「大したものですね」
綾小路くんの部屋のカードキーを自分に渡し、綾小路くんの不在時に制服姿の私を入れてのけた真澄さんの手際に感嘆する。
異性の部屋に潜り込んでいるはしたない自分に高揚したような熱い思いを抱きながら、携帯端末に口をつける
「どうやったのですか真澄さん」
「それ今詳しく聞く必要があるの? あんたは今からの初体験のことだけを考えた方がいいと思うんだけど」
「……だからこそ聞きたいんですよ、真澄さん」
「はぁ?」
「今から意識もからだも乙女では無くなるのです。そんな友人の気を少しは逸らせてあげようとは思いませんか?」
「………………」
緊張のあまり、熱く火照り強張り痙攣する頬を必死に動かし言葉を外に出した。すると何故か、真澄さんは深い、とても深い沈黙で答えた。
「真澄さん?」
「綾小路と同じクラスの池って奴がカードキー持ってたから、篠原を経由して貰ったのよ」
何故か、優しい声音だった。ずっと年上の、まるで母親のような優しい声音で、幼子に語り聞かせる口調になる真澄さんに、生来の負けん気が呼び起こされる。
「成る程」
精一杯上品かつ明瞭に言い返す。
「確か、あの二人は交際していましたね。綾小路くんのカードキーを返すことで、篠原さんに池くんが勝手に人の部屋に入るような人物ではない。人としての器量があると見せるように仕向けた。と言うわけですね」
「そうよ」
「お見事です。真澄さん」
言い返すと痙攣が止まっていることに気付いた。真澄さんがわざと自分の負けん気を揺らし頭を働かせて気を逸らしてくれたことに感謝する。
何時か返そう。そう決意した自分に真澄さんが変わらす母親のような口調で言った。
その口調に、負けん気を呼び起こされても苛立ちを感じない事に少し驚く。
「……前から聞きたかったんだけど、あんた綾小路の何処が良いのよ」
珍しい、自分からはともかく綾小路くんのことを真澄さんから振ることなど今まで無かったのに。何か企んでいるのではないでしょうか。
幾つかのアプリケーションを起動させたままの携帯端末の画面を確認しても、録音もスピーカーの兆候さえ探知出来ていないことを示す数値しか出ていない。
どうやら、気を逸らす一環だったようですね。
無二の友人を疑ったことに、僅かな罪悪感を覚えながら疑念に答える。
「あら、綾小路くん素敵ではないですか」
「確かに、能力が高くて頼りになりはする「確かにそういう、遠回しでも直接でもビシッと決める所も好きですが、あまり加算するところでは有りませんね」……例えば? あの無表情無感情じゃ、ロマンスは期待できないわよ」
「確かに、ロマンチックな台詞もムードも期待できませんが、人格に一本筋が通っています。冷徹非道ではありますが、外道でも悪辣でもありません。利害がぶつからなければ信頼出来る人です」
「……つまり、あんたの趣味に合ったのね?」
「簡潔かつ直截に言わないでください……そういうことはオブラートに包んで頂かないと、恥ずかしいではありませんか」
「……ああ、はいはい。まあ、何となくわかったわ」
「何となくではいけません。もう少し詳しく教えましょう」
「いや、10回は聞いたからもう良いんだけど」
綾小路くんのことを思い出しながら話すと、自然と頬が上気し指を曲げ唇で甘く噛んでしまう。
誰も見ていないから構わないとはいえ、癖になってしまった。
「綾小路くんの瞳、綾小路くんの声、綾小路くんの変わらない表情「話すのね。聞かせるのね私に」……近くに腰かけたときの背筋の線から、盤面を挟んだときにうっすら開く瞼に、私の食事を食べるときに僅かに綻んでうっすら開く唇の形まで、すべてが新鮮で、愛おしいんです」
「ぞっこんな訳ね……あんたさあ」
「はい?」
「もしかしてさあ。最近、綾小路のこと以外何も考えて無いんじゃないの?」
「失敬なことを言わないでください。私だって綾小路くんが側に居ないときは、他のことを考えていましたよ」
