一人で暮らしてきた家に、最近になって物が増えてきた。
昔は個人の所有物など数えるほど、ほとんどが同僚の商売女たちと共有だったから、初めて自分だけの住まいを与えられた時は感動して戸惑うほどで、一人の空間が嬉しくてたまらなかった。
それが今は、違う。
元々、所有欲はあまりないから、本以外は最低限の日用品しかなかったのに、洗面台に自分が使わない髭剃りや歯ブラシが増え、ハンガーに男物の服をかけるのも珍しくない。
こんな事を嬉しく感じられる日が来るなんて、想像さえしてなかった。
今でも時々、夢ではないかと思う。そしてそれが夢ではないのだと、触れ合ってようやく実感している気がする。
「ん……、ファル……」
唇を重ねる合間、自分の名を囁く低い声が好きだ。
ベッドに隣り合って腰かけてキスをしながら、手の甲を親指でなぞるように撫でられるのが好きだ。
伏せた目をあげ、熱に揺れる瞳を間近で覗き込むのが好きだ――否。それだけじゃない。
「アラガキ……すき。だいすき」
「……ああ。俺もだ」
口づけの間に囁くと、彼は決まって照れて笑う。
その笑顔も好きだと思ったらたまらなくなって、ファルはねだる猫のようにアラガキの腕に身を寄せた。すりすりと肩に顔をよせれば、相手は身じろぎして、
「……ちょっと、待ってくれ。今つける」
こらえるような掠れた声で応え、ベッドサイドの棚の引き出しに手を伸ばした。
アラガキが来るようになってから、そこには避妊用のゴムが入っている。
勢いに任せて忘れてしまいそうになるのが怖いと、彼はいつも最初につけるようにしていた。
(アラガキ、やさしいな)
そんなものいらないと嫌がる男たちを何人も見てきたファルにしてみれば、その誠実さに毎回密かに驚いてしまう。
よっぴいて、どころか翌日の昼までしていた時も欠かさずにいたのだから、アラガキがどれだけ気を遣ってくれているのかと、感動すら覚えた。
(そういうところも、すき)
その誠意が今日はひときわ胸に迫るのは、きっとこれのおかげだ、と右手の指輪を意識する。
(こんなにうれしいプレゼント、はじめて)
時おり誰かから高額の贈り物を寄越される事はこれまでも経験があった。
しかし、娼婦の歓心を買おうとする男たちの必死さを、自分は理解できなかった。
一歩外に出てしまえば別世界の人間としてあっさり忘れてしまえる相手に、なぜ高価なものを与えようとするのか。
仲間の女はペットを飾り立てたいんでしょうと吐き捨て、いいじゃない貰っておきなさいよ、いらないなら売ればいいんだしと囃し立てたが、ファルはすべて丁重に断った。
(だってわたし、ぜんぜん何もうれしくなかった)
所詮通りすぎていくだけの人々。愛しているとベッドで囁いたところで、彼らはファルを自分の家に迎え入れようとはせず、ファルもまた、彼らを自身の心にとどめようとしなかった。
だから贈り物は固持した。
贅沢な、自分を高く見せようとしているのだと陰口を叩かれようと、喜びを感じない贈り物を受けとるわけにはいかなかった。
それが、今は違う。
(うれしくて、泣いてしまいそう)
今日貰った指輪をつけた手が熱い。胸も熱い。目の奥も熱く、涙が出てしまいそうだ。嬉しくて、ありがたくて、
(わたし、何もないけど……なにか、お礼したい)
アラガキ、と名を呼んで、ファルは手を伸ばした。取り出した包みの封を開けようとしている彼の腕に触れ、
「……つけるまえに……さわっても、いい?」
密やかに問いかける。
「ん? 触る?」
アラガキがきょとんと目を瞬いた。何の事か伝わらなかったと察して、うん、と小さく呟いたファルは、するりと手を滑らせる――筋肉の厚い二の腕から肘、脇腹となぞり下り、足の付け根の膨らみへ。
「……ここ。さわっても、いい?」
「――!!」
途端、総毛だつようにアラガキが身震いした。カッと顔が目に見えて赤くなり、
「だ、駄目だっ!」
手首を掴まれ、がばっとばかりに持ち上げられた。アラガキの勢いに驚いて、今度はこっちが目を丸くしてしまう。
「アラガキ、さわられるの、いや? 手がいやなら、口でする?」
「くっ…………! そ、そんな事しなくていい!!!!」
「……そんなにいや? アラガキ、わたしにはしたのに」
夜通し体を重ねた時、彼がファル自身を愛撫したから、抵抗がないものと思っていた。人にはするのに自分は嫌なのかと首をかしげると、
「そ、れはっ、その、お前が嫌だったのなら、悪かったがっ」
アラガキは湯気が出そうな様子で呻く。ううん、とかぶりを振る。
「わたしはきもちよかったから、アラガキも、きもちいいかなって……おもったんだ、けど」
「~~~~、いや、あの、だな……」
しばし言葉を探して目をうろうろ彷徨わせた後。アラガキは太いため息をつき、握ったままのファルの手をベッドに下ろした。視線も下げたまま、
