李狐の電話を受けてから数分。
駆け足でマンションまで戻った知尋は、はやる気持ちを抑えながら玄関の扉を開けた。
廊下は意外なほど静かだった。
寝室の前あたりにぽつんと一人、所在なさげに金髪の少女が立っている。
彼女は玄関を振り返ると、ほんの少しだけ安堵したような表情を見せた。
「知尋」
「李狐。愛華達は……?」
「この中」
答えた李狐はすぐ傍のドアに視線を向ける。
……なるほど、だから声が聞こえなかったのか。
言い合いになって隣や上の部屋に迷惑がかかるのを気にしたのだろう。
そのまま喧嘩を始めなかったあたり、まだ理性が働いていると見るべきか。あるいは絶対に穏やかなまま話が終わらないことを予想していたのか。
後者だとすればただ事ではない。
「どうして、急に?」
「……普通に居間で話してたんだけどね。真里亜に今日何してたのか聞いた後から険悪な感じになっちゃって……」
段々とヒートアップしながら問い詰める愛華を、真里亜が淡々とした態度のまま突っぱね続けたらしい。
言い合いは平行線のまま続き、やがて場所を寝室に移した。
李狐は二人を諫めようとしたが効果は薄く、知尋に頼ろうといったん寝室を出てきたとのこと。
「……わかった」
知尋は頷き、廊下に荷物を置いてドアに手をかけた。
――最初に危惧した第三者の介入とは種類が違うが、ある意味懸念が当たってしまった。
真里亜と愛華が起こしたトラブルなら、知尋にはそれをどうにかする責任がある。
李狐が神妙な顔で知尋の後に続くのを確認しつつドアを開き、
ぱん。
寝室内で乾いた音が響いた。
慌てて飛び込むと、愛華が真里亜に平手を打ったところだった。
――真里亜の両頬が赤く腫れ、同じように愛華の頬も腫れている。恐らくは『報復』によりダメージが返った結果だろう。
腫れ方からして既に数発分は手が出ているか。
「……っ」
一秒足らずの分析の間に、二人は次の動きに入ってしまう。
愛華が真里亜に掴みかかろうとし、真里亜は短く息を吐いて右手を振り上げる。
両者の動きが相手に届く前に、知尋は二人の間へ割って入った。
「待った。二人とも落ち着いて!」
そのまま攻撃を受けるのは覚悟の上だった、幸いどちらも手を止めてくれた。
このタイミングで知尋が帰ってくるのは予想外だったのだろう。二人はぽかんとした表情で知尋を見た。
「知尋君」
「……和泉君。お帰りなさい」
愛華は興奮冷めやらぬといった調子。一方の真里亜はすぐに表情を戻して知尋を出迎える。
寝室のドアをしっかり閉じた李狐が振り返り、呆れた声で言った。
「いや、お帰りなさいじゃないでしょ。なんで手まで出してんのよ、二人とも」
「だって……」
愛華がきっと真里亜を睨む。
そこに込められた感情は不満や怒りを通り越して嫌悪、憎悪の域に達しているように見えた。
真里亜は冷ややかな態度でそれを受け止めながら呟く。
「何でもないわ。大したことじゃないから、和泉君は気にしないで」
「………」
知尋はもう一度愛華を見た。
彼女は視線を向けられると困ったような、すまなそうな表情を浮かべるものの、同時にこのままでは済ませられない、といった面持ち。
……顔を戻す。
「そういうわけにはいかないよ。少なくとも、大したことじゃないようには見えない」
ただの喧嘩なら介入しなくていいかもしれない。
個人的な、女同士の争いに他人が口を出してもうまくいかないことは多いだろう。しかし今回はそうもいかない。
真里亜の異変を感じた矢先の出来事。
しかも手まで出てしまっているのだ。大切な女の子達が互いに争いあっているのに、見て見ぬふりなんてできはしない。
「……高槻さんの肩を持つのね」
「真里亜?」
「何でもないわ。居間に戻りましょう。ここでは落ち着いて話もできないから」
呟きの意味を問い返すと、真里亜は首を振って身を翻した。呼び止めて問い質したかったが、今は喧嘩の方をなんとかするのが先。
……この部屋を出てしまって大丈夫なものか。
李狐を振り返ると、彼女は眉を寄せつつも頷きを返してきた。
