あんな姿を見たら身体を動かしたくなる。
午後の授業終了後、知尋はトレーニングウェアを脱がずに制服を着た。教室に戻って帰りのHRを受けたら、荷物を持って個室訓練場へ向かう。少し前まで毎日繰り返していた行動なので慣れたものだ。
廊下を歩き、上履きのまま通用口から別棟へ。
柴鳳学園は座学や専門科目、訓練など用途に応じて建物を分けている。メインの校舎から別棟へは内外どちらからも移動可能できるが、今日は気が急いていたため中からにした。
入り口に置かれた端末を操作し、部屋を取ってから入室。
『訓練していくから、帰りが少し遅くなる』
一応、真里亜と李狐にメールを入れてから制服を脱いだ。脱いだ制服は畳んで置き、ウェア姿でトレーニングを始める。
準備運動からの基礎訓練。
無数に繰り返した動きを念入りに、雑にならないよう気を付けながら繰り返す。結局、強くなるには基礎を鍛えるより他にない。
……何か新しい能力が身に付けば別だが。
李狐を犯すと決意した日以来、知尋に新しい能力は芽生えていない。これに関してはちょっとした仮説を立てていた。
――身に付く力は欲望の種類と強さ、長さに影響される。
人の本質、根っこの部分は簡単に変わらない。積み重ねが性格を形作っていくように能力も歳月の影響を受ける。真里亜の能力が強いのは長年抱き続けた欲望のせいだし、神代がストレートに強い力を持つのは素直な性格と向上心の結果なのではないか。
だとすれば、知尋は人を害するのが苦手で、生の悪意を人にぶつけたのは李狐の時がほぼ初めてだった。そんな彼に攻撃的な力が芽生えづらいのは当然のこと。
代わりに得たのは睡眠促進と感情増幅。これらも筋肉が付きにくい身体、そして「最弱の読心能力」へのコンプレックスから生まれたと考えれば納得がいく。
この仮説が正しければ、能力を得るのに必要なのは思い続けること。
強く、継続して思うこと。そうしていればいつか身に付く。そんな単純な結論に辿り着く。
正しい保証はどこにもないものの、知尋はこの仮説をひとまず信じている。
何にせよ、努力する理由があるのは良いことだ。目標があった方が訓練の効率は上がるものだから。
ぶっ続けで基礎を続け、二時間があっという間に過ぎた。
そろそろ切り上げようか。
適度な――一晩眠れば回復する範囲という意味で――疲労を感じながらそう決めると、知尋は最後に「あの技」を何度か練習した。腕の筋肉が悲鳴を上げるような強さと速さで拳を振るう。
愛華との約束はあるが、治る範囲で練習するだけなら構わないだろう。
「……ふう」
十回ずつくらい練習したところで終了。
ズキズキする両腕に鞭打って制服に着替え、訓練場を後にした。
通用口を通ってメインの校舎へ。行きが内側からだったので、帰宅するには外履きに履き替えなければならない。
そうして下駄箱で自分の靴を取り出し――。
「え……?」
ひらり。
靴と一緒に白く平たいものが下駄箱から出て地面に落ちる。
拾い上げるとそれは洋風の封筒だった。表面の宛て名は『和泉知尋様』。裏面に差出人の名前はない。
……何だろう。
誰かからの手紙なのは間違いない。しかし誰が、どういう目的で知尋に出した手紙なのか。
数秒迷ってから、知尋は中身を確認することにした。
下駄箱にいったん靴を戻し、校舎内の人気のない位置に移動して封を破る。古い都市伝説を思い出してカミソリの類に注意しつつ取り出すと、中に入っていたのは便箋がたった一枚きりだった。
文面もごく簡素な短いもの。
『和泉 知尋様
本日の放課後、校舎の屋上にてお待ちしています』
やはり、差出人の名前はない。
呼び出し。それも今日を指定し、知尋を名指しで。
これがいつ入れられたのかは不明だが、放課後ということなら既に二時間程が過ぎてしまっている。用件によっては相手に悪いことをしてしまったかもしれない。
問題はその用件だが。
ラブレター、なわけはないか。
封筒と便箋に書かれた文字は丸く、女性の字に見える。
このご時世にわざわざレターセットを使うあたり、呼び出しには手間がかかっているが。
「……悪戯、かなあ」
李狐はこういう手の込んだ手段は使わなかったが。
別の人物が、何かの理由で知尋を呼びだし、馬鹿にするなり痛めつけるなりしようとしている。そう考えるのがまあ、ありそうな線ではあった。
「………」
それでも、一応は応じてみるべきか。
