明るい。
目を開くと、そこは見慣れた場所だった。
寮の、知尋の部屋。明るいのは照明のせいだ。カーテンの隙間から窓の外を窺うと、まだ薄暗かった。
身体は――痛い。ずきずきと両腕が疼いている。
しかし、動かすのに支障はなさそうだ。身体の疲労も思ったよりは軽い。
ということは、結構長い時間、眠っていたのだろうか。
そこへ。
「和泉君、目が覚めた?」
横手から声がかかった。
首を捻って視線を向けると、意外な人物が知尋のすぐ傍に座っていた。今まで部屋に呼んだことはなく、場所さえ知らないはずの相手。
薄い長袖のワンピースを着て髪を紐で後ろに纏めた、初めてみる格好の。
「……高槻さん?」
呟くと、愛華は微笑んで頷いた。
「身体の調子はどう?」
優しい声に胸が温かくなる。
同時に、今の状況にも納得がいった。
つまり、体調が良いのは休息のせいではなく。
「高槻さんが治してくれたんだ」
「うん。李狐ちゃんから連絡貰ってね。びっくりしたよ、和泉君が公園で倒れてるんだもん」
愛華が今度は苦笑を浮かべる。
……李狐が、愛華を呼んだのか。
それしかない、といえばそうなのだが、それでも何だか意外に感じた。
と。
「ごめんなさい。他に来てくれそうな人が思いつかなくて」
洗面所の方から李狐が顔を出した。
彼女は愛華から少し離れて座ると、知尋に事の経緯を話してくれる。真里亜の名前を出さないため、ややぼかした説明だったが――。
公園で知尋が倒れた後、李狐はまず、なんとか知尋を運ぼうとしたらしい。
しかし、さすがに女の子一人では無理だった。
とはいえ、このまま屋外で寝かせておくのは知尋の身体に良くない。しばらく悩んだ挙げ句、仕方なく応援を呼ぶことにした。
電話帳に登録されており、日曜の夜、突然の呼び出しに応じそうな相手。
また、ある程度口が堅くて必要以上に詮索をしてこない人物……そうなると、愛華以外には適役がいなかったらしい。
実際、愛華は李狐の頼みを二つ返事で了承し、公園にすぐ駆けつけてくれた。
そこから二人で知尋を寮に運び、治療を施して今に至る。
「……そっか。ありがとう。西崎さんも、高槻さんも」
噛みしめるように礼を言うと、愛華はすぐに首を振った。
「ううん。気にしないで。あんなの誰だって放っておけないもん」
相変わらずさっぱりした答え。
しかし、だからといって軽く流すのでは気が済まない。
せめて頭を下げようと、知尋はベッドから身を起こそうとして――。
「あ、待って和泉!」
「え?」
李狐から制止が飛ぶのは、ほんの少しだけ遅かった。
はらり。
起きた拍子に布団がはだけ、その下にあったものが露わになる。
一糸まとわぬ知尋の身体。おそらく、汗を拭くか治療する際に脱がされたのだろう。意識はしていなかったが当然といえば当然……。
いや、そんな場合ではなく。
「ご、ごめんっ」
「……う、ううん。こちらこそ」
幸い下半身が露出することはなかったものの、知尋は顔から火が出そうな気分を味わった。慌てて布団を巻きつけつつ頭を下げれば、愛華は真っ赤な顔で首を振る。
「………」
「………」
「………」
そして、微妙な沈黙が流れた。
すると李狐が黙ったまま立ち上がり、クローゼットを探って適当なパジャマを取り出す。
無言のまま差し出されたそれを、知尋は布団の中でごそごそと身に着けた。
ついでとばかりに、ぽん、とスマートフォンが投げ渡される。
……真里亜に。
電話をかけようとして、知尋は手を止め李狐を見た。首を横に振られる。既に何度も試し、駄目だったのだろう。
「今は、無理だと思う。すぐにどうにかなることもないと思う」
ギリギリまで言葉を削った慰めの言葉に、知尋は諦めて手を下ろした。
あらためて愛華達に向きなおる。
「……お騒がせしました」
「う、うん」
色々、話さなければならないことがある。愛華がどこまで事情を察しているかわからないが、もし聞かれたなら支障のない範囲で答えたい。