「しょうがないと思う。ベッドに座るより、テーブルでも挟んでた方がまだマシだよ」
「……そっか」
頷く。
「愛華」
「……うん」
そっと肩を抱くようにして促すと、愛華は俯きがちなまま身を任せてくれた。
四人は寝室を出て廊下へ。
そこから居間に向かおうとすると玄関の方から物音がした。
扉が開錠され、小柄な文学少女――華が顔を覗かせる。彼女は振り返った四人を見て怪訝そうな声を上げた。
「和泉君の話が気になって来てみたんですけど……どういう状況ですか?」
「……あーもう。面倒だからとりあえず居間でまとめて話そう」
ため息まじりに李狐がした提案は、誰からも否定されなかった。
ことん。
お盆に乗せたアイスティーのグラスがテーブルの上に移される。
飲み物の用意は来たばかりの華が引き受けてくれた。彼女はグラスを並べ終えると、お盆を片づけてから真里亜の隣に座る。
「……それで、何があったんです? 真里亜ちゃんを叩くとか、理由によっては高槻さんでも許しませんよ?」
小さめのテーブルを二つくっつけた食卓越しに、愛華と真里亜が向かい合っている。李狐が愛華の隣についたので、知尋は二人から等距離の位置に腰を下ろした。
恋人――愛華についてやりたい気持ちはあるが、今の段階で二人のどちらかを贔屓するわけにはいかないだろう。
「僕もまだ殆ど聞いてない。だから、最初から話してくれると嬉しいな」
なるべく穏やかに呼びかけた。
愛華と真里亜は顔を上げてお互いを見る。牽制するような空気の後、先に愛華が口を開いた。
「医務室のお手伝いが一段落した時にね、ちょうど知尋君からメールをもらって。ちょうどいいから今日は終わりにしてもらって、ここに来たの」
真里亜は既に帰宅していた。
李狐と共に居間にいたので、最初は普通に世間話をしていたらしい。その中で何気なく、真里亜が今日何をしていたのかという話題になった。
詰問したわけでもなく普通に聞いただけ。
問題は返答内容だ。
「学園祭の実行委員会に行ってた、って言われたの」
愛華の声はかすかに震えていた。
……どうやら真里亜は、あったことをそのまま伝えたらしい。
「うん、僕も向こうで会ってびっくりした。だから後で話をするつもりだったけど……真里亜が素直に答えるとは思わなかったな」
「隠すようなことではないもの」
まあ、確かに、知尋が帰宅すればどの道露見することではあるが。
「でも、だったらおかしいよ。わざわざ私達に黙っている必要もないでしょ?」
その真意を愛華は真里亜に問い詰めた。
しかし、真里亜は話をはぐらかすばかりで答えようとしなかったという。
『私が勝手に決めたことだもの、一々話す必要はないわ』
話がおかしい、と愛華は思った。
どこに行っていたのかは素直に答えるのに、実行委員会に参加した目的は言わない。隠すか隠さないか、もっとはっきりどちらかに決めればいいはずだ。
納得のいかない愛華は真里亜を更に問い詰めた。
「高槻さんは、全然知らないところで真里亜が知尋と会ってたのが嫌だったみたい」
李狐の呟きに頷く愛華。
「当たり前だよ。だって私は知尋君の彼女なんだから」
たとえ友人でも、いや友人だからこそ、こっそり知尋に接触するのは許せないと。
……当然の話ではある。
愛華は恋人として。
真里亜や李狐、華は奴隷として。知尋の傍にいることを望み、互いに認め合った。ならば本来、お互いのことは最大限尊重するべきだ。
実際、愛華は奴隷達の存在を認め、仲良くしようと努めている。
それは普通に考えたら――先に知尋の傍にいたのが真里亜達の方だとはいえ――尋常じゃない努力だ。
なのに、真里亜はそんな愛華の努力と信頼を踏みにじった。
裏切ったと言っても過言ではない。
そこに作為、悪意を疑うのも仕方のないこと。
『別になにもなかったわ。クラスメートとして二、三話をしただけ』
『なら、どうして黙ってたの? 何もないなら教えてくれればよかったでしょ?』
ここで謝罪していれば話はそれで終わっていた。
