室内は酷い匂いだった。
二人分の汗と体臭、精液と愛液の匂いが混じりあい、当事者である知尋でも思わず顔をしかめたくなる。
また、数時間は眠ったはずなのに倦怠感が強い。ベッドもどろどろでぐちゃぐちゃ、いっそ丸洗いが必要なのではないかと思えた。
真里亜は室内のどこにもいない。
ベッドの下には、脱ぎ捨てられた真里亜の服が下着も含めて散らばったまま。しかし、どういうわけか知尋の下着と制服はなくなっていた。
知尋はベッドから身を起こし、足を床に下ろすと一人呟く。
「昨日、したんだ。深海さんと」
一度眠り冷静になったことで今更実感が湧いてくる。
昨夜の行為は激しすぎて、細部を思い出そうとするとぼやけてしまうが、ただ「気持ちよかった」ことははっきりと覚えている。高校生の男女としては酷く歪な、だけど普通ではきっと味わえないだろう、濃厚で淫らなセックスだった。
「……でも」
思ったより何も変わらない。
初体験を済ませても、知尋は知尋のままだった。性の喜びを知ればもっと劇的に、心境の変化が起こるものだと思っていたのだが。
心中のわだかまりや不安が完全に消え去ったわけではなく。
真里亜が言っていたような、新しい能力が発現した様子も実感できなかった。
はあ。
「今、何時だろう」
部屋に時計はない。スマホは制服のポケットだ。
なら仕方がない。
知尋は乾いた体液を身体に付けたまま部屋を出る。すると廊下は美味しそうな匂いで満ちていた。
ぐう。
昨夜何も食べなかったことを思い出してお腹が鳴る。
匂いの元は居間の傍にある台所。入り口からそっと覗くと、そこでは真里亜が朝食の支度をしていた。
真里亜はほぼ裸だった。
昨夜とは違う下着と、黒いエプロンだけを身に着けた姿。シャワーでも浴びたのか、身体に汚れはなくさっぱりしている。
何やら鍋をかき混ぜていた彼女は知尋に気づくと振り返り、軽く微笑んだ。
「おはよう、和泉くん」
全くの自然体。その態度は昨夜、知尋に抱かれる前と何も変わらなかった。知尋の姿を気に留める様子も特にない。
ほっとするような、少しだけ残念なような。
複雑な気持ちになりながら、知尋は「おはよう」と少し遅れて返した。
「身体、洗うでしょう? シャワーや洗剤は好きに使って。すっきりしてから朝食にしましょう」
「……うん。ありがとう」
色々と言いたいこと、聞きたいことはあった。
しかし、ひとまず言われた通りにする。真里亜が指し示した浴室に向かい、服を脱ぐ必要はないためそのまま入り口を開く。
浴室もやはり内装はシンプルだった。
若い女優がCMをやっているようなソープ類がいくつか並び、後は普通サイズの浴槽とシャワー。
どれも知尋の部屋よりは幾分か高級な感じだ。
他人の、しかも女の子の家の浴室を使うことに気後れしつつもシャワーを浴びる。洗剤も遠慮なく使わせてもらった。
そうしないと精液等の汚れが落ちなかった、というのもある。
ソープをよく泡立てて身体に纏わせると花か何かの香りが広がり、知尋は自然と真里亜の香りに包まれることになった。
余計、居心地の悪い気分になったことは言うまでもない。
「……ふう」
それでも、髪と身体を洗うと大分すっきりした。
眠気もある程度飛んで行き、ソープの香りもなんだかんだ精神安定に効果を発揮してくれる。
そういえば、着替えはどうしよう。
思いながら浴室を出ると、洗面所に置かれた洗濯機の上に、綺麗に折りたたまれだ知尋の服が一式、揃えて置かれていた。
制服にワイシャツ、下着に靴下。
下着と靴下は洗濯され、ワイシャツにはアイロンまでかけられている。入浴前はなかったはずなので、真里亜がわざわざ用意してくれたのだろう。
服を身に着けて居間へ行くと、ちょうど朝食の準備が終わったところだった。
「ふか……真里亜。服、洗ってくれてありがとう」
「気にしないで。私よりあなたの方が疲れてるはずだし、奴隷がご主人様のお世話をするのは当然でしょう?」
二人分のコップにコーヒーを注ぎながら、真里亜は知尋にそう答えた。
「奴隷、か」
「あら。雌犬とか雌豚の方が好みだった?」
「そ、そう言う問題じゃなくて」
昨日と同じように向かい合って座り、揃って「いただきます」を言う。なお、知尋の鞄は傍の床に、スマホはテーブルの端に置かれていた。スマホの時刻表示は登校の約一時間前。これならのんびり食事をしても大丈夫そうだ。
トーストにハムエッグ、サラダにスープ、一口サイズに切られたオレンジに熱いコーヒー。
定番ながら品数は多く、温かい食事に自然と食が進んだ。
訓練と性行為でエネルギーを消耗した分、身体も栄養を欲していたようだ。
