「おはよう、知尋君」
「おはよう、愛華」
教室に入るとすぐ、既に登校していた愛華と挨拶を交わす。
最初は二人の会話を物珍しそうに見るクラスメートもいたが、今はもう日常の一部として、あまり注目されることは無くなっている。
愛華との交際については本人の希望通り、夏休み中は秘密にしていた。
神代には始業式の前日に愛華から話をしたらしい。
話の流れまでは詳しく尋ねなかったが、神代は動揺を見せつつも了承し、二人の仲を祝福してくれたという。
……つくづく、気持ちのいい男だと思う。
二人の関係がクラス内に広く伝わったのは始業式の翌日のこと。
きっかけは、クラスの女子が李狐に投げかけた言葉だった。
『西崎さん、和泉君と付き合ってるって本当?』
始業式前後に、そういう噂がC組、および一年生に流れたのだ。
夏休み中に仲のいい……いや、仲の良かったクラスメートと話し、その結果、一人が「李狐と知尋が付き合っている」と誤解した。
そのため、噂を流したのはまず間違いなくその生徒だと思われる。
当然、知尋達も彼女が何かしてくる可能性は警戒していた。
事前に対策を練っておき、騒ぎを鎮静化するために「真実を公表する」手段を用いた。
『李狐ちゃんの言ってることは本当だよ。知尋君と付き合ってるのは私。李狐ちゃんには相談に乗ってもらったりしてたから、噂はそのせいなのかな?』
一応、ギリギリ嘘は言っていない。
もともと李狐と愛華の関係は皆に広めるつもりだったので、それをそのまま利用した形だ。
『おい神代、お前知ってたのか?』
『ああ。一昨日、高槻さんから聞いたよ』
神代も証言に協力してくれたことで事態は収束。
代わりに、知尋と愛華は馴れ初めやらを尋ねてくる女子生徒達――約一名、男子も含まれたが――へ、当たり障りのない説明をするのに苦労したが、それはまあ仕方ない。
なお、李狐はこの一件で元の友人二人と距離を置くことになった。
これを最も気にしたのは愛華で、対して李狐本人はあっけらかんとしたものだった。
『ごめんなさい、李狐ちゃん』
『いいよ。誤解されたのはあたしのせいだし……もともと、そのうちこうなる気はしてたから』
李狐が仲良くしていた面子はやや斜に構えたところのある、所謂、悪友に近かった。
刺々しい気性を隠さず知尋を攻撃していた頃の李狐ならともかく、今の彼女には少々、相性の良くないタイプだ。
だから、李狐はすっぱりと彼女達との交流を絶った。
クラスメートから知尋との関係について――都合よく態度を変えすぎじゃないかと――指摘されれば、素直に認め、謝りもしていた。
『うん。和泉には悪いことしたと思ってる。……今は和泉のこと別に嫌いじゃないし、謝って許してもらったよ。皆にも嫌な思いをさせて本当にごめんなさい』
以前の彼女なら絶対にありえなかったことだ。
これをきっかけに周囲の人間達も李狐への態度を軟化させたし、知尋もまた深い喜びを噛み締めた。
それでも一時的に孤立する形になった李狐には愛華が頻繁に話しかけるようになり、少しずつ他の女生徒とも馴染み始めている。
『西崎さんってちょっと雰囲気変わったよね』
『落ち着いたっていうか、大人っぽくなった?』
平穏な日常を送るため――派手なことをせず、知尋との関係を隠すためには、この出来事はこれで良かったのではないかと思う。
「知尋君」
と、呼びかける声に意識を戻す。
「今日のお昼は一緒に食べられる?」
「うん、大丈夫」
「良かった。じゃあ、約束ね」
微笑みあって自分の席に戻る。
背中側では、女子生徒が愛華に向けてやっかみ半分の言葉を投げかけていた。
「高槻さんってば。そういう約束はこっそりやろうよ。見せつけられてるみたいでヘコむからさ」
