高山流水さん、いつも誤字訂正ありがとうございます
綾小路くん割とピンチです。
一体何故こんなことになったのだろうか。
ランジェリーショップで自分の女の下着姿を鑑賞して、プレゼントする。ただそれだけのことが変わってしまった。
原因の、背中に焼きつくような情念がこもった視線を送ってくる一之瀬の気配に溜息をこらえる。
「…っ……そうだよね。私より、堀北さんを取るよね……っ」
分けがわからん。正直な感想はこれに尽きる。
一之瀬の涙の詰問も、隠れたことも、熱を持った視線もすべて理解不能だ。何らかの策という可能性は低い。一之瀬は善良な人間だが馬鹿じゃない。こんな奇行を人目に晒す意味は理解している。なのにこれだ。
正直なところ、一之瀬がストレスか何かでおかしくなって奇行に走っている可能性が最も高い。
来店したときからおかしかったし、下着を迷彩にして下着棚に隠れるとかそれ以外の可能性を考える余地が非常に少ない。
そうなると精神的異常を抱えた友人をどうするかという問題が生起してしまう。
担任の星之宮を呼び出すべきだろうがどうしよう。自慢の生徒がなんらかの精神的な病気だというのを、やんわりと教えてあげることが出来る便利な日本語は無いものか。
憂鬱だ。
「あ、開けるわよ」
「ああ、開けてくれ」
鈴音は一度目をつぶり開くと、意を決して胸の前で重ね合わせたカーテンを離した。そうすることでカーテンに隠れていた鈴音の下着だけを身につけた裸体が目に飛び込む。
憂鬱な思いは鈴音の下着姿で吹き飛んだ。
「赤か」
ぼんやりと、それだけ呟く。
「赤……赤って……そっかあ、そんな扇情的な下着着るんだあ……堀北さん」
怨念が籠もった声が耳朶を打つ。特に堀北さんの部分は裏切り者を弾劾しているようにしか聞こえない。が気にもならない。
長く艶やかな黒髪。
整った顔立ちに、浮かべられた色気を帯びた表情。
白磁のごとき肌が、ほんのりと朱に染まり、下着の色の赤を映えさせている。
普段はフルカップの色気より機能性を重視したブラをつけているのに。四分の三カップにして美しい谷間を強調している。
鍛えられひきしまった腰。見事なくびれだ。かわいらしい臍は今は鈴音の手で見えない。
白い滑らかな肌が、蛍光灯の灯りを反射している。
染みひとつなく、鍛えられた上に油がのった完璧なまでの腰。
ハイレッグのショーツがしなやかな太ももを露にして目を惹きつけ、今すぐにでもしゃぶりつきたくなる欲望を掻き立てる。
普段の強気な態度の裏に隠された、オレの手で育てられている途中のこの魅力的な肢体。
そのギャップに加えて、普段と違い恥じらう表情のギャップが合わさり、なんともいえない色気をかもし出しているのが、またなんとも。
「堀北さん……プール行った時より、あちこち育ってる……ふぅん」
きいぃ、と重低音が耳に届く。
まるで。そう、まるで、木製の棚を爪で引っかけばこんな音がするのだろう。一之瀬がそんなことをするはずがないし、してもどうでもいい。
「ね、ねえ……」
「……」
「ちょっと!清隆くん」
「あ、ああ?な、なんだ、鈴音」
「ひとの下着姿を見た途端固まっておいて、何って何よ……そんなにこの格好、おかしかったかしら?」
「い、いや、そうじゃないんだ。実はな」
「堀北さんと綾小路くん名前で呼び合ってるんだ……そっかあ」
後ろからおどろおどろしい気配がするが、今は前の鈴音だ。器用にオレにしか聞こえない声を出す一之瀬は後で対処しよう。
「実は、何かしら?」
「お前に見惚れてたんだ、鈴音」
「え?わ、わたしに、見惚れたの?」
「出るところは出て、引っ込むところは引っ込む……そのスタイル、見惚れないほうがどうかしている」
「っ……な、なにをいうかと思えば……いやらしい。あなた、今まですぐに押し倒すなり揉むなりしゃぶるなりしておいて、今更誉めるなんて」
「仕方がないだろう。健康的な男子のオレが、目の前で魅力的な女の子が据え膳でいるなら襲い掛かるだろう」
「……そう言えばそうよね。あなたも同年代の男子生徒だったわね」
頬を染めて照れていた鈴音が疑い深げに言う。
「ああ、魅力的な女子の下着姿で虜になるくらいには健康的な男子生徒のつもりだ」
「魅力的?わ私が?」
「ああ」
「……そう、そう言われると悪い気はしないわね」
