偶然といってもいい出会い、正直なところ、この男には今更、会いたくなかった。
しかし、気持ちを変えたのは疲れきった表情を見て、あろうことか哀れみさえ感じてしまったからだ、
だが、そんな事をするべきではなかったと後になって後悔した、成人でもなければ善人でもないのだ、かって、憎い恋敵、昔なら顔も見たくないと思ったほどで殺したいとさえ思っていた相手だ。
話したいことがあると言われて少し迷った、もしかしたら彼女も来ているのかと周りに視線を向けたが、姿はない、正直、ほっとした。
着いてくるようにといって案内したのは秘密の場所の一つだ。
店に入り、視線を向けて奥の部屋に入ると私は仮面を取った、部屋の中が少し暑かったせいもある、だが、この男の前で隠す必要などないと思ったからだ。
「彼女のことかね」
だが、自分から口を開こうとはしない、運ばれてきた紅茶にも口をつけない。
苛立ちを感じ始めたが、ようやく、クリスティーヌと小さく呟いた。
「子供ができないということを、あなたは、どう思う」
その言葉に驚いた、正直、欲しいと思ったことはない、理由はと聞かれたら一つは生まれてきた場合の子供の顔だ。
私の顔は生まれつきだ、絶対に遺伝しないという可能性はない。
僕のせいで子供ができないと、その告白に私は無言で返した、それは男なら、かなりのショックなことだろうが、話を聞くと問題は、それではない様な気がした。
彼女は新公演の準備に忙しいらしい、納得した、つまりはそういうことだ
「愚痴を言ってどうなる」
彼女は子供を望んではいない、夫である彼はショックを受けているが、どういうつもりだ、この私が、答えを出せると思っているのか。
夫婦の問題に他人の私が、だ。
そして、これがクリスティーヌであれば心が動いたんだろうかと私は考えた。
彼女が相談してきたとしたら、慰めの言葉の一つでも、ほんの一瞬、頭の中に浮かんだ考えを即座に振り払った。
愛人を作ればいいのだ、パリでは珍しくない、上流階級の人間なら尚更だ、大抵が恥知らずな事をするし、それを当たり前だと思っている。
だが、この男はどうだろう、彼女だけを。
「私は、君たちを送り出した」
「わかっている、子供は無理だと最近になって自分で諦めがついたんだ」
だったら、何を悩んでいると尋ねるが、答えは男の口からは出てこない、痺れを切らして席を立とうとしたとき、ようやく口を開いた。
「彼女は歌手として、もう一度、舞台に立ちたいと思っている、それも、このパリで」
すぐには返事がてきなかった、もしかして協力しろというのか、だとしたら随分と虫のいい話だと思わずにはいられない、私は、もう、音楽の天使ではないと返した。
半分、皮肉交じりの声でだ。
「君に会いたがっているんだ」
その言葉を彼女ではなく、この男の口から聞くことになるとは、どちらにしても素直に喜ぶ事はできない。
「私は会いたいとは思わない、君の話を聞いた今となっては」
「エリック」
愕然とした表情、まさか、断るとは思っていなかったのか、だとしたら随分と甘く見られたものだ。
「今、パリではどれだけの歌手や女優がいると思っている、成功するのは簡単な事ではない、昔とは違うんだ」
協力はしない、できない、私の答えは当然のものだろう。
その日、久しぶりに友人が訪ねてきた、
数日前の事もあり、私は、この訪問を心から喜んでいたわけではなかったが、追い返すことはしなかった。
ここ最近の私は大人しくしていた、地下と地上を言ったり来たりとしてはいたが、彼が目くじらを立てるような犯罪まがいのことをやっているわけでもない。
実際、生活の為の金には不自由していなかった、オペラ座の事件が終わった後、自分の財産を色々な場所に隠しておいたからだ。
ナーディル・カーンはペルシャにいた頃は警察長官、法の番人だ。
今はパリにいるが、ご苦労なことに、この男は私がいつ、犯罪を犯さないかと目を光らせているのだ。
一体何の用があってきたんだ、ロシア式の紅茶を入れて客をもてなすという態度に出た私を彼はじっと見た、その視線、顔つきがいつもと違うことを感じながら、こちらから尋ねる事はしなかった。
相手が言い出すのを待ったのだ、一杯目の紅茶を飲み干したときだ。
「君は最近、街へ出ているのか」
それが最初の質問で私は頷いた、食材の買い出しや仕事で必要なものもあるからねと別に隠す必要はない。
詳しく話す事はしなかったが、暇つぶしに作曲をして売れない作家に提供したり、他には細工物を作ったりもしていた。
デザインには凝ったし材料には糸目をつけずに作ったものを独自のルートで売る、すると以外にも、金持ちや貴族たちには高値で売れるのだ。
「君は、最近、あの界隈、通りには行ったかい、私の従者が」
話を聞いているうちに、だんだんと義憤が悪くなってきた。
ナーディルは察したのだろう、ついに会話は途切れた、彼が最後まで口にしなかったのは幸いだ。
「ナーディル、私が、何の用があって、あんな通りに行く、しかも女を娼婦を買いにいくだと、仮面をつけた男だと、この数年、パリでは増えたね、あの事件のせいかな」
多少なりとも毒があったかもしれない、昔なら、いや、相手の首を躊躇うことなく、縊り殺していただろう。
「すまない、もしかしてと思ったんだ、君だって普通の男だと思っている、忘れてくれ」
話題を変えようとしたらしいが、私の方が気になってしまった。
「ナーディル、君の葬式なんて考えたくもない」
そこで会話が途切れてしまった。
その日は久しぶりの外出だった、帰り道、ふと数日前の会話を思い出したせいか、家ではなく、普段なら近寄ることもない通りに足を踏み入れたのは日も暮れかけた頃だ。
治安の良い場所とはいえない、昼間でも後ろめたいことのある連中がたむろしている娼婦たちが声をかけてくるが、男は応えることはしなかった。
少し広い通りに出た時、数人の娼婦、いや、男妾たちが集まっていた、客を待っているようでも、談笑に夢中になっている様子でもない、何をしているのかと不思議に思い興味が湧いた。
すぐ近くにいる少年に視線を向けると近づいてきた。
尋ねると、代筆屋だよという返事に驚いた、高級メゾンの娼婦なら珍しくはない、集まっているのは、どう見ても下層階級の娼婦達ばかりだからだ。
仮面越しでもわかったのだろう、少年はにやりと笑い、代筆屋は外国人なんだと説明した、だから、そんなに高い料金は取らないんだよ、その言葉に納得した。
下町の娼婦達とはいえ愚かではない、色々な手管を使い恋人を繋ぎ止めようと必死になるのは愛情だけではない、生きる為だ。
自分が愚かではない付き合う価値がある自分を高く見せるために代筆屋に頼むとは、外国人というのはパリには多くはない、興味が沸いて、どんな人間なのか、顔が見たくなったのだ。