「ちょっと、無理しすぎたかな……」
帰りのHR終了後。
鞄を持ち、席を立ったところで、知尋は軽い立ちくらみを起こした。
もともと風邪気味なうえに激しい運動を行ったせいで、身体がもう限界に近い。
……早く帰って寝てしまおう。
ふらつく足で廊下を歩き、校舎を出る。
校門をくぐってしばらくしたところで制服のポケットが震えた。
真里亜から電話だった。
『和泉くんは釣った魚に餌を与えないタイプなの?』
穏やかではあるが、どこか不満そうな声。
「え、と。何の話?」
『黙って一人で帰るのは酷いんじゃないか、という話よ』
はあ、とスピーカー越しにため息を吐く音。
どうやら挨拶も何もなかったのがご機嫌斜めらしい。そう言われても、知尋としては他にどうすればいいかわからなかった。
人目につかない前提なら教室で別れの挨拶をするのもまずいし、「一人で寮に帰る」とわざわざメールを送るのも、当たり前すぎて「だから何?」という感じだ。
そう思い返答に困っていると。
『いいから、うちに来なさい』
「は、はい」
有無を言わさぬ口調で命じられ、思わず勢いで了承した。
『よし。それじゃあ、よろしくね』
一転、弾んだ声で告げられた直後、通話が切れた。
いったいなんなのか。
首を傾げつつも足を止めて踵を返す。ここから真里亜のマンションへはやや遠回りだが、この際仕方ない。
真里亜がどこから電話をかけてきたのか。
クラスメートとの会話や寄り道をするつもりがあるか良く分からなかったので、ややゆっくりペースでマンションへ向かった。
果たして、知尋が到着したときマンションの入り口には既に真里亜の姿があった。
「ごめん、待った?」
「いえ、今来たところよ」
恋人同士のような会話を交わしたあと揃って部屋へ。
当たり前だが、部屋の様子は朝に出た時とまるで変わりなかった。まさかここへ再び、こんなに早く訪れることになるとは。
ひとまず居間の床に荷物を置くと、真里亜がにっこり微笑んで知尋を振り返った。
「さて。昨日渡し忘れたから、今のうちに合い鍵を渡しておくわね。……ええと、どこにしまったかしら……?」
「合い鍵?」
「ええ。無いと不便でしょう? 私がいないときにここを使うこともあるでしょうし」
そう言っていそいそと探し物を始める。
楽しそうなのは良いことだが、いろいろと早計なような気がした。
「いや、家主もいないのに来ることは」
「あるでしょう。寝に来るでも、シャワーを浴びに来るでも、食事をしに来るでも。むしろ好きに使って貰った方が嬉しいわ」
まるで半同棲しているカップルみたいな扱いだった。
まあ、知尋が彼女と交わした契約に基づくと二人は恋人以上の関係なわけで。そう考えれば不自然ではないのか。
「ああ、あった。はい、これ」
ちゃら、と小さな音と共に、知尋の手のひらに合い鍵が乗せられた。黒と白、二色の石をあしらったキーホルダーも一緒だ。
これがあればマンションの入り口も、部屋の鍵も開けられる。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
鍵をぎゅっと握ってお礼を言った。
女の子からプライベートスペースを明け渡されるという事実に戸惑いはあるが、今が合い鍵を突き返す場面でないことは理解できる。
貰ったはいいが結局使わなかった、なんてことがなければいいが。
「それじゃあ、僕はこれで」
確かに合い鍵も受け取った。これで今後、真里亜と話をする場合でも、いちいち彼女に出迎えて貰う必要はなくなる。
用事が終わったのなら、悪い気はするが早く寮に。
「待ちなさい」
廊下へ足を向けたところで首根っこを掴まれた。
「用はまだ終わってないわ」
「……え?」
「え、そんなに意外?」
「いや、その。ごめん、今日は少し疲れてて。できれば早く休みたいな、って」
申し訳なさを感じつつ言うと、真里亜もそれを聞いて表情を和らげた。
「……ああ、そうよね。ごめんなさい。じゃあ、とりあえず私のベッドを使って。今朝、あなたがシャワーを浴びている間にベッドメイクは済ませてあるから」