軽率だった、次からは気をつける……そう言って頭を下げるだけで、二人の仲には何の亀裂も生じなかっただろう。
しかし真里亜は謝らなかった。
『………』
黙って無視し、話を流そうとした。
そんな態度が愛華をヒートアップさせる原因になった。
『黙ってちゃわからないよ。ちゃんと答えてよ、真里亜ちゃん』
数秒もの沈黙の後、真里亜は言った。
『……和泉君達を驚かせようと思っただけよ。実行委員にしても、他の子がやるより私がやった方が和泉君もやりやすいでしょう?』
『うん。嘘だよね、それ』
愛華は即座に切って捨てた。
そんな理由なら先程、全てを弁解してしまわなかった説明がつかない。
というか、いつもの真里亜なら得意げに「驚いたでしょう?」とでも言ってみせたはずだ。
黙秘だけでなく明確な嘘までついた。
それで二人は言い合いになった。
主に声を荒げるのは愛華の側だったが、ある程度話がこじれたところで、どちらからともなく寝室へ移動することを決めた。
『二人とも落ち着いてよ! ね、せめて知尋が帰ってくるまで待たない?』
『ごめん李狐ちゃん。むしろ、知尋君にこんなところ見せられないよ』
『……そうね。それは同感だわ』
李狐の仲裁も大した効果はなく、どうすべきか困った李狐は知尋に電話をかけた。そうしたら知尋は幸い近くまで来ていて――。
「……というわけ」
はあ、と李狐がため息を吐きながら話を締めくくった。
「ありがとう。……李狐はよく落ち着いててくれたね」
「あー、まあ。高槻さんがぐいぐい行っちゃったせいでタイミングを逃したというか……逆に落ち着くしかなかったっていうか」
バツが悪そうに苦笑する。
しかし、そんな李狐のお蔭で助かったのも事実だ。これで彼女までヒートアップしていたら本格的に収集がつかなかった。
感謝しつつ、聞いたことを頭の中で整理する。
……真里亜の実行委員参加に起因する不和。
原因は、真里亜の頑なな態度にあるようだが――。
「真里亜」
名前を呼ぶと、黒髪の少女は知尋の方を振り返る。
表情は冷静に見えるが、何かを押し殺している。努めて何でもない顔を作っているようにも見えた。
……懸念したような入れ替わりがどうのという話ではないはずだが。
「何があったのか、話してくれないかな? 真里亜がこんな風にするんだから、何か理由があると思うんだ」
――華の時のように。
さすがに本人がいる前で口に出すのはと、ちらりと視線を送って意思を伝える。
すると当の華からは嫌な顔をされたが。
あの時も真里亜は一見、頑なな態度を取りつつ知尋達のために動いてくれていた。
今回の不可解な態度もきっと、何かもっと大きなトラブルを避けるための策に違いない。
「言ったよね。相談なしに自分を犠牲にしないで欲しい、って」
もしも、知尋達が何も知らないのが最適解なのだとしても。
もうあの時のようなことはご免だと、知尋はじっと真里亜を見つめる。
と。
「ああ、えっと。和泉君。盛り上がってるところ申し訳ないんですが」
華がおずおずと声をかけてくる。
彼女が浮かべている表情は、なんとも言えない曖昧なもの。
「うん……多分だけど。今回はそういう話じゃないと思うよ」
言葉を継いだのは李狐。
彼女もまた苦笑めいた、複雑な表情を浮かべたまま知尋を見ている。
「あたし、正直、これは真里亜が悪いと思う」
「真里亜ちゃんが悪いはずないじゃないですか。悪いのは後から入ってきた高槻さんでしょう」
二人とも困っている。
しかし、命を危ぶむような緊迫感があるかというとそうでもなく、互いの意見も食い違っている。
知尋は首を傾げた。
「……どういうこと?」
「つまり、真里亜は知尋と一緒にいたかったから、学園祭の実行委員を引き受けたの。ただそれだけの話だってこと」
李狐の言葉に、華も愛華も驚きを見せなかった。
二人とも分かっていたのだろう。
しかし知尋にとっては思ってもいない突飛な理由で。
だから彼はしばらくの間、ただ絶句することしかできなかった。