「その……お前の気持ちは嬉しいが、俺は自分がされるのは好きじゃない。女にそういう事をさせるのは抵抗がある。
何というか……虐げてるというか、無理強いしているように思えて、嫌だ」
「わたし、いやじゃないよ?」
「お前がそう感じていても、俺が嫌なんだ。
……すまん、だから、それはしないでくれ。お前がしているところは、見たくない」
はっきり言葉にする。普段柔らかい言葉を使うアラガキにしては明瞭な拒絶に、どきっと心臓が跳ねた。
自分も思わず視線を下げて、つないだ手を見下ろしてしまう。
「……ごめんなさい」
ぽろ、と謝罪を口にすれば、アラガキはいや、と戸惑った様子で呟く。
「謝らないでくれ。怒ってるわけじゃない、きつい言い方をするつもりはなかったんだが」
「うん……」
叱られているとは思わない。だが、高揚していた気持ちがしぼんで、悲しさがしみだしてくる。ごめんね、ともう一度囁く。
「……ごめんね。わたし、そういうのぜんぜん……わからなくて」
「分からないのは、俺が言ってなかったから――」
「そうじゃ、なくて。アラガキがいやだと思うなんて、かんがえてもなくて。
……わたし、そういうことするの、ぜんぜん抵抗なくて……」
「……ファル?」
訝し気にアラガキが顔を覗き込んでくるのを避けて、顔を背ける。肩から落ちた髪の合間に表情を隠すようにして、
「ふつうの女のひとはこういうの、したがらないよね。わたし……ふつうじゃないから」
最後はか細い声で辛うじて囁いた。
(こういうところ。いやらしい事、へいきでしちゃう)
急に現実を突きつけられたように思えて、消えてしまいたくなる。
自分を助けてくれた老人も、アラガキも、皆優しいから、錯覚していた。
まるで自分がまっとうな生き方をしてきた、平凡でありふれた人間であるかのような気がしていた。
けれど、違う。
自分は未認可地区に生まれ、娼婦として半生を過ごしてきた女だ。
望んでいたわけではないにしろ、多くの男に身をゆだね、ベッドで関係を結んできた女だ。
普通の女のふりをして今を生きていようと、これまで積み重ねてきた記憶は体中に染みついていて、消しようがない。ベッドでは大概の事を経験してきたから、普通に生きてきた女なら忌避するような事でも、簡単にしてしまう。
(わたし……やっぱり、ふつうじゃないんだ)
今アラガキに拒否されて、実感を強める。彼がこれまで付き合ってきた女性はきっと、進んでしようとしてこなかっただろう。なのに自分は――
(ごめんなさい)
アラガキが好きでたまらなくて、だからこそ、こんな浅ましい女がそばにいるのが申し訳ない。そうまで思いつめた時、
「ファル。こっちを向いてくれ」
アラガキの凛とした声が耳を撫でた。びくっと肩を震わせる。
いやだ、見たくない。もし軽蔑されていたらと思うと、怖くて顔を上げられない。
だが、アラガキの手がすっと顎をとらえ、引き寄せた。
正面に戻された視界には――真摯な眼差しを向ける、アラガキが映る。ファル、と名を呼んで彼は言う。
「……今まで、俺がお前の過去を責めた事はあるか?」
問いに身を竦ませる。
向き合う事を恐れながら、逃げられもしないと察して、ファルは泣きそうな気持ちになりながら、小さく首を振った。
(アラガキは一度も、わたしを責めなかった)
多分、自分で気づいていないだけで、普通の女でない証拠は他にもあるはずだ。彼を戸惑わせ、過去を想起させる事もあったはずだ。
それなのにアラガキはただの一度も、娼婦だった昔を責めなかった。
「……アラガキは……やさしい、から。わたしにも、やさしいから。そういう事、しない」
呟くと、アラガキは苦笑した。顎の手を頬に移して包み込み、
「そうじゃない。お前が普通じゃないなら、俺も普通じゃない」
「え?」
「俺はな、ファル。……人を殺した事があるんだ」
* * *
それは避けられない事だったのだ、と彼は言う。
――長引く紛争で、民が怯え暮らすある国に、アラガキは国連平和維持活動で派兵された。
国連軍の介入は武力を持っての鎮圧を第一義としない。
平和的な手段を最優先し、紛争地帯の監視や、人道支援活動などを旨としており、やむなく戦闘行為を行う場合も命の奪い合いではなく、自衛戦闘が先にある。
それはアラガキが居た部隊も原則通りで、その日はゲリラが横行する地域の小さな村の民を避難させる任務に当たっていた。
「住民はそう多くはなかったから、警戒を怠る訳にはいかないにしろ、比較的気楽な任務だった。全員ヘリに乗せて、一時間もあれば撤収できるはずだった」
ファルの手を握ったまま、アラガキは淡々と語る。その目はここではなく、その時の光景を見ているのだろう、どこかうつろにさまよっているように思えた。
「いざ飛び立とうとした時、村民の一人が騒ぎ出した。自分の子どもが乗っていない、行方不明だと」
