──想定外だな。
満足感と遁走願望という相反する感情を抱きながら、素直に認める。
予定では、今頃一之瀬と部屋で二人きりだった。
そう、予定では。
端から見れば動かしていると思えないくらいに、さりげなく視線を動かす。
目の前には、自室の新しく購入した大きめの丸テーブルとその上に置かれた食事が写る。
ひつまぶしとあさりの吸い物に大根と油揚げの煮物。セロリとツナのサラダ……とても旨そうだ。何故か精がつく食べ物で統一されているような気がするが、気のせいということにしておきたい。
それが都合4セットテーブルの上に並べられている。
右手、にこやかな鈴音と桔梗。
左手、無表情の一之瀬。
ちなみにオレは部屋の奥側。万一にでも逃げようとするならば、どちらかを押しのけなければ逃げられない場所に陣取っている。
そう、逃げられない。
「材料は買いだめしておいたし、懸念は食器だったのだけど……一之瀬さんの食器があってよかったわ。食器棚にあった食器セット、正直誰の食器と思ったことがあったのだけど、分かってしまえば謎でもなんでもなかったわね」
「……そうだね。何でか知らないけど棚の奥に行ってたけどね」
「それは仕方ないんじゃないかな。最近(強調)使ってなかったからさ。ついつい邪魔だから奥にやっちゃうのは当たり前だよね」
「……ふうん」
ズズッと一之瀬が大きな音を立てて吸い物をすする。
「……吸い物なのに味付け濃いね。塩使いすぎてないかな。あんまり体によくないと思うよ」
「私もそう思うのだけど、清隆くんの好みなのよ。作らせてもらってるんだから、部屋主の趣味に合わせないと」
「……メニューもあからさまだよね。こんな精つくものばかり食べさせるなんて、いやらしすぎるんじゃないかな」
「うーん、確かにそう受け取られても仕方ないけどね。これは、必要に駆られて、かな」
ウインクする桔梗は可愛い。ひつまぶしはとても美味しい。
なのに心は冷たい鉄を飲み込んだように重苦しい。三人がオレを石の置物ように扱っていることも理由の一つではあるが、一つでしかない。
「……へー、必要に」
「ええ、必要に」
何がとは言う必要も聞く必要もないとばかりに、静かに目を合わせる一之瀬と鈴音。一方はにこやかで一方は無表情。普段とは浮かべている人物が間逆の構図だ。
普段の二人からは想像さえできない表情に、こんな表情を浮かべられたのかと、新鮮な驚きさえ感じられても可笑しくないが、今のオレには圧迫感しか感じられない。
一之瀬の声はひたすら平坦で、鈴音と桔梗は愛想のいい声の違いがあれど、共通して得体の知れない重さがある。
が、それだけだ。そう、それだけなのだ。
自分に言い聞かせ続けていると、ふう、と話題を切り替えるために一之瀬が吐息を漏らす。
心持ちはほぼ互角、知性にもそんなに差はないが、やはり一之瀬が押されているな。
二対一なのだから数は無論のこと──
「……それにしても、二人ともずるいよね」
「ずるい?」
「……こんな料理作るだけの体力あるのに、帰り道綾小路君に背負わせたよね。昨日酷いことされたから足の感覚がなくて立って歩けないとか言って。荷物を含めてどれだけの重さになったと思うの?綾小路君がかわいそうだよ。綾小路君、優しいから運んでくれたけど、少しは遠慮したほうがよかったと思うよ」
「私たち二人の間に押し入って真ん中で背負われてた帆波ちゃんがそんなこというんだ……」
──異性と肉体関係を持った経験の差が大きすぎる。
だが、互いを無視して険悪になるよりも、言いたいことを言って睨み合う方が遥かに健全だ。ああして意見を言い合うのは良いことだ。
少なくとも、主導権がこちらにある限りにおいてそう思う。
まだまだ続く会話を聞きながら、少し前、桔梗の試着を見た直後を思い出した。
「で……他は」
一通りいちゃつくと、羞恥と悦楽と優越感に体を火照らせた桔梗がカーテンを閉める前に胸に密着して聞いてきた。
「あは……少しドキドキしてるね。スケベ」
「桔梗……ちゃん……綾小路くんの腕……胸で……はさんで……はさ、んで」
無論、後ろの一之瀬からはまだまだいちゃついているように見せている。
実際いちゃついているな。柔らかな乳房に挟まれた右腕が心地良い。
「あたり前だろう。これでも思春期なんだからな。店でなければ押し倒している」
「そっか」
「もっと聞いてみるか」
「うん……」
手を伸ばすと、桔梗はためらいがちに手を伸ばす。重なった手のひらから、微かに筋肉の緊張を感じる。