「……例えば?」
例えば? そう、例えば……例えば。
「クラスのことを考えていました。葛城くんが龍園くんと手を組んだのは率直に言って脅威ですので」
「ああ、そう、クラスのことね。クラスのことをね……で、綾小路の側に居るときは、クラスのことも考えていなかったのね」
数秒間必死で頭を回転させて出した答えに、何故か真澄さんは一層疲れきった声で応えてきました。まるで、世界平和を他人に説く前に「平和とは何か?」を逆に突き付けられた哲学者のような疲れ切った声。
いけませんね。電話越しとはいえ、人前で出していい声ではありません。遠慮のいらない友人関係とはいえ、礼儀を忘れるとは。
一度真澄さんに注意した方が良いのではと、一瞬だけ頭を過りました。
が、真澄さんの話の内容と比べれば些事ですね。
「当たり前でしょう。せっかく綾小路くんの側にいるのですよ。クラスのことなど思考の隅にも昇りません」
「……じゃあ、何考えてたのよ」
「一緒に過ごすふとした瞬間を、切り取って心の奥に仕舞い込んで、自由に出せたらなどと何時も思っていたりしているのです……」
「ああ、そんなこと言ってたわね」
ほう、とため息をつく。
綾小路くんの部屋に居るからだろうか、普段はこの辺で話すのを止めるのに、舌が動いてしまう。
「綾小路くんが警戒してしまうので、録画も録音も出来ないのが、残念で仕方ありません……ああ、食事のときに綻ぶ表情や、何気なくかけてくれる言葉のひとつひとつを記録することが出来れば……慣れることも出来るのですが」
「……慣れる?」
「綾小路の側に居ると、動悸がまして、血潮が沸き立ち、身体中を火照らせてしまうことにです」
「……体は大丈夫なのよね?」
「体は大丈夫なのですが、変なんです」
「……変って?」
「途方にくれてしまうのです。綾小路くんの、近くにいると、動悸が速くなり、血潮が沸き立って……どうすればいいかと途方にくれて、何をすれば良いかわからなくなるんです……なのに、綾小路くんは何時も平然としていて、ずるくて」
「……ああ、だから、何時も、ボードゲームして食事しかしなかったんだ。何かして体動かしてたら少しは気が紛れる上に、話題も出来るから。そうでしょ?」
はい、と呟くと、真澄さんが「あんた、告白以前の問題だったのね」と慄くように呻きました。
色々な意味で普段の冷静沈着さを保てない坂柳は気づいていないが、今の真澄の発言は、学生やクラスのリーダーや策略家として極めて冷静で有能な人間ある坂柳が、色恋沙汰になると全く感情制御が出来ない不器用な少女だと、アピールしているものだ。
それに気付かず、坂柳は自分が色恋沙汰に感情制御できない人間だと言葉を取り繕うこともせずに口に出し続ける。
「ですから記録が欲しいんです。普段から見て慣れれば……途方に暮れることなく、綾小路くんと向き合って……だ、抱き合うくらい、出来る、はずなのに……」
「……正直に訳話して、綾小路に頼んだら?」
「真澄さん」
何て困った人なんだろうか。それでは痴女か変態ではないか。せめて誰かが盗撮したものを何らかの手段で入手するくらいの工夫がなくてどうするのだろうか。
これだから恋をしたことが無い女は駄目なのだ。首を振りながら答える。
「そんなはしたない真似をして、変わり者だと思われたらどうするのですか。綾小路くん相手では評価を巻き返すのは至難ですよ。本当に易しくない難しい人です」
「いや、今のあんたは誰がどう聞いても変な奴だから。話があっちこち行って合わせるのも大変な変な奴だから……まあ、綾小路が簡単な奴じゃないのは同意だけどさ」
「もっとも……そういうところも良いんですが」
火照った頬を冷やすために手を当てても冷めてくれません。手まで火照ってしまっていますね。困ったものです。
「……切っていい?」
「切らないでください」
「あー、はいはい、切らないからそんなに慌てないでよ」