体を隠すようにしていた手を髪にやりくるくるし始める。可愛さに目を細める。
「押し倒す?……揉む?……しゃぶる?……ぁっ!!??……ほ、堀北さんの肌の赤い虫刺されみたいなのって、うそっ!?」
振り返らなくてもわかる。今一之瀬は真っ赤だ。オレも表情には出していないが情事の痕を他人に見られる羞恥を堪えている。
「しかし、赤とは思わなかった。あの鈴音がな」
「いろいろ考えたのだけど、今の私の肌にはちょうどいいと思って」
「ああ、確かにな」
一晩中、散々嬲りつくした肌には痕がついていない場所のほうが少ない。
滑らかな首筋にポツリポツリと吸い付いた痕が残り、鎖骨、胸元はもちろん、脇腹と腿にはいくつかの歯形さえクッキリと残っている。
特に――
「うっ血してはいないようだけど、縄で縛られた痕がひどいでしょう。こんなところにまで残っているなんて、背中がどうなっているか怖くて見れなかったわよ」
「確かに胸の谷間にくっきりと残ってるな。肩に回して、胸の谷間を通したときのが」
「……変態」
「お前が指差したんだろう」
「それでもよ」
ドサリ
「縄?……縛……る?……縄?縛っ……縛りって何?なんで?」
棚に音をたててもたれ掛かりながら、理解不能の言葉を聞いたようにおうむ返しに呟き続ける一之瀬。
先程まで発していたオドロオドロした気配は、驚愕で吹き飛んだようだ。
お陰で、ここまで知られてしまったのもあって、意識は切り替わった。
一之瀬を気にせずに、鈴音の下着姿を堪能して鈴音と楽しむ。
これしかない。
「それにしても……嫌だわ、こんなところにも痕があるわね」
「痛むか?」
「痛みはないのだけど、誰かさんが私を倒立の姿勢で空中で固定した挙句、あそこを舐めさせながら吸い付いてくれたところがね」
腰を折りショーツの尻の部分をめくって試着室の鏡に映す。真っ白で柔らかいとよく知っているお尻にもいくつもの赤い点が。
エロい。下半身が起き上がるのを必死で堪えるくらいエロい。
「おできみたいになっているわね。どれだけの力で吸ったのかしらね。誰かさんは」
「酷いことをするやつが居るんだな。血が上って眩暈をさせながら尻にそんな痕をつけるなんて」
「まったくよね。もう嫌だ吸わないで吸ってる音聞かさないでって何度も言ったのに、言うたびにあそこを大きくする誰かさんは酷い人よ」
快楽混じりの悲痛な叫びを思い出しながら、鈴音の尻に刻み込んだ痕を見て得もいえぬ心地好さを堪能する。
「吸って?……吸わないでって……音?痕?あそこ???」
どうやら、一之瀬はあまりこういう知識がないようだ。パニックになっているだけなのかもしれないが。
「確かにそうだな」
「ええ……で、どうかしら?」
「どうとは?」
「このポーズよ。あなたが言っていた色気のあるポーズとして合格?」
腰を折ったことで、赤いブラに包まれた白い双丘が柔らかさを強調するようにたゆむ。
細い腰にわずかに浮かんだ筋肉の筋がなんともなまめかしい。
白い尻にいくつもついた赤い痕が、大事な部分を包んだ赤いクロッチと合わさり、匂いたつような色香を匂わせる。
何よりも、羞恥のあまり真っ赤にして視線を合わせず逃げまわせる鈴音の整った顔。
「合格だ。その姿勢のままでいて欲しい」
「この姿勢、立っているので精一杯の私には辛いのだけど」
「頼む」
「……少しだけよ」
顔をさらに染めて了承してくれた。目の保養として有り難いが。
「ほ、堀北さん。え、堀北さんって。もっとこう、え?え?え?」
勝手に追い詰められていく一之瀬はどうしたのだろうか。……まさかな。
数分後。辛くなった姿勢を戻して裸身を手で隠しながら鈴音が言う。
「そろそろ、肝心の下着がどうなのか。あなたの意見を聞かせてもらえるかしら」
「そうだな。多少目立つ色合いには間違いないが、悪目立ちしてるわけではない。リボンのワンポイントもあるから鈴音的にも悪い気はしないだろう」
「……私の下着にリボンがついているの覚えていてくれたのね」
「あれだけ何度も見ていればな」
「そう、その、リボンなんて子供ぽいとは思わないのね」
「当たり前だろ。個人的な感想だが、お前の場合女の子っぽいのがよく似合っている」
「でも、色気がない、とか思わないの」
何故そんなに不安そうにするんだ。
