「本格的な、調教」
数秒の沈黙の後、真里亜は知尋の言葉を繰り返した。
そうしてようやく意味を理解したのか愕然と呟く。
「……まだ、終わりではないのですね」
「そうだよ」
この、悪夢のような時間はまだ終わらない。
それどころか――本当の悪夢は始まってすらいない。
続いていく。
遙かに長く、果ての見えないままに。
「………」
反応は無かった。
何も感じていないわけではないだろう。
心を鈍感にしなければ、考えるのを止めなければ耐えられないから、心を空っぽにしてやり過ごそうとしている。
そんな真里亜の瞳を、知尋はベッドに足を乗せ身体を運びながら覗き込んだ。
感情の反応はしばらく遅れてやってきた。焦点がなかなか合わないせいで「目が合った」ことにならなかったのかもしれない。
……苦しい、と。
彼女はそう感じていた。
「真里亜。一応聞いておくよ。……何か、言いたいことはある?」
恨み言。泣き言。その他の某か。
何でもいい。何か胸の内からの言葉を。
しかし、真里亜は首を小さく横に振った。
「……何も、ありません」
「……そっか」
頷く。
それなら仕方ない。
このまま調教を続行する以外、知尋にできることは何もない。
「まずは準備から始めようか」
ベッドの上を這い寄って手を差し伸べる。
両手以外が自由な今の真里亜なら逃げることも可能だが、知尋は何の抵抗も受けずに真里亜の手を掴むことができた。
手枷の鍵を外し、エナメル製の手袋も脱がせる。
同じく厚手のタイツも足から脱がせ、黒い首輪だけが残った姿に。
「持ち上げるよ」
依然として動かない真里亜の背中に手を添え持ち上げる。
前に抱き上げたまま寝室を出て浴室へ向かった。
「知尋、洗うの?」
動きに気づいた李狐が誰を、とは言わずに尋ねてきた。
「うん」
「じゃあ、あたしがやろうか? 大変でしょ?」
あるいは『何を』と言った方が声から受けるニュアンスとしては正しかったかもしれない。
……知尋よりむしろ、李狐の方が徹底している。
同性ゆえの残酷さか、知尋の真里亜への想いが強すぎるからか。
何にせよ、彼女のスタンスは有り難い。
「ん……そうだね、お願いしようかな」
おっけ、と李狐は頷いて二人の傍に寄ってきた。
彼女の接近を待ってから、知尋は真里亜を洗面所の床に下ろす。
「立てる?」
「……はい」
真里亜の扱いを李狐にバトンタッチした。
ただし、シャワーの前に首輪だけは自分の手で外す。
かちっ。
鍵が通って錠が外れると、真里亜が「あ……」と声を漏らした。首輪が肌から離れると更に右手を弱々しく持ち上げて取り戻そうとする。
「真里亜。シャワーの時まで着けてたら痛んじゃうよ」
「……っ」
李狐の声で手の動きはようやく止まった。
それを見て瞳に涙が浮かびそうになったので、慌てて代わりに苦笑を作る。
「李狐、頼んだよ」
「はあい。任せて」
明るく笑う李狐と、虚ろな瞳の真里亜。
対照的な二人を残して洗面所を後にした。
……居間にも寝室にも誰もいなくなるのは珍しい。
がらんとした部屋の中を見てふっと息を吐き、知尋は李狐を待つ間、宿題やら直近で片づけなければいけない事柄を済ませた。
――途中、力を入れすぎてシャープペンシルの芯が折れること数回。その度に深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
全部で三十分と少しの時間が経って。
「お待たせ」
李狐に導かれて居間にやってきた真里亜は、髪と身体を綺麗に洗われて清潔な状態になっていた。
そうして見ると、表情以外はまるで普段の真里亜と変わらない。
「それで、こっからどうするの?」
「うん。『それ』を居間のオブジェにする」
敢えて無機物であるかのように言った。
直後、目を見開いたのは李狐ではなく真里亜だった。
信じられないと言うような彼女の反応を、知尋は李狐と二人でじっと受け止めた。
「……っ」
視線に気づいた真里亜ははっとして再び表情を鈍らせる。
……まだ、その程度の余裕はある、か。
冷静に判断を下していると、真里亜がぺたんと床に崩れ落ちた。それを李狐がどこか冷めた目で見下ろして。
「……ん。じゃ、やろっか」
「うん」
二人で居間まで『運んだ』。
いつもの定位置、彼女が使っている椅子に座らせたら拘束を加えていく。かといって手枷足枷をもう一度使うのも芸が無いので、長い縄を使って縛り上げることにした。
人の身体を縛るには身長の数倍――縛り方にもよるが十メートルを超える長さが必要になるらしい。そんな縄、普通ならあるわけがないが、幸いこのマンションには十分すぎる長さの縄が用意されていた。