「最近の真澄さんには思慮というものが欠けています。私は慌てていません」
あーそうね慌ててない慌ててない、と真澄さんは吐息交じりに答える。何故でしょうか、最近真澄さんの私に対する扱いがぞんざいなものになっています。私が真澄さんを葬れるのだということを、もう一度思い知らせるべきで──
「……で、今から、抱かれるんでしょう。セックスするのよ。なのに、はしたないとか言ってる場合なの?」
──今真澄さんを攻撃してもデメリットしかありませんね。
「真澄さん、そんな直截な言葉は止めてください」
「はぁ? 直裁っていわれても今からあんたは綾小路とセックs「真澄さん」……何よ?」
いい機会です。頭痛を抑えるような疑問の声を上げる真澄さんに釘を刺しておかねばなりません。
「電話越しといえども言っていい言葉と言ってはいけない言葉があります。誰かに聞かれる恐れがあるかもしれませんし、人として礼儀を忘れてはいけません」
「……まあ、それはそうよね」
「そうです。そして今真澄さんが口にした言葉は後者です」
「いや、男の部屋に入って二人っきりになってベッドに誘うことを他に言い様が「後者です。恥じらいがありません」……」
電話の向こうで真澄さんが黙り込んだので話を続けましょう。
「礼儀、すなわち恥じらいを持って他人と会話するのは人として当たり前の──」
「ちっ」
「……真澄さん、人の話を遮って舌打ちなどと、女性としてではなく人として「黙りなさい」は?」
地獄の底から響くような声に知性の欠片もない言葉が出てしまう。
「何時までもウダウダ、ウダウダ煩いのよ」
「私がいつ煩くしましたか。私は礼儀を弁えない友人に、友人として礼儀を嗜めようと──」
「あんたこの期に及んで、綾小路の部屋にスペアキーで入り込んでるこの期に及んで、どうやって綾小路を誘うか決めてないのね。話の持って行き方間違えたら、不法侵入で訴えられかねないこの期に及んで、決めてないんでしょう。違う?」
私の理論的な言葉を真澄さんにバッサリと斬られ、ツウと背筋に汗が流れたのを自覚しました。
「……まさか」
「ヒビって、部屋の中で途方に暮れて何しようかさえ決めてないんでしょ。さっき言ってたみたいにね。
今のあんたは、自分からじゃセックスどころか綾小路に抱きつくことさえ出来ないんじゃない? だから、礼儀だの何だの言って直截な言葉から逃げてんのよ。違う?」
「……」
「無言は肯定ととるわよ」
今や、真澄さんは駒ではなく掛け替えのない友人ですが、力関係は私が上位で居るべきだと思います。なのに最近そうではないんじゃないかと疑ってしまう時が度々あるのが困ります。
「……綾小路くんが悪いんです」
「はぁ?」
「綾小路くんが、泥棒猫たちの相手をせずに私だけを相手にした上で、動画や音声を録らせて私を慣れさせてくれればこんなことには……」
「色ボケて人のせいにしてグダってんじゃないわよ!」
一喝。
「肝心なのはあんたがどうするかでしょう! グダグダしてたら、綾小路のことだからあんたの所業をあんたの父親含めた経営陣に連絡するわよ! あんた、自分の父親が理事長だって忘れてないわよね! 理事長の娘が男の部屋のスペアキー入手して勝手に使用して部屋に不法侵入なんてことがバレたら、どうなるかわかってんの! どう見ても理事長が権力乱用してるとしか見えないわよ! 私には理事長に『貸し』にするくらいしか想像できないけど、綾小路は何するか分からないのよ!」
息を継ぐ今もなく叫び続け長口上を終えた後、電話越しではぁぁっと大きなため息が響きました。
「そもそも綾小路はあんたのものじゃない、告ってもないのに他の女を泥棒猫扱いするな」などと言って坂柳を追い詰めず、坂柳が受け入れられる理寄りの事柄のみの言葉を神室は続ける。
「あんた、今打つ手間違ったら終わるわよ。あんたも私も最終学歴高校中退で前科者よ。わかってんでしょうね」
