二人は知り合いという設定ですが、似ているのは醜さ。
仲は、あまりという感じです。
やっとパリに戻ってきたと彼女は安堵した、夫のラウルを説得するのに少しばかり時間はかかったが、最後には自分の頼みをきいてくれたときは、ほっとしたものだ。
できるなら、もう一度、オペラ座で歌いたいと思った。
だが、それには準備がいる、外国から戻ってきたばかりでは、オペラ歌手というだけでは心許ない、協力者が必要だ。
パトロン、自噴を支援してくれる人間がいればいいのだが、以前、コーラスガールの自分と結婚したことで疎遠となった者たちが大勢いたからだ。
多少なりとも覚悟はしていたが、手のひらを返すように見向きもしなくなった友人達の態度に夫のラウルは酷く落胆した。
それにパリを出た後、夫の両親が亡くなったが、葬儀にも出ていない、いや、出席などもってのほか、面汚しだと言われたのだ。
なのに、パリに戻ってきて驚いたのは夫の兄、フィリップの事業がうまくいってないことだった、結婚前までは仲の良かった兄弟だったのに。
それが弟の駆け落ち同然の結婚、数年の歳月が複雑なものに変えてしまった。
だが、それは歌姫である彼女にとっては、どうにかできることではなかった。
初めて外国の舞台で歌った時、大勢の人々の称賛の声と拍手に満足していた、だが、それは最初のうちだけだった。
時間が経つうちに感じたのは不安と焦り、それが次第に大きくなってきた。
現実と自分の想像の違いを改めて知ったのだ。
僕の妻は素晴らしい歌手だ、夫であるラウルの言葉に皆が頷く、それが信じられないわけではない、だが彼は本当に音楽を知っているのだろうか。
君の歌は最高だという、それは正直な気持ちなのだろう、しかし、自分の求めているものとは違う気がした。
そして、今更のように自覚したのだ、パリに戻りたいと。
オペラ座で歌いたい、だが、自分一人では無理だ、できることなら力を借りたい、彼が今もパリにいるなら協力してもらえたらと思っていた。
数日前に夫のラウルが彼に会ったという話を聞いて驚いた、偶然とはいえ、こんなにも早く会えるなど思わなかったからだ、ところが、話を聞いて落胆した。
予想は見事に裏切られた、きっとラウルは彼の機嫌を損ねるような言葉を口にしたのではないかと思った、もし、話をしたのが自分なら結果は違っていたかもしれない。
彼は今もオペラ座の地下に、いや、あの事件の後だ、どこか別の場所に住んでいるのかもしれない、正直なところ見当がつかない、一番簡単なのは彼を知っている人物に会うことだ、ペルシャ人に会えばわかるかもしれない。
街へ出た彼女だが、目当ての人物を探す前に出会ってしまった。
思わず声をかけようとしたが、躊躇したのも無理はない。
全身黒ずくめで仮面をつけている、だが帽子も着ているものも以前の彼とは違う気がした、それに服装よりも仮面だ、顔の右半分を隠している、以前は顔全体を隠すような白い仮面だった。
なのに今は金属のような鈍い光を放つ硬質的な物をつけている、そのせいか顔立ちも雰囲気も違って見えるのは気のせいだろうか。
しばらく見ない間に彼も変わったのだろうか。
そういえばパリに戻ってきてしばらくたつが、幽霊騒ぎの噂など全く聞かない事に最近になって気づいた。
あれから数年が過ぎたことで人々の記憶から消えてしまったのだろうか。
確かめようとして近づくが、何故か、声をかけることができない、もし人違いなら。
だが、我慢できずに名前を呼ぼうとした瞬間、相手が気づいた。
「マダム、私に何か」
別人だとわかった瞬間、 すぐには言葉が出てこなかった、人違いだと知っても目を離すことができず、彼と同じような人間が存在しているということが、信じられなかった。
男は立ち去ったが、クリスティーヌは、その後ろ姿から目を離すことができなかった。
