飼い猫が全然帰ってこないので心配だから探すのを手伝ってほしいと頼まれる。頼み事を受け入れたその日、母に買い出しを頼まれ店へ向かっていると路地裏から鉄のような匂いがし、普段はそうでもないのだが噂を聞いた後だったため気になり、そちらへ向かうと―――。
殆どあってないようなクトゥルフ要素、僅かなオカルト要素があります。そこまで怖くないと思います。
がっつり死ネタです。そこまで残酷な描写をしているつもりはありませんが、そう見えるかもしれません。でも多分生温いです、はい。念のためそういうタグをつけております。
個人的なルールというか勝手な解釈によって適当な設定を作っているので「ここが変」だの「いや、この設定おかしい」などの苦情は受け付けません。
なんか、この人の頭の中ではこんな感じに勘違いしまくってるんだろうなぁ、と言った寛大な心で受け止めて読んでくださるととても嬉しいと思っております。
元ネタというか基盤となったオリジナルクトゥルフシナリオがあり、そのシナリオ作者や友人からどうしても読みたいと懇願され、でも紙に印刷するのも面倒でUSB渡すから勝手に印刷してろよ、などと言いながらのらりくらりと躱していました。
相手も自身の卒業制作などで忘れているように思え、これならば大丈夫だろうと思っていたら、思い出しやがったのでもうどこかあいつらがアカウントを持っている小説投稿サイトのどれかにぶん投げようと決めました。
ほら好きに読めよ、面白くないとかいう苦情は受け付けねーから、という感覚です。(もちろん友人たちへの気持ちです)
誤字脱字があってもお許しください。
あらすじにも書きましたが、殆どあってないようなクトゥルフ要素、僅かなオカルト要素があります。そこまで怖くないと思います。
がっつり死ネタです。そこまで残酷な描写をしているつもりはありませんが、そう見えるかもしれません。でも多分生温いです、はい。
本文はそれほど量はないと思うので、暇つぶし程度になればいいなと思っております。
普段は支部で生息しているため無駄に長い前置きになってしまいました。失礼しました。
1
門下生の
普段はのんびり構えている幕ノ内がいつになく真剣な顔で相談してくるものだから、いかに出不精で半ば社会的動物の面をそぎ落とした涼歌といえども身構えてしまう。
稽古内容に関しての相談だろうか。それともどこか痛めたのだろうか。以前、足首を痛めて医者に見せずそのままにし、悪化させてしまった門下生がひとりいた。父にそのことが露見したとき、それはもう大きな雷を落とされていたのを目の当たりにしているので、涼歌と違い馬鹿ではない彼は流石に病院に行くだろう。
剣道関連以外では一切働かない脳みそで相談内容を考えていても悶々とするだけで、答えは出ないので先を促すことにした。
「で、相談って? 稽古内容とか?」
「あ、そっちではないです。稽古内容には満足しています! 剣道以外の相談で……」
どうやら稽古とは違ったらしい。幕ノ内が小さく、師範代とのかかり稽古や試合稽古はあまりしたくないですけど、と呟いていたのは聞こえていないことにする。
かかり稽古にしても、試合稽古にしてもなぜか門下生たちは涼歌とやるのを嫌がるが、その理由を涼歌だけわかっていなかった。
特に試合稽古に関しては実戦形式でやるものだ。真剣な相手に対して手加減をするのは失礼にあたるし、自身の向上にも繋がるから、という理由で本気を出して臨んでいるというに失礼な門下生たちだ、とその本気があまりにも怖すぎるせいで嫌がられているとも知らずに涼歌は思う。
気が逸れたことがわかったのか、幕ノ内が師範代、と声をかける。そういえば相談を受けていたのだった、と思い出す。
「剣道以外かぁ。あたしに相談とか大丈夫なわけ?」
「はい。剣道以外ではポンコツな師範代にもできることなので!」
「あ?」
確かに剣道以外ではポンコツであることは自覚しているが、それをいくら門下生といえども他人に言われると僅かばかりだが腹が立つものである。反射的に睨みつければ、幕ノ内は身を縮めた。やってしまったという顔すらしている。
そんな顔をするぐらいならば言わなければいいのに、と思うもこの男、それはもう正直な男なので仕方ないと言われればそれまでだ。
「で? そのポンコツなあたしでもできることって?」
仕方ないのはわかっているので怒り自体はすぐに収まったが、幕ノ内をからかうためにポンコツという部分を強調しながら笑顔で聞けば、これまた面白いぐらいに震えあがる。
「あー、……その、あの……」
面白いぐらいに震えあがってくれたのは嬉しいが、これでは話が続かないことに珍しく早い段階で気がついた涼歌は軽く笑いながら、もう怒っていないと幕ノ内に告げる。彼は大きく安堵すると今度こそ本題に入った。
「俺、猫を飼ってるんですけど……」
「へぇ、猫飼ってたんだ。初耳」
「今初めて言いましたからね。で、その猫が最近行方不明になってて」
「どっかに散歩行ってるとかじゃなくて?」
「最初は俺もそう思ってたんです。けど、一週間も帰ってこないのは初めてで」
いつもなら長くても三日で帰ってくるんですけど、と俯きながら言う幕ノ内の声は普段の朗らかさはどこへ行ったのやら、とても沈んでいた。どうやら相当その猫のことを可愛がっているらしい。
「それは心配だね」
そう口にすれば、幕ノ内は目を見開く。大方、周りにほとんど興味を持たない涼歌が自分を心配していることに驚いているのだろう。
心外な。これでも身内には興味を持つのだ。幕ノ内は門下生なのだから自分にとっては身内同然なのだし、興味を持たないわけでも心配しないわけでもない。
本当に人をなんだと思っているのか。鬼だとでも思っているのか、と問い詰めてやりたい気持ちはあるが、それをしても躊躇いながらも肯定されそうなのでやめることにする。なにより話が逸れる。そうでなくても本題に入るまでに無駄に時間を食っているというのにこれ以上ここで時間を無駄にするのは嫌だ。
幕ノ内を睨みつけるだけに終わらせると、目だけで続きを催促する。
「それでですね、猫を探すのを手伝ってほしいなと思いまして」
「確かにそれならあたしでも力貸せるかもね」
ポンコツの、という言葉も付けてやろうかと思ったが、そうすればまた話の腰が折れるので流石にやめた。
「で、その猫の外見とかは? 流石にどんな猫かわかってないと探すことできないし」
「えー、と……。種類はバーマンってやつです」
「……。ごめん、種類言われてもわからない」
「あー、ですよねー」
周りに興味ないですもんねー、みたいな顔をされるのは腹が立つが、しかし事実である。それに言い訳させてほしいが、それなりに周りに興味を持っている人間だったとしても、相当な猫好きでない限り猫の種類など言われても思い浮かばないだろう、普通。
「ふわっとしてて、モコモコしてます」
「ふわっとしてて、モコモコ?」
「はい。触り心地は最高です!」
先程の沈んだ声はなんだったのか、唐突に目を煌めかせて語る姿に少し驚きを隠せない。
だが、そうか。触り心地は最高なのか、と思いながら続きを促す。
「色は白を基調にしてて、珍しく顔に濃紺の毛が生えています」
「濃紺の毛かぁ……。確かに珍しいな。探しやすそう」
名前は、と聞けばマリーです、と返ってくる。
なるほど、メスか。名前だけで雌雄を判断してしまったが、多分間違ってはいないだろう。
「まあ、マリーのことですから。いつもより遠出してて帰ってくるのに時間がかかっているだけかもしれませんけど……」
「それでも心配なんでしょ?」
「はい。噂のこともありますし」
はて、噂とは。なんのことかわからずに幕ノ内の顔をじっと見つめれば、本当にこの人は、と呆れるような顔をされた。深い溜息すらオプションでついてきた。
仕方ないだろう。興味ないのだから。というような顔をすれば、幕ノ内は自分の町のことぐらい頼むから興味を持ってください、と疲れたように言ってきた。
「それは無理かな」