……真里亜のことはもちろん気になる。しかし、彼女がどこに行ったのか知尋にはわからない。戦ってまで意思を通した以上、あの少女が今更、知尋達の言葉に耳を貸すとも思えない。
方法を変えないといけない。
月曜の朝、マンションの前で待ち伏せるとか。昼休みに真里亜か華、どちらかを呼び出すとか。
いずれにせよ、この一晩で何もかもが手遅れになる程、御宿華に手管があるとは考えにくい。そもそも勝てなかった自分に、真里亜を奪い返す資格があるのかわからないが。
まず、目の前にある問題から片づけるべきだと思った。
軽く息を吸う。
呼吸を落ち着け、知尋はゆっくりと口を開いて。
ぐう。
タイミング悪く鳴った腹の音に、場の空気は一気に弛緩した。
夕食にはピザを注文した。
Lサイズが一枚に、Mサイズが一枚。愛華もちょうどお昼前だったらしく三人で食卓を囲む。椅子ではなくクッションの上に座る形になるが、愛華のワンピースはスカート丈が長いため下着が見える心配はなかった。
「ええ、と」
食事が始まってすぐ、愛華がおずおずと口を開く。
彼女は四種類の具材が入ったLサイズピザをぱくりと口にし、咀嚼し飲みこんでから言葉を続けた。
「何から聞いたらいいかな……」
李狐が、サイドメニューのナゲットを齧りつつそれに答える。
「……悪いけど、和泉が倒れた件はあんまり詳しく話したくない」
「そっか」
愛華がピザを一切れ食べ終え、ゆっくり頷く。
彼女は顔を上げると知尋を見つめる。
探るような、言葉を選ぶような視線から逃げることもできず受け止めていると、少女の唇がぼそりと声を発した。
「じゃあ、別のことを聞くね」
赤くなったまま、視線を知尋から李狐へと移して。
彼女は遠慮がちな問いを投げかけてきた。
「和泉君と、李狐ちゃんは付き合ってる……の?」
……言いたいことは良くわかった。
倒れた事情はわからなくとも、李狐が知尋の件で愛華に助けを求めたのは事実。そして、知尋を運び介抱する過程で愛華は気づいたはずだ。
李狐が知尋の家を知っていること。部屋の勝手を多少なりとも知っていることに。
なら、そういう結論に至るのは仕方ない。
「まさか。なんであたしがこいつと」
先に答えたのは李狐だった。
ありえない、と言ってピザを手に取り齧る。
そんな彼女を愛華はしばらく見つめた後、静かに言った。
「さっき、和泉君のパジャマを取り出す時、迷ってなかったよね」
「っ」
「それに、李狐ちゃんと和泉君、同じ匂いがしたし。さっきシャワー浴びたり、和泉君の身体も丁寧に拭いてた」
「……ぅ」
鋭い。かなりの注意力だ。
そういえば、臭いについては真里亜にも指摘された。李狐もそれを気にしたのだろうが、シャワーまで浴びたのは逆効果だったかもしれない。
……おそらく、もう誤魔化しきれない。
だとすればどこまで話すべきか。
ご主人様と奴隷の関係だとか言っても信じてくれないだろうし――。
ちらりと李狐を見る。
彼女は知尋の視線を見つめ返すと小さく頷いた。
「……和泉と付き合ってないのは本当。それに、これから付き合う予定もない」
「身体だけの関係、ってこと?」
愛華の推測はある意味正しい。
しかし、李狐は首を振った。
「違う。あたしは和泉と付き合う気はないけど……何とも思ってないわけじゃない」
「え」
思わず声を上げてしまうと、少女二人から不思議そうに見られた。
……李狐がそこまで言うとは。
ここ最近の態度から、嫌われていないとは思っていた。同時に、本気で好かれているとは思っていなかった。
二人の、ここまでの成り行きを考えれば当然だ。
「ごめん、よくわからない」
愛華が手を膝に下ろして俯いた。
知尋と李狐、それから真里亜が築いた関係は、一般的な恋愛のそれとは全く違う。日の当たる、明るいところを歩いてきた愛華に調教だのSMがどうのと説明しても理解してもらうのは難しいだろう。
李狐が食事をする手を止めずに言った。
「わからなくてもいいよ。ただ、あたしは無理にそうしてるわけじゃない。それだけわかってくれれば」
「……李狐ちゃん」
愛華と李狐の関係について、知尋はよく知らない。