表面上おくびにもださないが、一之瀬の目前でのいちゃつきは緊張の連続だったらしい。女というのは凄いものだ。
その手を引き寄せる。
「あっ」
僅かにあった隙間さえなくなった完全な密着。
乳房に挟まれた腕に神経を集中すると、産毛の感触さえ感じられる。
「桔梗も鼓動が早いな」
「当たり前でしょ。思春期なんだよ」
発言者が逆転した台詞に面白みを抱いたのかクスリと笑う桔梗の耳に口を寄せる。
「鈴音に連絡して欲しい。気付いて居ない可能性がある」
「気付いてるから、連絡の必要はないよ」
「?」
「あれだけ可愛いところ見せたんだよ」
「……ああ、成程な」
察したオレに教え諭すことに優越感を感じながら桔梗は言葉を続ける。
「あんたに好意持ってる女の子が傍で見てたら、自分を可愛く見せたいのは普通だよ。忘れないでね、堀北さんも女の子なんだよ」
シャッ
柄にもないことを言ってしまったことに恥ずかしさを覚えたのか、弾けるように体を離すと桔梗の姿がカーテンの後ろに隠れた。
桔梗の香りと火照った熱の余韻を味わった後。
再度、振り返りへたり込んだままの一之瀬を見下ろしながら問う。「此処でやるべきことがあるから後で話さないか」と。
つい先程拒絶された言葉を淡々と言う。
ここまでされた一之瀬が到底頷かないと知りながら言った。
「ううん。私は、ここで待つよ」
言葉に感情は無い。怒りも怯えも哀しみさえ無い。それらの感情が消え失せた、ただ無と評すべきモノだけがある。
「だって、私は堀北さんとも桔梗ちゃんともお友達なんだよ。私が待ってて何か変なことあるかな?」
「……ないな」
変なことがあるとすれば、極稀に違う表情をしていても普段笑顔を絶やさない一之瀬が無表情だということだ。
瞳孔が開ききった目にすらも感情はない。
腰が砕けるようにしてヘタリこんだ姿勢のまま、項垂れることさえできず視線も目前に固定したままピントを合わせることなく──まるで壊れたゼンマイ人形のように虚ろな声で呟くのみ。
一見して、一之瀬は壊れている。どうしようもなく壊れている。
誰もが、一之瀬帆波という少女の残骸に目を剥き圧倒され、何らかの行動に移すことを躊躇うほどの虚無。
オレ以外の誰が見てもそう判断するだろう。
だが、オレには、そう仕向け、流し込んだオレには、一之瀬の心の奥底に冷え込んだ感情。マグマ溜まりのように煮えたぎる感情を掴みとっている。
それを、噴出させるために躊躇わず動いた。
「一之瀬」
「あ……」
跪き、一之瀬の頬に触れ、親指を唇に這わせる。
春休みのとある一日、あの雨の日、約束を結んだ日、オレに好意を持つ一之瀬にとって宝物のように想う特別な日、その日を想起させる動作。
何時かのことを思い出した一之瀬の瞳に、理知の光が僅かに灯り、あの時はなかったことに気付き問うてくる。
「あ、綾小路くん……あの、その、え、と、その、手」
「この手か?」
触れていた手を一之瀬の目前にかざす。
「病気でもない、寒いわけでもない」
カタカタと微かに震える手。みっともないほど震える手を一之瀬に見せ弱さを曝け出す。
「……恐いんだよ」
「え?」
「オレは恐いんだ。今から言うことがお前にどう受け止められるか」
我ながら最低だが完璧だ。追い詰めてから弱さを見せつつ相手の好意につけこむ。
「あの時──あの雨の日、オレの部屋でお前と約束したことを、今伝えたい」
「!?」
あの時、あの場所で、言った言葉は一之瀬がオレに信頼を持っていたから高い効果があった。
「あの時伝えようとした言葉を今さら伝える。それを聞いてお前がどうするのか……怒りや蔑みなら良い」
「わ、私は、そんな……あっ」
善良すぎるがゆえに、反射で此方をフォローしようとする一之瀬の唇をなぞり言葉を止める。
顔をさらに近づけ拳一個分の空間だけを開ける。お互いの吐息がかかる距離で、一言一言区切りながら言葉を出す。
「オレは、お前に、拒絶されることが、恐いんだ」
「あ」
あの時かけた言葉は、絶望の中、好意を持っている相手にかけられた約束は、まさしく一之瀬には救いだっただろう。
あの時よりも、深く、他者を想うのではない己の欲に満ちた絶望に打ちのめされた一之瀬に、甘い蜜を垂らす。
「すまないな。約束を破る」
好意を持った相手に気持ちを弄ばれたと認識し、絶望に沈みきっていた一之瀬にもしかしてと希望の光がさす。
「一年たっていないが、伝えさせてくれ」
