食事を終え、お手洗いも済ませた知愛はお昼寝モードだった。
知尋の膝に戻ってすぐ目を細め始めた彼女を見て、愛華が「歯磨き」と呟いた。もちろん、それは自分に向けたものではない。
「うん、それは大事だ」
知尋にも子供の頃、歯医者で恐ろしい経験をした過去がある。
気持ちよさそうな知愛を動かすのは心苦しくもあったが、洗面所に連れて行って歯を磨かせることに。歯ブラシは李狐が予備を持ってきていた。
ただ、幼い少女に歯を磨いてもらうのも一苦労で。
「……?」
歯ブラシを握らせても、当人はどうしていいかわからない様子。
「えっとね、ご飯を食べたら歯を磨くの」
「こうやって、歯ブラシで擦るんだよ」
愛華と二人で教えてみるも反応は微妙だった。
仕方なく知尋が歯磨きを決行。あーん、と口を開けてもらうのは割と簡単だったので、そこに濡れた歯ブラシを差し入れる。
「知尋君、優しくね」
「う、うん」
子供の歯だから余計にデリケートなはず。
丁寧に、優しく――ついつい力を込めそうになるのに気をつけながら、白い歯の表面を擦った。まずは奥の方から。
……十秒もしないうちに知愛が「うー」と呻いた。
けほっと咳き込むような仕草。口内の異物が気になるらしく表情が歪んでいる。とろっと口の端から垂れてきた唾液を慌ててティッシュで拭き取る。
やっぱり、なかなか難しい。
「ごめん、もうちょっとだけ我慢してくれないかな」
目を見ながらお願いすると、何かを感じたのかこくんと頷いてくれる。
あまりこの子に負担をかけられない。さっきの丁寧に云々加え素早さも心がけながら手を動かした。
知愛が再び「うー」と呻いたのは歯ブラシを離すのと同時だった。
すかさず、愛華が水の入ったコップを差し出して。
「知愛ちゃん、このお水で口をぶくぶくって」
ごっくん。
「あ」
説明が終わる前に、知愛が唾液を飲みこんでしまった。
その後は一応、口をすすいでもらうように言葉を尽くし、ようやく歯磨きを終えた。
リビングスペースに戻る間にもこっくりこっくりし始める知愛は、愛華が寝室に連れていくことにした。せっかくなので一緒に昼寝してくるようにお願いする。
戻った時にはテーブルは空になっていた。
真里亜と李狐が洗い物を担当し、残りの面々は思い思いに寛いでいる。読書中だったらしい四葉が顔を上げて微笑んだ。
「お疲れ様です、ご主人様」
「あはは。ありがとう」
ソファに座るとすぐに疲労が襲ってきた。
思いの他、色々なことがあったせいだろう。
「……子育てって大変なんだなぁ」
「そうですね。私も、そういう経験は無いので不思議な感覚です」
そういえば、この面々は誰も下に弟妹がいない。
小さい子の相手に慣れていそうなのは歳の離れた四葉の姉、鈴くらいだ。何か困ったことがあったら彼女に相談してみるのもいいかもしれない。
鈴は案外、子供の扱いが上手いのだと四葉は教えてくれた。後は犬猫などもそうだが、性格的な緩さが相手に好かれやすい空気を作っているのかもしれない。
と、不意に部屋のチャイムが鳴った。
反射的に立ち上がりかけるも「はいはい、座ってて」と李狐に止められる。廊下を経て入り口へ駆け寄った李狐がドアを開ける気配。
「こんにちは、和泉君」
やってきたのは観月だった。
車椅子だと廊下が狭いからか、能力を使ってリビングルーム入り口までテレポートしてくる。
そのため、出迎えた李狐の方が遅れて戻ってくる。
「お家の方は大丈夫なんですか?」
「はい。大掃除は私だと難しい部分も多いので、主人に殆どお願いしてしまいましたし。お節の準備もある程度終わりました」
言って微笑む彼女はまるきり普通の主婦だ。
家事の息抜きも兼ねてこちらに顔を出したのだという。研究所を覗いたところ加賀見とナタリーが激論を交わしていたので、挨拶だけして逃げてきたとか。
と、そこで観月は表情を曇らせる。
「むしろ、来るのが遅くなってごめんなさい。……加賀見さん達が酷いことをしたのは、見逃してしまった私にも責任があります」
深く頭を下げられる。
車椅子の関係で立つことこそなかったが、表情と姿勢を見れば彼女の気持ちは十分すぎるほど伝わってくる。
というか、どちらかというと運搬係で、研究に直接タッチしていない観月が一番、気に病んでくれているのも不思議な話だ。