目指す通りに入った時、男は異変に気づいた、何かあったのだろうかと近くにいた娼婦に声をかけると警察さと苦々しい顔になった。
そして、地面に唾を吐き捨てんばかりの勢いで悪態をついた。
「代筆屋を捕まえに来たんだよ」
その言葉に男は、すぐには返事ができなかった。
娼婦は言葉を続けた公爵の娘だって言ってたよ、 隠し財産ってやつ、噂のある男だったから捕まればバスティーユだよ。
男の体、いや、思考が、一瞬停止した、あそこに入ったら生きて出ることなど、否、出てくるときは死体だ。
「捕まったのか」
「逃げたよ」
その言葉にほっとした、だが、投獄されたら終わりだ。
男は焦った、彼女を見つけなければと、何故なら約束したからだ、娘を妻にしてもいいと、この手紙を見せれば、娘は喜んで居たのみを聞いてくれる、君の妻になる筈だ。
どちらにしろ、死人の頼みは断れないからと言われたのだ。
その日、女はいつものように道端に小さな看板を出して仕事を始めようとした。
ところが、何人かの客が来た後、厳しい顔した黒服の男がやってきた。
一目でわかる、警察だ、数日前から言われていたのだ。
「公爵の娘だな、父親の」
続く言葉を最後まで聞くことができず、その場から逃げるように走り出した。
捕まれば牢屋に入れられて、すぐに出ることは無理だろう、拷問されるかもしれない、あまりにも不利な立場にあった。
だが、どこに行けばいいのか、父親の愛人たちに助けを求めようと思っても昼間の時間では皆、眠っているだろう、捕まるのが自分だけとは限らない。
ふと思いついたのはパリの地下だ、貧乏な住むところにない人間は地下に隠れ住んでいるという話を聞いたことがある。
中には 罪を犯した悪人もいるか この際、構ってはいられない、逃げなければと女は覚悟を決めた。
自分は悪い事などしていないが、無実の罪だと叫んだところで信じてもらえるかどうかわからない、いや、嘘を言っていると思われるだろう。
地下に入ると完全な暗闇ではなかった、灯りが所々に置かれていた。
それにすれ違う人もいる、緊張したが、ズボンとシャツという格好なので男だと思われているのだろう。
いや、こんなところだと他人のことを気にする余裕などないのかもしれない、歩き続けるが、途中で何度も転びそうになった、その度に振り返った。
だが、追いかけてくる人の気配はない、曲がり道や扉のついている通路もあった、ドアノブに手をかけると鍵がかかっていないので、そのまま歩き続けた、正直、どこに向かっているのかわからなかった。
どれくらい歩き続けたのか、時間も距離もわからないまま、ふと足を止めた、目の前にあるのは湖だ、そういえば、劇場の地下には、そんな話を聞いた事があると思いだした。
疲れを感じて地面に腰を下ろし、これからどうしようかと考えたとき、不安になった。
「誰だ」
突然の呼びかけに返事もできなかった、視線を声のする方へと向けるが、灯りと足音に恐怖しか感じなかった。
「よく、ここまで来たものだ」
どこか面白がっているような、いや、呆れたような声だった、灯りを手にした相手が近づいてくる、闇の中に白い仮面が浮かび上がり女は驚いた。
数日が過ぎた。
後先の事を考えず地下に逃げたが、偶然、出会った男は数日前、女の代筆屋、しかも外国人とは珍しいと言葉を交わした相手だった。
食事や寝床を用意してくれたばかりか、いや、数日前は着替えまで用意してくれた、オペラ座の衣装部屋から拝借してきたんだと笑いながらだ。
好きなだけいてもいいと言われて申し出を受け入れたのは先の見通しが不安だったからだ、迷いながらも数日が過ぎた。
「ずっと地下で暮らしているの」
ある日、女は尋ねてみた、怒るかもしれないと思ったが、少しねと呟いた後、 今はそうでもないと答えた、外にも秘密の場所があると言われて女は頷いた。
男がピアノに向かおうとしたので一人のほうがいいだろうと思い、女は部屋から出ようとした、父親、彼の知り合いの芸術家らがそうだった事を思い出したのだ。
