週明け、知尋は普段よりやや早い時間に登校した。
教室に着くと、クラスメート達からどよめきをもって迎えられる。
その理由はすぐにわかった。
「和泉君」
後ろ側から入室した知尋の元に長身の少年――神代が歩いてくる。
同時にクラスの喧騒がすっと収まった。何人もの生徒から注目されている。土曜日の試合の顛末は彼らにとってもインパクトのある出来事だったらしい。
ともあれ。知尋は神代に向きなおった。もともと朝のうちに彼と話をするつもりだったのだ。
あの試合は両者同意のうえ行われたもので、その結果もある程度狙い通りだが、それでも面倒に巻き込んだことは詫びておきたかった。
「神代君。一昨日は――」
「すまない。土曜はやりすぎた」
しかし謝罪の言葉は遮られ、逆に神代から謝られる。彼は言葉と共に姿勢を正し、深く頭を下げてくる。
罪悪感から胸がちくりと痛んだ。
「いや。僕の方こそ、突然試合を申し込んだりしてごめん」
そう言って自分からも頭を下げた。
すると神代はその端正な顔を複雑そうに歪め、尋ねてくる。
「腕は、大丈夫なのか?」
「うん。もう日常生活には支障ないよ」
左腕を持ち上げて動かしてみせる。
これだけ早く治ったのは愛華と校医による治療のおかげだ。自然回復する範囲まで治して貰えたので、睡眠促進能力が十二分に効果を発揮してくれた。
「そうか……良かった」
知尋の答えに神代はほっと息を吐いた。
それから彼は表情を引き締め、知尋を見つめてくる。その目を見つめ返すと、伝わってきたのは熱量を持った感情。
敵愾心、だった。
「和泉君」
「……うん」
「またいつか、この間のように戦おう。その時はもっとしっかりと勝つ」
はっきりとした声が周囲に響いた。
神代は知尋の返事を待たずに踵を返し、自分の席へと戻っていく。残されたのは知尋と、状況を把握しきれないクラスメート達だけだった。
またいつか戦おう。
知尋は告げられた言葉を胸中で反復しながら自分の席へ歩いた。隣の席に座る真里亜と一瞬目を交わし、荷物を机に置いて――。
「和泉君!」
少女の声に振り返った。
教室の入り口に立った愛華が小走りに駆け寄ってくる。心配を宿した瞳に間近で見つめられ、鼓動が早くなるのを感じた。
「もう身体は平気なの?」
「うん。高槻さんが治してくれたんだよね? ありがとう」
「ううん。だって、放っておけなかったから。同じクラスの人が、目の前であんな怪我をするの……」
澄んだ瞳に涙が浮かび、細い指がそれを拭った。
きっ、と顔を上げた愛華が強めの声で言う。
「もう、あんな無茶しないでね?」
「……うん。できるだけ努力するよ」
「駄目。できるだけじゃなくて、もうしないで」
既に近かった顔が更に接近する。しかし愛華にそれを気にする様子はない。
所詮は他人事だというのに、彼女は真剣に知尋の身を案じていた。
『そういう子だから、あなたは彼女を気にしていたんじゃないの?』
真里亜の言った通りだ。
真剣に他人を案じることができる少女だから、知尋は愛華に惹かれた。恋愛感情と呼べるほど明確な気持ちではなかったが、神代と愛華が交際を始めることを嫌だとも思った。
「……わかった、約束する」
「よし。約束したからね」
頷いた愛華が知尋の手を取り、互いの小指同士を絡めて軽く振った。最後ににっこりと笑って自分の席へ歩いていく。
知尋は自分の顔が赤くなっていないか考えつつ、今度こそ席に着く。
すると、どこかむっとした表情の李狐と目が合った。
☆ ☆ ☆
定期テストと能力判定は滞りなく進み、一週間かけて終了した。
後日発表された結果により、知尋はEランクからDランクへ昇格した。追加された能力が評価された形だ。ついでに学力面でもやや上向きの成績に。
李狐はDランク、真里亜はCランクのまま変わらず。成績も特筆する変化はなかったが、二人とも特に気にしていなかった。そもそもの成績が悪くないのだから当然といえば当然か。
そして、神代はCランクのまま昇格なし。
もともと「昇格できれば快挙」という話だったのだが、事前に騒ぎがあった影響か、周囲の反応はやや落胆の色が濃いものとなった。
なお、噂によると彼はテスト期間中、毎日激しい自主トレーニングを繰り返していたという。このせいで疲労が貯まり、肝心の能力判定で思うような力が出せなかったのではないか、と囁く者もいた。
当の神代は「また次の判定まで頑張るよ」と笑っていたが、その後、多少気落ちしたような様子を見せていた。
