翌日、木曜日の朝。
李狐が目を覚ますと、真里亜は既に起きて朝食の支度を始めていた。彼女だって疲れているだろうに、いつもながら驚くべき体力だと思う。
それでいて髪や肌の手入れは完璧。黒いランジェリーとエプロンだけを身に着けた姿も美しく、白い肌に書かれた無数の淫らな言葉達が彼女の肢体を更に装飾して――。
「って、まだ派手にやったわね」
まあ、唆したのは李狐なのだが。
知尋が主に発案し、李狐が過激さを助長させた落書きプレイはどうやら実行されたらしい。本人に言わせるというアイデアも実行されたのだとすれば、これらの単語を望んだのは真里亜自身ということになるのだが。
昨夜言った通り、割と本気でドン引きである。
と、彼女の声に振り返った真里亜が微笑み、それから恥ずかしそうに表情を変えた。
「……ええ。昨夜はちょっと、その、やりすぎてしまったわ。あれはきっとそうそう味わえないし、恥ずかしすぎてご主人様には忘れて頂きたいくらい」
「でしょーね……」
よく見ると真里亜の目元には隈ができている。昨夜のプレイが激しかったか、あるいは相当長引いた証拠だ。
……っていうか、この女がそれだけ恥ずかしがるって何があったのか。
聞いてみたいが、きっと真里亜も知尋も、詳細は教えてくれないだろうと思った。
しかし、その割に真里亜は何だかすっきりした雰囲気。
「でも、満足したなら良かったんじゃない?」
「そうね」
答えた真里亜が遠い目をする。
うっとりと、何かを反芻しているようだった。
「ご主人様と出会えて、本当に良かったわ」
それを見た李狐はふと、ある疑問を頭に浮かべた。
ここ数日、漠然と考えていたこと。
聞かずに済ませようと思っていた、ある種決定的な事柄。
「……ねえ、真里亜」
「何?」
「知尋のこと裏切ろうとしたのって、本当に全部お芝居だった?」
不思議なことがあった。
『あなたは、私にどうして欲しい?』
最初から全部演技だったなら、彼女は何故あんなことを聞いたのか。
知尋と李狐に余計な行動をしてほしくないのなら、思わせぶりな発言をせず完全に突き離せば良かったのではないか。
――真里亜の本心がわからなかった時は、引き留めて欲しかったのかもしれない、と考えていた。
今は逆に、あの言葉は知尋を試すつもりだったのではないかと疑っている。
……だとしたら、真里亜が知尋に合格を出したのはどの時点だろう。
果たして返答には間があった。
真里亜は視線を李狐から外し、食事の支度を再開しながら、独り言のように呟く。
「……どうかしら。本心なんて、意外と自分自身でもわからないものよ」
誤魔化されていると思った。
しかし、追及しようと口を開いたところで真里亜が続けた言葉に、李狐は何も言えなくなった。
「でも、嬉しかったわ。傍に居て欲しいと、私が必要だと言ってくれたこと。……私を許して、抱きしめてくれたことが、本当に」
「そっか」
「ええ」
きっと、彼女の言葉にどれだけの嘘が混じっていたとしても、今の言葉だけは本当だろう。
「……ライバル増えたかなー、ちょっと複雑」
「何の話?」
「んーん、別に」
顔を上げた真里亜に、李狐は笑顔で首を振った。
☆ ☆ ☆
ああ。
またやってしまったと、目覚めた知尋は後悔した。
思い返すのは当然、昨夜のこと。
真里亜の身体に落書きしたのは、彼女に自分の証を刻みたかったから。
お仕置きと言いつつも完全に自分本位な行為だったのに、その過程で真里亜に恐ろしい負担をかけてしまった。
嬉しかった。
彼女の『素』が見られたことには深い喜びがあるが、あれはそうそう気軽に開けていい扉ではなかったはずだ。
ご主人様を演じようとするとやり過ぎる癖は、どうにも変わらない。
あの少女の『寿命』を縮めかねない行為は極力、控えるようにしなければ。
いずれにせよ、あれはタイミングが生んだ奇跡のようなものだった。再現しようとして可能なものではないだろうが。
思いつつ居間へ顔を出すと、幸い真里亜の様子はごく普通だった。身体の落書きにもあまり触れないあたり羞恥の色が濃い気もするが、自分から藪を突くのは止めておく。
昨夜のことは互いの胸の中にしまっておけばいいだろう。
そして、朝食の後は三人揃って登校。全員でマンションを出るのは久しぶりだった。
……相変わらず通学路は別々だが。
交代で華を調教していた月曜から水曜の間、学園で大きな出来事はなかった。せいぜい学園内がどんどん体育祭ムードに染まっていた程度だ。
その他に敢えて挙げるとするなら、
「おはよう、李狐ちゃん」
「……あ、うん。おはよ」
あれ以来、愛華が毎朝、李狐に挨拶するようになった。