悪戯ならまず二時間も待たないだろうし、誰かいるかどうかだけでも確認しておいた方がいい。
便箋を封筒に、封筒を鞄にしまい、屋上へ移動した。
来るのは、前に真里亜と昼食を共にして以来だ。
ドアのノブを回すと鍵は開いていた。重いそれを押して開くと外気が肌に触れる。外に出てドアを閉じてからあらためて振り返る。
誰もいない……いや。
一人、生徒がいた。
コンクリートの床に腰を下ろして文庫本に目を落とす、制服姿の女子。黒い縁の眼鏡をかけ、髪は頭の後ろで二本に分けて軽く編んでいる。文科系なのか肌は白い。
日光を嫌ったのか、入り口付近の影になる位置にいたためすぐに気づけなかったようだ。
ドアの開閉音が聞こえたのだろう、彼女はすぐに顔を上げた。
「……あ」
知尋の顔を認めると、かすかに目を丸くして立ち上がる。
……ということは、やはり彼女が手紙の差出人なのか。
注がれる視線からつい癖で目を逸らしつつ、知尋は少女へゆっくり歩み寄った。
「あの、手紙の」
「はい。良かった、来てくれたんですね」
少女はぱたんと文庫本を閉じ、傍らに置かれていた鞄にしまう。特に遅刻を怒っている様子も、知尋を罠にかけようとする雰囲気もない。
予想に反する状況に少々困惑する。
「すみません、遅くなって」
ブラウスの校章の色からすると相手は同学年のようだが、初対面であることと申し訳なさから敬語で謝る。
すると、彼女は首を振って答えた。
「気にしないでください。むしろ、こちらこそ突然呼び出してごめんなさい」
丁寧な物腰で言って「お時間は大丈夫ですか?」と尋ねてくる。頷いて答えると、ほっと息を吐いて微笑んだ。
こうして二人きりでなければ見落としてしまいそうな、小さく控えめな笑顔だった。
「実は、和泉くんにお願いがあって」
「お願い?」
「はい」
少女は頷き、背後にある屋上の入り口に目をやった。
一歩、上履きを履いた足が知尋から離れる方向に踏み出される。彼女はそのまま二歩目を踏み出しながら、ついてこいというように知尋を見た。
知尋は素直に彼女の後を追った。
二人で入り口裏まで回り込む。壁から柵まで一メートルちょっとしかない狭い空間はどこか秘密めいた雰囲気を感じさせる。
ふう。
少女は息を吐き、柵の傍で立ち止まって振り返る。知尋が壁際に立つと、ほんの一メートルの距離で向かい合う格好になる。
「初めまして。私はA組の
少女――華はまずそう名乗った。
知尋のことは知っているようなので自己紹介は省き、さっそく本題に入る。
「和泉くんにお願いがあるのは、体育祭のことなんです」
「体育祭……」
成程、と思う。
何故、いきなり呼び出されたのかは少しだけ理解できた。近日開催される体育祭に向けて、何か必要なことがあったのだろう。
具体的な目的や、どうして知尋を呼びだしたのかはまだわからないが。
華は瞳に真摯な色を浮かべて知尋に告げる。
「A組は、学年別の成績でトップを狙っています。B組とC組に勝って一年生で一番になりたいと、そう考えています」
「……うん」
やる以上、勝利を目指すのは不思議なことではない。C組では学年別の順位よりもチームでの優勝――賞品を目的とする動きが強いが、クラスメート達も他クラスに勝ちたいとは思っているはずだ。
「その際、ライバルになるのはB組ではなくC組だと思うんです」
「それは、どうして?」
「C組には優秀な人が沢山いますから。神代君は多分、選手としては一年生で一番ですし、深海さんや高槻さん、舞阪くん。それに……」
C組が優秀、という華の言葉は少し意外だった。舞阪から聞いた分析ではA組が一番有利という話だったが、視点が違えば感想も違うのだろうか。
意外というと華が舞阪の名前を出したのもそうだ。
フィジカルがメインとなる体育祭において、彼は活躍しづらいと思うのだが。
「それに、和泉くん。あなたも」
「僕、ですか?」
それこそ意外だった。
知尋の何が注目に値するというのか、知尋自身には全くわからない。
冗談を言っているのかとも思ったが、華の真剣な表情は変わらなかった。
彼女は一歩、知尋に向かって踏み出しながら告げてくる。
「和泉くんは警戒すべき相手です。少なくとも、私達A組の見立てでは」
「御宿、さん?」
二歩目。戸惑ううちに二人の距離が縮まっていく。
かすかに下を向いた華の顔は、少しばかり赤いように見えた。何故、この状況で?
