「ん?」
例の一件に関する話し合いの翌朝。出席を終えてさっさと茉優とそれぞれの研究室へと準備のために移動したところ、入室とほぼ同時に内線の電話が鳴り始めた。こんな朝早くから何かあっただろうか。
「はい、紀です」
『あぁ良かった、紀君はいましたか』
そのコールに応えて受話器を取ると、電話の向こうからは我が校の体育教師の声が。紀君"は"ということは、茉優の方にも先に連絡を取っていたのだろう。私も茉優も先程到着したばかりなので、彼女の方はニアミスになったようだ。
「どうかなさいましたか?」
『少し、二限にある体育で手伝って欲しいことがあってね』
それはさておいて、私が先生から用件を聞き出すと、彼女はそんなことを口にする。はて、私は毎回のことなのでともかくとして茉優まで呼び出す用事とは何だろうか。
『今日、一年A組と二年A組が合同でプールの授業なんだけど、編入生のリンク値の測定を手伝って欲しくて』
「あぁ、そういうことでしたか」
思考に耽り黙り込んだ私をどう捉えたかはさておき、先生は授業外での比較的フランク──多分、私の場合は彼女との歳の近さもあるだろうが──な口調でそう補足してくれた。測定はすぐ終わるとはいえ、監督の目を外すわけにもいかないか。私一人ではリンクを邪魔する都合上正確な測定もできないので、茉優の力を借りるのは必然である。
「分かりました。器具の運び込みと茉優への伝達もこちらで済ませておきますね」
『お願いします』
それから、先日感じた予感は本物だったな、などと思いながら先生との通話を終えた。ということは、水着を寮まで取りに帰らなければいけないか。
「あまとくーん、こっちは準備できたよー」
「あ、茉優、ちょうどいいところに」
すぐそこの距離とはいえ、来た道を引き返すのはめんどくさいなぁと考えていると、そこにちょうど準備を終えてこちらにやってきた茉優の姿が。見計らったかのようなタイミングに、私は思わず右の拳を胸の前でポンと左の掌に合わせた。
「? 何かあった?」
「さっき先生から電話があってね。暁君と在原さんのリンク値を測るから二限にプールだってさ」
キョトン顔を浮かべた茉優の表情が、私の言葉を聞いた瞬間僅かに強張る。先日肌を晒したくないと言っていたばかりなのもあってか、実に分かりやすかった。
「フラグだったかぁ……」
そして、茉優はコンピュータ用語を口にしながらその場にしゃがみこむ。口は禍の元なりとはよく言ったものだ。
「ははは、ほら、一旦水着取りに帰るよ」
「はーい……はぁ……」
そんな茉優の手を取り、私は彼女を立ち上がらせた。茉優も避けられないと知ってすっかり観念したようで、重い溜め息を零して移動を始めた私の後ろをとぼとぼと歩き始めたようだ。
「これで良しと」
既に一限も半ばに差し掛かった頃。研究については一先ず置いておくことにした私たちは、寮から戻る脚でそのまま学院の西側の端っこにあるプールまでやって来ていた。今の私は、手早く着替えを終えて運び込んだ測定器具の設置を終えたところだ。問題なく稼働しているので、これで授業まではゆっくりできる。
「ごめんね、準備全部任せちゃって」
「いいよいいよ、大した仕事量でもないし」
それから程なくして、水着に着替えた茉優が更衣室から出てきて私の下まで歩いてきた。茉優は私に謝罪の言葉を口にするが、実際大した労力は割いていないので気にするほどのことでもない。
「ところで、今日は一段と装飾過多だね」
「うぐ、あんまり指摘しないでもらえると嬉しいかな……」
さて暇になったなというタイミングで、私は何時言おうかと迷っていた茉優の格好について触れることにする。私の言葉に呻き声を上げてこちらを向く茉優の、水着に白衣を着用し、その上で眼鏡までかけている姿は何と言うかこう、異質な雰囲気を放っていた。流石に初めて見るそれは露出を少しでも減らす彼女なりの抵抗なのだろうが、そのせいで余計に目立ってしまうのはいいのだろうかと思ってしまう。
「余計に目立って本末転倒だと思うんだけど?」
「それでも……! 肌をそのまま晒すよりは……!」