「わかっています……ごめんなさい」
そう、今私は賭けに出ている。私だけではなく真澄さんも巻き込んだ賭けに出ている。
道連れにしてなお助けてくれるだけでなく、叱りつけてくれる真澄さんに見えないと分かっていても頭を下げた。
「……」
「……」
妙に心地好い沈黙を誤魔化すように、一度咳払いをしてから照れの色を含めて真澄さんが問い掛けてくる。
「ならいいわ。で?」
「はい?」
ふっと吐息をつくと、また優しい口調になる真澄さん。
「正直に言いなさい。どうしたいのよ?」
その問いに対する答えは決まっている。
「綾小路くんに抱かれたいです」
綾小路くんの前では言えなくても真澄さんにはこんなにも簡単に言える。なのに、綾小路くんの前では途方に暮れて出来ない。
でも、何度問われても心の奥底の答えは決まっている。
「抱き締められてキスされて……最後までして欲しいんです……抱かれたいです」
もう一度、自分の思いを確かめるために強く言う。
「……わかった」
沈黙の後、何処までも優しい真澄さんの言葉が耳朶を震わせました。
「なら、私がお膳立てするわ」
先程と同じく、幼子に対する口調なのに、反発する気持ちが起こらない。
「あんたは、ビビって途方にくれてるけどさ。それでも、自分が何をしたいのか。その為に何をすべきなのか把握してるだけでマシよ。何も出来ない人はそんなことさえ出来ずに自分の殻にこもるの」
綾小路の動画とか考えるのはどうかと思うけど、と真澄さんは苦笑した。
「……良いんですか」
「良いも何も、あんたは綾小路の部屋にもう居るのよ。スペアキー使ったことを学校に記録された上でね。
今さら逃げ出せないし、逃がさないわよ。
だから、もしあんたがこの期に及んで怖じ気付いたこと言ったときは腹括ってたわ」
「……どのように腹を括ったんですか?」
淡々とした口調の下に煮えたぎるマグマのような熱を持っている気配がする真澄さん。そんな彼女の様子から急激に膨らむ嫌な予感に思わず口をはさんでしまった。
「ああ、大したことないわよ。
あんたを裸に剥いて猿轡して後ろ手開脚で縛り付けて身動き出来なくしてから『綾小路くんを思うと毎晩慰めるイケない有栖を好きにしてください』って書いた貼り紙でも組んだ脚に張って綾小路のベッドに放置しようと決めてただけよ。
やる必要無くてよかったわ。疲れそうだし」
…………
「真澄さんにはジョークのセンスが有りませんね。笑えません」
「冗談じゃないわよ。知ってるでしょ、私が冗談嫌いなの」
即答には冗談の欠片もなかった。
この女は本気だ。返答を間違えていたら真澄さんはやった。いや、私が少しでも迷えば今でもやる。違う、見誤るな。
今でもやるつもりだ。
「……そうね。やっぱりやるべきかしら。こんな風に話してるんだったら、そのぶん行動すべきよね」
ボソリと呟く真澄さん。声には本気の色しかない。
想い人に対してそんなことをされるなど、想像するだけで死にたくなる。
真澄さんに甘え過ぎていた。ちょっと(真澄:毎日計四時間くらいがちょっと?)愚痴りながら相談して、少しばかり(真澄:胸焼けするほどのが少し?)のろけただけで、強行手段を取る必要が有るとまで決意するほどストレスが溜まっていたとは。
不味い、何とかしなければ。
「私がそんなことをすれば綾小路くんは罠だと判断して間違いなく手を出してきません。そのまま扉を閉めて父に連絡しかねないのですが──」
「そうかしら、やってみなきゃ分からないわよ」
「その場合、真澄さんを共犯として──」
「好きになさい。私よりあんたの方が恥かくんだからさ。一生ものの恥をね」
理で説いても無理だ。
「……どうやら、真澄さんは誤解しているようですね」
「何がよ?」
情に訴えよう。心の裡を打ち明ける恥ずかしさはあるが、真澄さんなら構わない。
「これでも努力はしているんです。普段、表情は勿論のこと、見せ方も自分が魅力的に見える角度を常に意識して綾小路くんに向き合っていたんです」
