「真里亜、立つんだ」
知尋の命令にも、少女は椅子に腰かけたまま反応を示さなかった。
更なる調教を受けるとわかっていて立ち上がれる力が、彼女にはもう残っていないのだろう。
そう理解はできるが、やはり少しだけ胸が痛んだ。
「真里亜」
もう一度名前を呼ぶ。
それでようやく黒髪の少女は顔を上げた。
緩慢な動作で腕と足を動かそうとする彼女をじっと見つめていると、知尋以外の者が先にしびれを切らした。
李狐だ。
彼女は、はあ、とため息をついて真里亜に歩み寄る。そうして愛華を脇にどけると、漆黒の双眸を正面から覗き込んだ。
「ねえ、真里亜さ」
冷たい声。
李狐はこの件においてほぼ中立――話し合いの場こそ愛華の側に立っていたものの、真里亜のことも十二分に気遣っていたはず。
しかし、今この場においては。
「あんまりご主人様に舐めた真似するなら、今度こそ本気でぶっ殺すわよ」
明確な怒りを態度に示して真里亜に突きつけていた。
「李狐ちゃん……」
「西崎さん。本気で言っているのなら私もただじゃ」
「黙ってて」
あまりにも剣呑な雰囲気に愛華と華がそれぞれ口を開くが、李狐は二人にもぴしゃりと鋭い言葉を叩きつけた。
それでも振り返らぬまま真里亜を睨んで。
「いつか言ったよね。『あなたには殺せない』って。でもさ、あんたの能力だって万能じゃないよね? 毒とか、物で顔塞いで窒息させれば殺せる」
「そう、ね」
真里亜が小さく答えた。
「……いいわ、殺しなさい」
「っ。この馬鹿……っ」
「李狐!」
真里亜の首に手を伸ばそうとしたところで制止した。
金髪の少女は知尋の声にはっとして、後は逆にしゅんとしてしまう。
「……ごめんなさい」
そんな彼女に知尋は首を振った。
「いや、いいよ。でも、真里亜には躾が必要みたいだね」
「………」
SM調教用のアイテムから黒色のリードを取り出す。
一、二メートル程度の長さのそれを真里亜の首輪に付いている金具に取り付けてぐいっと引いた。
真里亜の身体が椅子から離れ、顔から床に衝突する。
「和泉君!」
「どうにかなるような強さでは引いてないよ。手で支えなかったのは真里亜の不注意。それに、どうせ痛みや怪我は能力で治るんだ」
知尋は華の声に構わずリードを引いた。
従わないのなら引きずるつもりで方向を指示すると、真里亜はよろよろと四つん這いのまま歩き始めた。
……こんな形で、首輪にリードを繋ぐとは思わなかった。
本当なら歓喜の表情を浮かべているはずの真里亜は虚ろな顔で、知尋の心にも苦しみばかりが溢れている。
寝室まで移動させ、適当な床に放り出した。
「……っ」
面積の大部分をベッドに占領されているせいでやや手狭だが、直線状に障害物のない空間を確保できさえすれば『これからやろうとしていること』には支障はない。
いったん真里亜を放置したまま、チェストから細い鞭を取り出した。
……必要があれば使おうと思っていたもの。
SM用の品で、本格的な物に比べて肌へのダメージが低めになるよう作られている。その代わり、振るった時の音は大きめ――らしい。
これも実際に使うのは初めてだった。
「……やるんですね」
「うん。やるよ」
既に他の三人も追いついてきている。
冷めた声で呟いたのは華。この場にいる誰よりも真里亜を重視している彼女としては、本当は知尋を制止したい気持ちでいっぱいだろう。
拘束して自室に放置することで羞恥心と孤独感を植え付ける。
性玩具として無造作に扱った上で、今度は殆ど音のしない部屋で半日を過ごさせる。
人ですらない『物』として徹底した屈辱感を味合わせる。
そして最終的には肉体への責め。
大まかな方針については最初に説明してあった。
これらは全て知尋の我が儘であると同時に、真里亜に素直になってもらうための方策だとも。
その際、華はこんなことを言っていた。
『……正直、賛同はできません。私が真里亜ちゃんのご主人様なら、絶対にそんなことしませんから』
そうだろう。
華ならばきっと真里亜を徹底的に甘やかす。蕩ける程の快楽を常に与え、二人だけの世界を形成し続ける。
今回程度の反抗では態度を曲げないし、そもそも華なら真里亜と同列かそれ以上の存在など作らないはずだ。
