「おはよう、高槻さん」
「うん。……おはよう、神代君」
登校してきた神代は教室内に愛華の姿を認めると、真っ先にそちらへ歩み寄った。相変わらず照れたような表情の彼に釣られたか、挨拶を返す愛華もまたかすかに頬を赤らめていた。
「うわ、朝から見せつけるなよ」
「まー、似合ってるよね、あの二人」
遠巻きに眺めるクラスメートからは微妙な声。
この二週間ほどで、神代と愛華の仲はかなり縮まっている。今のように、神代は愛華への好意をあまり隠さなくなったし、愛華の方も誠意と好意をないまぜにしたような対応を取っている。
彼らが二人だけで学食へ行き、小さな話題になったのは数日前、水曜日のことだ。
今度の判定でBランクになったら、という宣言通り、まだ二人は交際しているわけではない。まだ下校を共にする様子はないし、キスはおろか手すら繋いでいないかもしれない。
しかし、それも時間の問題だというのがおおよそ周囲の見解だった。
はあ。
「あれ、李狐、どーかした?」
「別に。ちょっと疲れてるだけ」
李狐がいつもの面子と戯れながら、ちらりと視線を送ってきた。どうするの? と言外の意図が読心に頼るまでもなく伝わる。
確かに。約束を取り付けるなら早い方がいい。
彼女に軽く頷いて、知尋は席から立ち上がった。神代が愛華の席を離れたのを見計らい、彼に声をかける。
「神代君」
「ん?」
立ち止まった少年は、振り返ると意外そうな顔をした。
知尋が自分から彼に話しかけるなんて初めてのこと。しかも、しばらく前に学食へ誘われて以来、碌に話もしていないのだから無理もない。
「どうかした?」
しかし、彼は気を悪くした様子もなく問いかけてくる。
その穏やかな態度に嫌悪は抱けず、むしろ好感が持てるのだが。それはそれとして、知尋は予定通りの言葉を彼に告げる。
「ちょっと、お願いがあって」
「お願い?」
「うん。今日の放課後、訓練に付き合ってくれないかな。試合形式で」
「え?」
神代が目を丸くした。
また、少し遅れて教室がざわめく。愛華とのやりとりからの流れで二人に注目していた生徒が何人かいたらしい。
彼らが動揺すれば、情報はあっという間に教室内へ伝播する。
「あの」知尋が「あの」神代に試合を申し込んだ。
それは周囲の注目を集めるのに十分なインパクトを持っていた。
「いいけど、どうして急に?」
教室内のざわめきをよそに、神代の反応はやはり穏やかだった。一瞬驚いた顔を見せたものの、すぐに笑って尋ねてくる。
「いや。もうすぐテストだから、その前にやっておきたくて」
ああ……と、誰かが納得の声を上げた。
間近に迫った試験。その言葉から、真実とは異なる連想をしたのだろう。近いうちに学園を去ることになる前に、思い出作りをしたいのだと。
実際、少し前の知尋ならそう考えていた可能性もゼロではない。
「なるほど」
そして、神代が頷いた。
「わかった。俺も判定の前に少しでも訓練したいから、助かるよ」
再び教室内がざわめく。
それを耳で聞きながら、知尋は神代に小さく頭を下げた。
「ありがとう」
「いや。じゃあ、また放課後に」
「うん」
短く言葉を交わして別れる。
自分の席へと戻る際、愛華から困惑気味の表情で見つめられているのが少しだけ見えた。
試合の噂は半日の間に他クラスにまで広がったらしい。
放課後。連れ立って席を立った知尋と神代を追ってくる生徒は十名以上もいた。主に神代の知名度のせいだろう。二週間前の愛華への告白の件以降、彼は「Bランクに一番近い一年生」として有名になっている。
「先に学食へ寄っていいかい? 腹が減っては、って言うし」
「うん」
神代の提案で、二人は先に昼食を済ませた。お互いに殆ど喋らないまま、神代はカレーとハヤシライスを平らげ、知尋はミートソースのパスタを完食する。
それぞれ食器を片づけたところで神代が尋ねてきた。
