り込み済みかもしれないが。
せっかく出会った相手と何もしないで別れるというのは、知尋としても少々我慢がならないのだった。
☆ ☆ ☆
結局、知愛は高校生の一人前に近い量を平らげた。
ほう。
軽い吐息と共に身を預けてくる彼女を、知尋はそっと抱き留める。異性に触れられているにも関わらずどこまでも自然体で、そのせいか知尋の側も邪な感情や必要以上の遠慮はしなくて済んでいる。
「言い方が悪いけど、犬とか猫みたいなものなのかな」
「そうですね」
頷いた真里亜が「私も犬として扱われてみたいです」と付け加えた。意味合いが全然違ううえ、全くもってそんな場合ではないので無視しておく。
……不思議な感覚だった。
子供は得意じゃないし、どう対応していいか不安はある。
なのに、手放したいとは思わない。これは知愛が知尋達の「娘」だからなのか、少女独特の気質によるものなのか。
嫌がられないのをいいことに、愛華によく似た髪を撫でていると、ふと気づく。
「あれ? 知愛、どうかした?」
少女が微妙に落ち着かない様子を見せている。もじもじと身をよじらせ、知尋の膝の上で座る位置をしきりに直そうとする。
呼びかけると見上げてくるのだが、瞳から伝わってきたのは不快感だった。
ただし知尋に向けられたものではなく、自分の体調に関するもののようで。
「あ」
李狐がわかった、というように声を上げた。
「もしかして、お手洗いじゃない?」
「え」
「あ」
飲食に付随して起こる生理反応。
気心の知れた仲ながらも多少の恥じらいを持って「お手洗い」と形容された行為に、一瞬遅れて思い至った。
……そういえば赤ん坊は一人でできないのだったか。
知尋も赤ちゃんの頃は大変で何度も、と、母からあまり聞きたくない話をされた時のことを思い出す。
愛華と顔を見合わせた知尋は、しかしフリーズ。
原因はわかったが、そうだとして、ではどうすればいいのか。こういう時必要な専用アイテムが今、この場にあるわけはなく。小学校高学年に見える知愛にこのまま粗相をさせるのも心苦しい。
悩んでいると愛華が顔を引きつらせながら言った。
「え、えっと。私がやってみる」
「う、うん」
当人としても同性の方がいいだろうと、少女をそっと抱き上げて引き渡す。
知愛は愛華に抱かれたままトイレの方に消えていき、十分近く経ってから戻ってきた。帰りを待つ間は落ち着かず、「見に行った方が」と誰かが言い出しては「何かあれば呼ぶだろう」と別の誰かが窘める展開の繰り返し。
戻ってきた愛華は少しだけ疲れた顔をしていた。
知愛の方はどこかすっきりした表情で、見ると、着ていたワンピースが少しだけ着乱れている。一度脱いで着直したような、そんな感じだ。
「……なんとかなったよ」
「具体的には?」
「なんとかなったよ」
「そ、そっか」
尋ねた早稀に、愛華がもう一度繰り返した。
物怖じしない少女が気圧されたあたり、きっと色々大変だったのだろう。それでも、膝に乗せた少女の身体に湿り気は感じないので、どうやら不測の事態は避けられた模様。
赤ん坊が粗相をするのは我慢がきかないからだろうが、その原因は身体が幼いせいだったか、それとも我慢の仕方を知らないせいだったか。知識の無い知尋には全くわからなかったが、知愛の場合、普通の赤ん坊よりは多少我慢が効くのかもしれない。
「でも、この子の着替えとかあった方がいいかも」
知尋の隣に座り直し、娘の顔を覗き込んで言う愛華。
経験者の言葉の重みに、これは他人事ではない。きっと自分の番も回ってくると、一同が深く頷いた。