「即答しないでください!」
「まあまあ、無駄に体力を使わない。それで、噂って?」
「誰のせいで無駄に使っていると思って……。いや、もういいです」
頭を抱えて大きく溜息をつく幕ノ内に、僅かばかりの申し訳なさを抱きながら続きを待つ。
「噂のこと知らないってことは、回覧板も見てないってことですよね」
「断言されるのは腹立つけど、まあ当然見てないよね」
「最近、回覧板で回ってきたんですけど、猫の死体が多く見つかっているという噂を見まして」
「へぇー、そんな噂あったんだ」
「あったんですよ、はい。で、その噂を見てもしかしたらって思って」
なるほど、と涼歌は思う。確かにそんな噂があれば、不安にもなるだろう。
「なら、外を出歩くときがあったら探すようにするよ」
「その言葉でまったくもって期待ができなくなりました」
「もともと期待してないでしょ、あたしに」
そう告げれば笑顔で肯定するのだから、少しは躊躇えという気持ちを込めて顔――主に米神当たり――を掴み、指先で握力を使い締め上げる。俗にいうアイアンクローというやつである。高校時代、女子の中でもトップクラスだった握力の強さは最後に測ってから数年経った今も健在で、それを諸に食らってしまった幕ノ内の叫び声が道場に響き渡る。その様子を遠回しに見ていた他の門下生たちは、哀れと思いながら心の中で手を合わせたのだった。
その後、必死に謝罪をし、なんとか痛みから解放された幕ノ内は顔をさする。それを見て、自分でやっておきながら痛そうだなという感想を涼歌は抱いていた。
「それじゃ、よろしくお願いします」
「うん。期待しないで待ってて」
いい笑顔でそう言われれば、幕ノ内は苦笑するしかない。とりあえず、頭を下げると着替えるために更衣室へと向かった。その背中を見届けると、涼歌は汗を流そうと母屋の方へ足を向けたのだった。
2
汗を流した涼歌は、肩にかけたタオルで髪の水気を取りながら飲み物を取りにリビングへと顔を出す。リビングに入って右手側にあるソファで父、
今の季節は夏。何もしていなくても暑さで汗をかく季節に、稽古をしていたのだから普段無頓着な父でも流石に汗がべたついて嫌だったのだろう、と涼歌は考えかけ、そして、いや待てよ、と思い直す。確かに今日は暑かった。暑かったし、稽古もいつもどおり厳しかった。だが、廉は指示を出すことはあってもあまり動いていなかったような気がする。今日は廉が直接指導するより、門下生同士での打ち合いが多かった気がするが、そういうのを考え出すとキリがないので、涼歌は考えることをやめた。
そういえば、父は町内会やらなんやらと近所付き合いで頻繁に外出している。ならば、幕ノ内の飼い猫を見たことがあるかもしれない。
「父さん、ちょっと聞きたいことあるんだけど」
「んー? どうしたー?」
「父さんって幕ノ内のとこの飼い猫、見たことある?」
「幕ノ内くんの?」
「そう」
「最近、幕ノ内さんとこで飲み会がないからなぁ」
うーん、と何回か訪れたことがあるはずの幕ノ内家の記憶を思い起こそうとしている廉を見て、これはあまり期待できなさそうだと涼歌は思った。
「見たことないなら別にいいんだけど……」
「幕ノ内くんの飼い猫って、色白い?」
「白いって言ってたはず。あと、顔に濃紺の毛が生えてるって言ってた」
「じゃあ、あの子か」
どうやら覚えていたらしい。涼歌の父親だからこそか、廉もそこまで記憶力がいい方ではなかったので覚えていたことに顔には出さないながらも驚いた。
「幕ノ内さんの家は、ほかの野良猫のたまり場にもなっているみたいでさ。よくいろんな猫がいるんだよ。だからちょっと特徴言われないとわからなかった」
「なるほど」
「で、なんで幕ノ内くんの飼い猫の話がでてきたんだ?」
お前、幕ノ内くんに飼い猫がいたことすら知らなかったはずだろ、と廉はテレビから視線を外して自分の後ろに立っている娘を肩越しに振り返った。
「幕ノ内から飼い猫が一週間ほど帰ってこないって相談されて」
「一週間ぐらいなら普通じゃ……って、相談されたのか? お前が?」
「うん」
「自他共に周りに興味がないと認めるお前が?」
「そうだよ」
嘘だろ、と小さく呟く廉にいくら相手が自分の娘と雖も、流石にそれは酷いのではないだろうか、と涼歌は眉を顰める。
「あと、探すのを手伝ってくれって……」
「は?」
「明確にそう言われたわけではないけども、そういうニュアンスだったし……」
「出不精のお前に、探すのを手伝ってもらおうとしているのか? 幕ノ内くんは」
「そういうことになるね」
肯定すれば、廉は信じられないという顔をする。
父の気持ちはわからなくもない。自分だからこそよくわかると言うべきか、一番そういう相談や頼み事をしてはいけない相手であるのだ、昏内涼歌という人間は。
「幕ノ内くん、どこかで頭を打ったとか……?」
本気でそう思案している廉の後頭部を容赦なく引っ叩けば、思っていたよりも力が入っていたのか後頭部を押さえながら廉は呻いた。
「相当飼い猫のこと大事みたいだし、形振り構っていられなかったんじゃないの?」
他の人にも頼んでいるみたいだし、と告げれば、なるほどと廉は納得した。
「そうだよな。そうじゃないとお前なんかに頼りはしないよな」
「次は殴ろうか?」
そう言いながら拳を握って見せれば、形だけの謝罪が返ってきた。こちらも本気ではなかったのですぐに拳を収める。
「まあそういうことだから、父さんはあたしより外に出ること多いしさ、一応探すの手伝ってよ」
「わかった」
頷いた廉にあとはよろしくと告げる。喉が渇いたので、お茶でも飲もうかと冷蔵庫の許へと向かえば、冷蔵庫の前で母、
「母さん、何してるの?」
「あ、涼ちゃん。今日ねぇ、冷しゃぶでも作ろうかと思っていたのだけど、冷蔵庫の中を見たらお肉を買い忘れていたことに気づいてねぇ」
珍しい、と涼歌は思った。空はおっとりとした雰囲気を持っており、話し方もまたおっとりとしているのだが、その中身は雰囲気とは逆にとてもしっかりしている。買い忘れがないか、いつも買い物かごの中とメモ用紙を交互に見て確認しているのを涼歌は知っている。だからこそ、珍しいと涼歌は思ったのだ。
「きちんと確認したはずなんだけどねぇ……」
いくらしっかりしていると雖も、ミスをしない完璧超人など存在はしないのだからこういうことぐらいあるだろう。
そう告げれば、空は少し腑に落ちない顔をしたが、起きてしまったことは仕方ないので無理矢理にでも自身に納得させたようだ。
「で、肉がないことがわかったとして。どうするの?」
「そうねぇ。まだ、夕食には早い時間に気づいたし……。涼ちゃん、ちょっとお使い頼まれてくれる?」
「え……?」
涼歌はその言葉に眉を顰めた。お使いに行くということは、蒸していることもあってサウナ状態と化している外に出るということである。今さっき汗を流したばかりだというのに、また無駄に汗をかく行為はしたくない。必要以上に外に出たくない。今すぐにでも飲み物を取って自室へと戻り、夕飯ができるまでゴロゴロしたい。ゴロゴロしたい、が。他でもない空の頼みである。
これが父の頼みであるならば、どんな条件を出されたとしても断固拒否するのに、と涼歌は考えた。涼歌のなかでの廉の扱いが相当酷いものであることが伺えるが、口に出しているわけでもないので誰も気がつかない。例えそういう考えをしていると分かったところで、かれこれ十何年とこの扱いをしているので今更だと周囲の人間も、勿論廉自身も知っている。
閑話休題。
こんな暑い中外には出たくない。朝の涼しい時間帯なら未だしも、誰が好き好んで仕事帰りや稽古帰り、学校帰りでもないのにこんな暑い時間帯に買い物に行くというのか。
だが、それが空の頼みならば涼歌は聞くしかないのだ。出稽古以外ではほとんど外出しないそろそろ三十路も近い娘に対して、思うことは色々とあるはずだというのに、何も言わずに好きにさせてくれているのだから。孫を見せるとか、結婚相手を見つけてくるなどといったこと以外でなら、できる範囲で空の頼みを聞くと歳が二十三を超えたあたりから決めていた。
