今対処すべき至急の問題は、絶頂直前の鈴音に余裕を与えてしまったことだ。
「はぁはぁ…あっ、なんで……あっ」
名残惜しげにつぶやくとすぐに顔が紅潮する。羞恥ではなく怒りで。
「っ!?……あなたねぇ」
わずかな隙間を縫うショートアッパー。コンパクトだが強烈な一撃を難なくいなす。
やったことを考えれば以前のように当たっても良かったが、初動から推定される威力で止めた。
「あ、あなたねぇ」
怒りのこもった声とは違い、鈴音の瞳に怒りの色は薄い。おそらく、照れ隠しの一撃だったのだろう。
当たらなかったから良かったが、堀北兄と父母に文句のひとつくらい言いたくなる。特に影響を与えた堀北兄に。
どんな育て方をすればそれなりの関係を結んだ相手に、照れ隠しで躊躇いなくアッパーする奴になるんだ。しかも、直撃すれば意識を刈り取られる威力で。
あいつ、妹に幻想抱きすぎというか。妹のイメージ可愛い子供時代で固まったままな気がする。
「あなた、あなたって人は、こんなところで……はぁぁっ、今は止めて」
「了解」
深呼吸一つで絶頂間際の心身を抑え、ギロリとした眼差しで見上げて有無を言わさない鈴音に否応なく頷く。確かにやり過ぎた。
でも、少しばかり「好き」とかの言葉が欲しいと思うのは贅沢か男のエゴなのだろうか。
「堀北さん……殴りかかった腕で綾小路の首にすがり付いて……やらしい……あんなにあざとかったんだ」
――贅沢なのだろう。
「考えたのだけど」
「何をだ?」
これ以上店内で責められるのを回避することを意図した鈴音の発言に、あえて乗る。
「外であんなにぺたーってくっついちゃって……やらしい、いやらしいっ……仲が良いんだねえ……」
後ろのぼんやりと押し殺した低い声から逃れたいからだ。
半分無意識の発言だからこそ、己をビビらせる威圧感に冷や汗が背中を伝う。
「あなたがデリカシーに気を配るようになった理由をよ。南雲先輩と相談するにしても、何かきっかけがあったはず。そうでしょう?」
「確かにあったな」
「それがどうしてか、色々考えたのだけど。今一つしっくりとこないの。言えないことではないなら教えてもらえるかしら」
「ああ、構わない。オレは、少し前まで女とそうこうするよりもリスク回避に重点を置いてただけだ。女に恥を掻かせていたこともあっただろうな」
「……えっ!?」
夜一人で部屋に来たのに、手を握るどころか隣に座りもしなかった一之瀬の驚倒の声が聞こえる。どうやら意識をハッキリと取り戻したようだ。
……今のところ予定通りだ。
「リスク回避……下種で屑すぎて、女として一言言いたいけどあなたらしくはある……恥をかかせていたって、女性の気持ちを一応とはいえ考えてはいる」
普段通り、歯に衣着せずに言いながら問うように見上げてくる。
「綾小路くん……確かにそういうところあったよね。私にはあんまり見せてくれなかったのに……ううん、それよりも、なんで」
それはそうだろう、一之瀬にはそういう面見せないように振舞ったからな。ところでなんでって何だろうな。
他人事のように客観的な思考をする部分と、それを冷静に見つめる部分に思考を分割しながら鈴音の相手をする。
「……今、違うなら私は納得するけど、その辺りどうなの?」
鈴音の口調は冷静さを取り戻したが、姿勢は冷静さのかけらもない。
視線を上目遣いでオレに向けながら、鼻から下の顔半分をオレの胸板に隠した姿勢が冷静なものであっていいはずがない。
これならば、紅潮した顔を見せることなくオレと目を合わせられる適切な姿勢と本人は思っているのだろう。本人は。
オレからしてみれば鈴音に抱きつかれながら身を預けられて、柔らかな女の体を擦り付けられながら、上目遣いで声を出す度に胸板に、絶頂直前の熱がこもった気だるげな熱い吐息をかけられているのだ。
正直理性の限界に挑戦している。
こういう可愛さがあるのに、好きとかは言ってくれないのは何故だろう。
それよりも、この姿勢は、傍から見ればどう見えるか言うまでもない。
「なんでかな……?綾小路くんと堀北さん見てると、なんだか、無性に腹が立ってきて……こう……」
やはりなんでの内容は、今現在鈴音からオレに抱きつく様――『ただの友達』では決してありえない姿を見ての想いだったようだ。