「確かにそうね……山内の時のあんたは鼻について気持ち悪かったけど、綾小路の時は好感もてて可愛げさえあったわ。一応聞くけど、わざとよね」
「当たり前ではないですか。本命には自然なままの一番の魅力を。どうでもいい他に対しては、その相手が妄想する自分を見せる。
女として、いえ、人として当たり前のことです」
「まあ、そうよね……で、効果あったの? 綾小路に。あの綾小路に」
「勿論、あの無表情を最近は──」
「端的かつ客観的に見なさい。効果あるの? 誰の目にも分かるような効果が?」
「……ありません」
「……結果の伴わない努力は努力って言えないとはいえキツイわね」
「……ええ」
吐息混じりの真澄さんに返す声が震えているのを自覚します。渾身の笑顔を向けても全く引っかからないということが、ここまで辛いとは。
本当に綾小路くんは困った人です。確かに、再会した途端にホワイトルームの事を言及した私に警戒しなくて誰に警戒するのかと思いますが。
私の性格を熟知するように仕向けてから、かなりの時が過ぎたのだから、もう少し踏み込んでくれても良いではないですか。
正直、一人の乙女としても淑女としても有り得ない行動ですが、たまに綾小路くんを殴りたくなります。言うつもりが無かった言葉が漏れてしまうくらいに自分を保てません。
「堀北さんたちを抱いてからの変化と比べると効果がないとしか言えません」
「キッツイわね。それ」
……まあ、今は、同情してくれた真澄さんの様子から、先ほどの言葉を実施する可能性が消えただけで良しとしましょう。
これならば──
「仕方ないわね。あんたが綾小路に好意持ってて抱かれたいってのは伝える必要あるけど、それでよければ仲立ちするけどどうする?」
狙い通り、吐息混じりに真澄さんは私にとっての福音を告げてくれた。
「それでお願いします」
「……自分で言わなくて良いのね? 初恋でしょ、自分で想いを伝えたくないの? 途方に暮れても勢いで言えるかも知れないわよ」
冗談めかした言葉が、どれ程、私の心を暖かくしてくれるか、真澄さんは気付いているだろうか。
私は何時からこんなに弱くなったのだろうか。それすらも愛おしい。
「お願いします。思っていたよりも、私は臆病で乙女ですから」
「ああ、はいはい、あんたは乙女よ……わかった。そうするわ」
「ありがとう。真澄さん」
「礼は巧くいってからにしなさい」
頭を下げた私の言葉に、世話焼きの才能のある真澄さんは、私の絡まった心を安心させて電話を切った。
自分がどうしたいのか、一番大切で簡単にわかることなのに、特定の人の前に出ると言葉に出せなくなる。
(こんなにも甘く苦しいのですね)
「……ふふ」
自分の奥底に根付いた暖かな気持ち。どういう想いなのか頭では理解できても口に出せない想いを宝物のように抱えながら坂柳は微笑みを浮かべた。
いつもの不敵なものではない。どこにでもいる少女が浮かべる自然な笑みを浮かべて心を落ち着けた。
お陰で、数分後「上手く行ったわ。後でもう一度向こうから電話して貰ったら、綾小路はそっちに行くわ」と真澄さんから連絡があったときには、自分でも驚くくらい心が落ち着いていた。
「そういえば、綾小路に今から抱かれるんだけど、なんか要望ある? 伝えるかどうかはこっちで決めるけど」
「特に何もありません。真澄さんと一緒に知識は習得しましたし、好きな人に抱かれるのですから特に何も……いえ」
「何?」
「いえ、その……」
「何なの?」
「お尻の穴などは、し、しませんよね」
「あんたは綾小路をどんな変態だと思ってんのよ。初めての女に無理矢理で飲ませたり尻の穴で何かするなんて、独り善がりで相手のこと考えないクズ野郎よ。そんなことされたらぶん殴って来なさい、私が許すわ」
「で、ですよね」
私の返答に真澄さんは柔らかくなった口調で聞いてきた。