「私は他にもすることがあるから、涼ちゃんが言ってくれるととても嬉しいわ」
そうやって優しく微笑まれれば、頷くしかない。涼歌が頷けば、それはたいそう嬉しそうに微笑むのだからどうしようもない。
「とりあえず、着替えてくる」
「ええ」
流石にタンクトップとジャージの短パンだけで外に出るのはどうかと思ったのだ。タンクトップは未だしも、ジャージだけでもジーパンに穿き替えた方がいいだろう。
自室へと戻り、ジーパンに穿き替える。買い物袋と財布を取りにリビングへ戻れば、まだ夕方だというのに缶ビールを開けて飲んでいる飲んだくれに酒のつまみを出している空の姿があった。
いつもの光景ではあるが、やはり夜でもないのに酒を飲むのは如何なものだろうか。運転する予定がないからこそ、この時間帯から飲んでいるのだろうが、それでもやはりこれはないだろうと眉を顰める。
今日一日で覚えている限りでも三回は眉を顰めている。この頻度も可笑しいと思うが、これ以上ここにいればまた眉を顰めてしまいそうだし、眉間に皺ができて取れなくなってしまいそうだ。とりあえず、さっさと肉を買いに行くに限ると、涼歌は空がテーブルの上に用意してくれていた買い物袋と財布を手に家を出たのだった。
3
外に出れば、むわっとした蒸し暑さが涼歌を襲う。時折吹く風も生
この蒸し暑い中に居続けたくはないとばかりに、涼歌は足早にスーパーへと向かった。
その道中、生温い風が鉄錆のような臭いを運んできた。普段では嗅ぎなれない臭いである。涼歌の脳裏には、幕ノ内から相談された猫の死体が発見されているという話が過ぎる。
もしかして、いや本当に錆びた鉄の臭いかもしれないが確認してみるだけの価値はある。幕ノ内の飼い猫であるマリーでなければいいのだから、と涼歌は思いながら路地裏へ足を踏み入れた。
そこには錆びた鉄などは存在していなかった。だが、鉄錆の臭いはその場に漂っている。一番強く臭う場所へと歩みを進める。両壁を見るが、どこにも臭いのもととなりそうなものは見当たらない。頭上は空しかないので、他に見る場所といえば足元だけだ。足元を見れば、そこには小さな血だまりができていた。その血だまりから路地裏の先へと血痕は延びているのがわかる。
肉を買うために外に出たのだが、まさか血だまりと遭遇するとは思ってもみなかった。噂というか、もう事件といっても過言ではないだろう話を聞いてしまっているので、転々と続いている血痕が気になってしまう。
まだ夕方だ。このまま血痕がどこまで続いているのかを調べに行っても、すぐに戻ってくればまだスーパーは開いているだろうし。
僅かばかり逡巡し、涼歌は血痕が続く先を見ることに決めた。そのとき、ヘドロのようなものが
路地裏を歩き進めていくと、大通りという程ではないがそれなりに広い道路に出る。血痕は広い道路を横断するように続いていた。横断先を見れば、この町にある唯一の神社『尾の森神社』へ続く石の階段があった。車が来ているかどうかを確認し、道路を横断すると階段を上っていく。階段にも血痕が転々と続いていた。
鳥居を潜り抜け、境内へと足を踏み入れる。血痕を追い続けていけば、それは拝殿まで続いていることがわかる。別に信仰心があるわけではない。だが、いくら御神体がある場所ではないと雖も、拝殿に血は駄目なのではないかという考えぐらいは流石にある。いや、境内に血がある時点でもう駄目な気はするが。怪我をしている誰かがいるなら急いで応急処置などをして鳥居の外に出した方がいいだろう、と涼歌は考えながら拝殿へと向かう。
拝殿の外回廊には、猫がこちらにお尻を向けた状態で倒れていた。真っ白でふわふわであろう毛並みは血にまみれており、その息は荒かった。このままでは死んでしまうかもしれない。血に塗れている毛を触れれば、まだぬるりとした触感があり、どうやら血は乾いていないようだった。傷を負ったばかりなのだろう。急いで手当すれば助かるかもしれない、と思いながら自分の手持ちを見て手当てできそうなものを持っていないことに気がつく。
どうしよう。今すぐ近くの家からなにか借りてこようか、いやそんな時間はあるのか。動物病院があるのは神社とは正反対にあり、抱えて行こうにも遠すぎる。その間にこの猫が死ぬ可能性はある。いっそ、抱えて近くの家に駆け込むべきか。それ以前に動かしていいものなのか。こうして悩んでいる間にも猫の体力も血もなくなっていく。
「あ……」
思わず声が漏れた。そういえば猫の顔を見ていないのを思い出し、顔の方を見たのだ。猫の顔には白い毛以外にも濃紺の毛が生えていたのだ。体が白く、顔に濃紺の毛が生えている猫などそうそういない。この町には猫がたくさんいるが、それでも珍しい方だろう。幕ノ内の飼い猫であるマリーに違いないだろう、涼歌の目の前で死にかけているこの猫は。
ここでもし何もできなくて、死なせてしまったとしたら。たいそう可愛がっているのは相談されたときにわかっているので、幕ノ内は相当悲しむだろう。
いくら半ば社会的動物の面をそぎ落としていると雖も、身内はそれなりに大事にする性分である。余計にこの猫を助けないといけないという気持ちになる。だが、先述したとおり手当ができそうなものが手元に何ひとつない。ただ肉を買いに行くだけだったので、ハンカチなど持ってきていなかったのだ。
「くそ……」
小さく悪態をつく。剣道以外にはポンコツであることなど誰よりも自覚しているが、応急処置程度ならば知識として持っている。ハンカチ程度でもあれば簡単な処置ができる。そう、できるのが分かっているからこそ、涼歌は己の無力さを痛感していた。
拳を握りしめながら悔しがっていると、突如としてマリーの姿が眼前から消えた。
「……は?」
「我が
突然の出来事に呆然としていると、背後から少し古めかしい口調で礼を言われた。勢いよく振り向けば、地面につくほどの長い黒髪に切れ長の瞳を持っており、柔和な笑みを浮かべた女性が立っていた。先程消えたはずのマリーはその腕に抱き抱えられていた。小袖と袴を着用し、そしてその上に
それは、獣の耳だった。しかも三角形でピンと立っている。犬、よりは猫の耳だろうか。和服に猫耳とは、もしこれがコスプレであるならば相当素晴らしい性癖の持ち主であるように見える。珍しすぎるものを見たせいか、普段ならばそう簡単には取られない背後を、いとも容易く取られてしまったことへの驚きや警戒などがどこかへと吹っ飛んでしまっていた。じろじろと不躾に見てしまっているが、猫耳を生やした女性はその視線を気にしていないのか、マリーの背を撫でながら笑みを浮かべたままである。
「いや、あの……、何もできてないんですけども……」
救ってくれて、と彼女は言ったが実際に涼歌は何もできていない。マリーを見つけ、道具がないが故に助けることのできない不甲斐無さに拳を握りしめていただけである。
「だが、救うてくれようとしたであろう? それだけで十分じゃ」
おぬしが救いたいと願ったからこそ、我はここに顕現することができたのだから。
女性は穏やかに言いながら、今度はマリーの頭を撫でる。
そういえばマリーは真っ白な毛を赤に染めるほど血だらけだったというのに、なぜ女性の手にも無地の単衣にもその血がついていないのだろうか。マリーの息は未だに荒く、血が止まっているような気配もない。その証拠と言わんばかりに、血が参道へと滴り落ちていっているのが目に留まる。
「マリーの傷……」
「そうじゃのう、治してやらねば」
急いで手当だけでもしないと、と思い口に出せばそう言われる。
なにかおかしい。治してやらねば、という言葉はおかしいと思う。普通ならばここで出てくる言葉は手当してやらねばであって、治してやらねばではない気がする。ない気がするのだが、その疑問を口に出す前に答えが分かった。
