そしてヒロインは結婚を断ろうとするのですが。
もう一人の怪人もクリスティーヌに、久しぶりに会うのでずか。
以前、プリマドンナとして舞台に立っていたクリスティーヌ、彼女が再びパリに戻ってきたということで初日の舞台は大成功、彼女はパリの宝だと写真は一面を飾った。
この成功に彼女は満足したのはいうまでもない、仮面の男は彼女と契約を結んだのだ。
ただ、これに彼女はわずかばかりだが、不満を感じた、長期契約ではなかったからだ。
三ヶ月というのは決して長くはない、何とか契約の延長をと思った理由は借金だ。
フィリップの借金を肩代わりすることになったからだ、しかも、夫のラウルは直前まで自分に黙っていたのだ。
困っているというわけではないが、それでも先の生活に不安があった、だが、それだけではない、兄の事業を手伝う事にしたと言われたときは驚いた、今まで、まともに商売などしたことがないのに大丈夫だろうか。
もし、兄の様に失敗して借金が増えたら。
だが、妻に負担をかける訳にはいかないといわれては、強く、反対する事などできなかった。
そして、これは最近になって知ったことだが、自分と契約を結んだ興行主は以前、自分の師匠だった彼と知り合いだという。
自分が再びパリで舞台に立つ事を、どう思っているのだろうか。
気になったが、会いに行くのは内心、怖かった、もしかしたら拒絶されるかもしれないと思ったからだ。
代筆屋という仕事は客次第だ、昼を過ぎる頃になると通りには人が姿を見せはじめる、大半は娼婦や商売人、客引きのヒモなどだ、そして彼女も小さな看板を出して仕事を始める。
最近は金がないものは食べ物を持ってくる者もいる、普通なら引き受けないが、菓子や果物などの高価な食べ物なので女は引き受けていた。
その場で即興のごとく書く場合もあるが、中には時間をかけて書いて欲しいと頼む者もいる、持ち帰りの仕事はあまり多く過ぎても良くない、今日は店じまいにしようと思ったとき、女の背中から突然抱きついたのは男娼だった。
「あんたのお陰だよ」
女の書いている様子を覗きこみながら 男は笑う。
字を読む事はできないが、読み上げながら書いてくれるので、気に入らないところがあれば、手直しを頼む事もできるのが嬉しかった。
以前、他の代筆屋に頼んだ時は口を出すなと怒られて書いてもらえなかったのだ。
「ねえっ、よかったら部屋で一晩、過ごすっていうのは」
その言葉に女は困ったように代金は、また今度でいいわよと笑った。
「もう、商売抜きでだよ、お茶くらい」
物言いだな視線に女は笑った、その表情に男はわかってるよと少し残念そうに笑う、代筆屋の女は商売をする娼婦や男娼とは決して深い関係にはならない、というか誘いをかけても乗らないのだ。
以前、しつこく誘いをかけた娼婦がいたが、その女がメゾンの高級娼婦に、ひどく説教を食らったことは有名な話だ、それに娼婦は国営許可を持った者でも病気持ちが多い。
少し拗ねた様に男は笑いながら、今度は、いつ来ると尋ねた。
「天気が良ければ明後日ぐらいには」
「待ってる」
頬に軽くキスをされて女の体が一瞬、硬直した。
「あんたって、恥ずかしがりやね」
女は手を振り仕方ないと言わんばかりに照れた笑いを返した、軽い挨拶だとわかっていても慣れないのだ。
道具をしまい、帰ろうと歩き出したとき声をかけられた、仮面の男だ、数日前まで一緒にオペラ座の地下で暮らしていた男に女は笑いかけた。
「今日の仕事は終わったのか」
家に帰って続きをと言うと、男は頷き手を伸ばした、荷物を持つと言わんばかりの態度に女は断ろうとしたが、鞄を強引に奪うように取られてしまつた。
「あれは男娼か」
その言葉にああと頷きながら女は最近の流行らしいですと説明した。
「綺麗でしょう」
女の口から出た言葉は自然で、内心、あれがと男は女の横顔をチラリと見た。
「ところで、何かあったんですか」
近くに来たからと声をかけてくれるのは女にとって嬉しかった、父親の愛人や知り合い以外の、自分の友人という存在は殆どいなかったからだ。
歩き出すと男が口を開いた。
「結婚の話はなくなったそうだね」
「父はよかれと思ったのかもしれないけど、多分、断る事も想像していたんじゃないかと思うんです」
笑いながら言葉を続ける女の横顔を男は仮面の下から伺う様に見た。