「そういえば、場所はどうする?」
「訓練場を予約してあるよ。個室じゃなくて広い方」
「そうか、助かるよ」
気にしてくれてる人達もいることだしね、と神代は笑った。
空腹で戦うのも辛いが食後すぐに殴り合うのも色々危険なので、食後の休憩は長めに取った。
……そういえば、知尋はパスタとやや軽めのチョイスだったが、神代はあれだけ食べて大丈夫なのだろうか。おそらくは慣れと、あとは能力の影響で消化も早いのだろうが。
更衣室でウェアとジャージに着替えて訓練場へ出る。
知尋が予約したブースの周囲には二十人近くに膨れ上がったギャラリーが待っていた。その中には真里亜と李狐、そして愛華の姿もある。
神代と数メートルの距離を取って向かい合った。
「ルールは?」
「時間無制限。倒れて起き上がれなくなるか、ギブアップした方が負け。禁止事項は授業と同じ、武器の使用はあり……でどうかな」
用意してきた木刀を示しながら言うと、神代は「OK」と頷いた。
「俺はいつも通り素手でやるけど、使ってくれて構わない」
ハンデ――ではなく、単に格闘の方が得意らしい。実際、彼が武器を使う所はそういうレギュレーションでもない限り見たことがない。
「ありがとう」
知尋は神代に礼を言い、木刀を握った。
二人が集中を始めると、周囲のざわめきも小さくなる。聞こえてくるのはかすかな囁き。どうせ一瞬で勝負が決まるとか、せっかくの機会だから長く見たいとか。どの声も知尋の勝利など微塵も考えていない。
それで構わない。
だからこそ、勝てれば大きな意味がある。
「私に合図させてね」
言って、踏み出してきたのは愛華。
神代と、そして知尋が黙って頷きを返すと、彼女は軽く息を吸い、
「始め!」
その声に従って試合が始まった。
即座に動き出す神代。知尋は彼を一歩も動かず待ち受けながら、瞳へじっと視線を送る。
――真っすぐ近づき、知尋の斜め右側から蹴り。
殆ど、以前の対戦を再現するかのような動きだった。ただし、あの時と大きく違うのは知尋が武器を持っていること。
神代もそれはわかっているだろうが、それでも正直に突っ込んでくる。
ならば、知尋は木刀を大きく振りかぶる。渾身の力を籠め、接敵の瞬間に叩き込むために。
と。
あと一歩で攻撃距離というところで、神代が踏み込みを強くする。だん、と小気味いい音と共に彼の身体が加速し、そのままのスピードで向かうより一呼吸分だけ早く蹴りが繰り出される。
もちろん、知尋にはそれも筒向けだった。
腕には既に命令を出している。大振りの斬撃が、蹴りのインパクトよりも一瞬早く神代を迎え撃った。
どん。
約二メートル。衝撃を受け、
腹部に走る痛みを堪えて体勢を立て直す間、神代は僅かに顔をしかめながらその場で呟いていた。
「やっぱり、今のも読まれるのか」
「……まあ、ね」
実行のタイミングがぎりぎりだろうと、頭の中で事前に思い浮かべた時点で知尋には把握できる。今のフェイントも、神代は数歩前から意識に上らせていた。
かといって攻撃プランを意識しないよう努めるのも難しいだろう。
考えないようにすればするほど考えてしまう、というのはよくある話。それが知尋の、神代に対して取れるほぼ唯一のアドバンテージ。
「……なら、こうするしかないか」
言った神代の気配が変わる。別にオーラが見えるわけではないが、どことなく彼の雰囲気に威圧感が加わったのだ。
直後、高速の踏み込み。
先程の一撃よりも明らかに速い。狙いは正面から胴体へ拳の一撃だが――読んでからでは回避も、迎撃も間に合わない。
「ぐっ!?」
できたのは事前に心の準備をすることと、後退動作を試みること。これらのおかげで多少は衝撃が殺されたものの、一瞬視界が真っ白になる。
知尋が後ろに圧されたことで再び彼我の距離が開く。
……今のが、神代が『落とし物』としての能力を使った時の運動性能。