あの時は違うことを言うつもりだった。だが、一之瀬に情欲と愛着を持った今、言うことは決まっている。
虚言ではない、状況に応じたのだと心底から言い聞かせ、意思を総動員して口角を上げ出来る限り柔らかな表情──ぎこちない笑顔を浮かべる。
一之瀬に誠心からしていると解るように、精一杯なぎこちない笑顔を。
表情を変えないオレが、一之瀬に初めて見せる表情を笑顔にするために。
「一之瀬、オレはお前が好きだ。お前が欲しい」
「!!!???」
オレの言葉を理解した一之瀬の瞳に希望と疑念が浮かび上がる一瞬だけ待って続ける。
「軽蔑するよな」
「あっ」
一之瀬の瞳に思考の色が浮かぶ時に言葉を綴る。
こうすることで、一之瀬には立て直す余裕がなくなり、オレの言葉──想いだけを受け取らざるを得なくなる。
瞳を合わせ想いを伝える。一之瀬との良好な関係は、瞳を合わせれば直截な想いを伝えてくれる。
「鈴音と桔梗、それに恵も好きだ。抱いている」
「だいてっ……け、恵っ!?」
「軽井沢の事だ」
「かっ軽井沢、さんっ!?」
嘘も誤魔化しなど一切ない自身の心に浮かんだ思い、誠意と呼んでいい思いを、今ならば、恵を混ぜられると確信しながら伝える。
「半月前からそういう関係になった……最初は打算と利益。いや、情欲と快楽の為に抱いた」
「じょ、情欲と快楽っ」
自身の黒い感情を肯定する。
「ああ、情欲と快楽だ。それを満たし、今も満たし続けている。何度も何度も互いの体温と想いを交感した……そうしている内に情愛を抱いた。一之瀬、オレは──」
「っ」
お前ともそうしたいと、情欲を抱いた視線で一之瀬を見る。びくりと大きく震えても一之瀬は顔に置いた手から逃げない。逃げられない。
一之瀬にもそうしたいとオレが──一之瀬が好意を持つオレが視線で伝えているから逃げられない。
「こんな多情な性欲塗れのオレがお前を欲しいなんて、言葉にするどころか考えることさえ愚かで許されないことだ」
「あっ」
意図が伝わり、明らかな男の獣欲に曝され戸惑う一之瀬の瞳を見たまま真摯な言葉だけを口に出す。
「理解している。ありとあらゆる言葉で罵られるべきだと理解している。それでも……」
「綾小路、くん」
「それでも言わせてくれ」
頭を下げ、ただただ真心だけをぶつける。
神仏に請い願うほどに切願する。
「お前が好きだ。抱きたい。オレの女になってくれ」
今、オレの態度に嘘はない。
それが一番『優しく』効果的だからだ。
──何よりもオレがそうしたいからだ。真摯な想いをぶつけたい。
今までならば前者だけで動いていたが、一之瀬相手では無理だ。
人間にあるべきもの。どうしてもこれ以上はやれないという限界、『品性』というもの。
それを知ったからやれない。
まあ、問題はない。必要なことはこれで十分だ。
「………………堀北さんと桔梗ちゃんと……話させて……後で、軽井沢さん、とも」
長い沈黙の後、オレの言葉を身に刻むように深呼吸した一之瀬は、静かに呟くように確かな芯を入れて言った。
あの時と同じ潤んだ瞳。あの時は違い、唇と頬にあてたオレの手に自分の手を重ねて言った。
獲った。と、確信した。
あの時、あの雨の日、春休みの雨の日。あの時、弱味につけこんで抱いて一時的な快楽を得られたとしてもこれは決して得られなかった。
一之瀬の想い。
善良すぎるがゆえに、どこか遠慮してしまう少女が圧し殺していた嫉妬心と執着心と独占心。
それらを表に出さず圧し殺したから、一之瀬は坂柳に秘密を吐き出してしまった。警戒心を覚えても何れ誰かに騙された、善良ゆえの欠陥。
だが、理性と良識という名の蓋を粉砕した今、嫉妬心と執着心と独占心は噴出し、率直な想いとなった。
一之瀬が心の底からオレを欲し、欲しいモノのために誰とでもぶつかり合う決意をした想い。
善良すぎる一之瀬帆波という少女の闇の部分を曝け出した本当の想い。
女の情念。
一之瀬帆波という女子そのものの想い。
これが欲しかった。
これで、一之瀬はオレのモノだ。オレが棄てない限り離れない。離れられない。
一之瀬帆波という少女は熟柿のように熟れ、オレの手の内に自然と落ちた。
「…………少し……少しだけ……待って」
「勿論だ。こんなタイミングで言ったんだからな。当たり前だ」
絞り出された懇願に何処までも優しく受け入れた。
余りに畜生な行為。それに、愉悦を口で噛み締め悦楽と歓喜と愛着に心を震わせる。
後ろめたい思いは皆無だ。