「あ、うん。……うん?」
頷きかけて止まった。
話が通じていない。というか噛みあっていない。
「あ、いや。早めに用事を済ませて帰らせてくれればそれで」
「え?」
不思議そうに首を傾げられた。
漆黒の瞳が顔を覗き込んできて、途端に身体が熱くなる。彼女はそれに気づいているのかいないのか、呑気な声で言った。
「仮眠をとりたいのよね? だったら、寮まで往復するのは無駄じゃない」
「……あ、ここに戻ってくる前提なんだ?」
「だって、あなたもセックスしたいでしょう?」
真顔ではっきりと言われた。
働いたままの読心能力でも、嘘やからかいで言っている気配は感じ取れない。もちろん、彼女がこういう性格なのは昨日一日で理解したつもりだったが。
どうしたものか。
「あれ。もしかして、考えてなかったの?」
知尋の態度にようやく違和感を覚えたか、真里亜が目を丸くした。
更に彼女は ぷく、と無駄に可愛らしく頬を膨らませると、淑女にあるまじき発言を始める。
「もしオナニーするつもりだったなら、さすがに不満なんだけれど」
「いや、別にオナニーをするつもりは」
「じゃあ、セックスするのよね?」
「それ、二択なんだ」
どっちもしない、という選択肢はないのか。
「だって、性欲を処理しないと死んじゃうわ」
「……死なないよ。そもそも毎日するものでもないし」
「私はこの何年か欠かしたことないわ」
「いや、そんなレアケースを持ち出されても」
言い合いながら、知尋はだんだん自分が何をしているかわからなくなった。気づけば口調までぞんざいになっている。
さすがに怒られるか。
真里亜の様子を窺うと、見目麗しき黒髪の少女は頬を赤く染めて「今の罵倒はちょっと良かった」などと呟いていた。
そういうところがレアケースだというのだが、ともあれ。
知尋は頭の中で真里亜の主張を整理する。
そこまで大層な話ではないが、価値観が違い過ぎてそうしないと理解が追いつかなかった。
「つまり、真里亜はその……セックスしたい、と」
「ええ。できるなら毎日、いえ一日に何度でも。……あなただって、専用の奴隷を得ておいてセックスしたくない、なんて言わないでしょう?」
それは、確かに。
昨夜の一回きりで真里亜との行為が終わってしまうのは残念というか、可能な限り避けたい話だ。ドッジボールの達成感と疲労もあって、彼女との関係について性急に考えるべきだという思考が抜けていたが。
真里亜が常識外れな思考を持つように、知尋も真里亜の思考を理解しようとする努力が欠けていた。
ふっと軽く息を吐いて思考を切り替える。
彼女の言うように性行為をするのなら、確かに一度寮に戻るのは非効率だ。それに、体力的にもできれば避けたい。
「……でも、今日も泊まるとなると着替えが欲しいな」
外出しなければ私服はなくてもいいが、ワイシャツと下着、靴下を毎日洗って使いまわすのは限界がある。せめてその辺りの替えを取りに行くためにも寮には戻らないといけない。
かといって仮眠を取れば外は暗くなる。
遅い時間に学生が外を出歩くのもあまり良くないので、両方欲張るのはちょっと無理そうだ。
「……そうね。じゃあ、こうしましょう」
真里亜も頬に手を当てて何やら思案し、やがて言った。
「あなたの寮の鍵を頂戴。そうしたら私があなたの着替えを取ってくるから、その間ゆっくり休んでおいて」
効率的には悪くない提案だった。
しかし、
「いや、女の子にそんなことさせるのは」
「大丈夫。あなたがどんな性癖でも受け入れるから。契約を申し入れた時点でそれくらいは覚悟してるわ。……むしろ、いやらしい本やDVDがあるなら見てみたいし」
「そういう問題じゃなくて」
防犯と、真里亜にかかる労力を心配しているのだが。
考えてみると彼女は知尋よりよほど暴力に強い。暴漢に襲われようと自力で撃退するだろう。
むしろ、こうして議論しているのが労力の無駄か。
「……うん。じゃあ、悪いけどお願いしてもいいかな?」
「ええ、喜んで」
寮の鍵を真里亜に渡し、併せて住所を伝えた。