女性はマリーを撫でるのを止め、撫でていた手をそのままマリーにかざす。するとマリーが光の膜に包まれた。ありえない光景に涼歌は目を見開く。その光はみるみるうちにマリーの傷を治していく。実際の傷は血によって見えないが、マリーの息遣いが穏やかになりはじめているのが分かる。治っているのだろうと涼歌は判断した。傷が治っていくどころか、先程まで赤く染まっていた毛並みが白に戻り始めている。マリーの傷も汚れもきれいさっぱり無くなったとき、涼歌は彼女が人間ではないということを実感した。
「これで良いじゃろう」
女性は満足そうに頷けば、マリーが閉じていた瞼をあげる。己を抱き上げている女性を見上げ、礼を言うように短く鳴けば、女性は礼など要らぬと言うように首を横に振る。
摩訶不思議な光景を目の当たりにし、女性が人間ではないと思い知った涼歌は、どうすればいいのかわからずその場にただ立ち尽くすだけである。
「さて、おぬし。猫は好きか?」
「え……。いや、好きか嫌いかと聞かれたら好きな方だけども……」
突然話しかけられ、少し戸惑いながらも答えれば女性は嬉しそうに笑う。女性の頭についている猫耳も嬉しいという感情を表しているのか、ぴくぴくと動いている。
「ならば少しでいい。話を聞いてほしいのじゃ」
「はあ……」
「時間はあるかのう?」
涼歌はその言葉に一度空を見上げる。太陽はまだ沈み始めたばかりであり、高いところに残っている。家を出たのはまだ夕方になり始めたばかりだったのもあって、時間はそれなりにあると涼歌は判断した。
「話を聞くぐらいなら」
「それは良い。着いてくるのじゃ」
女性はそう言いながら、涼歌の方へと歩みを進める。そして涼歌の横を通り過ぎ、拝殿すらも通り過ぎる。
そういえば、神社の裏手には通り抜けることができる道があったはずだ。本殿の近くにあるため、そこはなるべく通るなと周囲の大人たちは子供たちに言い含められていたが、ほとんどの子供たちがそれに従ったことはなかった。なるべく、と言うのだから頻繁に通らなければいいのだろう、と勝手に解釈して裏道として使っていたことがあったのを思い出した。大人たちの言うなるべく、は緊急事態のときであって、自分たちが思い浮かぶなるべくとは違うことは涼歌も他の子どもたちも幼心ながらなんとなくは理解していたが、駄目だと言われれば逆にやりたくなってしまうのが子供である。
あのときは見つかる度に怒られたな、と涼歌はしみじみと思っていながら女性の後ろを着いていく。
女性は裏道に向かうことはなく、そのまま本殿の外回廊についている階段を上がり、唐戸の前に立つと、そのまま唐戸を開けた。
「え、ちょっ、そこは御神体が安置してある場所……!」
随分前に得た神社の知識を呼び起こしながら涼歌は女性を止めようとするが、女性は意に介さず、中へと足を踏み入れてしまう。
どうしたものか、と困惑している涼歌に振り返り、女性は中に入れと目で催促してくる。
「ここは我の家じゃ。我が許可しておるのじゃから、
催促しても足を踏み入れようとしない涼歌に、女性は微笑みながら話しかけた。
涼歌は女性と目を合わせる。どうやら、本気で罰は当たらないと言っているようだ。一度深いため息をつくと、涼歌はその言葉を信じることにした。
靴を脱いで中に入ろうとすれば、そのままでいいと言われる。本当に大丈夫なのだろうかと思いながらも大人しくそれに従い、そのまま中へと入る。中に入れば、唐戸はひとりでに閉まった。それに軽く驚きながらも、涼歌は本殿の中を観察することに意識を切り替えた。
尾の森神社の本殿はそこまで大きくない。だが、本殿の中はその外から見た大きさからは想像できない程の広さだった。そして中の構造は、いつ頃この神社が造営されたのか分からなくなるほどだと言っても過言ではない。
板敷きの床で一部に畳が向かい合わせのように二つ置いてあり、女性は奥に敷いてある方に座っていた。入口から見て左側の壁に几帳が置いてあり、几帳の隙間から辛うじて奥が見えた。暗かったが奥行きが有るように見え、部屋なのだろうと想像できる。かと思えば、同じく入口から見て右手の壁側には
いや、待ってほしい。和箪笥があるならば唐櫃はなくてもいいはずである。唐櫃よりも和箪笥の方が、確実に収納量があるはずである。なぜ、ここで唐櫃が。というより、ここまで平安時代の調度品を並べておいて、そこでまさかの和箪笥なのか。むしろ、和箪笥も飾棚もない方がすっきりするのではないだろうか、と涼歌は高校生のときに得た知識を総動員させて脳内でツッコミをいれる。
この神社が造営されたのは確か江戸時代末期あたりだったはずである。詳しい年数などは知らないがそのあたりだと聞いた記憶がある。その時代を考えるなら和箪笥はあってもおかしくない、のだろうか。涼歌はまともに歴史を勉強したことなどないので、はっきりいってただ自分が抱えている時代のイメージで考えているだけだ。どれが正しいのかは涼歌ですらわかってない。
ただ、和箪笥と几帳、部屋全体でなく一部だけ置かれている畳の組み合わせがあまりにもミスマッチに思えて仕方がないのだ。もう一度、女性に目を移せば畳の近くに
なにより、それだけではないのだ。それ以上に涼歌の頭を悩ませるものがこの本殿の中に存在していた。あえて必死に視界から外そうとしていたが、だがあまりの存在感と、場所のせいでどこに視線を向けても入ってくるものに涼歌は困惑していた。
入口から見た真正面。女性が今座っている畳よりも奥にある部屋。襖などで遮られていないが故に、それこそ涼歌がそちらに背を向けない限りは嫌でも入ってくる部屋。そこには台所があった。台所があるぐらいならば涼歌とてそこまで困惑しない。涼歌が思い浮かべていた台所は
だが、実際にあった台所は違った。冷蔵庫が置いてあり、食器棚が置いてある。最新のコンロに綺麗なシンクが設備されたシステムキッチンと言われるものが設置されている。コンロの上部にはきちんと換気扇も設置されていた。しかも、システムキッチンの上部の壁には吊戸棚があり、これは収納量も相当ある素敵な台所である。電子レンジが置いてあるのも確認できた。
なぜ、台所だけそんなに現代に染まりまくっているのか。なんだったら、自分の家の台所よりも素敵な台所な気がする程である。
おかしい。おかしいのだが、おかしすぎて一周回ってなにもおかしくないような気がしてきた。これはもうどうすればいいのだろうか。というか、話を聞くだけなのになぜこうも頭を悩ませなければならないのか。しかも、話などまだひとつも聞いていないという事実がある。
「そんなところに突っ立ておらずに、早よう座るがよい」
女性が愉快そうにくつくつと笑いながら、涼歌に座ることを促した。そこでやっと涼歌は、女性が指し示したもう一つの畳へと座ることにした。流石に畳の上で靴を履いたまま座る趣味はない。靴を脱ぎ、畳の近くに置くと畳の上で正座をする。
「足、崩してもよいのじゃぞ?」
「あ、いや。正座が一番楽だから」
「なるほど? まあ、おぬしがそれでいいなら構わぬが」
「で、話って?」
後ろの台所がとても気になるが、それよりも冷しゃぶ用の肉を買いに行くためにも話を聞かねばならない。
「てか、そういえばあなたが誰か聞いてなかった気が……」
なんとなく予想はついているが、確証があるわけではない。本人の口からきくのが一番だろう。
「我か? 我はこの子らの見守りをしている神のようなものじゃ。ここに祀られておる」
故にここは我の家じゃ、納得したか。
女性は微笑みながら、マリーを撫でる。
ここに祀られている神と言ったか。それならば、あのマリーを治療したときの不思議な力に納得がいく。そして、あのときにマリーを
「話というのはだな」
女神が微笑むのをやめ、真剣な表情でこちらを見遣る。その視線を受け、涼歌もそこまで崩してはいなかったが、居住まいを正した。マリーは体力を回復させるためなのか、女神の膝上に丸まって眠っている。
「猫が殺されている話は聞いたことあるか?」
「一応」