「ご、ごめんね。でも別にそういうのじゃなくて……なんなら皆も一緒に食べる?」
「いいの? ならお邪魔しようかな。和泉君に聞きたいこともあるし」
若干、身の危険を感じた。
と、席についた知尋の肩を誰かががしっと掴む。
「ふっふっふ。大人気だな、和泉」
「……舞阪君」
クラス委員の
この気安いペースのせいで、彼にはつい気を許してしまう。あまり情報を与えるのは危険なタイプだとはわかっているが、それ以上に気軽に話しかけてくれることが嬉しい。
そんな知尋の内心を知ってか知らずか、微妙にイケメン感のある少年は不敵な笑みを浮かべて聞いてくる。
「高槻さんとの進展も気になるが……『あっち』の方は大丈夫なのか?」
「……ああ、うん」
あっち。
言いながら舞阪が視線を送った先は、神代の席。
そこでは席の主が椅子に座ったままちらりと、知尋の方を一瞬だけ振り返っていた。
「準備って程のこともできないけど、心構えはしてあるよ」
「そっか。じゃあまあ、当日を期待しておくかな。ギャラリーを集めるのは任せておけよ」
「いや、あんまり人を呼ぶ必要は……」
苦笑して呼び止めようとしたが、その前に舞阪は知尋の席を離れていってしまった。
……全く、どこまで本気でどこまで計算なのか。
いずれにせよ、心配してくれたのは少し嬉しい。
――二回目の判定を直前の土曜日、知尋は神代と再戦する予定になっている。
今回、話をもちかけたのは神代の方だ。
『和泉君。前と同じようにもう一度、試合ができないかな』
始業式から数日後。
教室内で堂々と告げた彼の表情は、ただ単に鍛錬のためだけに試合を望んでいるわけではないように思えた。
敢えて正面から目は合わせなかったが、きっと彼も愛華の件で思うところがあったのだ。
腹いせとか、そういったものではないにせよ。
『うん。もちろん』
きっと神代が持ちかけて来なければ知尋から声をかけただろう。
試合の約束はあっさりと交わされ、約束の日は今週に迫っている。
……勝てるかどうかは、正直予測がつかない。
夏休み期間中もなるべく訓練に励んできたが、それは神代だって同じはず。互いの差が縮まっているか開いているのかはやってみなくてはわからない。
ただし、もちろん、戦うからには勝つことを考えるつもりだ。
「ね、二人はもうデートとかしたの?」
昼休みの話題は案の定、知尋と愛華のことになった。
クラスメートの女子二人が、興味津々の様子で次々尋ねてくるせいだ。矢継ぎ早の質問に知尋と愛華、そしてついでに誘われた李狐は苦笑いをするしかない。
「あはは……うん、まあ」
「一回だけ、一緒にお買い物へ行ったよね」
まだ夏休み中のことだ。
マンションにも多少の服や生活用品を置いておきたいということで、愛華と一緒に買い物に行った。
ついでにお昼ご飯を食べたり、お茶をしたり。
『李狐ちゃんばっかりずるい』
知尋の服を、一部李狐が見立てているのを知った愛華からもアドバイスを貰ったり。
電車を使って遠出したため疲れたが、しかし充実した時間だった。
「買い物かあ。初デートにしては普通すぎない?」
「それに、付き合い始めてもう結構経つよね?」
すると、デートの内容と回数に首を傾げられた。
そう言われても……知尋と愛華は顔を合わせて困ってしまう。
「うーん……二学期が始まってからは私も医務室のお手伝いがあるし。知尋君も訓練してることが多いから」
なかなか二人で遊びに行く時間が取れない。
充実している弊害、というか。
「へえ、和泉君がそんなに訓練してるのは意外かも」
「あはは……見ての通り、鍛えないと頼りない感じだから」
肩をすくめて答えた。
それを聞いた愛華はくすくす笑う。
馬鹿にしているわけではない。知尋が努力していることを知っている、知ってくれているからだ。
