挨拶を返すことも、最後まで見送られることもできずに部屋を出た。
去り際、華の連絡先が書かれたカードを玄関に残す。それから、二人とも黙ったままマンションの入り口まで歩いた。
「じゃあ、また」
寮に帰るなら別方向になる。
気の利いた台詞も思い浮かばなかったため、知尋は短い言葉だけで別れようとする。
しかし李狐は、わざわざ荷物から手を離してまで知尋の服を掴んだ。
「待って。まだ話したいことあるよ。それに、今の和泉を一人で放っておけない」
「でも」
知尋の住居は男子寮だ。女の子が来る場所じゃない。
「大丈夫でしょ。入る時だけ気を付ければ」
……結局、李狐はそう言い張って寮までついてきた。
入り口付近に人気がないことを確認し、二人で部屋の前まで移動。
「本当に来るつもり?」
「今更何言ってんの?」
「………」
どうしても譲る気はないらしい。
知尋は諦めて部屋の鍵を開け、李狐を招き入れた。
玄関で靴を脱いだ李狐は、自分の分の荷物を運びながらきょろきょろと中を見まわす。
「これが和泉の部屋なんだ」
「寮だし、そんなに変わらないんじゃ」
「ううん。あたしの入った女子寮はもうちょっと豪華」
「………」
負けた気分になりつつ、知尋も自分の荷物を運び入れた。一か月間出入りしていなかったせいか空気が淀んでいたので、窓を開けて換気をする。
李狐はなおも中を見渡して、
「案外片付いてるね」
「まだ二か月しか使ってないから。それと、真里亜が片づけてくれたお蔭だよ」
「……あいつ、和泉の部屋にも来たの?」
「来た、というかなんというか」
マンションに滞在することになった顛末を話す。
「何それ。そこまでして和泉を帰さなかったくせに、こんな簡単に追い出すんだ」
話を聞いた李狐は怒り半分、呆れ半分といった様子で息を吐いた。
確かに。
こうして見回してみると室内は妙に片付いている。そういえばあの日、朝食の食器も水に浸けたままだった気がするが、それも処理されて食器棚にしまわれている。
荷物を取りに来ただけでなく、簡単な掃除までしてくれたようだ。
……けれど、それは『ご主人様のため』であって知尋のためではなかった。
「っ」
止めよう。
これ以上、恨みがましい思考を続けても意味がない。
ひとまず李狐にクッションを勧め、自分も低いテーブルの前に腰を下ろす。真里亜の部屋と違い、洋式の椅子とテーブルなんて上品な物はない。
「何から話せばいいかな」
「………」
尋ねたが、李狐は受け取ったクッションを抱いたまま立ち尽くしていた。数秒そうした後、彼女は何を思ったのか台所へ移動。冷蔵庫を開き、野菜室や冷凍室まで確認してから戻ってくる。
「ご飯、食べながらにしよ。何もなかったから、外で何か買ってくる」
「あ、なら僕が」
「いいから、和泉は座ってて。身体もいいかげん限界でしょ」
その通りだった。
授業を受け、放課後に二時間訓練をして、華に能力を奪われた。その後も休む暇なく緊張を続け、重い荷物を持って帰ってきた。
この少女のお蔭で意識せずに済んでいるだけで、既に限界を越えている。
「……ごめん、ありがとう」
「いいって。あ、鍵だけ貸して」
部屋の鍵を受け取った李狐は「新品みたい」と呟いてから部屋を出ていった。彼女を見送った知尋は、戻るまで仮眠を取ろうと目を瞑る。
「和泉」
次に気づけば、李狐がテーブルの上に大きめの袋を置いてこちらを見ていた。近所のハンバーガーショップに行ってきたらしい。
彼女は気づかわしげに顔を覗き込んで尋ねてくる。
「少しは眠れた?」
「うん。小一時間は眠れた気分」
「……あは。そんなに時間かかってないけどね」
少なくとも気分は多少落ち着いた。
李狐と向かい合って座り、適当色々に買って来てくれたハンバーガーを分ける。量は多めにあったので足りないことはない。
思えば、夕食にジャンクフードを食べるのも久しぶりだ。
このところ、夜はいつも真里亜や李狐の手料理だった。そのせいか、庶民的なハンバーガーの味が懐かしくもあり、寂しくもあった。
「和泉さ。学校、辞めたりしないよね?」
不意に李狐が呟いた。
「……それは、考えてなかったな」
「そう、なの? だって、能力が無くなったんならもう『落とし物』じゃないってことでしょ?」
考えていなかったが、その通りだった。
普通の人間と『落とし物』を分ける基準は、基本的に能力を持っているかいないかだ。厳密に言えばDNAの組成などからも判別できるようだが、あまり一般的に用いられる方法ではない。
能力を失ったことが学園側に伝わった場合、果たしてこのまま在学できるかどうか。