「じゃあ、何もないのね」
……いえ、一つ真澄さんに預けておきたいことがありました。あまりにも恥ずかしくて、綾小路くんにさえ言えるかどうかわからないことが。
すうと息を吸う。
「これは、見っともなくて綾小路君には決して言えないので、真澄さんだけの胸にしまっていただきたいのですが」
「……言ってみなさい」
「…………出来れば、優しくして欲しいんです。わたし、その……キス、どころか、異性と手を合わせたことはあっても、繋いだことさえ、一度しかない、ので……それも、綾小路くんと、だけ、で……」
「……」
「贅沢なお願いでしょうけど……優しく抱いてほしいんです……私は、自分で言うのもなんですがこんな、貧相な、つまらない体ですから」
「…………」
「綾小路くんの情欲を刺激できずに、苛立たせるだけでしょうけども……でも、最初だけでも、父以外の男性に優しく名前を呼ばれて……優しく抱いて欲しいんです」
こんな弱気な自分をどうして綾小路くんに見せられるだろうか。
可憐だとか可愛らしいと思われたのなら良い。でも、理性もなく情念しかぶつけられない小娘と思われるわけにはいかない。
彼と共に歩くために。
「……自分で、言いなさい。あなたが自分で言うべきことよ」
深い吐息と共に吐かれる何処までも優しい真澄さんの言葉。その言葉に少し勇気づけられた。
「……出来る限り頑張ります……」
「……綾小路から連絡が来たわ。備えてなさい、心も体も」
母親のように優しく暖かい口調と言い草で話すと、返事も待たずに真澄さんは電話を切った。
通話が切れた携帯端末を片手に独りごちる。
「……お願いします。真澄さん」
坂柳有栖は恋していた。
ただし、それは綾小路清隆に対してではなく、綾小路清隆に挑戦し戦い自分と同じ天才なのかを知った上で、打ち勝つことに恋い焦がれていた。
端的に言えば、綾小路の能力に焦がれていたのであって人間性ではなかった。
(それが変わってしまったのはいつでしょうか)
綾小路の枕を抱きしめ鼻腔に綾小路の体臭を入れながら、潤んだ瞳を細め口元に笑みを浮かべて坂柳は思う。
学校で再会したときは……おそらく違ったはずだ。
月城旧理事長代理に蹴られ抱き止めてもらったときは……危ういが、きっと、まだ違ったはずだ。
チェスの前は……頬が火照るのを自覚していた。
(そうですね。あの時、綾小路くんと図書館で打った、あの時から、私は)
綾小路には決着を着ける必要はなかった。自分の我儘に付き合う必要はなかった。
なのに付き合った。非合理で不必要な愚かしい判断以外の何者ではなく、どうしようもなく『人間』だった。
(無機質な部屋で育ったのに、あんな一面を見せてくるなんてずるいです)
『人間』としての綾小路に触れたあの瞬間、坂柳は恋に落ちた。挑戦して打ち勝つ相手としてではなく、異性としての綾小路そのものに。
(いえ、多分、ようやく気付いたのでしょうね)
ホワイトルームで人の温もりも知らず、只淡々と課題をこなし能力を高めていた綾小路、彼を見て自分は最初にどう思ったか。
称賛するでもなく、ねじ伏せるでもなく、人肌に愛情に触れられない彼を哀れみ、温もりを与えたいと……
それで、手を触れて包み込んでみたら、色々と……込み上げて来て……
淡い感情が明確な想いに変わった。
(ああ、何だ。私はずっと恋していたのですね)
なんて、乙女。
言葉を交わすこともなく、一度だけ見ただけの人をそこまで想っていたなんて。
茶色の男物のハンカチを握りしめて微笑む。
あの夏の日、助けてくれたのが綾小路くんならと想像までしておきながら気付いていなかったなんて。
その事に抱かれようとする直前まで思い至らず、綾小路のベッドに横になりながら、枕を抱き締め匂いを嗅いでようやく気づくなんて。
他者がすれば失笑しながら、攻撃の札にする愚かさ。
それが……どうしようもなく、愛しくて、恋しい。