「確かに赤でリボンだと色気にはかけるな。だが――」
「そうよね。やっぱり、これは」
残念そうに下着を見下ろす。
「最後まで聞けよ。個人的な感想といっただろう。お前のことをよく知らないやつならまず色気だのなんだので判断するだろうな。
オレは、お前の女の子らしいところをよく知っているからな。逆に女の子らしいのが好きだし似合っていると思う」
「あ、あなたね……い、いきなりなにを」
視線が絡み合い、鈴音が頬を染めて目を逸らす。
「何と言われても率直な感想だ。お前に可愛らしい服はよく似合う」
「ず、ずいぶん口が巧くなったじゃない。何かあったの?」
「ちょっとした心境な変化があってな」
無言で続きを促す鈴音に応える。
「さっき南雲と話していただろう」
「そうね。何の話をしていたかは聞こえなかったけど……あなたひょっとして、南雲先輩に教わったとおりにしているんじゃないでしょうね」
「まさか。他人の言葉で話すのはやめろと言われた。何より」
「何より?」
「俺が南雲の言うことを素直に聞くと思うか」
「……聞かないわね」
「そっかあ、あの人が、アドバイスしたんだ。そうだったんだ。しかも、ついさっき……へぇ」
「あの人」呼びか一之瀬。親愛の情がある「先輩」「南雲先輩」でもなく尊敬の念がある「南雲生徒会長」でもなく、どうでもいい人カテゴリー「あの人」。
何故か知らないが一瞬で一之瀬の中で南雲の好感度がゼロになってしまった。
「それでも実のある会話だった。どんな話をしたのかは言えないが気づいたことがある」
「何に?」
「オレにはデリカシーもムードもなかったということに」
「うそ……気づいたのね。やっと」
目を丸くして感嘆する鈴音。半裸の体を隠していた手さえ下ろすほど、驚いている。
やはり、そうだったか。感極まった鈴音は他の何より雄弁だ。
「正直、あなたは人のこと娼婦か何かと認識していると思っていたわ」
「流石にそこまでではない」
酷い評価に言い返すがジト目で睨まれる。
「あなた、最初の時私にどうしたか忘れたのかしら。キスもせずに胸とあそこを、いいえ全身を嬲り尽くしてから犯そうとしたわよね。最後の力を振り絞ってこっちからキスしなければ、間違いなくファーストキスの前に処女を奪われていたわ」
「確かに、でもな」
「デリカシーとムードを覚えようとしているのよね」
「……ああ」
「なら、私が魅力的だったから暴走したとか。デリカシーの欠片も無いこと言うはずがないわよね」
疑問な形をとった確認に、やはりこの台詞はだめだったかと思いながら、素直な思いを正直に誤魔化さず目を見て告げる。
「……勿論だ」
オレの想いを鈴音は見抜く。
「そう言おうとして躊躇った……とこかしらね」
「いや、そんなことは――」
「違うの?最近、あなたのポーカーフェイスがある程度読めるようになったから間違いないわ」
見抜かれ詰まるオレに容赦なく止めを刺す。
「呆れたわ。情を交わすより欲望を優先させる対象でしかないと、公言しようとしてどうするつもりなのよ。私でなくとも、よほどの聖女か馬鹿でなければ娼婦扱いしていると受け取るわよ。あなたのことをある程度理解していなければ、間違いなくね」
「……すまなかった。猛省する」
反論するような愚を犯さず、素直に謝ると鈴音は表情を緩める。
「猛省して。正直トラウマに成りかけたんだから。でも、猛省するなら許すし掘り起こさない」
「良いのか」
正直かなり尾を引っ張ると思っていた。笑って許せるほど鈴音は寛大で慈愛に満ちていただろうか。
「あ、綾小路くん。そんなっ」
オレのあまりの鬼畜行動に驚く一之瀬に衝撃が走っているようだが……気にしないでおこう。
「朝イチで一発殴ったから気は済んだわ」
「あの一発は、それが理由だったのか」
オレの回答に頭が痛いと鈴音が額に手をやる。半裸でそんな姿勢をされると、強調された谷間がクッキリとした上で豊かになった双丘が揺れて目に毒だ。
目をそこに向けると、鈴音に冷たい目で睨まれる意味で。
「あなた、まさか初めての私を気絶させて足腰立たないようにまでしたから殴られたと思っていたの?」
「正直、そう思っていた」
「そういうところが、デリカシーもムードもないのよ」
ふぅと一息ついて耳元の髪を一度撫でる。オレのポーカーフェイスが読まれたように、オレも鈴音の癖を読めるようになった。