赤心から言えるこれこそが優しさなのだと。
本当の優しさとは、合理的なものだ。
何故なら物事を正しく行うに必要なのは結局のところ『それ』なのだから。
優しさとは理論的に構築され、理論的に行使されねばならない。
そうでない限り、それは甘さでしかない。
ホワイトルームを経てこの学校に入学してからの学生生活、その半生でオレが見出した答え。
「そ、それと……それと……」
一之瀬の様子を見れば答えの正しさは証明されている。憂いが溶けたように瞳を潤ませる一之瀬が、服の上から豊満な乳房を押さえる様からは、絶望も錯乱もない。
これからへの渇求だけがある。
ムニュと、音をたてるかのように形を変える乳房に気を逸らさず瞳を見つめ続ける。
「両手で、両手で包み込んで……私の顔を固定して……綾小路くんを……綾小路くんだけを……見させて」
「ああ」
「……何か、寒い、寒いんだよ……さすって」
「これで良いか」
土気色だった頬を桜色に染めて行われた懇願に、有無を言わず従う。
柔らかな一之瀬の頬とぷるんと弾けるような弾力のある唇が、オレの手で歪み蠢く様がたまらない。
「あとね……あと……服の上──」
一之瀬は、一切瞳を逸らさない
「服の上からで良いから、私も……その、下着……試着するから」
無表情のまま、桜色に染まった頬。
「見て、欲しいな」
「勿論だ。出来れば一之瀬にもプレゼントしたい」
「じゃ、じゃあ……どうかな」
間髪入れずに、手に持ち続けくしゃくしゃにした下着を胸や股間に重ねて似合うかどうか聞いてきた。
それも、そっと押し当てるのではなく体のラインが浮き出るように押し付けながら。
「サイズが少し小さめだが、それ以外はおかしな所はない」
「本当?」
「本当だ。目を奪われるくらい結構なものを見せてくれているんだ。不安そうな顔をしないでくれ」
「不安だよ。不安に決まってるよ。堀北さんと桔梗ちゃんみたいにできないんだよ」
「じゃあ、単刀直入に言う。浮き出たラインがエロくて興奮する。他の男に見せたくないな」
「……他の人?」
「いつもいつも一之瀬は距離感が怪しいからな。そんな格好されると襲ってくれって言ってるようなものだから見せたくない」
「……ぇ?」
「一応聞いておくが、襲ってほしいのか」
「う、ううん。まだ、まだ、そんなことないよ。うん、まだ……私ってそんなに、距離感、怪しいかな」
無表情のまま上目遣いとか器用なことしてくる。
「怪しいな」
「うっ、即答なんだ」
「一之瀬くらいの美人でそれだけ巨乳だというだけで目を引くんだぞ。それなのに全体のバランスが崩れない肉付きのいいスタイルで、そんな距離感を取るところを見せられれば、はっきり言って不安だ。勘違いした奴に襲われた何て、何時耳にするか不安で仕方ない」
「!!??」
あまりにあからさまな発言に顔を赤く染めた。
「う、うん。そうなんだ。私、そうだったんだ」
「信じるのか?」
「前にも言ったよね。私が一番信頼しているのは綾小路君だよ……割と最低なことしてるけど、信じてる」
一之瀬が下着を重ねている間も、その頬と唇に添え続けていた手の上にまた重ねられる。
そのまま、強く自分の押さえつけてくる。オレの手を自分の顔から逃さないと言う様に。
「信じる……信じさせて」
今までと違い、直ぐに距離を詰めずに一息置き
「だから、だからね……私に教えて欲しい。他の人にしないといけない距離感と」
触れるか触れないかの距離、互いの体温が伝わりそうで伝わらないもどかしい距離まで詰めて言った。
「綾小路くんとの、距離を」
関係を結ぶと、一之瀬は割りと甘えてくるな。と確信した。
11.5巻色々見所がありました。
この話で一之瀬さんを口説くところが、あまりにアレだからプロット変える必要あるかなと思ったけどそんなこと無かったですね。
綾小路くんが、部屋で一之瀬さんに手を出さなかったところを見ていると特にそう思います。
彼、一時的な快楽より一年間自分のことを頭の中に居させて執着させることを選びやがった。
後、綾小路くんがやった付き合う条件に適合する相手だからと理性で判断して理性だけで口説くのは、もう少し年食ってからしたほうが良い恋愛ですね。
あの年頃でしか、衝動に従った恋愛の酸いも甘いも味わうのは楽しめないのに。その上、失敗も成功も笑い話になるしそれが成長させてくれるのだから。
衝動的に恋に落ちた軽井沢さんとの、認識の齟齬が酷いことになりそうです。