(綾小路くんも気付いてくれれば良かったのに……いえ、あの、ロマンチックの欠片も無い人には望めませんか)
割りと容赦ない評価を内心で下しているのに、体は違う反応を示す。熱いほど火照り耳元までうっすらと紅く染めてしまうのが恥ずかしくて、綾小路の枕に顔を埋める。
じっとりした熱さが体を覆う、心臓がうるさいくらいに鼓動を早め、耳鳴りするほど頭が湯立つ。
コントロールが効かない熱。
(いけませんね)
枕を抱きしめ綾小路の体臭をかいで落ち着かせる。
傍から見れば変態に見えるだろうなと頭の片隅の冷静な部分が告げるが、衝動を抑えられない。鼻腔を通し、腹の底まで綾小路の香りで満たしても、もっともっとと体が欲する。
こうではなかった。自分はこんな焦がれた衝動だけで動くようではなかったと思えども動いてしまう。
愛着、慈愛、愛憎、情愛、ありとあらゆる愛を綾小路に抱いていると思っていたのに、自分は肝心な思いを抱いていなかった。いや、気づいていなかったのだと坂柳は理解する。
(愛慕……いいえ、恋慕……を、何時の間にか)
ほうと艶かしい吐息を吐く。そこまで想う相手と、今から情事を行うのだと思うと、普段通りに「フフフッ」と笑うことさえ出来ずにギュッと綾小路の枕を抱く。
(怖い……ですね)
いつかはすることだと理解していても恐怖を抑えきれない。
俗に言う良家のお嬢様である自分は貞操と妊娠に関して高い観念を持っているからでもある。
自分の体を委ねる相手はそれ相応の相手でなければならない。
(綾小路くんならそういう意味でも不足はないのですが)
怖いのはそれが理由ではない。
自分で言っては何だが、自分はかなり乙女だ。
ファーストキスと処女は本当に好きになって結婚を考えるような相手に捧げるものだなどという乙女チックな想いを、本気で信じているくらいの乙女。
(だからこそ、怖いのですね)
家柄・能力・外見に何の不足もない綾小路。
結婚相手として不足なく、したいと考える相手の綾小路。
何より、自分が初めて恋をした綾小路。
その相手に──
自分はちゃんとできるだろうか。
自分の幼い体は彼を満足させられるだろうか。
不安で怖くて仕方ない。
自分は…………彼に、満足されずに嫌われてしまわれないだろうか。
(困りましたね……関係をステップアップする前に、何か特別な思い出が欲しい、流れに流されてロマンチックな流れではないことに気をとられるならともかく……怖い、ですか……)
自分が優れた容姿をしていることは理解しているし、磨いている。
だが、客観的に見て自分の体は幼く未成熟だ。
そのことを自分は理解していた。
だが、理解しているのは、納得するのとも平然としていられるのとも違う。
(もう少し、もう少し余裕が持てると思っていたのですが)
彼が関係を持った女性と比べられ、失望されたらどうしよう。
そう思うと震える体を誤魔化すことさえ出来ず、綾小路の枕を全身でかき抱くようにして丸くなる。
綾小路の香りを吸っていると少しだけ気分が落ち着き、震えが収まる。
まだ、綾小路は部屋に来ないだろう。なら──
(もう少し、抱いていても……)
数分間香りを堪能するつもりで枕の香りを吸い始める。
すっ。落ち着く
すぅっ。落ち、着く
すぅぅっ。落ち着……く。
この枕に比べれば、愛用の抱き枕は……ゴミだ。
(綾小路くんにお願いして普段使う抱き枕に出来た……ら、いいの、ですが……そうですね。性交した相手が我儘を言えば綾小路くんがどうするか知る良い機会です。やってみましょう。
巧くいけば私の枕と交換することが出来るかもしれません。そうして、私は綾小路くんの綾小路くんは私の香りを堪能出来ます……そうすれば、他の泥棒猫を抱いた後でも、眠りにつく時には綾小路くんは私の香りを最後に嗅ぐことに……一週間で交換し合うのを目指しましょう
……あ、いえ、その前に、綾小路くんに、見せる身体に、変なところはないか、鏡で、かくにん、しない、と……)