「ならば話が早いな。今この町では、猫を利用して己の欲望を満たそうとする者がいるようなのじゃ。それは猫たちの命を利用し、永遠の命を得る術を使おうとしている。それを何とかして止めてなければ、やつの欲望に歯止めが効かなくなる」
憂いを帯びた表情になった女神に、どうやら相当深刻な事態らしいということを察する。
「この神社に祀られておるため、ここでしか本来の姿になれぬ。故に我の依代になってくれぬか?」
「依代……とは?」
「おぬしの身体に我を憑依させてくれ、ということじゃの」
その言葉に涼歌は一瞬、眉を顰めた。いくら女神と雖もそう簡単に身体を明け渡す気はない。自分の意識がない状態でどういう行動をとられるか、わかったものではないのだから。そんな涼歌の考えが伝わったのか、女神はすぐにそれを否定する。
「安心せい、憑依と言ってもおぬしの意識を奪うなどと言ったことはせぬ。期間はこの事件が解決するまでじゃ」
「はあ……」
「この町の猫たちは我の眷属であり、力の源でもある。彼らが死ねば、我の力も弱まる。この町の守護も我は担っておるのじゃ。このままではそれができなくなり、それこそただここに居座っているだけの存在となってしまう」
だから力を貸してほしい、と女神は涼歌に依頼する。
女神が下界の人間風情に、頭は下げずとも命令ではなく依頼をするとは思ってもみなかった。これがそこまで欲のない自分だからこそ大丈夫なものを、そんなに下手に出てしまっては他の欲深い人物だったらいくらでもつけこまれるぞ、と涼歌は思う。いや、流石にそこまで無礼なことをしたら天罰が下るか、とすぐに思い直したが。
「まあ、あたしの門下生の飼い猫も死んではいないとしても被害にあっていたし……。さっさとこんな事件が終わって平和が訪れるならそれに越したことはないけど」
「良いということじゃな?」
「あ、はい」
「良き良き。これで了承されなければ無理矢理にでも憑依していたところじゃ」
先程の憂いを帯びた表情から一転、今度は素晴らしい笑顔で言ってのける女神に、涼歌は引き攣った笑みを浮かべた。
「では、これを渡しておこう」
女神は涼歌に朱色の布で作られたお守りを渡した。
「これは?」
「おぬしが持ち歩く我の器よ。おぬしに憑依するときはそれが必要なときであって、普段はその中におるということじゃ。一応それを通しておぬしを見てはおるが、我もここの土地神じゃからのう。やるべきことは一応ある。それ故に、常に側に居るというワケでもないのでな。何かあればそれに話しかけてくれればよい。そうすれば我も答える」
「はあ……」
涼歌は気の抜けた声を出しながら、お守りをジーパンのポケットへと納めた。
「マリーよ、もう起きても大丈夫ではないか?」
女神のその言葉にマリーが目を覚ました。
「おぬしにも手を貸してほしいのじゃ。涼歌とともに犯人探しをしてほしい。涼歌の手伝いをしてほしいのじゃ」
名前を教えた覚えなど一度もないというのに、女神は当たり前のように涼歌の名を言う。ここの土地神でもあるのだから、名前ぐらい知っていてもおかしくはないか、と涼歌は無理矢理納得させた。
「んー、確かにこの嬢ちゃんだけでは不安だしのう。仕方ない、ワシもついて行ってやるか。明日からでいいんだろう? 嬢ちゃん」
マリーはメスだったはずである。だがその姿から発せられる声は、それはとても素晴らしいバリトンボイスであった。猫が喋ったことよりも、性別に合わないバリトンボイスの方に驚いてしまった。
「え、待って……。喋ったとかいうよりも待って……。マリー、キミはもしかしてオスだったの?」
そういえば、名前だけで雌雄を決めつけて実際の性別を聞いていなかったのを思い出した。もしかしたらメスっぽい名前を付けてはいるけど、実際はオスだったなどということも有り得るかもしれないなどと思い始めてきた。
「いや、メスじゃが」
「メスなのかよ!」
メスなのにバリトンボイスとはどういう声帯をしているのか。
「仕方あるまい。マリーはもう五回目の猫生じゃ。最初の猫生のときの声のままでここまで来たのじゃろうて」
いや、仕方なくはないと思うが。普通にこれは声帯がおかしいと思う。最初の猫生とか現在五回目とか関係なく、普通に声帯と性別があっていない。確かに人間でも女性なのに声が低い人もいるし、男性なのに声が無駄に高い人もいる。性別と声帯は関係ないのかもしれないとは思う。だが、それでもいくら低くても女性でバリトンボイスだけは聞いたことがない。これはどういうことなのだろうか。
「気にしたら負けじゃぞ、涼歌」
確かに、そんな気がしてきた。もういい。もう何も気にしない。この先、性別と声が違いすぎる猫が現れても気にしないことにした涼歌であった。
「ていうか、なんで喋ってんの? 喋れたの?」
「人間語ならばワシが喋れるようになったのは前回の猫生からじゃな。そうじゃのう、猫生が三回目になったあたりから個体差はあるが、大抵の猫は人間語を喋れるようにはなるのう。今は喋ったところで化け物扱いされるだけじゃから誰もしゃべろうとはしないがの。それに人間語など使わずとも猫同士では普通に会話できるからのう」
なるほど、と涼歌は納得することにした。
「それよりも、マリーちゃん」
「なんじゃ?」
「幕ノ内がとても心配していたよ。一週間も帰ってこないのは流石におかしいって」
「そうかぁ。事件を追っていたらそれぐらいの日数が経っておったか……。挙句、犯人の顔を見ることもできずに傷を負わされたしのう。不甲斐ないわ。飼い主殿はとてもいい人じゃ。ワシのことをたいそう可愛がってくれる。じゃからあまり心配はかけたくなかったのじゃが……」
「悔やむ前にさっさと家に帰ってあげた方がいいよ。犯人探すにしても明日からだし、幕ノ内安心させてあげて。あたしまで頼りにするぐらいだから相当だよ、あの心配度合いは」
マリーは涼歌の言葉に頷くと、先に帰ると告げて外に出て行った。
「どこで待ち合わせするか言ってなかった……」
「まあ、涼歌の道場にでも普通に顔を出すであろうよ」
「それもそっか」
納得して、涼歌はとあることを思い出す。
「あの、何て呼べば?」
「ああ、我のことか? そうじゃのう。周りから猫耳様と呼ばれておるし、安直ではあるがおぬしもそう呼ぶがよい」
「確かに安直だね」
くすり、と笑えば猫耳様も笑う。気分を害している様子はなく、本当に本人も安直だと思っているようだ。
「それじゃあ、また明日」
「うむ。明日頼んだぞ」
涼歌もマリーに続いて帰ることにした。脱いだ靴を履き、外へと出れば涼歌は動きを止めた。
本殿の中に入るときに見た太陽の高さと、それなりに話した後に外に出て見た太陽の高さが同じところにあるのだ。今日は一体どれぐらい驚愕したらいいのだろうか、などと頭のどこかで冷静に思いながらも、涼歌は驚いていた。
「ああ、言い忘れておったが本殿の中におる間は、
「それもっと早く言ってほしかった」
脱力しながらツッコミを入れて、涼歌は今度こそ肉を買って帰ろうと歩みを進めた。
肉を買い終え、帰路についているとき涼歌はふと思った。
そういえば、神様相手に一度も敬語を使わなかったな、と。だが、一度も咎められなかったので多分これでいいのだろう、と思うことにした涼歌であった。
4
翌日。目を覚ました涼歌は、朝食を済ませると外に出る支度を始めた。
「ん? 涼歌、どこかに行くのか?」
「今日稽古休みだから、久々に外に出ようかと。幕ノ内の飼い猫もついでに探そうかなって」
「お前が意外と身内に甘いのは知っていたが、そこまで積極的に動くやつだったっけか?」
「今日は外に出たい気分だっただけだよ……。漫画の新刊とか出てるかもしれないし」
「ああ、まあそういうことなら納得した。行ってらっしゃい」
「行ってきまーす」
父、廉と少し会話をしたあと、涼歌はソーシャルゲーム以外でほぼ使うことのないスマホと財布、そして昨日貰ったお守りを手に家を出た。
「嬢ちゃんや」
横からバリトンボイスで声を掛けられる。そちらを向けば塀の上にマリーがいた。