李狐と三人でアダルトショップに行って以降も、真里亜が定期的に実地、あるいは通販で買い集めていたグッズの中に含まれていたからだ。
『一度やってみたかったの』
そう言って、縄を人体に用いるための準備――縄を煮たりして柔らかくする作業を楽しそうに行っていたのは夏休みのことだったか。
そうして丁寧に手入れされた縄の在り処を知尋は当然のように知っていた。
取り出して撫でると、縄のざらざら感やケバ立ちが取られていて肌触りが良くなっていることがわかった。
彼女は、どういう気持ちでこの処理をしていたのか。
「よかったね、真里亜。せっかく用意したのが無駄にならなくて」
言って李狐が無造作に真里亜の頭を撫でた。
「……本当に」
「ん?」
「……いいえ」
縛るのには時間がかかるので、いったん手枷と足枷で仮止め。
真里亜にアイマスクを被せた上で首輪を嵌め、縄での拘束にかかった。
真里亜の足は軽く開かせて四つ足の椅子の前足に固定する。両手は背もたれの後ろに回して椅子の後ろ足へ結わえ付ける。
……胴体の縛りはかなり苦心した。
何しろ縄での拘束――緊縛なんて初めてなのに、椅子に拘束するアレンジまで加えようとしているのだ。にわか仕込みどころかうろ覚えの知識でどうにかなるはずもなく、ノートパソコンを持ってきて調べながら必死でどうにか縛り終える。
一応、挑戦したのは亀甲縛りという縛り方。
ただし左右のバランスはいびつだし、結び目や締め付けも緩い。手足などもうぐちゃぐちゃで、素人目にも美しくない。秘所に股縄が通っていることを除けば、単なるぐるぐる巻きと大差ない出来だが、当の真里亜に文句を言う気力などないはずだ。
それに、苦心の甲斐あって真里亜の身体は椅子に固定することには成功した。
「……こんなものかな」
「いいんじゃない? どうせただのオブジェなんでしょ?」
「まあ、ね」
李狐の端的な物言いに苦笑した。
彼女の言う通り置物としては成立している。縄による緊縛された真里亜は動けない。身体を揺すれば椅子ごと倒れることは可能だが、一度そうしてしまえば自分で起きることもできない。
ただ、そこにいるだけ。
視覚も封じられているため、頼りになるのは聴覚のみ。
口には枷を嵌めていないので喋ることはできるが――。
「ご主人、様」
「………」
「李狐」
「………」
二人とも、名前を呼ばれても無視した。
これも調教の一環。
ここで真里亜にいい顔をしてしまったら意味がないのだ。
「さて、結構時間経っちゃったね。ご飯の支度始めないと」
「ごめん、李狐。長々と付き合わせちゃって」
「いいのいいの。好きでやってるんだから」
ひらひらと手を振って歩いていく李狐を見送り、知尋は息を吐いた。
真里亜を振り返れば、彼女は口を引き結んで硬直していた。
諦めたか、ヘソを曲げたか。
……どちらでも構わない。
自分に言い聞かせながら、愛華と華に状況を報告するメールを送信した。
愛華達がマンションへやってきたのはそれから三十分ほどが過ぎてからだった。珍しく二人一緒である。
「待ち合わせでもしてたの?」
尋ねると、通学鞄を下ろしながら華が答えた。
「ええ。あまり早くここに来ると、頭で理解していても邪魔したくなりそうだったので。高槻さんの用事が終わるのを待って一緒に来ました」
更に、制服の上着のボタンを外してリボンを解きながら「真里亜ちゃんはどうしました?」と尋ねてくる。
そんな華に、知尋は無言のまま、椅子に固定された真里亜を示した。
「へえ」
すると華は声を上げて真里亜に歩み寄り、右掌で額あたりに触れた。
「変わってますね、このオブジェ」
極限まで平静を装って。
口に出された台詞は、きっとこれまでの責めの中で最大級の威力があっただろう。
華が。
これまで真里亜に並々ならぬ執着を示してきた彼女が、真里亜を真里亜と認識するのを止めた。
「本当だね。ちょっと悪趣味だけど」
敢えて、だろう。
頷いた愛華が口にした、かすかな悪意を含む言葉と相まって、疲弊した真里亜の精神は更に打ちのめされたはずだ。
「あ、ああ」
閉じていた唇が開き、そこから呻き声が漏れる。
「で、西崎さん。何かお手伝いした方がいいですか?」
「あ、うん。お風呂の方お願いしていいかな? 早く入れて交代で入らないと」
「華さん」
李狐と役割分担を話し合う華は振り返りもしない。
「高槻さ――」
「知尋君。宿題終わった? お昼休みに少し進めたんだけど、わからないところがあって」
愛華は真里亜の呼びかけを遮った。
知尋達はそのまま、深海真里亜という少女をいないものとして扱ったまま、入浴と夕食までを滞りなく終えた。
幾度か声を上げていた真里亜もいつしか喋らなくなり、起きているのか寝ているのかもわからなくなった。