半狂乱になる母親を仲間たちが宥めている間にアラガキは村へ戻り、探索を行った。そう広くもない村内、素朴な土づくりの家々の並ぶ中で子どもくらい簡単に見つかるだろうと思ったが、影一つない。
まさかと思い、土の上に散乱する足跡を子細に調べたところ、小さな足跡が森に向かっているのを見つけた。急いで追いかけていったアラガキは、ようやく男の子をその先に見出す――同時に、銃口を向けて今にも引き金を引こうとしている、ゲリラの男も。
「威嚇射撃も牽制も説得も、何も間に合わない。ほとんど反射的に俺は銃を構えて撃った」
ぎゅ、とアラガキの手に力が入った。指先が冷たくなってきたのは、その時の事を鮮明に思い出しているからだろうか。
「……男は一発で倒れて、動かなかった。俺は急いで子どもを抱き上げてその場から逃げた。斥候なら、銃声を聞きつけて仲間がすぐやってくる危険性があったからだ。
村人たちは誰一人欠けることなく、安全地帯へ脱出できた。俺は何度も、母親に礼を言われたよ。命の恩人だ、神様のようだ、ありがとうと何度も、何度も、涙を流しながら。
それは嬉しかった。
誰かの命を救い、守る事が出来た誇らしさに胸がいっぱいになった。自分の行いは間違いではなかったと思えた」
だがな、とアラガキは笑った。
それはいつもの優しい笑顔ではなく、痛みを堪えるような、ひきつった笑みだった。
「俺は今でも思い出す。あの瞬間、額から血を流して後ろに倒れた男の姿を。
すぐ離れたから、男がどうなったかは分からない。
もしかしたらまだ息があって、その場で手当てをすれば無事だったのかもしれない。……だが、多分、死んだだろう」
「アラガキ」
「俺は後悔はしていない。もし同じ場面に居合わせたら、きっと何回でも同じことをする。
男を狙撃し、子どもを助けて母親へ返すだろう。それが最善だった。他に方法は無かった。
それでも――思い出すんだ。男を殺したあの瞬間を」
「……っ」
ファルは涙が出てきそうになって懸命に堪えた。泣きたいのは自分ではなくアラガキの方だろう。
せめて少しでも温もりを与えられたらと、手を引き寄せて胸に抱きしめる。
彼は少し微笑み、ファル、と囁く。
「同情されたいわけじゃない。これは俺が犯した罪で、お前に背負ってもらいたいわけでもないんだ。
ただ……お前が普通じゃないのなら、俺も普通ではない。そういう面を、人は皆、多かれ少なかれ持っていると思う」
「……うん」
アラガキが言わんとしている事を受け止めようと、顔を上げて目を合わせる。
「俺は言葉にもしたくないようなものを、戦場でたくさん見てきたし、自分だけが清廉潔白だと胸を張って言えない」
「うん」
「俺の全てを、お前には伝えられない。伝えたくない。……そう言ったら、お前は嫌か?」
「…………ううん」
左右に首を振る。アラガキが見聞きしてきたものはきっと深く彼の心に刻み込まれ、一生癒えない傷になっている。
平和な日本へ戻り、退役したとしても、それは消えはしないだろう。
その事を我がことのように痛みとして感じはしても、わざわざ物語ってほしいとは思わなかった。口に出す事で、思い出す事で、アラガキの心は再び深く傷つくだろうから。
「いっても、いわなくても、アラガキはいまわたしのまえにいる、アラガキだから。……いやじゃ、ないよ」
「……うん」
今度はアラガキが呟き、前に身をかがめて、額をこつんと当ててきた。だからファル、と体の内側に響かせるように囁く。
「言える事も、言えない事も、全部ひっくるめて――お前が好きだ」
「アラガキ……」
「昔がどうとか、そういう事は関係ない。後ろを振り返ったまま、前を見ずにいるのはやめてくれ。お互い今の姿で、普通じゃない同士、付き合っていけばいいと、俺は思っているんだ」
「…………ふつうじゃない同士って、いいね」
ふふ、と笑ったら、まなじりから涙がぽろりと零れ落ちた。
そんな風に言われたら、後ろめたく思っていた自分の浅ましさを認めてしまっていいように思えて、肩の荷が下りたように軽くなった。間近で視線を合わせ、目を細めて笑い、
「アラガキ」
「……ファル」
名を呼び合いながら、唇を重ねる。ついばむような口づけを何度か交わし、やがて少しずつ吐息が熱くなっていく中、ふと思いついて囁く。
「アラガキ。わたしがしたいのなら」
「ん?」
「……やっぱり、さわってもいい?」
途端、アラガキがぎしっと硬直した。迷うような沈黙が落ちた後、いや駄目だ、と勢いよく首を振る。
「それだけは駄目だ。……勘弁してくれ」
「ん……分かった」
嫌なら仕方ない。でも本当に嫌なんだろうか、と疑問がちらりと頭をかすめる。アラガキは我を失うと、凄い事をしてくる気がするので、
(こんど、こっそり、ためしちゃおうかな)
そんな事を考えて、思わずくすっと笑ってしまった。
うん、確かに――相手に言えない事を隠しておくのも、悪くない気がする。