――ラブレター。
手紙を読んだ時に切って捨てた考えが再び頭に浮かぶ。
この状況は、さすがにそれを想起してしまっても仕方がないのではないか。
「和泉くん。お願いというのは他でもありません」
華が、知尋の眼前で立ち止まった。
息がかかるような距離。前方と後方に逃げ場はなく、ここから左右どちらかに移動するのは明確な拒絶と受け取られてしまいかねない。
小さな声が耳をくすぐる。
「体育祭で、私達に協力してくれませんか? 騎馬戦で手を抜いて、あとは何か害のない方法でC組の選手が全力を発揮できなくする。それだけでいいんです」
お礼はしますから、と。
知尋の首筋あたりを見つめた華は恥ずかしそうに付け加える。
「お礼、って?」
「わかりませんか……?」
女が、相手に性を想起させながら掲げる「お礼」。
具体的に尋ねてもなお答えをはぐらかす理由といえば一つしかない。A組の代表だと華が名乗ったことも考えれば――。
知尋は華の容姿をあらためて観察した。
可愛い、と思う。化粧っ気はなく、お洒落にもあまり興味はなさそうに見えるが、さっぱりしていて清潔感がある。どこか文学少女めいた雰囲気は、真里亜や李狐とはまた違う良さを感じる。
魅力的だと、思う。
「……すみません。そういうのは他を当たってください」
しかし、この頼みは受けられない。
「どうして、ですか? お礼が不足で――」
「そうじゃないんです。……単に、わざとC組が負けるように仕向けるなんてできないと思ったので」
それに、クラスの勝利のために華が身を差し出すというのも気に入らない。
……知尋に誘いを持ちかけてきた。この提案に乗る可能性があると、そう思われたのも。
まだ、これがクラスの問題ではなく華個人の問題を解決するためで、かつ条件の及ぶ範囲が知尋個人で収まっていれば了承したかもしれないが。
「……そうですか」
知尋の答えを聞いた華は黙り込んで肩を落とした。
何か言葉をかけるべきか、知尋が頭を巡らせていると、
「そう言ってくれると思っていました」
「え?」
華が顔を上げ、再び微笑みを浮かべていた。
「断ってくれたら、本当のお願いをしようと思っていたんです。和泉、知尋くん。私と付き合ってください」
一瞬、世界が静まり返った。
まあ、単に柴鳳学園では部活動が盛んでなく、周辺の車通りも少ないだけの話だが。そう錯覚するほど衝撃を受けたのは紛れもない事実だった。
言われた内容を受け止めきれない。
あるいは雨の中、真里亜から告げられた言葉の方がまだ、根本から意味がわからない分だけマシだったかもしれない。
何故、初対面の華が知尋に告白するのか。
体育祭の話は全て嘘だったのか。
混乱する知尋をよそに華が知尋の目を見つめる。彼女と正面から目が合うのはこれが初めてだと思い、
「っ!?」
流れ込んできた思考に、知尋は反射的な対処を取ろうとして、それを華によって妨げられた。
胸が当たるほどに身体を押し付け、両手でがっしり頭をホールドしたまま親指で瞼を押さえられる。両足は上履きのまま知尋の上履きをしっかりと踏みつけてきた。
目が合ったまま五秒。
読心の効力が消え、華が知尋から視線を外した。
同時にホールドも解かれて華が離れて行くも、知尋はそれどころではなかった。
――読心の効力が消えた。
視線が外れてから消えるのではなく『消えてから視線が外れた』。
「能力を奪う、能力……?」
震える声に、どこか冷ややかな声が答えた。
「そうです。条件は相手と五秒間、視線を合わせ続けること。奪ったまま保持できる能力は一つだけで、放棄した場合は所有者に戻る……というものです」
華の様子は先程までとは変わっていた。
口調こそ変わらないものの、声色は低くなっている。はあ、とため息を吐いてブラウスの胸のあたりをはたく姿からは知尋への誠意は感じ取れない。
演技、だったのだろう。
再び華と目が合う。相手の感情は入ってこない。代わりに胸の辺りに妙なくすぐったさを感じる。服を着ているのに裸の自分を覗かれているような。
これが、心を読まれる感覚なのか。
つまり華は知尋の読心能力を奪った。先程目が合った際に読み取った思考も、知尋の能力を奪おうとする強い意志だった。
「あらためて自己紹介しますね。私は御宿華。所属は一年A組で、ランクはB。そして能力は『略奪』、です」
言って華は眼鏡の奥で薄く笑った。
それは先程までとは違う、知尋を嫌悪しているかのような冷笑だった。