李狐に聞いたところ、彼女に話しかけられることはこれまでもあったらしい。ただ、毎日続けてというのは今までなかったこと。
おそらく、いや、ほぼ間違いなく日曜の出来事のせいだろう。
といっても愛華は別に何をするでもない。ただ挨拶をするだけで、知尋と李狐の関係を皆にバラすつもりはないようだった。
「………」
自席に戻ろうとする愛華がちらりと知尋を見て、すぐに顔を背けた。
嫌われてしまったのだろうか。
あれから、愛華はずっとあんな態度だ。知尋には挨拶をしてくれないし、目が合ってもすぐに逸らされてしまう。一瞬過ぎて彼女の感情を受け取ることもできない。
嫌われたとしても仕方ないことをしたのは事実だが、少し寂しい気持ちになった。
☆ ☆ ☆
今日、御宿華は学園を休んでいるようだった。
おそらく明日の体育祭に向けて体調を戻すためだろう。三日間の調教による疲労が、一晩寝た程度で抜けないことは想像に難くない。
また、彼女の欠席が話題になっている様子もなかった。
後は、華が復帰してきてからどうなるか。あれだけ釘を刺してメリットも提示すれば、そう簡単に裏切られないはずだが、それでも定期的に様子を見ておくに越したことはない。
……つくづく綱渡りをしている、と思う。
催眠や洗脳、呪いのような便利な力があるわけではないのだから仕方ないが。万が一バレたら、と思うと恐ろしくなる。
そして、それでも止められない。
きっと、知尋は欲張りなのだろう。
人の心を知りたいと願い、優秀な姉を真似て柴鳳に入り、挫折して力を求めた。真里亜と契約し、李狐を隷属させた今でも力と、女を求めている。
どこまで?
どれくらい強くなれば、自分は満足するのだろう。
少なくとも、今のままでは足りない。
「和泉君。少し時間貰えるかな?」
その日、午後の体育は自由時間となった。
教師の怠慢、ではもちろんない。翌日の体育祭に向けた準備のため、それぞれ自分の出る種目を練習できるようにしてくれたのだ。
玉入れ等、練習しづらい競技もあるので、そういう生徒は適宜好きなトレーニングをするなり、他の生徒の練習相手を務めることになる。
知尋の参加する騎馬戦は忙しい神代の動向次第だったが、授業が始まってすぐ当の神代が声をかけてきた。
「騎馬戦も今日のうちに一回組んでおきたいからさ」
「わかった」
頷き、神代と一緒に他のメンバーを集める。
騎馬戦は四人一組、一人の騎手を三人――前一人後ろ二人の騎馬が乗せてフィールドを走り回ることになる。
「リレーの練習とかはいいの?」
「ああ、後でやるよ。そっちは放課後も練習してるから」
「なるほど」
言われてみれば、リレーは体育祭の花形。
中学の時も代表に選ばれた生徒は放課後、残って練習していたイメージがある。
「それに、舞阪が勝ってくれってうるさいからさ」
苦笑気味に言う神代の視線を追うと、舞阪がにっと笑ってこちらに手を上げていた。優勝賞品を狙うクラス委員は、勝つための根回しに余念がないらしい。
たかが1000円、されど1000円。
二日分の昼食費と考えると馬鹿にならない。
「さて、じゃあやってみようか」
神代を前、他の男子二人を後ろの騎馬として、知尋は彼らの手で上に持ち上げられる。男の固い身体の感触と汗の臭いはあまり心地いいものではないものの、その分、簡単には落ちないだろうという安心感があった。
「うわ、和泉。軽いなお前」
「ちゃんと飯食ってるか?」
安定の理由は知尋の体重にもあるようだ。騎馬は見るからに体育会系なメンバーで固められているため、彼らに比べれば頼りないのは当然なのだが。
常にないスキンシップとなるとふざけたくなるのが男子の性。
「和泉君。もっとしっかり身体を支えてくれ。そう。肩か俺の頭に手を置いて」
しかし、そんな中でも神代は至って真面目だった。他の二人を邪険に扱わないよう注意しつつも、的確に本番に向けての準備を進めていく。
彼の指示に従ってしっかり体重を預けると、確かに身体がより安定した。
「よし。じゃあ始めよう」
一、二、と騎馬達が声を揃えながら歩き出す。
こうなると知尋の仕事はなるべく動かず、落ちないようにすることだ。
騎馬三人の歩調のズレや身体の揺れによる振動に耐え、自分でもバランスを取りながら上に乗り続ける。地味だが大変な作業である。
練習はゆっくり歩くところから始まり、だんだんとスピードを上げたり曲がったりする。最初はそれほど問題なかったが、駆け足や方向転換になると騎手騎馬双方とも負担が大きくなり始める。