「昨日、ちゃんと帰った?」
「うむ。飼い主殿も喜んでおったぞ」
「それならよかった」
歩みを進めながら会話をしていると、お守りを入れている方のポケットがほんのりと熱くなる。それと同時に頭の中に声が響いた。
『涼歌よ、昨夜はよく眠れたかの?』
「そりゃもうぐっすりと」
普通に口に出して返事をしたあと、涼歌はハッと何かに気がついたように辺りを見回した。そして人がいないことを確認して安堵する。
「これ、どうやって会話すればいいんだろうか……」
『普通に思えばよい。そうすれば我には伝わる』
小さく疑問を呟けば、そう返事がくる。なるほど、と思えば、猫耳様からそれでよい、と頷かれた。
『でもこれって、思考が筒抜けってことだよね?』
『安心せい。おぬしが聞かれたくないことは勝手に遮断できるようになっておる』
『うわ、便利……。よくそんなことできるねぇ』
『腐っても神じゃからのう、我』
そんな腐っても鯛みたいな感じで言われても、と涼歌は思ったが、それに対しての返答はなかったのでどうやら本当に勝手に遮断できるようになっているようだ。便利と言えば便利ではあるが、それでも面倒であることに変わりはないな、とも思った。
『で、犯人を捜そうにも猫がどこらへんで集まっているか分からないんだけど、何か知らない?』
『この町には何か所か猫の集会所になっておってな。その中でも町の外縁部にある場所から襲撃され、徐々に町の中心の方まで寄せてきておるようなのじゃ。今のところわかっておるのはこれぐらいじゃの』
町の外縁部から襲撃されているなら、外縁よりは内側に住んでいる涼歌の家には回覧板で回ってこない限り、そんな事件があることに気がつかなかっただろう。勿論、回覧板で回ってきたとしても涼歌は一切目を通さないので、誰かに言われるまで絶対に気がつかなかっただろうが。
「昨日、マリーが怪我していたってことはここの地区にも集会所があるってことでしょ? どこら辺にあるか教えて欲しいんだけど」
足元をとてとてと歩いているマリーに聞いてみることにした。外に出ることができない猫耳様よりは、外を自由に歩いているマリーの方が情報を持っているだろうと判断したからだ。
「ああ、ある。桜公園で行われておる集会所がここの地区では一番大きい集会所じゃ」
「一番大きい? 他にもあるの?」
「うむ。ありはするが、他の集会所はとても小さくてな。傍から見れば集会所には見えないほどの小ささじゃ。見てすぐにわかるような集会所と言えば桜公園で行われておるもので間違いない。何より最近、目撃情報が入ってくるようになったのじゃ」
「なるほど」
ならばそこに行ってみるか、と涼歌は現在歩みを進めている方とは逆方向にある桜公園へ行くために踵を返した。
「目撃情報って猫から?」
「うむ」
「それにしても、入ってくるようになったってことはそれこそ最近だよね。もうとっくに襲撃とかにあってもおかしくないと思ってたんだけど」
涼歌が疑問に思えば、マリーは呆れるように溜息をついた。
「本当に嬢ちゃんは周りに興味がないんじゃな……」
「否定はしない」
「桜公園の大きさなど分かっておらんだろ、嬢ちゃん」
「興味ないしね。場所ぐらいしか知らないや」
真顔で言えば、マリーはまた溜息をついた。溜息をつき過ぎると幸せが逃げるぞ、と言ってやりたかったがその原因が自分であることは理解しているのであえて黙った。
「仕方ない。教えてやろう……」
「お願いします」
「桜公園は近隣でも最大規模の公園なのじゃ。休日にはよく人が多く訪れているためまだ被害にはあっておらなかったのじゃよ」
そう言われてみればそうだった気がするな、と涼歌は思う。
確かに幼いころにあの公園で遊んだ記憶はあるし相当広かったような気がするが、所詮小学生までの記憶である。小学生のときの自分は、前ならえをする度に先頭にいるほど小さかったのだからそれで余計に大きく見えていたこともあっただろう。現在はそれなりに背が伸びたので、もしかしたらあのときとは違う印象を得るだろう。少しだけ楽しみになった。
「その桜公園に犯人らしき人物が訪れるようになってるって認識でいい?」
「それでよい。この地区、というかこの町では見かけることのなかった顔を見かけるようになったそうじゃ」
「まあ、この町そんなに広くないし。人間ならまだしも猫たちの情報が本当なら、最近見かけるようになったって人はこの町の人間じゃないのかもね」
その後、幕ノ内が稽古中にこういうことをしただのなんだのと話をしていれば、あっという間に桜公園へと辿り着く。
とても大きな公園で、最大規模の公園だと言われるのも納得がいく。記憶の中にある桜公園と大きさは変わりなかった。人もそれなりに多く、そう簡単に猫に傷をつけることなどできなさそうである。まずこんなところで猫に傷をつけようものならば、すぐに捕まって警察送りだろう。この町の住人達の猫好きは相当である。猫のことが嫌いな人間もいないわけではないが、それでも猫に危害を加えようとするほどの馬鹿はいない。
周囲の人に怪しまれるのも嫌なので、マリーを抱きかかえ小声で話しても聞こえる距離にすると、マリーが人間語で話すのはやめ、にゃーと鳴きながらこちらを見上げる。
『さすがにマリーまで人間の言語で話しておると化け物扱いされるからのう。猫語がわかるようにしておいてやろう。我が側におるときだけ限定ではあるが、十分であろう』
猫耳様がそう言うと同時に、にゃーにゃーとしか聞こえていなかったものが先程までと同じように台詞となって聞こえるようになった。
「さて、聞き込み調査とやらでも始めるかのう、嬢ちゃん」
「あたしさ、人見知りってわけではないんだけどさ」
「ん?」
「でも、高校卒業してからは出稽古と漫画やゲームを買う以外ではずっと引きこもりをしてきた人間なわけなんだよ」
「うむ。そこらへんは飼い主殿から聞いておるが」
「人間相手に情報を引き出せる気がしないんだ」
「…………」
突如、その場に沈黙が流れる。
マリーは思った。本当にこの嬢ちゃんで大丈夫なのか、と。だが、すぐに首を横に振る。猫耳様が、我らの主が選んだのだから大丈夫なはずだ。ここで不安になるということは猫耳様の選択が間違っていたということと同義である、と。
マリーがそう葛藤しているころ、お守りの中から黙って話を聞いていた猫耳様もまた思った。我は頼む人物を間違ったのかもしれない、と。だが、困惑していたわりにはすぐに納得し、あっさりと猫耳様を受け入れていた。信じられないと言われても、非科学的だと言われてもおかしくはない話であったというのに、涼歌は受け入れたのだ。そして、戦う術を持っている。最悪のことも考えれば、これほどまでの人材を今手放すわけにもいかなかった。
なんとなくではあるが、マリーが何を考えているか分かってしまった涼歌は苦笑するしかない。恨むならば自分を選んだ猫耳様を恨んでくれと思いながら、マリーか猫耳様のどちらかが口を開くのを待っていた。
だが、いっこうに口を開く気配が現れないので涼歌は仕方がない、というように自分が口を開くことを選択した。マリーと猫耳様がその様子を見ていれば、誰のせいだとツッコミをしたくなる思考ではあるが、二人――正確には一匹と一柱――は考え込んでおり見ていなかったので、ツッコミなどあるはずもなかった。
「人間相手は無理ってだけで、猫なら多分大丈夫だと思うけど」
「いや、その前に聞きたいことがあるぞ、嬢ちゃんよ」
「なに?」
「別に人と話すのが苦手というわけではないのだろう?」
「話すこと自体はなんとも。ただ情報を引き出そうとするのは苦手と言うか……。元々話しかけられたら話す程度で、自分から話しかけようと思ったことはほとんどないから」
それに、と涼歌は続ける。
「今まで引きこもっていた人間が外に出て、突然怪しい人見ませんでしたか、と聞きまわったところであたしの方が怪しい気がするんだよね。周りの人間が騒ぐと思うんだよね、あたしが自分からこの事件を調査してるってだけで。それで犯人にバレそうな気がする」