彼女は思い出した、というように口を開いた。
「デートと言えば、日曜日は個室の訓練場でお弁当食べたりしてるよね?」
「うん。そうだね」
「え。それってデートなの?」
クラスメートからは疑問の声が上がったが。
わざわざ外出して、二人でお昼を食べているのだからデートには違いないと思う。
愛華も手伝いがあるのでずっと一緒にいられるわけではないが、暇がある時は訓練に付き合ってくれたりもしているし。
なお、今日もそうだが、このところ知尋と愛華は基本的に同じ内容のお弁当を食べている。
理由は言うまでもなく、愛華が二人分作ってきてくれているのだ。
愛華のお弁当はオーソドックスでほっとする味付け。だからこそ毎日食べても飽きづらい。
『ま、あたしに言わせればまだ甘いけど』
特に和食については、一応の前任者である李狐から駄目だしが出ているが。
本気で困らせるつもりでないのは目を見ずとも雰囲気でわかっている。
「えー、つまんない。もっといちゃいちゃすればいいのに」
「和泉君。そんなんじゃ高槻さんに愛想つかされちゃうよ?」
と、思っていたらそんな指摘まで。
それには愛華が可愛らしく頬を膨らませて抗議した。
「もう、変なこと言わないでよ。私は十分、今の生活に満足してるもん」
「……あー、うん」
そこに、ぼそりと言いつつ頷くのは李狐。
「二人とも十分すぎるほどいちゃいちゃしてるよ。大丈夫」
……彼女の目が微妙に遠い感じだったのは気のせいだろうか。
思いつつ、知尋はふと愛華に尋ねた。
「愛華。今日の放課後は?」
「うん、医務室に寄って行こうかな。いつも通り、先に終わったら迎えに行くね」
「ありがとう」
「いっぱい訓練してきていいよ。少しくらい怪我しても私が治すから」
にっこり笑って頷きあう。
お互い忙しい身なので、せめて帰る時間を合わせるようにしているのだ。
どちらかに用事があると、じゃあ折角だから……と、わざわざもう一方が用事を入れることもある。そのため結局ほぼ毎日一緒に帰っている。
その後は半々くらいの頻度で愛華もマンションに付いて来るのだが……これは周囲には内緒だ。
なお、愛華がマンションに来ない日は夜に電話やメールをしている。行為の最中に電話がかかってきて困ったことも正直、何度かあった。
「……なるほど」
「西崎さんの言うこともわからなくはないかも」
何故か、クラスメート達にまで半眼で呟かれた。
☆ ☆ ☆
そうして、あっという間に放課後。
頻繁に訓練するようになってから、体力がついて一日が早くなった。
相変わらず筋肉の方は芳しくないが、その辺りはもう諦め半分というか、割り切った方がいいと思い始めている。
訓練の量はだんだん増えているし、睡眠促進のお蔭で身体を虐められるため、丈夫さも鍛えられている。
自分なりの方向で強くなればいいのだ、と。
「……ん?」
愛華と挨拶を交わして教室を出、個室訓練場に向かった知尋は、入り口の端末付近に設置されたベンチに人影を見つけた。
それだけなら先客がいたかと思って終わらせるところだが、その人影は少々特徴的だった。
生徒ではなく、スーツ姿の大人の女性。
身長は知尋よりやや高く、胸と尻は真里亜より豊かだと服の上からでもわかる。その分、体型のメリハリでは劣っているものの、正直そこはどうしようもないだろう。
また、髪はどうやら恐ろしく長い。
後頭部で編まれてはいるものの、それが物凄いボリュームになっている。逆算すると、解けば腰程まであってもおかしくないと思われる。
やや垂れた目元は眠そうなようにも微笑んでいるようにも見え、僅かに緩んだ口元がその印象を強調する。
真里亜よりも更に明確な形で『大人の色気』というものをその女性は備えていた。