騎手がなるべく身体を揺らさず、息を合わせて動こうとする中、知尋は彼らの動きに合わせることと振動に耐えることに務めた。
……この状態で乱戦に飛び込んで、心を読みながら鉢巻を奪い合うのか。
やってみると想像以上にハードだ。
移動は騎馬に任せられる分、騎手の知尋は鉢巻争奪に集中できる。騎手同士の戦闘は本人の機動力が影響しづらいのが救いか。
「OK。あとは実戦形式でやってみよう」
二十分程度練習した後、他の男子にもう一つ騎馬を作ってもらい実戦を行った。
四人で作る騎馬が一騎ずつ向かい合い突進する。
やはり、即興で作った騎馬に比べると知尋達の動きは段違いだった。よたよた歩く敵に高速で接近し、あっという間に交戦距離に入る。
ここからは騎手の出番。
接近する時点から、知尋はじっと相手の騎手の目を見ていた。見える。相手の騎手が感じているのは不安。
落馬が怖くて集中できていないらしい。
具体的な戦略は読めなかったが、それならそれで戦いやすい。揺れる身体を左手で支えつつ右手を伸ばせば、相手は怯みながらそれを払ってくる。
二度、三度。極力相手を見つめたまま攻撃を繰り返すと、相手は不安を倍増させながらよろめいた。その隙をつき、知尋は鉢巻――の代わりに頭へ巻いたジャージを手にした。
「っし、なんとかなったな」
「これなら本番でも恥はかかないんじゃね?」
練習を終え地面に下ろされた知尋はほっと息を吐く。
騎馬の生徒達は今の勝利に手ごたえを感じているようで、口々に陽気な声を上げていた。
神代も笑顔を浮かべるつつ頷いて。
「うん。ちゃんと動けてたし、和泉君の騎手もはまってる。これなら本番も心配はないと思う。ただ……」
表情を曇らせる神代。
「上級生や、1-Aの騎馬に勝てるかは自信がないな」
「1-A?」
反射的に華の顔を思い浮かべながら、知尋は首を傾げた。
「A組は、誰か凄い人が出てくるの?」
「ああ。ちょっと厄介な相手がいてね……」
答えた神代は、どこか遠い目をしながらグラウンドを見渡した。この時間、一年生は全員体育だから、件の相手もどこかに居るかもしれない。
あの神代が厄介という相手。
騎馬戦に出てくるということは、フィジカルが強いタイプか。だとすると華とは別の生徒……?
「あー、
知尋達のいる方へ歩み寄ってきた舞阪が会話に加わる。同時に、騎馬の他二人の男子達はどこかへ散っていった。
他の練習があるのか、舞阪の話が長くなりそうだから敬遠したか。
「湯瀬、さん? 女の子?」
「そ。ランクはC。能力は『熱操作』だ」
熱を操る。
そう聞いて最初に思い浮かべたのは、掌から炎を出し身に纏う少女の姿。しかし、火炎操作ではなく熱操作と言った以上は少し違うか。
神代が微妙な苦笑いを浮かべながら説明してくれる。
「湯瀬さんの『熱操作』は主に体内の温度を調整するんだ。頑張れば火を出したりもできるっぽいけど、基本的な使い方はそうじゃない。体内の熱量を上げて運動能力を一時的に底上げすることだ」
人が活動するのにはエネルギー、要はカロリーを消費する。
湯瀬朱香は運動する際にカロリーを余分に消費することで、本来の運動能力以上の性能を得ることができるらしい。『落とし物』の能力は未解明の部分が多く、また精神エネルギーで超常現象を起こす代物のため、全部が全部、科学で説明できるわけではないが。
「それって、神代君の……」
「ああ。ある意味上位互換だなー。特に瞬発力では向こうの性能の方が上っぽい。その分、燃費が悪くて持続力に難があるし、汎用性を考えれば一概に言えないけど」
それでも、十分に恐ろしい。
「ついでに、湯瀬は今までに何度か、神代に因縁を付けてきてるんだよなー」
「ライバル、ってこと?」
「……まあ、そうなるかな」
知尋の声に、困ったような顔で神代。
彼としてはあまり対抗意識を持っていないのだろうか。それとも、その朱香に対しては苦手意識がある?
にやり、と舞阪が笑った。
彼はわざとらしく知尋に顔を寄せると、内緒話にしては大きめの声でひそひそ話しかけてきた。
「あいつ、入学式で湯瀬を押し倒して胸揉んだんだよ」
「え」
「おい舞阪、それは言わない約束じゃ……!」
神代が声を荒げたところを見ると、どうやら本当の話らしい。
……むしろ、本人が平静にしていれば、こんな話信じなかったかもしれない。
思い、どう反応していいか思案していると、がしっと肩を掴まれた。いつも以上に真剣な顔をした神代が、じっと知尋を見て。
「あれは不可抗力だったんだ。転んで巻き込んでしまっただけで……頼む、信じてくれ」
「う、うん」
彼の感情が「誤解されたら死ぬ」と訴えていたのもあり、知尋はとにかく頷いた。