「そうか……。そのことも考えると確かに人間からは情報収集ができない気がしてきたのう」
「それに比べて猫相手なら、まああまり違和感ないというか。猫にいい天気だねーとか話しかけてる人たちいるし、怪しまれないと思う。なんだったらマリーが聞いている間、あたしが猫を撫でてたりしていればいいだろうし」
「うむ。ならば、ワシが話しかけるから嬢ちゃんはそれを愛でている感じでよろしく頼もうか」
「了解」
作戦と言うほどでもない作戦が立てられると、涼歌はマリーを抱き上げたまま公園内を散策することにした。
公園内を散策していると、どこからか助けを呼ぶ声が聞こえた。
辺りを見渡しても、誰も助けが必要そうな人はいない。皆、有意義に休日を過ごしている。犬の散歩をしていたり、恋人とベンチに座って話していたりなど。また違うベンチでは子どもたちが集まってカードゲームやら携帯ゲームやらをしている。
念のためもう一度見渡すが、やはり助けが必要そうな人はひとりもいない。だが、確かに助けを呼ぶ声が聞こえたのだ。まだ幼い子どものような声だった。
日陰を作っている木の下で立ち止まり、不思議そうに首を傾げていると、マリーが頭上を見上げていることに気がついた。頭上には葉が生い茂っている気の枝ぐらいしか存在していないはずだが、何かあるのだろうか。不思議に思って涼歌もまた頭上を見上げた。
見上げればそれなりの長さの木の枝が見える。そこに一匹の黒猫がいた。大きさからして子猫のようである。
「どうやらあの子猫、登ったは良いものの降りれなくなったようじゃの」
「もしかして助け求めてたのって、あの子?」
マリーは頷くと涼歌の腕から抜け出る。綺麗に地面に着地すると、子猫の元へと行くために木を登っていく。
マリーが子猫の元へと辿り着く。いくつか会話をしながらマリーは涼歌へと視線を向ける。なんだろうと首を傾げていると、突然子猫が木の枝から涼歌へ向かって飛び降りた。驚きながらもなんとか子猫を受け止めれば、子猫は嬉しそうにこちらを見上げてきた。
「ナイスキャッチ、と言うところじゃのう」
「マリー……キミねぇ……」
やるならやるで声ぐらいかけろ、とでも言うように睨むがマリーはどこ吹く風と受け流す。枝の上から涼歌へと向かって飛び降りる態勢をマリーがとると、それを察した涼歌は首を横に振る。子猫を抱えているのだから、流石にマリーまで受け止めることはできない。マリーは仕方ないというように溜息をつけば、綺麗に地面へと降り立った。溜息をつきたいのはこちらの方だと言いたいが言ったところで何も変わらないので、涼歌はただ綺麗な着地に対して称賛するだけにとどめた。
子猫を地面へと降ろせば、お礼を言うかのように子猫は涼歌の足に頭をすり寄せる。そして公園の外へと走って行った。その後ろ姿を見送ると涼歌はマリーを抱き抱えてまた公園の散策を開始した。
「ところでマリーちゃんや」
「なんじゃ」
「猫が見当たらないんだが……」
涼歌のいうとおり、普段ならば多くいるはずの猫が先程の子猫以外一匹も見当たらない。
「うーむ……。あの事件が起きたからのう。みな、集まらないようにしておるのかもしれん。そうだったとしても、もう一、二匹はおると思っておったのじゃがなあ」
「猫がいないと情報手に入らないよ?」
「人から聞けば……」
「人から聞けない理由は公園に来たときに言ったよね。絶対に嫌だ」
食い気味に否定すれば、マリーはどうしたものかと唸る。涼歌も同じように唸るが、剣道以外にはポンコツな涼歌になにかいい解決策が出てくるわけがない。ここはもうマリーとお守りの向こう側にいる猫耳様に任せるしかない、と涼歌は考えるのを早々に放棄した。
「ここはまだ公園の入り口みたいなものじゃし、それで見当たらないのかもしれんな。公園の奥の方に行けば、猫たちのたまり場となっておる土管があるはずじゃ。行ってみる価値はあるとは思う」
「ん、わかった」
マリーの提案どおりに公園の奥へと歩みを進める。土管までくれば人気はなくなり、逆に先程まで見当たらなかった猫が数匹いた。土管の上で日向ぼっこをしながら眠りについている猫もいれば、
そうやって土管の中などを観察していると、土管周りを歩いていた三毛猫がそんな涼歌に気がついたのか歩みを止めた。それを視界の端で捉えた涼歌はそちらへと目を向ければ、その三毛猫は警戒するように涼歌を睨みつける。が、涼歌の腕の中でリラックスしているマリーに気がつくとすぐさまその警戒を解いた。
「なんだ、マリーの知り合いか」
「おお、タマではないか」
タマ、と呼ばれた三毛猫は警戒して損したとでも言わんばかりの表情である。
「どうした? なにかあったのか?」
「この嬢ちゃんがな、この事件の解決を手伝ってくれるそうでな。今、その犯人の情報を手に入れようとおぬしらを探していたところじゃ」
「手伝ってくれるって、どういう経緯でそうなったんだ?」
タマに猫耳様とのことなどをマリーが説明すれば、なるほどと納得したようである。
「猫耳様が頼んだってことはそれなりの人格者ということだろうな。これは期待できそうだ」
その言葉にマリーと涼歌は首を横に振りそうになったが、もしここで否定してまた警戒されてしまえばせっかくの情報源がなくなるかもしれない、と懸念してすんでのところでとどまる。
人格者なら周りに興味がないなどまずありえない気がするし、出不精などといった社会的動物の面をそぎ落としたような行動はとらない気もするが、とそこまで涼歌は思ったがそれすら口に出そうになるのをなんとか抑えた。
「マリー、あとはお願いしていい?」
「それがよかろう」
これは口を開いたらいけない気がすると涼歌は考え、質問などは全てマリーに任せることにした。こうしてすべて人任せ――というよりは猫任せと言うのが正しいと思うが――にしている時点でもう人格者という枠から外れるのだが、マリーと会話しているタマはそうとは思わないらしい。むしろ、猫同士の方が話しやすだろうと思っての行動だと感じたようだ。どうやら猫耳様を妄信しているようだ。
これはこれで結果オーライか、と涼歌は思いながら猫同士の会話を眺めていた。とりあえず、世間話はそれぐらいにしてさっさと犯人の特徴とかを聞き出して欲しいのだが、何も言うまいと黙っていた。
「さて、世間話はこれぐらいにして本題に入ろうか。さっきも言ったが、犯人の情報が欲しいのじゃ。なにか見てないかのう? 犯人の後姿とかでもよい」
「犯人とは出会ったことがないからなぁ……」
「最近見かけだした人間の姿でも構わぬぞ」
「ああ、それならあいつだな。こんな暑い夏にスプリングコートを着てサングラスをつけたおかしな男なんだけどな。桜公園付近に毎日やって来て散歩してるんだよ」
こんなじりじりと太陽が照りつけている季節にスプリングコートを着ているのはおかしすぎる。どれだけ日焼けしたくないといっても生地の薄いカーディガンでないと暑さで死にそうになるほどなのに。いや、生地の薄いカーディガンですら死ぬほど暑い。
「その男ってどれぐらいの時間帯にくるとかわかる?」
「どうだったかなぁ……。あー、でも大抵この時間帯で見るから多分もう少し待ってたらくるんじゃないか?」
「なるほどね。ありがとう」
タマにお礼を言うと、マリーを抱き抱え公園の入り口近くまで戻ることにした。ここでは公園の入り口が見えないのだ。逆に言えば、ここは公園の入り口からは見えないところにあるということになるので、猫たちもここに集まっているのだろう。
入り口近くのベンチに腰かけ、マリーを膝の上に置き、撫でながら犯人らしき男を待つことにした。こんな季節にスプリングコートを着た人物は目立たないわけがないのですぐにわかるはずだ。
マリーを撫でながら周囲へ視線を向け始めて数十分、目的の人物が現れた。