そうして食器の片づけや各人の宿題等も終わり、本格的な夜。
「さて。知尋、エッチしよ?」
「あ、李狐ちゃんずるい」
李狐が明るく知尋を誘い、愛華が唇を尖らせてそれに抗議する。
「高槻さんにずるいって言われてもなあ。……いや、もちろん二人でしたいなら、あたしはその後でいいよ?」
あっさり李狐が反論すれば華がそれに呼応した。
「ああ、なるほど。したいならしたいって言ってくれないとわからない、っていうやつですね。わかります」
「む。うう、知尋君。二人がいじめるんだけど」
「……あはは」
いつもと大差ないやり取り。
真里亜がいなくても変わらないやり取り。
「それで、愛華はしたい?」
「う……したいよ、したいです! これでいい?」
ムキになった愛華が言うと、李狐と華がくすくす笑い――。
直後だった。
「……あ、あああ」
濃い、ドロドロしたものを抱えた声が聞こえた。
四人は会話を止めて振り返る。
真里亜が大きく口を開き、唾液をだらだらと垂れ流しながら呻いていた。
「ああ、あ、あああああああーーーーーーっ!」
絶叫だった。
喉が涸れるまで――否、涸れてもなお構わないというように、全力の大声が居間に、一階一番奥の部屋全体に響いた。
他の住人の迷惑なんて気にもしていない。
余裕など微塵もない、人ではなく獣のそれではないかと錯覚するような声はおよそ一分もの間続いた。
知尋達は誰も真里亜を止めなかった。
「知尋君」
「……うん」
ぎゅ。
絶叫する真里亜から視線を外さないまま愛華と手を繋いだ。
……声が収まってから数秒。
口をかすかに開いたままの真里亜に、知尋はそっと声をかけた。
「真里亜」
返事はない。
しかし、今回のそれは答える気力がないというより、どうしていいのかわからないように見えた。
「真里亜ちゃん」
愛華が真里亜に呼びかけながら知尋を見た。
頷いてやると、彼女は椅子に駆け寄って縄を解きにかかった。一人では大変だろうと手伝おうとしたら、華に腕を引くようにして止められた。
「高槻さんにやらせてあげてください」
「……ん」
結局、愛華は二十分近くをかけて縄を解いた。
併せてアイマスクも外すと椅子の向きを変え、傍にしゃがんで顔を覗き込む。
真里亜が顔を背けようとしたので両手でそれを阻止した。
「真里亜ちゃん」
「………」
「どうしてあんなことしたのか、もう一度教えて」
結局、話はそこに戻ってくる。
真里亜が知尋にも、愛華達にも黙ったまま生徒会実行委員になった理由。
その理由すら歯切れ悪く答えず嘘をついてまで誤魔化した理由を真里亜自身の口から聞きたい。
言ってしまえば単にそれだけの話なのだ。
奴隷を志向する言動のせいでわかりづらいが、真里亜はもともとプライドが高い。
ただし、他の「気が強い」少女達――例えば湯瀬朱香やルシル・オーウェルらと違い、彼女の持つプライドはいわば『奴隷のプライド』でも言うべきもの。
自らを貶められることにはさしたる抵抗も無い。
自分が世間一般からかけ離れた性質の持ち主であることも理解している。
しかしその上で『己が主人と認めた相手』、それから主人との間に築いた関係に傷を付けられることを極限まで嫌う。
例外は、主人のためにそれが必要と判断した場合のみ。
だから――他ならぬ真里亜自身が自分で『己の奴隷としての立場』を揺るがすことも絶対に許せない。
ただの女として愛華に嫉妬した、などとは口が裂けても言えないし認められない。
それを言わせるため、認めさせるために真里亜を責めた。
拘束し、放置し、無機質な快楽を与え、ただの物のように扱って奴隷としての立場、奴隷という存在の一側面を再認識させた。
奴隷であり続ける限り、抱く抱かない、どころか生殺与奪の権限さえも主人である知尋にあるのだということ。
知尋が愛華や他の奴隷を重用することに文句も言えないのだと、真里亜の理論で突きつけた。
自分で自分の作り上げた殻を破ってもらうために。
もしその結果、やり方を否定されるならそれでも良かった。
後ろ暗いことなど何もないと毅然と言ってくれるなら全力で謝罪したし、知尋が主人の器でないと断じるのなら仕方がないことだ。
しかし。
「………」
実際に真里亜が選んだのは依然として沈黙だった。
どうして。
どうしてそこまでして黙り続けるのか。
叫び出したくなる気持ちを堪え、知尋は極力淡々とした口調で告げた。
「わかった。なら、最後の調教にしよう。これで本当に最後だ」
真里亜の疲労も限界に達しつつある。
これでもなお頑なな態度を取り続けるのなら。
……本当に彼女との縁を切ろうと、知尋はそう心に決めた。