「気にしないでください。そう言ってもらえるだけでも凄く嬉しいです」
「……不思議な子ですね、和泉君は」
言って、観月が目を細めた。
「そういえば、あの隕石が女の子になったと聞きましたが」
「はい。今は愛華と一緒に寝ています」
寝顔くらい見せてあげたい気もするが、ドアを開ける音が邪魔になってしまうだろうか。
「あ、でしたら少しだけ、直接中に入らせてください」
「なるほど」
このVIPルームにも以前来たことがあるらしい。
ふっと消えた観月は十秒もせずに戻ってくる。寝室内にテレポートして知愛を見た後すぐに戻ってきたのだろう。
「可愛い子ですね。和泉君と高槻さんによく似ています」
「僕と愛華の遺伝子情報を参考にしたらしいので」
容姿など、ちゃっかり二人のいいところを取っているかもしれない。
「子供の寝顔を見ていると癒されますね」
「子供、お好きなんですか?」
「はい。大好きです」
観月自身も母親だ。
彼女の子供は八歳で、やっぱり女の子らしい。物を食べている時の顔や眠っている時の顔、遊んでいる笑顔などを見るのが特に好きなのだと、本人も笑顔を浮かべて話してくれる。
……子育て経験者、身近にいたじゃないか。
せっかくなので、知尋は観月に娘が小さかった頃の話を聞いてみる。特に食事や睡眠、あとは例の生理現象など。
「もちろんいいですよ。そうですね……」
話は一時間以上も続いた。
李狐が出してくれた紅茶を飲みながら向かい合って話す。李狐と真里亜、四葉は知尋の傍に座っていたものの、早稀とかなめは途中で興味を失ったようにリビングルームを出ていった。
食べ物をこぼした話、好き嫌いに悩まされた話、夜泣きで眠れなかった話――さすが経験者だけあって具体的なエピソードが次から次に出てくる。メモ帳代わりにスマートフォンを操作するのが追いつかないくらいだ。
「これくらいにしておきましょうか」
延々喋っても喋り足りなさそうだったあたりが恐ろしい。
人一人、八年分の歴史があるのだから当然といえば当然か。
「すみません、お時間を取らせてしまって」
「いいえ。……というか、実は今までのお話でも用件は終わっていないんです」
「というと?」
「そろそろ、お買い物が必要ではありませんか?」
願ってもない申し出だった。
食堂からの提供分だけでは足りない食材や調味料、それから懸案だった子供服。
観月に頼み、知尋と李狐とで日本に戻らせてもらう。
「入出国の手間を省いちゃいますので、これは内緒ですよ?」
と、口止めをされた上でまずはスーパーへ。
観月には店の入り口あたりで待っていてもらい、李狐が品定めを担当。知尋は荷物持ちに専念した。
「何を買うの?」
「とりあえずお蕎麦とお餅だよね。これは絶対必要だし」
気づけば、今日は十二月三十一日。大晦日である。今から豪華なお節を用意したりはさすがにできないが、年越し蕎麦とお雑煮だけは欠かせないと李狐が強く主張した。
雑煮といえば地域によって味付けが違う。
北海道出身の面々はどういうお雑煮を好むのだろうと二人で首を傾げたが、とりあえず関東風の味付けで手を打っておくことにした。
食材を買い終わったら観月と合流。
一度、島へ荷物を置きに戻ってから衣料品店へ。
こちらは知尋が観月の車椅子を押す形で三人で回った。
「子供服は可愛いのも重要ですけど、一番は暖かさですね。小さい子は自分で体調を整えるのも難しいですから」
とにかく風邪を引かないのが一番。
次に機能性。普段着であれば、動きにくい服装は基本的にご法度。肌触りが気になる子や化繊アレルギーの子もいるので、そういうのも要注意だという。
更に価格が来て、デザインはその後だという。
へえ、と、李狐が感心したように呟く。
「小さい子の着せ替えとか凄く楽しそうだけどな」
「ええ。でも、そういうのは本人が疲れてしまわないかも要注意ですね」
「ふむふむ」
熱心に頷く知尋と李狐に、観月がくすりと笑った。
「なんだか、そうしていると若い夫婦のようですね」
「なっ」
途端、李狐の顔が真っ赤に染まる。
「いや、こいつの彼女は愛華だし。あたしは別に」
「ふふ、そうですね」
本気でからかうつもりもなかったのだろう。
観月はあっさりと話題を流して知尋を振り返った。