知尋の寮は完全な個室制で外から直接、部屋へ入れる仕組みだ。出入りする時だけ気を付ければ他の利用者に出くわすこともないだろう。
居間の椅子へ制服の上着とネクタイをかけ、廊下を歩いて真里亜の部屋へ。
真里亜が言っていた通り、ベッドはきちんと整えられていた。朝の時点ではしっかり残っていた淫臭も消えている。
代わりに漂うのは真里亜の匂い。
吸い寄せられるようにベッドへ入った知尋はその香りに興奮と安心を同時に覚えながら、すぐに眠りへと落ちていった。
☆ ☆ ☆
目を覚ますと窓の外はすっかり暗くなっていた。
ポケットからスマホを取り出して確認すると時刻は午後八時前。どうやら結構な時間眠っていたらしい。
おかげで体力と気力はだいぶ回復した。
きちんと食事をして栄養を補給すれば風邪で寝込まなくて済むだろう。
ベッドから知尋は身を起こして床へ降り立つ。
「あ、結構汚くしちゃったな……」
ベッドはだいぶ乱れてしまっていた。知尋の寝相は決して悪くないものの、それでも寝る前と同じとはいかない。
申し訳なくなり、できる範囲で整えてみる。しかし、ただの男子高校生である知尋にベッドメイクの心得はなく、気持ちましになる程度だった。
「……まあ、仕方ないか」
それ以上は諦めて部屋を出た。
居間に真里亜の姿はなかった。ただしカーテンは閉じていて照明も点いている。テーブルの上にはずらりと料理が並べられ、その上にクロスがかけられていた。
また、浴室からかすかにシャワーの音。
とりあえず真里亜を待つことにして椅子へ歩み寄る。
すると、椅子の傍に大きめのスポーツバッグが置かれていた。知尋が引っ越しの際に持ってきて、押し入れに放り込んでいたものだ。中を開くと知尋の私物がぎっしりと詰め込まれていた。
私服に下着、靴下、ワイシャツの替えから歯ブラシ、スマホの充電器まで。
「……あ、これ」
勉強机の上に置いていた写真立てが衣類の間に挟まっていた。
あまり時間もなかっただろうに、こんなものまで持ってきてくれたのか。
丁寧な仕事振りに感謝しつつ、プライベートを見られた気恥ずかしさが浮かんだ。ただまあ、見られて困るようなものではない。
ちなみに、真里亜が期待したような品はそもそも部屋に置いていない。
「でも、これって殆ど引っ越しの道具じゃ」
生活用品一式が揃っており、少なくともしばらくは帰らなくても何の問題もない。
意地でも知尋を帰したくない――言い換えると、それほどに性行為がしたいということか。
「ああ、目が覚めたのね」
荷物の点検を続けていると真里亜の入浴が終わったようだ。
背後からの声に知尋は顔を上げて振り返る。
そして硬直。
「髪を乾かしたいから、もう少し待っていてくれる? そうしたら食事を温め直すわ」
真里亜は下着姿だった。
バスタオルは手にしているだけで身体に巻いておらず、髪は濡れて肌にぺったり張り付いている。レース付きの黒い下着が彼女のプロポーションを強調、さらに妖艶さをプラスし、少々煽情的すぎる有様だ。
ごくり。
思わず唾液を飲みこんでから知尋は慌てて視線を逸らした。
「わかった。気にせずゆっくりして」
なるべく平静を装って言ったが、真里亜にはまるわかりだったらしい。白い肌をほんのり火照らせた彼女は傍に寄ると、知尋の顔を覗き込んでくる。
くすっ。
「和泉くん、もしかして照れてる? 昨日、あれだけのことをしたのに?」
直球で知尋の心が抉られる。
「……そりゃそうだよ。真里亜は凄く綺麗なんだから」
「っ」
すると返って来たのは短い吐息と「ふうん、そう」という素っ気ない声だった。
気になって様子を窺えば、真里亜は嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「少し、プライドが保たれたわ」
そう言って洗面所へ移動していく。
程なくドライヤーの音が聞こえ始めると、知尋は真里亜に聞こえない声量で呟いた。
「僕は凄く恥ずかしいんだけど」
言っても仕方のないことだろうな、と自分でも思った。