ぎしぎし、まるで何かを縊り殺そうと締め上げる音が聞こえる。何か布を絞めなければこんな音はしない。
まさかな。
一之瀬の身近に布なんかなかったはずだと、疑いを弾き飛ばす。
……商品の下着を握り絞めているなんて、良識の欠片もない行動を一之瀬がしていたら話は別だが。
凄まじい凶悪な気配を背中に感じながら、思考を回転させる。
流石に、一之瀬がオレに対してどういう想いを抱いているかある程度理解した。ここまで来たら、確定まで持っていくしかない。
正直、恐い。
背後から迫る余りの威圧感に、忘れていた久方ぶりの恐怖を感じている。
今まで身に付けた身を守る術が通じず、自分が痛みを覚えると確定したことは恐い。
出来る限り最小限の痛みにしよう。
「今は多少のリスクくらいなら気にせずに口説いて押し倒す。一般的だな。ためらったり、相手から誘ってもらうのを待つなんて馬鹿げているだろう。幸運の女神は前髪しかないからな。躊躇うくらいなら状況整えて押し倒してでも受け入れさせる努力に力を注ぐべきだ。今も力を注いでいるから分かるだろう」
「いや、その、どう…いう」
理性をあえて下げた欲望を込めた言葉に、鈴音は目を泳がせオレのワイシャツを掴み顔を覆う。少し下に傾いた首、真っ白で綺麗なうなじが目の前にある、えもいわれぬ感覚。
襲いたい。
が、ここまで言っても、オレに告白とかしてくれないのだろうな。してきたら付き合ってやる、くらいのことしか言ってくれないんだろうなと考えて欲望を抑える。
鈴音にしても桔梗にしても、そういう可愛げは無縁だ。そこが可愛くもある。
「一般的?……すごいこと…言ってる…堀北さん…真っ赤……声、踊ってる……ひょっとして……私も、口説いてもらえて…お、押し倒っ……」
そして、何より一之瀬の存在が許してくれない。それでも、一之瀬に発言の意図は伝わっているようだ。
これからは、そうやって行くという意図が。
もう少し押すか。
「自分の女の容姿を誉めるのに力を注いでいるだろう。約束なんてどうでもいい。違うか、誉めているのに途中で耳を塞いだ鈴音」
「あの、もう少し……ここ、外で、こんなに明け透けに」
顔を埋めながら目をわたわたと踊らせてくる姿は愛らしいの一言だ。
「時と場所は心得ている。さっきも恥ずかしいとか言っていたが、人目が無いところでそんなこと気にしていてなにか意味あるのか」
「確かに誰もいない…けど……そう、そうよ。変わるにしても極端過ぎるのよ」
「そう言われてもな」
「だ、だから、その」
聴覚をずらし思考を分割して鈴音と一之瀬の声を同時に聞きながら、もじもじとしだした鈴音をこのままにして一之瀬のほうに意識を向けていいと判断する。
「で、でも、それは好き合った人同士でないと、ふ、二股とか駄目で、でも綾小路君なら。ううん、やっぱり駄目、それに──」
意図は通じたが、どうやら一之瀬には股をかけることを許容することは出来ないようだ。
そして、ここまで来たら、オレに理解できるくらいに確定できた。
告白してくれた佐藤、好意を向けてくれる愛里、関係を持った鈴音桔梗恵、ついでに南雲のアドバイス。
これでも、女子の好意がそれなりには理解できるようになったつもりだ。
坂柳のときに助けた後の、一之瀬の態度の変化が頭をよぎり理解する。理解してしまった。
「それに、綾小路くん、今までずっと、ずっと何もしてくれなかった──なのにっ……あの人がアドバイスした今っ」
一之瀬がオレに好意を抱いていたことが。
義理堅い善人の一之瀬には、貸しを与え続け重みで判断を鈍らせ寄り掛からせながら都度利用する方針を採っていた。だから、一之瀬が困ったときある程度手を伸ばしていたから好感を抱いてもらっているとは思っていた。とはいえ、恋愛感情を抱かれるとは思っていなかった。
そもそもそんな意図さえなかった。が、好意は好意だ。一之瀬のような人物にそんな想いを抱かれたことを光栄に思おう。
もし、早めに気付いていればいくらでも利用できただろうにな。とも思うが、今思うことは一つだ。
今、気付きたくなかった。
勝手だが、それに尽きる。
一之瀬の目の前でやったことを推測を混ぜながら、一之瀬視点でどうだったかと思い出す。