見覚えは、ない。
スーツ姿の女性というだけなら教員に何人もいるし、主に二・三年を担当している人物であれば覚えがなくとも不思議はないが……。
さすがにこの人は一目見ただけでも印象に残る。
加えて言えば、座学の教師にもフィジカル面の教師にも見えない。
強いていうなら美術とか音楽だが、なんとなくそれも違う気がした。
……この人は多分、『落とし物』だ。
知尋は雰囲気からそう察する。
まあ、もし彼女が本当に教師ではなく、その上で『落とし物』なのだとしたら割と不審人物のような気がするが。
と。
「……?」
彼女が顔を上げて知尋を見た。
お互いにとって不意打ちのようにばっちり目が合う。
「あ……」
くらっとした。
伝わってきた感情は安寧。
なんというか、どうやら彼女は物凄くリラックスしていたらしい。陽だまりの中で居眠りしているような、そんな心地が一瞬にして襲ってくる。
真里亜の欲望とは種類が全く異なるが。
心を支配する圧倒的な量感という意味では似通ったものがある。
「……あ」
女性が目を瞬いた。
知尋の目をじーっと見つめたまま立ち上がり、妙なオーバーアクションでぽんと手を叩く。
「いっけない。いつの間にか授業終わってたんだ……うっかり」
頷く動作でようやく読心が途切れるも、彼女は何を思ったか再び知尋を見つめてくる。今度の感情は好奇心?
訝しみながら佇んでいるとにっこり微笑まれた。
「……ええと」
更にちょいちょいと手招き。こっちに来いと言っているらしい。
なんとなく背後を振り返るが、当然他には誰もいない。女性の方へ向き直ると再び微笑み。
逃げるのはなんとなく悪い気がして、知尋は素直に従った。
近くまで寄ると、ふわり。なんだか良い匂いがした。真里亜達、少女の清潔感のあるそれとは違う複雑な芳香。
「あの」
声をかけようとすると、その前に相手が動いた。
右手を伸ばし、知尋の左肩に軽く掴む。
「え」
そのまま手元に引き寄せられた。
くるっと半回転させられた挙げ句、柔らかく抱き留められる。手荷物はどさりと音を立てて床に落ちた。
背中に当たる双丘の感触が心地いい……ではなく。
害意も何も感じなかったので、つい身を任せてしまったが。
「これは、一体?」
「いいからいいから」
耳元で囁かれながら、そのままベンチに座らされる。
隣ではなく、膝の上だ。
「うふふー」
ぎゅう、っと。
腕が前に回されて抱きしめられる。多少の息苦しさを感じるが、それよりこの人には羞恥心がないのだろうか。
「話し相手、捕まえちゃった」
呟く声もただ楽しそうで捉えどころがない。
「話し相手、ですか?」
「そう、話し相手。一人でここに座ってるのも退屈だったんだ」
何か、ここにいないといけない事情があるのだろうか。
……人待ち、とか?
「人間観察でね。ここに来る子を見てないといけないの」
「いけない、んですか?」
「いけないんだよ。辛いでしょ?」
それは確かに辛いかもしれない。
人待ちなら相手が来れば終わるが、ただ座ってじっと人の流れを見つめ続けるのは結構苦痛だ。
生徒達からしたら、スーツ姿の大人がただ座っているのは少し奇異に映るだろうし。
「あ。まあ、わたしのことは誰も気にしないはずだけどね」
「え? それって」
「そういう能力なの。使っている間、わたしと、わたしに触れている人は存在感がなくなる。道の小石みたいに気にされなくなる」
やはり『落とし物』だったらしい。
――認識疎外の能力。
さらっと言われたが、それはかなり高度な力だ。
驚く知尋に、彼女はなおも楽しそうに。
「だからね、人の目は気にしなくて大丈夫。私としばらくここでお話しよ? 和泉知尋君」
初対面のはずの知尋の名前を口にしてみせた。