「でも和泉君。こうやって気にかけてくれる人がいるのはとても良いことだと思います。子育てはわからないことだらけで、一人で抱え込んでしまうと自分にも子供にも良くないですから」
頼ったり相談できる誰かが居てくれるのは重要だ。
「もちろん、私で良ければ何でも聞いてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
子供服を持ってVIPルームに戻ると、時刻は午後三時を過ぎていた。
再度お礼を告げた知尋達に、観月は表情を引き締める。心なしか声を潜めて彼女が言ったのは。
「あの子――知愛ちゃんはこれからきっと大変だと思います」
「子育てが、とかじゃ……ないですよね」
「はい」
隕石が人となったもの。
前代未聞の事例であり『落とし物』研究の重要なファクターとなりえる彼女を、おそらく日本政府も米国も欲しがるだろう。
もしも情報が洩れれば他の国も動くかもしれないし、個人や組織、企業だって動く可能性はある。
しかし、利権やら何やらは大人の事情。
子供には子供らしく、のびのび育つ権利があるはずだ。
「高槻さんと一緒に眠る知愛ちゃんの顔はとても幸せそうでした。きっと、和泉君達のことを信用しているんだと思います」
「知愛なら、慣れれば誰とでも仲良くなれそうですけど」
「それはどうでしょうか」
観月は軽く首を振ってみせる。
あの少女は例の隕石が変化したもの。そして、隕石はこれまで自身にアクセスしてきた『落とし物』達をブロックしている。つまり何かしらの防衛反応を持っているはずで、知愛も信用しない相手には心を開かないと思われる。
知尋の影響により、今の彼女は動くことができる。
変身したことで能力の行使も確認された。
もし、悪意ある者が知愛に近づいた場合、発揮される防衛行動は消極的なものに留まるかどうか。
「私もそんな風に意見してみます。知愛ちゃんを育てるのは和泉君達が適任だ、って。本当は単純に、同じ親の視点から応援したいんですけど」
暖かい言葉が妙にくすぐったく感じられた。
「僕は全然、あの子の親だなんて言えません。今日だって、まだ一日も経ってないのに慌てることだらけでした」
「自信満々の人より、そういう人の方が信用できますよ。だって、足りない部分を補うことができますから」
でも、と観月が言葉を切った。
「注意してくださいね。加賀見さんとナタリーさんの意見が違うみたいに、研究所にいる他の人達にも、色んな意見があると思いますから」
これだけ派手な成果を上げ、研究所の今後に関わる事態を引き起こせば、どうしてもどこかに軋轢が生まれてしまう。直接的な暴力行為まではいかないにせよ、無用な悪意に晒されるかもしれない。
なるべく知愛を外に出さず、傍に誰か居た方がいい。
観月の忠告を知尋は真摯に受け止めた。
「気をつけます」
そして、観月の懸念が現実のものとなったのは深夜のことだった。
☆ ☆ ☆
話を終えた観月は研究所に寄ってから帰るとのことだった。
次に研究所を訪れるのは新年の午前中か午後、少しだけ顔を出す感じらしい。家族とお節を囲んだり初詣に行ったり、年賀状の返信をしたりで主婦は忙しいのだ。
『知尋くん達は結局、南の島で年越しかあ。芸能人みたいだね』
『そこまでいいものでもないですよ』
『ちーちゃん、お土産よろしくね。話でもいいし、ビーチの砂でもいいからさ』
『私は早く会いたい。最低でも始業式の当日中』
鈴達と会えない時間も長引いている。
少しだけ日本にこっそり戻った際はとても会う時間がなかったし、万里歌が言う通り会えるのは冬休み終了前後になってしまいそうだ。
『できたら、帰る時は大きなお土産を持っていくから』
『楽しみにしてる』
知尋は夜まで仮眠を取り、すっきりした上で大晦日の夕食に参加した。
年越し蕎麦と味噌田楽が中心のメニュー。膝上に陣取った知愛はどちらも食べたがったが、味噌の味は慣れないのか微妙な顔だった。肝心のコンニャクは喉に詰まらないようかなり小さく切ってから口に運んでやった。
しかし本番は正月の餅だ。
確実に知愛は食べたがるだろうが、果たして小さく切ったところで喉に詰まらせずに済むか。焼き餅とお雑煮、どちらが子供には食べやすいか、微妙な悩みが頭に浮かんだ。
そんな風に、小さな新メンバーのお蔭で場は和やかに進み――そして。
深夜。研究所全体に異変が生じた。