世話になっている先輩の朝比奈(とついでの南雲)に、好意を持つオレがランジェリーショップでデート中だと教えられ混乱して尻込みするも「あきらめるな」と背中を押されて勇気を振り絞って店に向かう。そんな一杯一杯の心境で好意を持った相手のオレに「邪魔だから帰れ」と言われ、怪しんでいてはいたが付き合っていないと言われて信じていた女――鈴音とデート中だと判明する。
感情のリミッターが弾けとぶな。通りであんな醜態を見せるわけだ。
逃げなかったのは、朝比奈から逃げるなと言われたのだろう。追い詰められた限界の心境でこの場に残れば、いちゃついているところを延々と見せられた。オレから抱きしめて盛りに盛る、そんな関係以外の何者でもない姿を。後ろで一之瀬が見ていることを気にしないどころか忘れているとしか思えないように。
一之瀬からしてみれば、好意を持っているオレが一之瀬が隠れて見ていると理解した上で、乙女心をズタボロにしたわけか。
刺されるな。いや、商品のごとく絞められるか。
一瞬顔が引きつるのを自覚した。
本気で殺そうとする人は多くないだろうが、笑って許してくれる人なんてほぼゼロだ。
これを許せたのなら、そいつは天使か聖女かただの阿呆だ。
そして、一之瀬は阿呆から程遠い。
いや、一之瀬は天使か聖女に近い人格者だ。もしかしたら。
「今っ、綾小路くんっ、堀北さんと……生徒会の女子の先輩皆と付き合ってて、私のこと好きって言ったあの人だけじゃないんだ。綾小路くんもなんだ……堀北さんと付き合っているのに……私を部屋に上げて……男の人ってっ!?……」
……分かっている。そんな天使か聖女は幻想の世界にしか存在しない。判っていたけど再認識。
よりにもよって、朝比奈辺りが南雲の所業をバラしていたらしい。
身近な男性が続けて裏切ったと受け取るよな。と、他人事のように思う。
こうしてみると、南雲のアドバイスは有り難かった。閉鎖された世界で育ち、恋愛がどんなものか理解できていない。例えるなら、ハイハイしか出来なかった赤ん坊のような状態だったオレを、絵本を読むくらいにまでは育ててくれた。
だからこそ、理解できた。不味すぎる。今までオレが一之瀬にしてもらってたことの数々が不味い。
「ごはんを作らせてくれた時、部屋に食器置かせてくれたのに……一緒に遊びに行ったときも、人目につかないように隠れたときに、手もつないでくれなかったのにっ!なのに」
……そんな状況で、何もしなかった自分を殴り飛ばしたい。
一之瀬に手を出した場合のリスクだけしか考えていなかった。人気者の一之瀬とそうなった場合に、目立つデメリットを甘受できるメリットを見出していなかった。
──なら、まだ良かった。オレは、一之瀬の行動に感謝しつつ楽しみながら罠を疑っていた。手を出すなんて欠片も考えていなかった。
恋愛に対しては、猿とかの動物の方がましだった。
「……堀北さんと私っ、何が違うのっ!?」
ギリィと歯を食いしばる音と共にブチリと切れてはならないモノが切れた音が響く。
おそらく、一之瀬の理性とか平常心と呼ぶべきものが千切れたようだ。
「男の人って……男なんて……女なんて……」
肺にたまった空気を吐き出すような音が途切れると、抑揚のない声でリピートし始めた。怖い。オレをビビらせる威圧感を纏った一之瀬が怖い。抱き合う鈴音の存在がなくとも、どんな顔をしているか確認できない。
「男の人って……男なんて……女なんて……」
不味い。男性不信三歩手前くらいに弾けてしまっている。このままだと、どこへ向かうのか分からない。
誰が悪いと言えば、タイミングや巡りあわせを仕組んだ朝比奈と南雲は悪くない。悪いのはオレだ。
「……男の人って……男なんて……女なんて……」
朝比奈は後輩の恋を応援しただけ。状況からすると同じく応援した南雲は、オレにアドバイスしたお陰で裏切り者扱いされているからこれも(どうでも)いい。
「……男の人って……男なんて……女なんて……」
問題なのは、一之瀬から見たオレの所業だ。
今まで割りと良い仲まで行っていても、機微を理解しないオレのせいで関係が進展しなかった。
なのに南雲にアドバイスをしてもらったオレは、ちゃんと(?)機微を理解した行動ができるようになった。