「……いや、でも辞めないよ。僕はまだ『落とし物』じゃなくなったわけじゃない」
能力を破棄した場合は持ち主に返る。
『略奪』の能力について華はそう説明していた。もしかすればそれ自体が虚偽かもしれないが、現状、知尋は『落とし物』である資格を完全に失ってはいない。
奪われたのは、あくまで読心能力だけ。
感情の増幅機能は一緒に持っていかれているだろうが、睡眠促進の能力は残っている。これはおそらく、読心とは別の能力として扱われたため。
華の言っていた「一つしか奪えない」は真実だったのだろう。
「そっか。もう一つの能力があるし、取られたのもまだ戻ってくるかもしれないんだよね……」
ハンバーガーの包みを抱えながら、李狐はほっと息を吐いた。その表情は切なげで、普段の彼女よりもずっと大人びて見えた。
数秒後、顔を上げた時には真面目な顔になっていて、
「じゃあさ。能力を取り返す方法はないの?」
「わからない。可能性があると思うのは二つだけど」
一つは華が本人の意思で返却を行うこと。
一つは華が死ぬこと。
しかし現状、前者は華自身の言葉以外に根拠がなく、後者は完全に希望的観測でしかない。
害意を持って接触した相手に容赦をする気はないが。
「一応、調べてみた方がいいかもしれない」
「うん。……でも、良かった」
「何が?」
「和泉が、ただへこんでるだけじゃないっぽくて」
「……まあ、ただ諦めきれないだけかもしれないけど」
一応、能力を取り戻す方法は探ってみたいと思っているし、明日も体調さえ良ければ登校するつもりでいた。変なところで融通が利かない性格なのだ。
……調べごとにはどうしたらいいだろう。
バーガーにポテト、コーラ……胃が満たされていくと、それにつれて頭も働いてくる。とりあえず思いつく手段はネット検索と学園の資料、後は詳しそうな人間に尋ねてみるくらいか。
と、李狐がはあ、と息を吐いた。
「あとさ、よくわかんないのは……御宿さん、だっけ? その子は何で深海さんを奴隷にしたがってるの? レズなの? 一目惚れなの?」
「……さあ。僕もそれは疑問に思ったけど、答えて貰えなかった」
何か理由があるのだろうとは思う。
それも調べてみるべきか。
程なく食事が終わった。ゴミは丸めてゴミ箱へ。出来あいの食事はこういうところが楽でいい。
換気も十分行われたので窓は小さく開けるだけにする。
「西崎さん。自分の寮には」
「帰らないよ?」
「いや。ずっとここに泊まるわけにもいかないと思うよ?」
「あ、そういう意味か」
問いに即答した李狐だが、知尋の説明を聞いて頷く。
「さすがにどっかで帰るよ。深海さんのマンションと違ってバレたら面倒だし」
「そっか」
ほっと息を吐く。
すると、若干むっとした表情で睨まれた。
「あたしが一緒じゃない方がいいわけ? 深海さんには『傍にいて欲しい』とか言ったのに!?」
「に、西崎さん。声抑えて。ここは防音じゃないから」
「……あ、そっか」
加えて言うならここは男子寮だ。昼間ならともかく、夜間に若い女の声が聞こえれば余計なトラブルに発展しかねない。
「じゃあ、なるべく近くで話せばいいよね」
気を取り直し、這うように近づいてくる。
隣まで辿り着くと、知尋の耳元でそっと囁く。
「で、どうなの? あたしが傍にいたら邪魔?」
「そんなこと、どうして急に」
今まで、こんな風に李狐から誘惑されたことはなかったのに。
「あたしだって、急にこんな風になって不安なんだよ? 和泉があたしをその、調教したのも深海さんの差し金だったのかな、とか」
「それは、違うよ」
李狐の口調から本気の気配を感じつつ、知尋は首を振った。
レイプに踏み切ったきっかけ、心境の変化に真里亜が関与していなかったとは言わない。だが、知尋が李狐を犯したのは、真里亜に唆されて嫌々やったわけじゃない。
「……僕が、西崎さんを欲しかったから、やったんだ」
李狐が目を見開いた。
驚きは喜びに変わり、彼女の両腕が首に巻きつく。そのまま横から引っ張られるようにして床に倒された。
いい匂いと、柔らかな感触が肌に伝わる。
「良かった」
馬乗り状態で李狐が微笑む。
ぎゅう、と、下半身まで全体を押し付けながら、甘い声で。
「あたしはもう、和泉じゃないと駄目だから。あんな事されて……もう、和泉に支配されちゃってるから。見捨てられないし、見捨てられたらどうしていいかわかんない」
「……李狐」
思わず『西崎さん』ではなく下の名前で呼べば。
「ご主人様。……あたしは、何をしたらいいですか?」
心が読めなくても十分に理解できるほどの強烈さで、自分はここにいる、と主張してきた。