午後の授業は基礎訓練。
運動により体力や運動神経を養うためのもので、要は普通の学校でいう体育と同じだ。ただし授業は男女合同で、競技のルールに則った範囲であれば能力の使用も認められている。
この日の種目はドッジボールだった。
五時限目を基礎練習の時間とし、六時限目は二チームに分かれて試合を行う。
知尋は真里亜、愛華と同チームになり、李狐と神代は相手チームに含まれた。
ドッジボールは球技の一種である。
一つのボールと長方形のコートを用い、半分に分割したコートの一方を味方チーム、もう一方を敵チームが使用する。コートの内側は「内野」、外周を「外野」と呼ぶ。
ゲームはボールをキープしている選手が主導。
選手はボールを手で持ち相手チームの選手に投げつける。投げられた選手はボールを避けるか受け止め、どちらもできずにボールに当たってしまうとアウト。アウトになったら外野へ移動し、コート外にこぼれた球を拾って外側から攻撃する。
こうして攻撃と防御を繰り返し、内野の選手が先にいなくなった方が負けになる。
外野が各チーム三人、内野はちょうど七対七で試合開始。
開始直後から激しい展開となった。
内野はコート外に出られないため、人数の多い序盤は攻撃を避けにくい。逆に攻撃側はフェイントを行いやすいため、序盤が最も攻撃を成功させやすいのである。
活躍したのは、チーム分けの時点で予想された通り、真里亜と神代。
自己治癒のおかげで怪我の心配がない真里亜は、強いボールでも積極的にキャッチしていく。また、キャッチした際の衝撃を攻撃者へ返すことで相手チームの疲労を加速度させた。
神代は真里亜が来るまでクラスでダントツの実力者だった。彼は特別能力を行使しなかったが、それでも高い身体能力を駆使して堅実な戦いを見せる。
結果、あっと言う間に各チーム四人がアウトを取られ三対三となった。
残ったのは知尋と真里亜、愛華。李狐と神代、それから男子生徒がもう一人。
知尋が残ったのは、正直、実力ではなく運と成り行きのおかげだった。いつでもアウトにできる相手は残して味方の邪魔をさせる、という考えからボールがあまり飛んでこず、また流れ弾に当たることもなかったのだ。
「さって、そろそろ本気出そうかな」
外野からボールを受け取った李狐が軽い口調で言った。
彼女は片手でボールを握ると、意外にもしっかりしたフォームで振りかぶる。対する知尋達はどこにボールが来てもいいよう心と身体の準備をするが――。
李狐がボールから手を離すのとほぼ同時に『内野』へ多数の人間の姿が出現した。
――幻影能力を使ったフェイントと目くらまし。
本物の人間ではないと知識から判断できても、周囲に人が現れれば咄嗟に回避行動は停滞してしまう。そして、飛び来るボールの軌道とタイミングも図りづらくなる。
内野に人が多い状態では効果は限定的だが、人数の減った今は絶大な効力となる。
「きゃっ……」
愛華がボールをキャッチしそこねてアウト。彼女はすまなそうに外野へ移動していき、これで二対三。
いや、知尋が大した役に立たない以上、実質一対三と言っていい。
知尋は真里亜の様子を窺う。
「大丈夫」
彼女は平静だった。
地面に転がったボールを拾い、無駄のないフォームで構えながら言う。
「あなたは戦える。怖がる必要ないわ」
コートの幻影が消え、今度は敵側のコートに複数の幻影が生み出された。李狐や神代達、残っている選手と同じ姿。
しかし、真里亜は軽く眉を顰めただけだった。
ボールが投擲され、三人目の男子生徒がアウト。これで二対二に。
「残念。ついてなかったね」
「……運、ね」
「……あ? 何、その言い方」
李狐がボールを拾い振り上げる。今度の幻影は宙に漂う無数のボール。あれが本物と一緒に迫ってきたら相当な圧迫感になるだろう。
「いや。西崎さん、俺にやらせてくれ」
そこで神代が李狐を制した。当然、水を差された李狐は不服そうに首を傾げる。
「なんで? あいつは……」