亡くなった貴族の事はあまり知らなかったので、友人に頼んで調べて貰ったのだ、元、警察官の彼なら噂以上事を探り出せるだろうと思ったが、予想以上にナーディル・カーンは色々なことを教えてくれた。
愛人かは大勢いるが、自分の子供、実子はいないらしい。
「娘の事は、ごく一部の親しい者は知っているようだね、数年前、突然、屋敷に連れてきたらしい、言っておくが、そのとき、子供ではなかったようだよ」
侯爵は幼児愛好の趣味はなかったようだと付け加える友人は、君が考えているような事はないと言葉を続けた。
「愛人達は娘の存在を、聞いているのか」
出された紅茶を遠慮なく、おかわりしながら、自分が買ってきた持参してきたヴィクトリアケーキを食べるナーディルは言葉を続けた。
「皆、驚いたようだが、受け入れているんだ、正直、そこがよくわからない、今、代筆屋の仕事をしているそうだが、それも愛人達が手助けをしているからだ、でなければ、あの通りで商売なんてできない」
そう言われては納得せざるえない、仮面の男は頷いた。
「侯爵は財産の殆どを愛人につぎ込んでいる」
では、彼女には財産を残さなかったというのだろうか、そんな感情が顔に出たのかもしれない、すると、それはあまりたいしたことじゃないとナーディルは首を振った。
「あまり、関わらない方がいいんじゃないか、調べてもわからないことが多すぎる」
まるで忠告の様な言葉だ。
そんなお会話のやりとりを思い出しながら、男は隣の女を見た
よければお茶をどうぞと部屋に誘われて入ると室内は驚くほど質素だった。
ただ、机とその上に山積みになった紙とインク、ペンが、まるで、この部屋の住人の様な存在感を放っていた。
目の前にカップが置かれた。
「これは随分と、いい茶葉だ」
「そう、もらい物なんですけど、ところで、お願いが」
こんなことを言い出すのは初めてではないだろうか、突然、目の前に一枚の切符を差し出してきた。
劇場、舞台の切符だ、それも、あの男の。
ふと数日前の出来事を思い出した、結婚を断わられた、それがショックだったのか、後日、何故か、あの男は自分に愚痴を聞いてくれと訪ねてきたのだ。
その挙げ句、自分と彼女が関係を持っているのではと妙な勘ぐりまでしてきた。
あまりにも馬鹿馬鹿しく、話を聞くだけでうんざりした気分になったのは、つい最近のことだ。
一度は断ったが、相手が承知しないのは何か理由があるのだろうか。
この劇場へ行くということは、クリスティーヌの姿を見る事になるだろう。
舞台が始まるのは夜なので食事をすませてから迎えに行って、気に入らなければ途中で帰ればいい、彼女は気を悪くはしないだろう、そんな事を考えていた。
その日の夕方近く、家を訪ねてドアをノックすると、最初に顔を出したのは見知らぬ女性だ、メイドかと思ったが、服装や振る舞い、言葉遣いも明らかに上流の空気を漂わせている。
女は部屋の奥に声をかけると、今度はメイドらしき女性が現れ、お茶の用意を始めた。
「お待ちください、ムッシュウ、劇場までは馬車を用意しました、ところで、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「ヴァレンティーナ、その人は親切で心配する事は」
部屋の奥から聞こえてきた声に名前を呼ばれた女性は軽く首を振った。
「私の主人は心配しておられます、今日も本来なら行く必要はないと申しております」
「結婚の話を断るだけよ」
「もし、もしもですよ」
「ああ、できた、ムッシュウ、お待たせして」
部屋の奥から出てきた女性は別人のようで、男は唖然とした。
初めて会ったとき、その後も彼女は古いシャツとズボンで女性らしい姿を見たことはなかったからだ。
フランス女性のドレス姿とは違う、布地も仕立ても見たことのないものだ。
「コルセットやバッセルは慣れないと大変ですからね、どうですか」
「オリエンタル、ジャポニズム、こんなの初めてだわ、ありがとう、ヴァレンティーナ」
「礼は奥様にですわ、いつか必要になるだろうと以前から用意しておりました、飾り物はどうなさいます」
「髪留めだけでいいわ、おかしくない」
「お似合いです、とても素敵ですわ」
側にいたメイドが興奮気味に同意し、二人の視線に男は自分の意見も求められているのだと、この時、初めて気づいた。