ところが、いきなり腕を掴まれた、振り返って男を見ると仮面の二つの穴から覗く目に睨まれたような気がして、思わず視線をそらした。
「ここにいたまえ」
それは、この数日、一緒に過ごしてきた中で初めて聞く声、まるで命令するような声で女は慌てて謝った。
「ごめんなさい」
男は割れに帰った様に手を離し、首を振った、自分が怒っていると女は思った。
いや、そうではない、だが、この妙な気まずさは。
「驚かせるつもりはなかった、すまない」
そう言って、ピアノを聞いて欲しいんだと訂正するように言葉を続けた。
女は、その場に座りこんだ。
しばらくしてピアノの音が部屋中に響きはじめた。
ほんの少し、男は昔の事を思い出して感傷的な気分になった、あの頃、幸せだと思っていた時間は、あまりにも短かった。
綺麗な思い出はいつまでも心に残るというが、クリスティーヌとの事は今では忘れたいと願っていた。
なのに、つきまとうのだ。
男はピアノを引く手を止めて振り返った、床の上でクッションにもたれかかるようにして座っていた女は、いつの間にか眠っていた。
自分ほど醜い男はいないと思っていたが、世の中は不思議にも残酷なものだと知ったのは数年前の事だ、私が彼に会った時は互いに驚きで言葉も出なかった。
男の顔は左半分が私と同じような引きつったような陥没したような跡もあり、どうしてそうなったのかと聞くと最初は渋っていたが生まれつきだという。
母親は名前を付けてくれなかったようで、その時々で偽名を、自分の気に入った名を使っていたらしい。
しばらくは一緒に暮らしたが、長くは続かなかった。
私は放浪中の身で、そこに定住するつもりはなかったからだ、別れてから、あの男はどこへ行ったのかと思うときもあった。
もしかしたら死んだのかもしれないと思った、ところが意外な形で数年ぶりの再会を果たした、それも、このオペラ座の地下で会ったのだ。
数日前のことだ。
私は彼女を探しに行った湖のそばで、あの男と再会した、数年ぶりに出会ったが男は別れた時とあまり変わっていないように見えた。
最初の一言で、何を言えばいいのかわからなかったが、男は私よりも彼女のことが気になっているようだった。
驚いたことに男は彼女の父親から手紙を預かってきたらしい。
女の父親は半月ほど前にノートルダム寺院の前の広場で公開処刑となった、大勢の愛人達と不道徳的な行為を行い、それを本にして世に送り出したという罪で。
今までも何度か逮捕されかけたことがあったらしいが、ある貴族の娘に手を出したことで親の怒りを買った。
娘は社交界に出る前の身だった、それが世間、平民達の間にまで知れ渡った。
これには教会、警察も黙ってはいられなかったのだろう。
貴族といえど、やり過ぎたのだ。
手紙を読み終わった彼女はため息をつくと手紙を続けに来た男の顔をじっと見た。
「何故、あなたが、これを届けに来たんです、ムッシュウ」
戸惑うような表情と声に男は淡々と迎えに来た、自分と結婚すれば大丈夫だと安心させるように男は言葉を続けたが、その言葉に女の顔は怒っているようにも見えた。
側で見ていた、もう一人の仮面の男も、この時ばかりは居心地の悪さを察して、わずかに顔を背けた。
天使様が助けてくれたのと叫ぶように声をあげた、本物の天使様よと。
何故なら少女は見たのだから、捥がれた跡、大きな傷跡を。
それは決して気持ちのいいものではない傷跡だった。
だが、少女の目には天使の翼が捥がれた跡、そのものだった。
天井から堕ちてくるのは牢獄だ、何故、何のために、勿論、閉じ込める為。
シャンデリアが落ちた、いや、堕ちたのだ。
世界は閉じ込める事に成功した。
彼女を。
マルキ・ド、おまえに、彼女をあげよう、だが、代わりに生け贄を。
おまえ自身が、バスティーユではなく、絞首台に。
ノートルダム(我らの淑女)の前で。