「僕の方が疲れてるっていうけど、真里亜も……痛みとかあるんじゃ?」
特に破瓜の痛みは推し量りようがないだけに不安になる。絶頂していた回数を考えれば疲労のほうも相当なものだろう。
「さすがに膜はそのままだけど、痛みは治癒したもの。それに、一日に何度もイくのも慣れてるから大丈夫」
「……そっか」
つくづく、真里亜の能力は便利だ。
知尋はトーストにバターを塗って一口齧る。じゅわ、と口の中に広がる旨味を感じつつ、ハムエッグやサラダにも手を伸ばす。
そろそろ本題に入ってもいいだろうか。
「昨夜のアレで、僕は強くなったんだよね?」
恐る恐る尋ねると、真里亜の返答は意外なものだった。
「……さあ?」
「さあ、って」
あっさりと首を傾げられてしまい、逆に困惑する。
昨日、彼女が知尋に言ったことは嘘だったのか。だとすれば、わざわざ知尋に抱かれた意図がわからないが。
と、知尋の様子を見た真里亜は首を振った。
「ごめんなさい。勘違いしないでね。私が言ったことは全部本心。……でも、そもそも私は、一回交わるだけで能力が手に入るとは言わなかったわよ?」
「……あ」
「前例があるわけではないし、私にも結果は不明瞭なの。でもね……」
彼女はプチトマトを口に入れて飲み込み、知尋を見つめる。
読心により伝わってきた心は、こんな朝のひとときでさえ情欲に塗れていた。
「深い欲望を手にしたあなたはきっと……いいえ、絶対に強くなれる。だって、強欲な人間が強くなれるのは、私が一番良く知っているもの」
「……うん」
知尋は頷いた。
それから昨夜のことを思い出してぶるっと震える。
あれが平常運転――「一回交わるだけ」なのだとしたら、彼女の欲望に付き合うのも困難な道のりだ。
自分にそれができるだろうか。
「あら。またしたくなった? 目がいやらしくなってきているけれど」
「え」
「食事の後、口ででもしてあげましょうか?」
「け、結構です」
「そう、残念」
からかうような声に首を振れば、くすりと笑われた。
どうやら冗談だったらしい。……が、エプロンで隠れてはいても今の真里亜は下着姿なわけで、いろいろと洒落にならない。
知尋は、真っ赤になった顔を少しでも隠そうと食事を再開した。
「……というか、ご主人様と奴隷ってこんな関係じゃないような」
「ふふ。それはもっとご主人様らしく振る舞えるようになってから言って頂戴」
「う……」
そう言われてしまうと立つ瀬がなかった。
やはり、人の関係もそう簡単に変わるものではない。
……知尋自身が変わることができれば、話は別なのだろうが。
食事は三十分程で終わった。
ハムエッグやサラダを残さず食べつくし、トーストを三枚平らげるとようやく人心地ついた。
片づけは真里亜が一人で行った。
手伝おうと思ったのだが「あなたは座ってて」と、はっきり言われてしまったのだ。素直に食休みをしているうちに、真里亜は一人でてきぱきと洗い物を済ませてしまう。
それから真里亜も制服に着替え、二人はやや余裕をもって外に出た。
「そういえば、二人で一緒に登校するのはまずくないかな?」
誰かに見られて変に噂になっても困る。
知尋の好感度はこれ以上、殆ど下がりようがないが、転校してきたばかりの真里亜はなるべく騒ぎを避けた方がいい。
そう思ったのだが、真里亜は不思議そうな顔で首を傾げた。
「変なことを気にするのね」
「変かな?」
「だって、主従関係になった以上、あなたが望めば私は従うしかないんだもの」
奴隷がどうなろうと気にしなければいい、と。
強力な能力を持ち、一見世渡り上手にも見える彼女だが、その本性はあの夜の姿。実際のところは割とズレた感性を持っているらしい。
「でも、ありがとう。その方が行動しやすいのは確かだもの」
言って、真里亜は知尋の提案を了承した。
二人はマンションの入り口で別れ、別々に学園へ向かうことにする。
「ああ、そうだ。和泉くん」
「……ん?」
「急に能力は発現しなくても、変わるものはあると思うわ。女の子の顔を見るの、少しは平気になったんじゃない?」
別れ際、真里亜は知尋にそう告げた。
かすかにスカートを振りながら優雅に歩き去る真里亜を、知尋は立ち止まったままで見送った。
「……平気、に、なったかな?」
マンションから学園までは、寮からよりも多少近かった。
生徒達で賑わう廊下を、知尋は一人で歩く。変わらず知尋に声をかけてくる生徒はいなかった。
――それにしても、身体が重い。
もしかしたら雨で風邪を引いたかもしれない。今日は火曜日。休日まではまだまだ日があるので、できるだけ体力は温存しないといけないのに。