それを私が指摘すると、茉優は振り絞るような声でなおも抵抗を試みる。何度も言った──というより、こういう時は毎回言っているような気がするが、茉優は別に恥じるようなスタイルではないと思うんだけどなぁ。寧ろ、傷一つない白い肌とスタイルの良さはもっと誇っても良いと思うが。
「茉優は綺麗だと思うけど」
「……口説いてる?」
「そういう仲でもないだろうに」
「だよねぇ」
それを今回も指摘してみるが、結果はいつもと変わらず。ほんのり頬を染めている辺り内心では嬉しいのかもしれないが、私を茶化す発言をしてそのまま話は流れて行ってしまった。会話が途切れて広いプールに静寂が訪れる。
「目立つと言えば、天都君のそれの方が目立つと思うんだけど」
「そうかな? 分類上は水着だからそうでもないと思うけど」
沈黙が耐えられなかったのか、切れた会話を繋ぎ直して今度は茉優が私の水着を指摘してきた。頭から足先まで視線を送られるそれは、黒地に所々深い蒼のラインが施された、所謂ウェットスーツのようなものである。確かに学院ではなかなかお目にかからないだろうが、ちゃんと水場で用いるものなのだから変ということはあるまい。
「そっちじゃなくて……いや、そっちもだけど、この浮き上がる雄々しい筋肉の方」
「あぁ、こっち」
と思っていたら、私の言葉は茉優的には若干的外れだったようで、私の勘違いを修正してきた。ぴっちりとしたものを着ているので、鍛えている身体のそれは当然浮き上がるだろうさと思いながら、私はやったこともないポージングを取って筋肉を隆起させる。見た目は細いが、筋肉自体は我ながら高品質だ。
「おぉ、ふ……さ、触ってもいい?」
「どうぞ」
十数年一緒に生きてきた中で一度も聞いたことの無い声を出す茉優に、私はすんなり許可を出した。腹筋を初めとして、もう数えるのも止めた程度には触られているので今更である。ちなみに逆はセクハラ一直線になるので一度もない。
……いや、研究室で何回かあるにはあったな。アレは事故だけれども。
「うわぁ……凄い硬いね……」
「まぁ、いつもと違って力入れてるからね」
浮き上がる凹凸を撫で回しながら、茉優は神妙な顔付きのまま、腕、胸板、腹筋、背筋へと流れるように触れていく。毎回飽きもせずによく触るものだなと、変な感心が頭を過ぎって行った。というか、そろそろ維持するのが辛い。
「茉優、そろそろ力抜くよ」
「へ? え、あ、うん」
やがて、限界を迎えた私はゆっくりと力んだ身体を弛緩させていく。硬度を幾分か和らげたそれに触れたまま、茉優は自分が分単位でお触りしていたことに気がついて、遅れて私に言葉を返した。いや、離れないのか。
「何というか、壁って感じだね」
今も尚私の胸板にぺたぺたと触れながら、茉優は私の身体を評する。そりゃあ、私も顔はこんなだが普通に男だし、胸が膨らむはずもない。
「まぁ、茉優の丘と比べたら……いや、ごめん、失言だった」
「…………えっち」
そんなことと以前のアレを思い出していたせいか、何か言葉を返そうとした折に、私はうっかり茉優の立派なそれについて言及してしまった。色やら恋やら、兎角そういう方面には疎い私でも流石に今のはダメだと分かったので、何か言われる前に素直に謝罪の言葉を口にする。遅れて私の発言の意味に気付いて顔を真っ赤に染めて身体を庇う茉優を見る限り、やはりそれでも手遅れだったわけではあるが。
もう一緒にお風呂も入っていたような時代とは違うのだ。相手が嫌がった時点でハラスメントになり得るので、親しき仲にも礼儀ありと肝に銘じておこう。
「ねぇ、めくっていい?」
「セクハラの仕返しということなら甘んじて受け入れよう」
「もう、茶化さないでっ」
しばらく気まずい沈黙が続いたかと思うと、茉優は熱さを残した顔をこっちに戻して、私の顔を見上げながらそんなことを口にする。制裁ということなら黙って受け入れようと思いそれを許可したのであるが、ムッと眉間に皺を寄せる様子から察するに、どうやらそういうことではないらしい。
まぁ、あまり見せたいものではないのだが、私の傷を知る茉優相手なら今更隠すことでもない。結局は茉優のさせたいようにさせることにした。