二人から聞いた話から想像するに、あまり深い関係ではないはずだ。李狐にとってはただのクラスメートで、相いれない存在。
愛華にとっての李狐は、友人、なのかもしれないが。
「和泉くんは」
少女の視線が再び知尋へと向けられた。
その表情は、嫌悪というよりは困惑に見える。まだ話を理解しきっていないからだろうか。
「昨日、私に好きだって言ってくれたのは嘘、だったの?」
ずき、と胸が痛んだ。
そう。知尋が愛華に、告白まがいのことをしたのはまだ昨日のことだ。
色々あって忘れていた――きっと愛華の方もさっきまで似たようなものだったのだろうが。
知尋は愛華の問いに答えようと口を開いて。
「え、何それ。いつの間にそんなこと言ったの?」
李狐にじろりと睨まれた。すかさず愛華が答える。
「放課後、廊下で会ったの。正確に言うと好きって言われたんじゃなくて、私が好き? って聞いたら『もう手遅れ』って言われたんだけど」
「へー、ふうん」
何故か一瞬にして、愛華に答える雰囲気ではなくなっていた。
「それで、高槻さんはなんて答えたの?」
麦茶の入ったグラスを傾けながら李狐。ガールズトークというかぶっちゃけトークというか、そんな感じだが、知尋にしてみれば針のむしろだった。
「えっとね……答えてないの。急に言われてびっくりして、そのまま逃げちゃった」
愛華の頬が軽く膨れる。
知尋は彼女から、非難するような視線で睨まれた。
「大変だったんだよ。あのあと何も手に付かなくて。晩ご飯の味も良く分からなかった」
「ご、ごめん」
「本当だよ」
謝ったら溜め息をつかれた。
……高槻愛華というのはこういう子だったのか。人の悪口なんて言わないタイプの子だと思っていたが、案外はっきり言うこともあるらしい。
「一晩いっぱい悩んだと思ったら、公園で倒れてるし。私、無茶なことはしないでって言ったのに。……しかも、いきなりこんなこと言われるし、もうわけわかんないよ」
「……ごめん」
返す言葉もなかった。
テーブルからほんの少し下がって手をつき、頭を下げる。
突然告白してしまったこと、治療のために手を煩わせてしまったこと、こうして混乱させてしまったことにせめてもの謝意を示す。
「でも、昨日言ったことは本当だよ。僕は、高槻さんのことが好きなんだ」
本人にはっきり言うのはこれが初めてだ。
気恥ずかしいし、今更だが。
今しか言うチャンスはないだろうから。
「………」
愛華からの返事はない。
彼女は、どういう表情をしているのか。
「はいそこ、顔上げない」
「―――」
何故か李狐にぴしゃりと言われた。
しかし、その通りだ。今の知尋にその権利はない。
ただ待つ。
愛華から何らかの回答があるまで待つ義務がある。
「初めてだったんだよ。そんなこと言われたの」
「へ? あれ、神代とかは?」
「あれは、好きだから付き合ってほしい、って話でしょ? 初めてだったのは、ただ『好きだ』って言われたこと」
確かにあの時、知尋は見返りを求めなかった。
単にそんな心理的余裕はなかったから。知尋が求めているのは愛華との交際ではないから……というのが主な理由だが、愛華には違う意味に受け取れたらしい。
「和泉君は私をどうしたいのか。私にどうして欲しいのかわからなくて、考えれば考えるほど和泉君のことばっかりになってた」
……それは、まるで。
知尋の言葉が嫌ではなかったと言っているようで。
「あのさ、高槻さんて駄目な男に引っ掛かるタイプでしょ」
「それ、李狐ちゃんが言うの? っていうか、わざと私に意地悪言ってたりする?」
「まさか。あたしは高槻さんが和泉とどうなっても構わないし。今更自覚したってあたしはもう手遅れだし」
「手遅れ、か」
顔を上げられないまま、少女達は知尋をよそに言葉を交わす。
そして。
「ねえ、和泉君」
顔を上げた知尋を、愛華が複雑な感情を湛えた瞳で見つめた。
「いつも、李狐ちゃんとどういうことしてるのか、一度見せてくれないかな」
言われた意味を理解するのに、知尋はたっぷり数秒を要した。