これは、鈴音にとって恥ずかしいことを言おうとするサインだ。
「あのね。確かに思うところはあるけど、あなたと……その、そういうことをしたから嬉しい気持ちの方が強かったし、あれだけシテもらえた充実感もあったし、なにより次の日無理強いしなかったから、それはまだ許せたわ」
「そうだったのか」
「何より、何時も気絶するのは私が不馴れだからよ。覚えたてだから、色々下手だしごめんなさい」
「いや、そう考えてしてくれるだけで嬉しい。ありがとう」
嘘偽りはない。つい半月前まで処女だった鈴音が、性知識を覚え実施してくれている。その気持ちが嬉しかった。
「……今のは少しデリカシーがあったわね」
「そうか?」
軽く驚いた後、オレの返答にくすりと鈴音はかすかな笑みを漏らす。
「毎回……え、そういうのって、気絶して、足腰たたないものなの」
あまりの衝撃に一之瀬はグロッキーになっているが。
「ええ、そうよ。初めて家族以外の異性に手料理を振る舞ったのに――違う男子の名前を出した頃とは隔世と言っても良いくらいに違うわ」
「すまん。本当にバカだった。今もバカだが」
改めて聞くと酷い。酷すぎるだろうオレ。ここで須藤の名前を言わない気配りが出来る鈴音が、恋愛に重きを置いてないと認識していた辺り救いようがない。
「そっかあ……そんなこともしてたんだ」
現在進行形で酷いことをしているから、弁護する気も起きない。
……南雲と一之瀬のことで会話したとき鬼畜呼ばわりされたこと。オレの驚異を知っているはずなのに一之瀬を突撃させた義理堅い朝比奈。様子がおかしすぎる一之瀬。
そういうことに少しだけ気を配るようにしたオレはある程度予想付けた。
……まさかとは思っていたが、そうなのか。
「分かっているなら良いわよ。デリカシーもムードも欠けていることを自覚したのは、一本前進したと認める。後で南雲先輩にお礼でも言ったほうがいいかしら」
「必要ないと思うがな」
「ええ、そうね。あなたの許可があるか、あなたと一緒じゃなければ南雲先輩とは話せないのよね」
そう言った覚えはないが、嬉しそうな鈴音に水を差すのは野暮だな。
「で、具体的にどうするつもりなのかしら」
「一言で言えば、踏み込むことにした」
「踏み込む?」
「ああ、相手が嫌がらなければ、踏み込む」
「……それだけだと分からないわね。行動の一つでも見せてもらわないと」
そこで、フフンと鼻で笑う。
「まあ、あなたのデリカシーとムードに満ちた行動なんて、大体推し測れるから期待は出来ないけどね。やってみたら」
表情豊かになった鈴音は可愛いが、流石に少しいらっとした。
一之瀬が観ているからある程度遠慮するつもりだったが、一之瀬に対する推測を確定するためにも加減しない。
「そのつもりだ」
「え?」
無意識のうちに会話を分析して精査していたオレは、利用できるか利用できないかだけで判断するあまり、リスクを持って会話をするのを忘れていた。
なので、踏み込もう。
「き、清隆くん……」
物理的にも一歩踏みこみ鈴音の目の前に立つ。
そのまま更衣室の壁におしやるようにして、触れるか触れないかの距離を保つ。
相手の体温が感じられるか感じられないかの距離を保つ。
「き、清隆くん、ち、近い、近いわよ」
「でも、お前は嫌がっていないな」
「そ、それは……ひゃっ……あ……あ……」
「ほ、堀北さんの顔を、綾小路くんが」
鈴音の輪郭をなぞる。柔らかな頬、弾力のある唇、スッとした鼻梁、大きめの瞳を覆う瞼、線で書いたような美しい眉毛。
「だ、駄目よ……お店の中は駄目……あなたの部屋なら……まだ」
「安心しろ。体力の限界のお前に、そういうことはしない」
「駄目って言ってるのに、何で堀北さん綾小路くんに体寄せてるの……それに、綾小路くんの部屋って……私には……何もしてないのに」
「前から、お前には言っておきたい事があったんだ。それを言いたい」
顎を撫で、耳の裏をかくと、頬に手を当てしっかり固定する。
「な、なに!なにを言うつもりなの!ちょっと!ねえっ!」
「見ただけでなく触ればよく分かる」
完全にパニック状態に陥った鈴音の瞳を見る。瞳に映る、相変わらず無表情なオレの顔、苦心して笑みらしいものを作る。
これで限界だな。情けない。