「まじかよ。あんな弱そうな奴相手に本気出すのか?」
「やりすぎじゃね?」
ギャラリーの呟きが耳に入る。
彼の認識は少しだけ間違いだ。性格からして、神代は最初から本気だったはず。ただ全力を出していなかっただけで。
それは知尋の本気を、実力を量るために。
そしてきっと、彼はまだ全力ではない。今の攻撃でさえ、この二週間の訓練がなければ受けて堪えることもできなかっただろうにだ。
……真里亜は一体、どうやってこんな相手に匹敵したのか。
今更ながらに寒気を感じる。
「降参は、しないよね?」
神代が静かに尋ねてきた。
何故か、少しだけ楽しそうに見える。
「もちろん」
知尋が答えると、彼は笑って床を蹴る。
正面から、左肩への踵落とし。慌てて木刀を持ち上げ盾代わりにする。ぎりぎり間に合うも、刀身からみしみしと良くない音がした。
「……防がれるのか」
小さな声。
何か言い返そうと考えた刹那、腹に拳が食い込み息が詰まった。足を戻した神代が殆ど予備動作もなく攻撃してきたのだ。
助走なしのため威力はまだマシだったが、たまらず数歩後退する。
「驚いたよ。前より格段に戦い慣れてる」
「ありがとう」
更に何度かの攻撃。
神代の攻めは散発的ながら、一撃一撃が重くて速かった。知尋は必死にクリーンヒットこそ避けたものの反撃はできず、徐々にダメージを蓄積されていく。
しかし、そんな知尋に対してギャラリーからは驚きの声が上がる。
「……なあ」
「ああ。あいつ、なんであんなに粘れるんだ?」
もちろん、読心能力を使った綱渡りのおかげだ。
これが無ければ――例えば愛華がしたようにウインクで視線をカットするとか――一瞬で叩きのめされて終わっている。
とはいえ。
短時間に何度も神代の動きを見たことで、多少目が慣れ始めていた。
「試してみようか」
声と共に繰り出されたのは、一撃目と全く同じ攻撃。
ただ速さだけが段違いのそれは、一撃目とは別の結末を辿った。
知尋が迎撃のため繰り出した木刀と、神代の蹴りがまともに衝突する。辺りに鈍く深い音が響き、ごとん、と。
半ばで折れた木刀が床へ落ちた。
素手と足だけで、神代が硬い木刀を折ってみせたのだ。刀身部分が保護カバーで覆われているとはいえ、中の木刀を折ることは確かに可能なのだが……一緒にカバーまで引きちぎれている。
にもかかわらず、神代の表情は浮かないものだった。
「……ごめん、和泉くん」
普段と変わらぬ穏やかな声。
しかし、引き締まった彼の表情はどこまでも真剣だった。
「どうなるか保証できないけど、フルパワーで行く。終わったら責任持って医務室に連れて行くから」
ざわり。
ここに来て、ギャラリーのどよめきは最高潮となった。
ランクE、和泉知尋を相手にランクC、神代悠希が真に全力を出す。それは、この場にいるほぼ全員が予想すらしていない展開だった。
ある意味、死刑宣告にも等しい神代の宣言に、知尋は木刀の半分を放り捨てながら頷いて答えた。
「うん」
「ありがとう」
どん。
広い訓練場の床が震えた。
最初の一撃よりも。以降のどの攻撃よりも。更に数段上をスピードで、あっという間に知尋へと肉薄。
それを認識した瞬間。
知尋はやや振り下ろし気味の拳を食らい、訓練場の床に強く叩きつけられた。
みし。
拳を受けた胸と、叩きつけられた背中が悲鳴を上げる。視界がチカチカして、手の感覚が戻るのに数秒を要する。
それでもなんとか、よろよろとその場に立ち上がれば。
「降参してくれないか」
真剣な表情で神代が言った。
知尋は彼を見つめ、苦笑気味に首を振った。
「ごめん、できない」
「……そう、か」
腕を掴まれ、投げ技を使われた。それでも立ち上がれば、今度は下からアッパー気味の攻撃で浮かされ、やはり床に叩きつけられる。
頭が痛い。