「多分、彼女に生半可なフェイントは通じない。幻を使い過ぎて消耗するくらいなら、単純な我慢比べの方がいい」
「……わかった」
真摯な神代の言葉に何かを感じたのか、李狐は素直にボールを渡した。
そうして、クラストップの二人が真っ向から対峙する。
「そういうわけだから、勝負してくれるかな?」
「ええ。お好きなように」
「ありがとう、じゃあ、行くよ」
ボールが高速で投擲される。ここまでの戦いで見せたそれよりも一段早い。
フェイントを考えず、威力だけに集中した結果なのだろうが――真里亜はそれを胸で抱き留めるように受け止めた。
ばしん、と大きな音。離れた左手は衝撃で赤くなっていた。
しかし真里亜は無言。
「ぐっ……」
むしろ、投げたはずの神代が呻き声を上げた。真里亜の『報復』の効果だ。強い球を投げれば、神代はその威力を自分も味合わなければならない。
真里亜からの返礼の投球。
神代はダメージの直後ながらも、これを難なくキャッチしてみせた。やはり純粋な身体能力では男女の差は大きいようだ。
そこから試合は二人の世界。知尋も李狐も立ち入れないラリーが続いた。
持久戦だった。真里亜には自己治癒能力があるが、それで癒せるのは傷や痛みだけで疲労は無視できない。また、神代の防御を崩すだけの球威がない。
外野と協力した包囲網で神代の体力を削ろうとする真里亜。
それに対し、神代は自身による攻撃にこだわり、高威力の球を投げ続ける。
数分間、永遠に続くかに思えた勝負は――真里亜の敗北に終わった。
「……くっ」
疲労が限界に達したのだろう。
真里亜が神代の投球を受けるのに失敗し、遂にアウトとなる。
とはいえ勝利した神代も荒い息を吐き、見るからに限界ギリギリの状態だった。
「これが、実戦訓練なら結果は違ったかもしれないけど」
「……そうね、確かに」
喜びを滲ませる神代へ、真里亜が静かに返答した。
これで一対二。
遂に、知尋はたった一人で内野に残される。一人で神代、そして李狐と戦わなければならない。
どちらか一方だけでも勝ち目が見えないというのに。
「………」
そっと外野を見れば、そこにいる味方チームの生徒達も勝利を諦めた様子だった。
やはり、無理なのではないか。
と。
コート内を緩やかに転がるボールが知尋の足に触れた。
そのボールを拾い上げれば、
「……後は任せたから」
外野に歩いていく真里亜が知尋を見て、そっと囁いた。
とくん、と胸が脈打つ。
驚いたことに、伝わってきた感情は「信頼」だった。今この瞬間、彼女は身体を絶え間なく襲う情欲よりも強く、知尋の勝利を信じているということ。
どうしてそこまで。
知尋には全くわからなかった。
わからなかったが、直接的に感じた信頼は知尋の心を、身体を突き動かした。
試合再開。
知尋はコートの中央やや前よりに立つとボールを投擲した。
正確に狙うよりも手早く投げることを優先。ボールはなんとか神代の左肩あたりに飛び、かわされたものの彼の体勢を崩すことに成功する。
そしてボールは外野にいる生徒の手に。
彼はこの状況をチャンスと理解したらしい。手にしたボールをすぐさま投球し、見事、疲労により動きの鈍った神代を打ち取った。
おお、と小さな歓声。
これで試合は一対一に。
知尋の狙い通りの結果だった。直接倒したわけでなくともアウトはアウト。これで少しだけ、チーム的の勝利は近づいた。
素早く、自分にできることを考えて実行した結果だ。
「ごめん、西崎さん」
「あはは。いーよ。こっからなら絶対勝てるし」
謝る神代に李狐が首を振る。
彼女はボールを握り、知尋のいる方を振り返ると嗜虐的な笑みを浮かべた。
自然と背筋に緊張が走った。
互いに後が無い状況だが、彼我の戦力差は歴然だ。
知尋と李狐の身体能力はおそらく同等。しかし李狐には幻を作る能力がある。あの幻も真里亜には効いていなかったが、その絡繰りは知尋にはわからない。
能力の分だけ単純に不利。
そして、心理的には決定的に負けている。
いや。
知尋は、今朝の真里亜の言葉を思い出した。