『でも、少なくとも和泉君が本気なのはわかりました。……それに、あなたが真里亜ちゃんを一度壊すつもりなら私にとってもチャンスですし。失敗して真里亜ちゃんがフリーになれば願ったり叶ったりです。まあ、ただ』
もし真里亜を『壊す』のではなく『殺す』ようなことがあれば絶対に許さない。
どんな代償を支払おうと絶対に殺す。
そう言って彼女は今回の調教に了承してくれていた。
「約束、覚えてますよね」
「もちろん」
だから、これが最後の調教だ。
華がベッドの上、壁際あたりに退避するのを見ながら鞭の先ををぱらりと落とす。
と、知尋の手を愛華の手がふわりと包んだ。
彼女は信頼の籠もった瞳でじっと見つめてくる。
「知尋君。私、知尋君を見損ないたくないからね」
「……うん」
決して怒りでは鞭を振るわない。
これはあくまでも調教なのだから。
再度自分に確認しながら頷くと、愛華も一度こくんと頷いて窓際に移動した。
「……ま、思いっきりやりなよ。せっかくだし」
最後に李狐が短く言ってドアを背にした。
一度深呼吸。
真里亜は所在なさげな様子で少し離れた床に転がっている。
視線は宙を彷徨い、知尋の顔を見ようとしては断念して下方へと移動している。
そんな彼女へ静かに告げた。
「真里亜。どんな姿勢でも構わないけど、変に庇うと逆に痛いよ」
「……っ」
それを受けたのかどうなのか。
知尋にとって最初にして最大の奴隷はよろよろと身を起こし床にぺたんと座り込んだ。足は軽く開いて床に着け、両手はだらんと垂らした状態。
「いい子だ」
言って、知尋は鞭を振り上げた。
ひゅん。
風を切る音と共に振るった最初の一発は殆ど空振りだった。真里亜の身体へは右肩あたりを軽くかすめた程度。
しかし、それでも真里亜は鞭が振るわれた瞬間びくりと身を震わせていた。
……その一発が痛いか、痛くないかは関係ない。
振るわれる側にとって、鞭の音はそれだけで十分な恐怖の対象になるのだ。
最も、常の真里亜ならこれすらも喜びのままに迎え入れていたのだろうが。
「さすがに、慣れないと上手く使えないな」
十分な効果が得られないのならまだいいが、逆にやりすぎてしまう危険もある。
だが、もちろん止めるつもりはなかった。
ひゅん。ひゅん。ひゅん。
何度も軽めに鞭を振るって感覚を確かめる。そのうちの何回かは真里亜の身体を叩いたが、小さな痣ができてもすぐに治ってしまう。これは真里亜の『自己治癒』の効果だ。
……もう一つの能力である『報復』は発動しない。
真里亜がオフにしてくれているのだ。
鞭打ちを嫌がっていても知尋を拒絶してはいない。
それがわかって少しだけほっとした。
もう一度、今度は強めに腕を振るう。
「っ!」
パシィ!
乾いた音が響き、真里亜の左腕に赤い腫れができた。どうせ、その傷も待っていればすぐに治ってしまうのだが。
「さて。どんどん行くよ」
もはや言葉はいらないだろう。
知尋はただ立て続けに鞭を振るい続けた。その度に打撃音が生まれ、真里亜の白い肌に傷ができる。
一つ目の傷が治りきるより早く二つ目を。
二つ目の傷が治りきるより早く三つ目を。
淡々と、一定のリズムを作りながら責め続ける。その間中、真里亜はずっと歯を食いしばって痛みに耐えていた。
「……っ、はぁっ」
鞭の合間に息を吐いて身体を抱きしめれば、そこに容赦なく鞭を打ち込んだ。
庇えば庇うだけ両腕に赤い痣が増え、腕をどかせば両の乳房や鎖骨付近、下腹部にまで責めが及んだ。
何十回か音が室内に響いた頃、真里亜は知尋に背中を向けた。
日焼けしていない背中を丸め、襲い来る鞭を耐えようとする。
これだけ責めれば当然のこと。
しかし、拒絶する姿勢に知尋の手には力が籠もった。
……そうやって強情を張るなら叩き続けてやる。
怒りではないが、意地のような力が身体を突き動かす。
何度も何度も鞭を振るった。
一発打つのにかかる時間は、息継ぎなどを含めても十秒ちょっと。
一分間に五発程度は打てる計算になるが、気づけば二十分以上が過ぎていた。
見ている李狐達でさえ疲れてきておかしくない頃合い。
知尋の腕も酷い状態になっていた。