馬車に乗るとき、緊張すると呟いただけで後は劇場に着くまで女は無言だった。
だが、それは男もだ、馬車から降り、劇場に入るとすれ違う男女が振り返ったのも無理はない。
「変じゃない、この格好」
女の、いつもとは違う声は少し弱々しい、化粧も着飾るのも苦手だと呟く声に男は似合っていると答えた。
少し声を潜めるようにして呟いたが、その声は彼女の耳は届いてはいないようだ。
「立ち入った事を聞くが、君の父親は、あの男に借金を」
ナーディルから以前、聞いていた話と噂からもしかしてと思ったが、女は首を振った。
「今日は話を断って、もう終わり」
そうだろうか、本当に、それで終わりだろうか。
舞台が始まると、気になったのは演台の役者、女優ではなく隣にいる彼女だ、色とりどりの艶やかなイリュージョン、見たことのない出し物に人々は歓喜の声をあげる。
この舞台を作り上げた男は成功に満足しているだろう。
プリマドンナ、クリスティーヌは観客の盛大な拍手を受けて、嬉しそうな微笑みを浮かべている、この成功に彼女は満足しているだろう。
そして、自分も彼女を見ていられるだけで満足していた、本当に、ただ、側にいるだけで幸せだと思っていたのだ。
あの頃は、だが、戻ることなどできない。
自分は音楽の天使と呼ばれ、彼女の歌のレッスン、上達する事だけに必死だった、子爵が現れるまでは。
自分は結局選ばれず彼女とは結ばれる事はなかった、だが、もしあのとき、運命が変わって彼女が自分を選んだとしたらどうなっていただろう。
夫となった男は今、彼女がプリマとして成功する事を心から喜んでいるのだろうか、自分の存在が今の彼女にとって、いや、どちらにしろ、もう関係ない、少なくとも、今の自分には。
もう一人の怪人にとって、その出会いは忘れられないものだった。
何故なら、その場所はパリでも有名な阿片窟だったからだ。
男にとって、阿片は常用ではなく、ただの興味と暇つぶしだった。
多分、初めての場所で、興奮していたのかもしれない、いや、酒を飲んでいたので酔っていたせいもあるのだろう。
隣にいたのは知らない女だ、もしかして、この店の女かもしれないが、お互い戯れ言に酔っていた。
女は始終、涙を流し、時折、旦那様、旦那様と繰り返し呼んでいた。
言葉の端々から金持ちのパトロンと喧嘩でもしたのか、いや、それとも捨てられたのかもしれない、だが、そんな事は、よくある話、珍しくもなかった。
女の身なりも着ているものも悪くなく、パトロンの男は気前がよかったのだろう。
おしろいと甘いむせるような香水の匂い、そのせいかもしれない、よこしまな気分を覚えて男は手を伸ばし女の肩を抱き抱き寄せた。
すると女も抵抗することなく身を任せてきた。
ところが、いざ、その時になると逃げようとした。
肩を押さえて押し倒そうとした、その時、ドアの向こうから騒がしい声が聞こえできた。
時間はたっぷりあるはずだと思った瞬間、いきなりドアが開いた。
もしかして女の間男、いや、パトロンがやってきたのかと思ったが、開いたドアの外に立っていたのは若い女だった。
「お嬢様」
どうして、ここにといわんばかりの驚きの表情だ。
近づいてきた女は立ち上がるように促す、帰ろうと。
そして側にいる男の顔を睨みつけ、いきなり手を振り上げた。
仮面がはじけ飛んだ、何が起こったのか、痛みを感じたのは今までの人生において、本当に久しぶりだった。
それも女の平手打ちだ、自分の顔を見ている、目をそらす事もなく、じっと、まるで睨みつけるようにだ。
この顔が怖くないのか、化け物のようだと叫び声をあげて逃げる事さえしない、女を前にして男は唖然とした。
この時は知らなかった、父親の恋人、愛人を探しにきた娘の存在は男にとって驚きだった。
そして、今、彼女は自分の劇場に来てくれた。
支配人室を訪れた女を前に陳腐な言葉しか出てこなかった、話がすめばすぐに帰ると言われ、男は自分の数日前の行動を今更の様に後悔した。
まず、結婚話は早急だったと謝罪した、金持ちや貴族の娘なら当たり前のことだが、外国人の彼女なら驚いて違和感を感じても不思議はない。
「昔のことだが、阿片窟では暗くて、よく見えていなかったんだろう、この顔」