『急に能力は発現しなくても、変わるものはあると思う』
『女の子の顔を見るの、少しは平気になったんじゃない?』
言われた時はぴんと来なかったが、今なら少しだけわかる。
ただ、前を向くくらいなら。
顔を逸らしたくなる。この場からすぐにでも逃げ出したくなるのを堪え、知尋は真っすぐに李狐の目を見た。
途端、彼女の感情が入ってくる。
強い優越感。知尋に勝つことを確信しているのだ。
実際、知尋が勝つことは難しいだろう。
しかし。
「何見てんの? 気持ち悪い」
今、行っているのはドッジボールだ。実戦訓練でも喧嘩でもない。だから、いくら李狐が優越感に浸ろうと嫌悪感を示そうと直接殴られることはない。
そう思うと少し気持ちが楽になる。
大丈夫。
蔑みの目で見られて罵られても、この試合くらいは最後までやれる。
そんな知尋の態度に、李狐も何かいつもと違うものを感じたのらしい。
彼女は息を詰まらせるとボールを振りかぶった。
「っ。気持ち悪いって言ってるじゃん!」
攻撃的な性格を反映するように、ボールは真っすぐ顔面へと向かってきた。
とはいえスピードは神代のそれに遠く及ばない。知尋はボールをよく見て、タイミングを合わせて受け止めた。手に衝撃が伝わりじんじんするが、おそらく数十秒もすれば収まる。
ボールを手にしたまま再び李狐を見ると、彼女はかすかに顔を引きつらせて一歩後退した。
「何? 気持ち悪い、気持ち悪いってば!」
嫌悪。
未知のものに対する不快感を覚え、それがふっと消える。
李狐が自分から視線を逸らしたのだ。
「……うざ」
吐き捨てる声は冷たく思わず震えそうになったが、同時に知尋はある種の感慨を抱いていた。
李狐の瞳を正面から見られた。
たったそれだけの成果が胸を躍らせ、これまでの悩み、苦しみの数パーセントを晴らしてくれる。
『あなたは戦える』
あの言葉は正しかった。
李孤は強く、自分に自信を持っている。暴力で人をいたぶることを躊躇しない彼女が知尋は恐ろしいが、李狐だって人間なのだ。
対峙して立ち向かうことはできる。
そんな、当たり前のことすら理解できていなかったのだ。
李狐の周囲に何人もの李狐が現れる。彼女達は入り乱れてぐちゃぐちゃになるが、最初から「本物」を目で追っていれば大した問題にはならなかった。
知尋はボールを構え、思い切り投げつけた。
二分後。
渾身のボールを李狐に受け止められた知尋は、外野と内野から延々牽制球を投げつけられ、逃げ回った末、李狐に打ち取られた。
直後、担当教師は五分間の休憩を宣言。
碌に動く気力もない知尋はコート内に座り込んだまま、傍らに歩み寄ってくる真里亜を見上げた。
「お疲れ様、和泉くん」
「……ごめん、勝てなかった」
できることをやった達成感から知尋自身は晴れやかな気分だった。
だが、負けは負け。クラスメート達の予想通りの結果に終わったことに違いはない。
しかし真里亜は首を横に振った。
「気にしないで。あなたが一生懸命やったのはわかってるから」
その言葉に胸がまた軽くなる。
「……真里亜は、本当に」
と。
「惜しかったね、和泉君」
「結構粘ったじゃん。お疲れ!」
感謝の言葉を言い終わる前に、愛華や他のクラスメート達からかけられた声がそれを遮った。何人もの生徒が知尋に声をかけてくれる。
「思ったよりはやれるんだな、お前」
それは、このところ知尋が経験していなかった出来事。
内容自体は称賛と呼べるレベルか微妙だったが、それでもごく当たり前の学校生活の断片が思いがけず手に入ったことに、知尋はこみ上げてくる涙を抑えられなかった。
皆の前でなく気恥ずかしさから、あさっての方向を向いて顔を伏せる。
だから知尋は気づかなかった。向かいのコートで、李狐が知尋を睨みつけていたことを。
彼女の瞳に浮かぶ感情が、苛立ちや嘲りではなく、もっと強いて黒い感情。
嫉妬や憎悪へと変わろうとしていたことを。
「……和泉の癖に。ウザいんだけど」
低い呟きが、当の知尋の耳に届くことなく空気に溶けて消えていった。