鞭を振るう――その行為は上位者のそれであり、一見楽をしているように見えるかもしれないが、実際には腕を振り上げ振り下ろす作業の繰り返し。
込める力と鞭をしならせる工程も加味すれば、腕には相当な負担が掛かる。
……疲労でずっしりと重く、絶えずズキズキと痛みが走る。
普通なら動かすのも辛い状態でなお続けていられたのは、『苦痛軽減』の効果だ。
もちろん、幾ら苦痛を緩和しようと肉体的な限界は越えられないが。
「ぐっ……」
歯を食いしばり痛みを堪えながら、知尋は腕を持ち上げようとする。
だが、もう右腕を動かすことすらままならない。鞭を握っているのがやっとの状態。
「……知尋君、もう無理だよ」
愛華がか細い声で言った。
彼女の意見は正しい。
「――でも、まだ」
少女の背中を赤で埋め尽くせてもいない。
叩いても叩いてもどんどん治っていく。せっかく付けた傷が今、こうしている間にも消えていってしまう。
知尋のしていることが全て無駄だとでも言うように。
……ここで諦めたら。
全部終わってしまう。
知尋と真里亜の契約も、華との一件の後で結んだ絆も。
終わらせたいわけがない。
真里亜を見る。鞭が止んでも身じろぎ一つしない。何も言わない。
唇を噛む。
「愛華、腕を治してくれないかな」
血を吐くような思いで、知尋は愛華を振り返った。
すると、知尋にとって恋人であり、真里亜にとっても友人である少女は、唇を噛んで首を振った。
「駄目」
「……愛華」
知尋と真里亜、どちらのことを気遣うにせよその判断は真っ当だが。
今は譲れないと再度、説得の言葉を紡ごうとして。
「まだ、続けるつもりなら私が代わる」
愛華の言葉にぽかん、と口を開けた。
脱力した拍子に右手から零れ落ちそうになった鞭の柄を、駆け寄ってきた愛華が両手で受け止めた。
それを見た途端、身体からがくんと力が抜ける。
「知尋っ」
李狐が駆け寄ってきて助け起こし、ベッドまで運んでくれた。
近くに寄られた華は一瞬嫌そうな顔をしたものの、さすがに空気を読んで文句までは言ってこなかった。
その間に愛華は鞭の感触を確かめ、何度か素振りを繰り返していた。見様見真似なのだろうが案外様になっている。
「止めないでね、知尋君」
そう告げる彼女の瞳には決意の色がある。
「知尋君にここまでさせちゃったのは私にも責任があるし……私だって真里亜ちゃんとこのままでいいなんて思わない。それに」
じっと、動かず背中を丸めた真里亜を見据えて。
「知尋君にこれだけ想って貰えている真里亜ちゃんが羨ましいって思うから。私も一緒に苦しみたい」
バシィ!
真里亜の背に鋭い一本の跡を刻みつけた。
決意を感じる力強さ。
なまじ多少知識があるせいで、強すぎず弱すぎずを意識していた知尋と違い、愛華の一発一発には彼女の気持ちが深く込められているよう感じられた。
「無様だよね、真里亜ちゃん」
立て続けに鞭音を響かせながら愛華が嘲笑する。
……敢えて、憎まれ口を叩いているのは明らかだ。
「悔しくない? 知尋君じゃなくて私に鞭で打たれて。ボロボロになって。丸くなってじっと耐えてるだけなんて」
しかし、やはり女の子の体力では限界も早い。
だんだんと鞭の間隔は長くなっていくが、それでも振るう強さは変わらない。
それでも、真里亜は何も言わない。
「今の真里亜ちゃん、本当に格好悪いよ」
そして。
ひときわ強く鞭が背中を打った時、知尋は気づいた。
傷跡が治癒していない。
鋭い傷が一つずつ確かに重なっていっている。
真里亜の精神力が尽き――『自己治癒』が発動できなくなったのだ。
「愛華」
「……あ」
一声かけると、愛華もそれだけで気づいたらしい。
右手と鞭を下ろして真里亜を見つめる。もちろん知尋も、李狐も、華も。
皆が見つめる先で。
「……どうして。どうして、こんなに苦しいの? 痛くて、不安で、寂しいの?」
酷くしわがれた痛々しい声を真里亜が漏らした。
それは、これまで彼女と時を共にしてきた者にしかわからない、か細くも重い慟哭だった。
ぽたぽたと寝室の床に涙が落ちる。
「恋なんて、一生するつもりはなかったのに」
こうして。
多大な痛みと犠牲の末に、知尋の願いは成就した。