……寝よう。
今から少しでも休もうと決め、教室へ急いだ。周囲に碌に目もくれず自分の席へ辿り着くと机に突っ伏す。幸い、今日は李狐とも出くわさなかった。
朝のHRになったら起きて、授業が始まるまで再び眠る。それを繰り返していたら午前の授業はあっという間だった。
主に、眠気で余計なことを考えられなかったという意味で。
ただ、微睡みの中、すぐ傍から生徒達の声がいくつも聞こえてきていた。どうやら、真里亜は今日も引き続き皆に囲まれていたらしい。
そして昼休み。
小刻みに睡眠をとったお蔭で眠気はだいぶ和らいでいた。しかし、休息の欲求と空腹はだいたい半々といったところ。
朝食をしっかりとったため、一食抜いても問題はないが。
どうしたものか考えていると、不意に制服のポケットが震えた。
「……ん?」
手に取ってみると、スマホにメールの通知。
差出人は――深海真里亜。
『屋上で待ってる』
「……何で?」
思わず一人呟くも、当然誰からも返事はなかった。真里亜自身の姿も既に教室内には存在しない。屋上へ向かった後なのだろう。
行くべきなのか。
一瞬だけ迷ってから、知尋は結局席を立った。
学園の屋上は閉鎖されているはずだったが、階段を上り入り口まで来てみると、どういうわけか扉が微妙に開いていた。
「アドレス、交換してないよね?」
屋上で真里亜が知尋を待っていた。
コンクリートの床に二人用のレジャーシートを敷き、何やらコンビニの袋が置かれている。
「ええ。勝手に登録させてもらったけど、駄目だった?」
「……構わないけど、今度からロックをかけるよ」
「防犯的にもその方がいいかもね」
それはプライバシーを侵害した側が言うことなのだろうか。
「それより、お昼にしましょう?」
コンビニ袋から取り出されたのは包装された菓子パンがよりどりみどり。登校途中にコンビニで買ってきたのだろう。
「くれるの?」
「ええ。こんなこともあろうかと買ったものだから、遠慮なく食べて」
「ありがとう」
拒否しても真里亜一人では食べきれないだろう。
そう判断した知尋は、靴を脱いでレジャーシートに上がった。抜け目なく真里亜が差し出してくる濡れタオルで手を拭いたあと、ありがたく菓子パンに手を伸ばす。
まずはお腹にたまるもの、ということでカレーパンを選んだ。
それを見た真里亜が何やら頷く。
「なるほど」
「どうしたの?」
「いえ。今後の参考にしようと思って」
知尋の好みを、ということか。
そう言われると食べにくくなるが、今更遅いと諦めてパンに齧りつく。揚げたパンの香ばしさとカレーの辛味が食欲をそそり、二口三口と食べ進めた。
そろそろ飲み物が欲しい、と考えていると。
「はい、どうぞ」
真里亜が紙パックの牛乳にストローを挿し、そっと差し出す。受け取って一口飲むと、甘味がちょうどいい具合にカレーパンの味を中和してくれた。
ふう、と息を吐く。
知尋はそこで手を止め、真里亜をまじまじと見つめた。
「なに?」
「……真里亜は凄いな。あんな気持ちを抱えたまま、人のことまで考えられるんだから」
知尋が感じ取った真里亜の欲望、衝動はとても激しかった。しかも彼女の欲望は決まった方向性を持たず、あらゆる快楽を無軌道に追及している。
一人で抱えていてはいずれ破滅する、という真里亜の言葉も頷ける。
今こうしている瞬間だって衝動に襲われているはずなのに、真里亜はそんな素振りも見せずに微笑んでいる。
知尋にはとても真似できない。
「大したことじゃないわよ」
メロンパンを小さく齧りながら、真里亜は静かに笑った。
「私が人を気遣うのは、長く生きて愉しむために必要だから。それに、あなたは特別だし」
「僕が、真里亜と契約したから?」
「ええ」
真里亜はぱくぱくとメロンパンを食べ進める。その姿はどこか栗鼠を連想させ、なんとなく可愛らしい。
パンを両手で支えたまま彼女は知尋を横目で見つめ、
「昨夜も無理させちゃったみたいだし、これくらいはさせて」
知尋の体調が良くないのもお見通しらしい。
まあ、すぐ傍で仮眠を取っていたのだから当然かもしれないが。
ありがとう、と告げようとして、知尋は思い直し別の言葉を紡いだ。
「無理なんかじゃないよ。僕もそうしたかったから」
「あら」
ぱちぱちと真里亜の目が瞬く。
「じゃあ、パンのお礼にフェラチオでもさせてもらおうかしら。ここで」
「なっ!?」
「冗談よ」
くすくすと笑う彼女の様子はあくまで自然体だったが、きっと半分くらいは本気だったのだろう。
そう、思ってしまう知尋であった。