「気分の良いものでもないだろうに」
ふん、と零す溜め息と共に溢れる言葉に、茉優は反応を返さない。そして、スーツを胸板までめくりあげて露出した私の傷だらけの身体を、茉優はゆっくりと感触を確かめるようになぞっていく。少し、擽ったい。
「傷、増えてない?」
「うん、最近は外傷も負ってないし、大丈夫だよ」
白磁の指で触れながら、茉優は私にそれだけ問う。恐らく、この前の襲撃のことを心配してのことであろうが、あの時はスタングレネードぐらいしかまともに喰らっていないので真新しい傷は増えてはいない。というより、ここ数年ほどは無茶な鍛錬も控えているので、多分茉優が最後に私の生肌を見た時からはそれほど増えてもいないだろう。
それでも、見れば分かるほどに身体に刻まれた痛々しい傷痕は、私の全身にほとんど隈なく奔っている。これを人に見せるのを嫌って私はこういう水着を着ているし、お風呂なんかも人が少ない終了間際の時間を使ったり、最悪研究室のシャワーで済ませてしまったりしているのだ。
「あんなことがなければ、天都君も綺麗な身体だったのかな……?」
「さてね。確かに、切欠はアレだったかもしれないけど、これがあった時点でなぁ」
悲しむような茉優の声に応え、私は更にグイと水着を引き上げる。露になった胸板に奔るのは、他の傷よりも一際大きい半ば抉れてしまったような傷痕。物心ついた時からあったこれがある以上、鍛錬でできた傷なんてほとんどおまけのようなものだ。
「でも、こんなに傷だらけになることも……」
「ありがとう、茉優」
「んっ」
しかし、私の言葉では気休めにもならなかったようで、茉優は寧ろ心配の色を濃くしながら徐々に距離を詰めてきた。そんな茉優の頭を私は感謝の念を込めて撫で回す。幾度となく繰り返してきた遣り取りに、茉優は目を細めて幾分かその表情を和らげてくれた。
茉優の言う通り、私は元々こんなに傷だらけだったわけではない。ある一件より以前は下の子たちの喧嘩を軽々止めれる程度には身体も丈夫だったのだが、あくまでその程度だ。取り分けてフィジカルがあったわけでもないし、今以上に線の細い男の子だったと記憶している。つまり、特に鍛えていたわけでもないし、ということは、この胸の傷以外は特にこれといったものもなかったはずだ。これらは鍛錬によってできたものがほとんどなので。
小学生時代も終わるか終わらないかという頃。アレはそのぐらいの時期に起きた。私は未遂で済んだものの、誘拐されたのだ。その道のプロだったのか、普段見ることのない屈強な大人たちに連れ去られて、子供の私では何もできなかったことは、今でも鮮明に思い出すことができる。
自分よりも大きな存在に剥き出しの悪意をぶつけられることは怖かったし、何より、それが私だけではなく周りの人間にも起こり得ることが怖かった。だからこそ、これまた知らない大人に助けられて風蘭に無事帰れてからは、大嫌いな暴力にも対抗できるだけの力を手に入れるために、それこそ死に物狂いで身体を鍛えることになる。自分と、何より大事な人たちを守ることができるように。人が傷つくのはできれば見たくないから。
「おっと、もうこんな時間か」
「わ、とと、ご、ごめん」
「ふふ、いいよ」
そんな風に自分が変わる切欠となった事件を思い返していると、静謐に染まっていたプールに一限終了の鐘が響き渡った。何時の間にか抱き着いていた茉優も、ハッとした顔で慌てて離れていく。自分自身の無意識の行動に赤くなる茉優は可愛らしい。
「さて、じゃあもう少し待とうか」
「うん」
それから、傷を隠すように水着を戻して、私は再び茉優と器具の横に並んだ。幼馴染と過ごすひとときは、私の心に穏やかさを分けてくれる。
しゃがみこんだ茉優先輩のパンツ見えてそうだなって思いました(小並感)。
【ColumnXI】-天都君の設定その7-
筋肉が付きやすい体質。普通のそれから見ると異常であるが、本人はそんなものかと納得している。そのせいで無茶な鍛錬を実行する意識が強まったわけではあるが。
何故そうなっているのかは、本人を含めて誰も知る者はいない。少なくともこの世には。