腕が、腹が、背中が痛い。下手をしたら数日は続くかもしれない。知尋の能力でどこまで短縮できるだろう。
それでも立った。
ギャラリーが、いつの間にか鎮まり返っていた。
神代ですら、不思議なものを見るような目をしていた。
「和泉君。君の能力に、治癒は……」
「ないよ」
「なら、どうして」
立ち上がるのか、と。
彼の問いに、知尋はかすれる声で答えた。
「きっと、深海さんと戦った時の神代君と同じだよ」
「……っ。そう、か」
彼が息を吐いて拳を握る。
知尋から離れ、軽く腰を落とす姿勢を取る。
「和泉君。僕は正面からの正拳で行く。それで最後だ」
最後。
絶対にこの一撃で決めるという宣言が重苦しく響く。
「……うん」
最後。
ならようやく、たった一つきりの「勝算」を試す時が来た。
知尋はぎゅっと、左手に拳を作り、構える。その姿勢は神代のものと良く似ていた。
全力の一撃。
ただ、それを向かってくる神代に届ける。
「行くよ」
もはや正面から視認するのすら厳しい速度。
予告されていなければ軌道も読めない拳に、左の正拳を合わせる。互いの拳が衝突し、何かが砕けるような音がした。
押し負ける。
衝撃を殺しきれず、腕が左半身ごと背後側へ大きく逸れた。その間に攻撃されればひとたまりもなかっただろうが、神代からの追撃はなかった。
「何を、したんだ」
神代が左手を押さえ、驚愕の表情を浮かべていた。
折れてはいないようだ。能力によって強化された肉体が二人分のパワーになんとか耐えきったのだろう。
しかし、しばらくは使いものにならないはず。
知尋は、感覚のなくなった左腕をぶらりと下げたまま問いに答えた。
「全力で殴っただけだよ。腕が耐えられる以上の威力を意図的に出して」
「……な。そんなこと、どうやって」
「練習したんだ」
人は身体を動かす際、その動きで骨や筋肉が傷つかないよう無意識に力をセーブする。しかし、怒りにかられたり、反射的な行動を取る際にはこのリミッターが働かず、結果いつも以上のパワーが出ることがある。
それを意図的に行えるように知尋は練習を重ね、実現させた。
なかなか筋肉の付かない身体で、不足しているパワーを補うため。たった一撃、神代に有効打を与えるためだけに。
「やってみたら簡単……とまではいかないけど、どうしようもなくはなかったよ」
実際、やってやれないことではない。ちょっと痛みに強かったり無自覚だったりする人間なら、何の気なしに行うこともあるだろう。
ただ単に、普通の人間ならそんなことはしないだけの話。
知尋は、それが必要だったからやった。何度も練習し、痛みを恐れず力を振るう感覚を身に着けた。お蔭でこの二週間、夜は左手がうまく使えないことも多かった。
その結果がこれだ。
限界を超えた威力を神代のパワーとぶつけたことで、知尋の左腕はぼろぼろになった。よくてヒビが入る程度、悪ければ折れている。
その代償のおかげで、神代と正面から撃ちあえた。
「……なんてことを」
知尋の説明を聞いた神代は深く息を吐いて首を振った。
「ギブアップしてくれ。もう君は戦える状態じゃないはずだ」
確かに彼の言う通りだった。
知尋の左腕はすぐにでも治療しないといけない状態。こんなところで戦い続けている場合じゃない。
だが。
「まだ立っていられるのに、ギブアップなんかできないよ」
言って知尋は拳を握った。左ではなく右。練習に使ったのは左だけだったが、利き腕でもやることは同じ。できないことはないはずだ。
「……和泉君、君は」
険しい顔をした神代が知尋を見た。
どん。
瞬時に右手を固めた彼は、知尋が反応する間もなく拳を知尋の顔面に叩き込んだ。
激痛。
鼻の骨が折れるのではないかと思えるほどの衝撃を受け、知尋は仰向けに倒れる。
更に、駄目押しのように腹を強く蹴りつけられて、そのまま気絶した。
文句のつけようがない、完全な敗北だった。