自分の仮面の下の素顔は余程の事がない限り、人前で外した事もない、だが、あのときは彼女によって晒されてしまった。
驚いたことに女は、その時の事を忘れていた。
仮面をつけた男など珍しくないのかと思ったが、阿片窟では素顔を隠す為、珍しくはないのだろう、それに、あんの場所では普通ではない者など大勢いて、珍しくもない。
今、仮面をとり、素顔を見せたら目の前にいる女は、どんな顔をするのだろう、あの一瞬は脳裏に焼き付いて今でも鮮明に思い出すことができるものだ。
男は仮面に手をかけた、自分から素顔を晒すことなど今までにあっただろうか。
「どう思う、この顔を」
聞かずにはいられなかった。
皆が恐ろしいと言わんばかりに悲鳴をあげ、嫌悪の表情を見せる、子供は泣き出し、それを宥める親の声は悲痛だ。
そんな事が何度あっただろうか、そして今、目の前の女は男の顔を見ると、その顔をわずかに曇らせた。
「まともな顔をしても、皆から嫌われる人はいるわ」
誰の事を言っているのか、すぐにはわからなかった。
「貴族の中でも嫌われていたわ、でも世の中の人間、全員に好かれるなんてことは無理だと思うし、そんなこと、気にしていたら人生は楽しくないって言ってたわ、自分の劇場、パリで公演できて、あなたは幸せじゃないの」
正直、こんなことを言われるとは予想していなかった。
返事ができない男に女は言葉を続けた。
「もう帰らないと」
「待ってくれ、君は満足しているのか」
それは女にしてみれば予想もしない質問だったのかもしれない、部屋を出て行こうとする女を男は引きとめた。
待っていようと考えて劇場を出たが、やはり気になる、引き返そうと劇場の中に再び足を踏み入れたとき。中に入ったとき。
「エリック」
近づいてきた彼女は驚きと嬉しそうな表情で近づいてくる、これが昔なら自分は両手を広げて抱きしめただろうか。
あと少し、寸前のところで彼女が立ち止まったのは、クリスティーヌと呼んだ声が冷たく、まるで拒絶するように感じられたからだ。
「支配人室は、どこだ」
クリスティーヌは驚いた、かってオペラ座の怪人と呼ばれていた頃の、冷たい声を思い出したからだ。
彼は自分の舞台を観に来てくれたのではないのか、それとも何か別の用があって、ここに来たのだろうか。
「あの男はどこにいる」
静かで冷たい声は感情を表に出すまいとしているのか、目の前にいる自分の事などわずかばかりも気にかけていないのか。
かって自分を愛している、その為なら何でもすると言った彼なのだろうか。
クリスティーヌは自分の立っている場所がわからなくなった。
時間をかけて構わない、知って欲しい、まるで訴えるように男は言葉を続けた。
「見た目ほど、私の中身はし醜悪でおぞましくもないつもりだ、勿論、人並みの普通という言葉が、どれだけ当てはまるのかわからないが」
甘い想像に浸るほど楽観的ではない、現実の自分は顔の醜い男で人殺しで犯罪に手を染めたこともある、つまりまっとうな人間とはかけ離れている。
しかし、まともな普通の善人の顔をしていても薬物中毒、犯罪者など珍しくない。
だが、醜いという、これだけは別だ。
これだけで、人は残酷に冷酷な眼差しを平気で向けてくる。
今、自分の目の前に立っている女の顔、その目を見ながら男は必死だった、同時に嬉しくもあった、逃げる事なく自分の言葉を聞いている、それだけのことなのに。
「少し、いいかしら」
女が言葉を遮った。
「座ってもいい、少し足が疲れたの」
「ああ、構わない、良かったら、そこの椅子に」
ノックもせずドアを開けて部屋に入ると部屋の中、椅子に座っている女の姿に仮面の男は、ほっとした。
視線を感じ、そちらを見ると男が何か言い足そうな視線を向けてくる。
不意に女が今日の舞台は楽しかったと言葉をかけると男は微笑んだ。
「明日、迎えに行く」
「ああ、そんな事は」
「自分が、そうしたいんだ、お願いだ」
帰り道、明日から一緒に暮らすと聞かされて仮面の男は驚いた。
互いの事を知るためにと聞かされ、何故、理由はと尋ねると女は困った顔をした。
あの素顔を見てなんとも思わないのだろうかと思ったが、この時、気づいたのだ、あの男が仮面をつけていなかった、素顔のままだったことを。
そして、このとき男は仮面を取った。
「私の顔も同じだ」
そう言って、自らの手で仮面を取った。