「あ……きよたか、くん……」
「鈴音、お前は綺麗だ」
「~~~~~っ!?」
すとんと力を抜いて崩れ落ちそうになった鈴音を抱きとめる。
軽く柔らかな肢体。
嫌がる素振りを見せない肢体を全身で味わう。
愚かな行動だと思う。こうして執着を示した今、鈴音との関係はオレの負けにならなくとも不利になる可能性が出てきた。
それ以前にオレの強さのうちの一つは周りに興味――執着を持たないが故のものだった。
わざわざ強さを手放したオレは、間違いなく愚かだ。父親ならば切って捨てただろう。
「~~ぁ~~ぁ~~あ、え、そ、そんな、こといきなり、い、い言っても、私がど動揺するとでも――」
「美少女だよ。お前は」
「~っ……」
鈴音の顔に当てた手が感じる心地よい熱が強くなるたびに、心が沸き立ち執着する。執着とは煩悩だ。
煩悩がないゆえに、オレには束縛を脱した智慧があった。
煩悩に身を焦がすということは、智慧を手放し苦難を背負う愚かなことだ。
だが、と思う。
「う、あ、うや、ちょ、ちょっと、あなた、そろそろ、そう、そろそろ、そその辺で」
手に伝わる湯気が出るほどの熱を感じながら、視線を彷徨わせ決して視線を合わせない鈴音を見ているとそれでいいと思う。
愚かでなく智慧がある人生に生き甲斐はなかった。
何かに煩悩するからこそ、人はそれを動機として、野心を抱き、意思を持ち、活力として、何かをなす。
オレには人として大きな欠陥があった。取り戻そう。
「最初あったときから美少女だと思っていた」
「ひぅぅぅっ」
「今はもっと綺麗になったな」
「や、やああぁぁ」
俺の胸に顔をぽすりと埋めて、顔を真っ赤にしたままぷるぷると震える。
どうやらオレの、ひょっとしたら生まれて初めてなのかもしれない先を見据えていない言葉は受け入れられたようだ。
「綺麗だぞ……鈴音」
一拍おいて名前を呼ぶときに力を入れると、耳を手でふさいで言わないでとばかりに胸に埋めた顔を恥ずかしそうに擦り付けている。
ヤバイ。可愛すぎる。
「何で耳を塞ぐんだ。鈴音」
サディストとしての心をこれ以上なく擽られてはいじめるしかない。
「……い、意外というか、驚いたからよ。あなたがここまで恥ずかしいくらい女性の容姿を誉めるとは思ってなかったわ。いえ、これは正解ではないわね。あんな安直な言葉ひとつしかいえないことが、あなたの限界を示しているわ。そうよ。一年以上身近にいて、いえ、こんな関係になって半月も経つのに、獣欲だけで良い体以外には誉め言葉の一つも言わないで、今更綺麗だなとか美少女だとかの一言で済ませるなんて人としてどうなのかと思うわよ。ええ、人としておかしいわ」
「悪いな。今から取り返す」
「……っ、た、確かに以前よりはましになったけど、これでデリカシーを覚えたとは思わないことね。む、ムードはす、少しはあったと認めてもいいけど。あ、あんなに顔を撫で回した挙句、え、笑顔を、初めて笑顔浮かべて……き、綺麗だとかはずるいというか卑怯というか」
耳を塞ぐ手を少し強引に剥ぎ取ると、ぷはあと息を吐き出しながら顔を上げてすさまじい早口で目を合わせないあたり、照れているのか嫌がっているのか。今までのオレはリスクを考えて嫌がっていると、受け取っていたが照れていると考えよう。いや、考えたい。
「で」
「も、もちあげ、ないでぇ。ダメよ。見ちゃダメよ。今の顔見たら――」
「綺麗な顔だな。本当に美少女だよお前は」
「~~~~~っ!!??」
潤みきった目尻から緩みきった頬と唇を撫でる。
「いや、これだけ緩んでると、可愛いと言った方が良いか」
「にゃ、にゃに、やあ、ち、近い。顔、近い」
泣きそうな声で言うが、嫌がってはいないな。しっかりと立たせて腕の中に入れて胸に顔を埋めさせる。
「……どれくらい時間が欲しい」
「あ……いっ一分、一分だけ、顔……顔見ないで、お願いっ」
「分かった」
一之瀬の声がしない、無言で呆然としているようだ。パサリと商品が落ちても取りもしていない。……まさかの可能性が高くなってしまった。
取り敢えず、鈴音の荒い呼吸が収まるまで待つとするか。
南雲のアドバイスの通りだった。こういうのもありだな。
綾小路くんを一歩進ませてみました。
女心に配慮しないというより、物事に執着心が薄すぎることが彼の強さであり欠陥だと思ったので。