愛華との約束も、当然ながら無効となった。
一方、愛華はDランクからCランクへ昇格。
理由の一つとして柴鳳学園の校医から推薦があったらしい。身近で負傷者が発生した際、迅速に献身的な治癒を施したことが評価されたとか。
「……それ絶対、和泉を治した時の話だよね?」
「そう、なのかな?」
「十中八九そうでしょう。良かったじゃない。結果的にだけど、彼女が評価されるきっかけを作れて」
これを機に、愛華は時々、放課後に校医の手伝いをするようになった。
見習い以前だから大したことはさせてもらえないけど、すごく勉強になるのだと、彼女は知尋に話してくれた。
「和泉君もおめでとう」
「ありがとう。でも、まだまだだよ。Dランクになっただけだし」
「そんなことないよ。私ももっと頑張らないと」
知尋と愛華との距離も少しだけ縮まった、ような気がする。
クラスでの知尋の評価はあまり変わっていないが、神代との試合や判定によるランクアップ、表立って知尋を弄んでいた李狐が大人しくなったことで、以前より多少はマシになった。
能力判定の結果については母親にも電話で伝えた。母は昇格を喜んでくれ、それから学園での様子を尋ねてきた。
「……うん。大変だけど、何とかやれてる」
答えながら、知尋は約一か月前のことを思い出した。
李狐から手酷く嬲られ、無力感から学園を辞めようと本気で思ったこと。雨の中で真里亜に声をかけられ、想像もしていなかった提案を受けたこと。
それから始まった淫欲まみれの日々のこと。
ドロドロの闇の中で掴んだ勝利のこと。
以前の知尋が知らなかったことを知った。経験したことのなかったことを経験した。何も知らなかった自分を失い、代わりに力と、新しい自分を得た。
前よりは人の視線が怖くなくなった。
「また次も頑張るよ。今度はCランクを目指して」
踏み出した道を後には戻れない。
ならばこれからも進んでいこう。
「……あ、和泉。電話終わったの? ならあんたも止めなさいよ。こいつまた碌でもないこと考えてるから」
共に在る少女――少女達と一緒に。
堕ちるところまで。
☆ ☆ ☆
夜刻。
自室に響いた着信音にスマートフォンを手に取ると、ディスプレイに表示されていたのは珍しい名前だった。
一人で眠っている時で良かったと思いつつ通話状態に切り替え、少女――真里亜は電話に出た。
「もしもし?」
相手は一言で挨拶を済ませると、真里亜に近況を尋ねてくる。
世間話――ではない。これが本題だ。真里亜相手に言葉を弄する相手ではないことは良く知っている。
「ええ。ようやく『ご主人様』を手に入れたわ。……彼は素敵よ。少し頼りないところもあるけれど、貴方には無い良さを持っているの」
少し挑発的に言ってやると、それだけで声に不満を混ぜてくる。
まるで子供のようだ。
思わずくすりと笑ってしまう。
すると余計に気分を害したらしく、スピーカーの向こうから聞こえてくる嬌声が強くなった。一人ではなく複数の、若い女の声。行為中になんとなく思い立って電話をかけてきたのだろう。
彼らしい、と思う反面、相手をしている女達が可哀そうだとも思う。
まあ、彼女達はぞんざいに扱われても幸せなのだろうが。
「そういうわけだから、私が戻ることはないわ。今後の予定は……そうね、彼次第。生殺与奪も全部、彼に委ねる」
頭がおかしいと言われた。
正直、彼にだけは言われたくない台詞だった。自分でもおかしい自覚はあるので、他の相手に言われる分には別に構わないのだが。
全く、狂っていうのはお互い様だろう。
「用件はそれで終わり?」
溜め息交じりに尋ねると、あっさりと肯定を返された。
「そう、なら切るわよ。ええ、何かあれば連絡するわ。……さようなら、兄さん」
兄との通話はたった数分で終わった。
次に彼と会話するのは何週間後か、あるいは何か月後か。
互いに目的を持って動いている間柄だ。自分も向こうも、意味もなく電話をするほど暇ではない。
「そう。……私も、もう昔の私ではないんだから」
言って、真里亜は身に着けていたネグリジェを脱ぎ落す。
それから、机の上の宝物――いつでも使えるよう、敢えて手に取りやすい位置に置いている――を手に取り、傷つけないようゆっくりと首に巻いた。
はあ。
何度身に着けても、いい意味で慣れない。
被虐の恍惚に包まれながら真里亜は裸のままベッドに戻り、軽く丸まるようにして目を閉じる。
私は、いつまで生きていられるだろうか。
そんなことを考えながら、やがて彼女の意識は眠りに落ちた。