それを証明するように、疑わしいと思っていた鈴音といちゃつく姿を見せつけられた。
理解してしまった。
南雲は一之瀬にアドバイスする直前、オレにアドバイスしたことを言わなかったと。
理解してしまった。
南雲のアドバイスをされたオレならば機微を理解してくれたのに、その相手が一之瀬ではないことに。
理解してしまった。
現時点で、オレの中で一之瀬は鈴音よりも下だと。
その通りだが。
「……男の人って……男なんて……女なんて……」
……この状況を何とかするには腹を括るしかない。一之瀬を抱く。抱いてモノにする。
発想が色事師のそれだが、仕方ない。
このまま一之瀬を帰せば、間違いなく一之瀬の様子はおかしくなる。オレに疑いが行く可能性が十分にある。いや、そもそも流血沙汰を避けるために手を打たなければならない。色々と情報提供してもらっている相手を失うのは得策ではない。
そのためには。
──愚かだなオレは。
この期に及んでやくたいもないロジックを第一に考える。いや、考える振りをする自分の愚かさを腹の底で嘲笑う。
一之瀬を何とかするのに性交を手段とする必要なんてない。厄介なら壊すなり何なりすればいい、理にも利にも適う。
なのに性交を手段としたのは、オレの煩悩故にだ。
オレが一之瀬が抱きたい。
魅力的な、少なからず好意を抱いている少女を組み敷しいて喘がせ、どんな顔、どんな声を出すのか知りたい。
それだけだ。
意図してなかったとはいえ、好意を貰うまで一之瀬に割いた労力を回収する。この女をオレのものにする。
それだけだ。
一之瀬に抱いている感情は、恋ではない。中身が不明の衝動ではなく、どこにたどり着きたいか明確にすぎる。
だが、一之瀬の善良な性格、普段の行動も今のような妙なことをして黒い想いで押しつぶされそうな行動も好ましいと感じている。情愛を抱いている。
想像する。一之瀬の隣に、背の高い青年が立っている。一之瀬が青年を見上げ何か言う。青年が返事をして一之瀬が楽しそうに笑う。
イラッとするな。
鈴音、桔梗、恵でもイラッとする。この胸の苛立ちを抑えるなら、股くらいかけて全力でその環境を保持する。
だから、鈴音たちとも付き合うことを納得させた上で、豊満な体を抱いて情愛を満たす。そのために壊す。
我ながら畜生としか言いようがない動機。どこまでも愚かで、人間的過ぎて世の常識を無視しきった欲望。だが正直な想い。今までならば心の奥底に抑え込んでいた衝動で動く。
それでいい。それでこそ生きていると実感できる。
「……男の人って……男なんて……女なんて……」
腹は決まった。
もはやくだらないロジックも、思考も不要。
澄み切った夜空のような穏やかな心境で、胸の中の柔らかな鈴音の肢体を味わい、理性が弾けとんだ一之瀬の声を聞きながら、それをなすために何をすべきか頭を回転させる。
前提として、一之瀬は多人数と同時に付き合うなど許容どころか念頭にも置いたことがない。納得させるのは至難、飲み込ませる。価値観を破壊する。
そのためにどうするか幾つかルートを組み立てる。
……最低でも、今晩中にベッドインまで持ち込む必要があるな。
そのためには、一之瀬を混乱させて追い詰めなければなにも始まらない。
精神的圧迫――否、精神的に調教するか。今のままの流れでさらに追い詰めて壊すとしよう。
「……男の人って……男なんて……女なんて……」
「あ、あの……黙らないで、欲しいのだけど」
胸の中でわたわたしている鈴音は、一之瀬の地獄の底から響くような声が聞こえないほど混乱している。
────とてもかわいい。
一瞬だけ罪悪感に駆られる。こんなかわいい娘を褒め称えるのを一之瀬を混乱させるための手段にするとは、オレの繊細な神経が傷つく──ようなことはなかった。
こんなかわいい娘を褒め称えながら、一之瀬を混乱させ壊せばいいだけだ。
マッチポンプで追い詰めるのがオレの好みだが、まあいい。たまには、流れに乗ろう。
さて、壊した後優しい顔して治すか。恵のときと同じだ。そうすれば離れられなくなる。
畜生としか言いようがない決断をしました。
今まで欲望を抑え込まれていたから弾けると酷いことに。