タマの証言どおりにその男はスプリングコートを着ていた。しかもその色は陽の光を集めやすい黒のスプリングコートであった。見た目の暑苦しさに涼歌は眉を顰めた。あの男が犯人でなければ、絶対に視界にすら収めたくないほどの暑苦しさである。
男はマリーが見えたのか、一度サングラス越しにこちらを直視するがすぐに視線を外した。流石に撫でられている猫は対象外なのだろうと思っていたらもう一度こちらへ、今度は勢いよく視線を向ける。俗にいう二度見である。そして、それはもう心底求めていたものを見つけたような子どもと同じ無邪気な笑みを浮かべたかのように見えた。サングラスで目が隠れていたため雰囲気でそう感じ取っただけだが、外れてはいないだろう。
涼歌はその笑みを見て背筋に悪寒が走る。なぜか知らないがあまりにも不気味だと思ったのだ。別に成人男性らしき人物が子どものような無邪気な笑みを浮かべただけである。そう、それだけなのだ。それだけだというのに、涼歌の本能が今すぐ逃げろと警鐘を鳴らす。膝の上にいるマリーも撫でられ、気持ちよさそうなふりをしているが身体が強張っているのがわかる。
男と涼歌の視線は合ってはいない。涼歌は男のその様子を視界の端で捉えただけだ。このまま気がついていないふりをし、男が公園から去るのを待てばいい。
背中に嫌な汗がにじむ。
早くどこかへ行ってくれ、と強く願う。
喉も渇いてきた。唾を飲み込む音が大きく聞こえる気がする。
マリーを撫でる手が止まりそうになるのをなんとか堪え、少しでも自然に見えるように動かす。その手にもじっとりと汗がにじんでいた。
まるで全力疾走をしたあとのように心臓が激しく鼓動している。
早く、早く、早く早く、早く早く早く早く早く。
念じる。急いで消えてくれるように。急いでどこかへ行ってくれるように。
念じ始めてからどれほどの時間が経っただろうか。男は踵を返すと公園から出て行った。その後姿が完全に見えなくなるまで涼歌は動くことができなかった。
やっと視界の端から消えたのを確認して、涼歌は大きく息を吐いた。大きく息を吐いて初めて涼歌は自分がまともに息すらできていなかったことを自覚した。
無意識に身体を強張らせていたせいか、稽古のあととは違う疲れが涼歌を襲う。
「もう、帰ろう……」
「それがいいかもしれんな……」
涼歌の心からの呟きにマリーが同意を示す。疲れたような声音だった。
とにかく、
あのような
涼歌は確信があった。
ベンチから立ち上がると早足で公園を出る。
マリーを一匹で帰らせるのは危ないから幕ノ内の家に一度寄り、そのあとは急いで家に帰ろう。
涼歌は自分の考えをすぐに後悔することになるのだが、未来予知などできるような人間離れした能力など持っていないので幕ノ内の家へと向かう。場所は一応知っている。桜公園近くにある三階建てで緑の屋根の一軒家だ。昔、出稽古の帰りに前を通ったときに他の門下生たちにここが家なのだと教えていたのを覚えている。覚えているというよりは必死に思い出したというのが正しいが。
公園からも普通に見える場所にあるのでそう簡単に犯行が行える場所ではない。大丈夫だろう。そう、考えていた。
その考えを嘲笑うかのように、件の男は涼歌の目の前に立ち塞がった。
5
涼歌は現在の状況が理解できていなかった。
涼歌を尾行していたとしても、それでも涼歌の目の前に男が現れることなど無理なはずだ。神無義町のことは男よりも自分の方が詳しいはずで、桜公園の近くには抜け道になるような路地など存在しない。先回りをすることなどできないはずなのだ。そんなことをしようものなら逆に大回りをしてしまい、時間を無駄に使ってしまう程なのだが、なぜ去ったばかりの男が目の前にいるのか。
男から視線を逸らさずにいれば、あり得ないものを目撃した。
男の体の一部が異様に隆起した。それはまるで、服の内に、いや
あまりの奇妙な光景に涼歌は吐き気を催した。なんとかそれを抑え込みながら睨むと、男は愉快そうに笑う。
背を向ければその瞬間殺される姿が脳裏をよぎる。逃げることもできなくなったこの状況をどうやって打開するかを考えるが、あまりの
「ありがとうございます」
突拍子もない台詞に涼歌は眉を顰める。
何がありがとう、なのだろうか。なぜ礼を言われなければならないのか。
「本当に、お嬢さんにはどれだけ感謝しても足りません。まさか、その猫以上に素敵なものを持ってきてくれるとは」
礼儀正しい話し方だというのに、ねっとりとした印象を抱くのはなんだろうか。それすらも悍ましさを助長させるだけで、まともに頭に入ってこない。
男を睨むだけで体力やら精気やらを持って行かれそうな気がして、そこから目を逸らし周囲へ視線を向ければ愕然とする。
「な、に……これ……」
あまりのことに呆然と呟くことしかできなかった。
「お嬢さん。その猫をこちらに譲ってもらえないでしょうか? その子からは訊きたいことがあったのですよ」
男の声が想像していたよりも近くで聞こえ、反射的に後ろへと飛び
怖い。
怖い。怖い。
怖い。怖い怖い怖い怖い怖い、怖い。
もし涼歌が周囲へと視線を向けなければ、まだ冷静でいられただろう。だが、周囲の状況すらおかしいことになっていることを知ってしまった涼歌の思考は恐怖で染まっていた。
だから彼女は一番してはいけないことを選択してしまった。数分前までは絶対にしてはいけないと考えていた行動を起こしてしまった。
涼歌は背を向けた。微笑んでいる男に背を向けた。
腕の中でマリーが、頭の中で猫耳様が静止を呼びかけるが、そんなもの思考が恐怖一色になっている涼歌の耳に届いても脳がそれを受け入れなかった。涼歌はただマリーが何かを叫んでいるということしかわかっていなかった。いや、そんなことすら理解していなかっただろう。
なにせ、何度も言うように彼女の思考は恐怖一色なのだから。
逃げるなという本能にすら抗って彼女は走った。
身体に衝撃が走る。
後ろから勢いよく何かに押されたような衝撃だった。そして左の脇腹に鋭い痛みが走った。あまりの痛みと後ろからの衝撃に涼歌は前へ倒れ込む。倒れ込むときに腕の中にいたマリーを放り投げてしまったが、そのことに気がつく余裕など涼歌にはなかった。
呻きながら痛みを感じている脇腹を見れば、黒い何かが貫いていた。それを認識すれば先程よりも痛みが増す。足音がゆっくりと近づいてくるのが分かる。男は涼歌の近くで歩みを止めると、ずるりという音を立てて涼歌を貫いていた黒い何かを引き抜いた。
「あ゛あ゛ッ」
叫び声が辺りに響く。マリーが何かを男に向かって叫んでいるが、己の叫び声で何も聞こえない。
貫かれた場所から血が流れ出ていくのがわかる。咄嗟に両手をそこに持って行き抑えるが、そんなもので血が止まるわけがなかった。傷口が焼けるように痛い。貫かれた場所は腎臓がある位置より僅かばかり下であり、急所はかろうじて外れてはいるが、このまま放置していれば出血多量で死ねるだろう。
痛みで意識が飛びそうになっていると脇腹を足で持ち上げられ仰向けにされる。それだけでも体に痛みが走り、またもや呻き声を上げる。飛びそうになった意識は先程の痛みでなんとか戻ってきたが、すぐにまた意識が飛びそうになる。このままいっそ飛んでしまえばいいというのに飛ぶことはない。吐き気がするのに実際には吐けないということに似た感覚を味わっている。
そんな涼歌を未だに微笑んだまま見下ろしている男は、涼歌に馬乗りになるとコートのポケットから鮮やかな赤色の液体が入った小瓶を取り出した。
「―――ぁ……」
飛びそうな意識の中それを確認した涼歌は声を出すが、それは掠れていてほとんど聞こえなかった。その口は嫌だと言うように動いていた。男は涼歌の恐怖と痛みに
小瓶の蓋を開けると、
飲み込んでしまえば、身体の内が焼けたように熱くなる。そしてゆっくりと身体が溶けていく感覚に陥る。とても不思議な感覚である。
元々、痛みと出血で飛びかけていた意識だ。自分の身に何が起きているのかほとんどわかっていない状態で涼歌は意識を手放した。
最後に涼歌が聞いたのは男の落胆した声とマリーと猫耳様の怒りに染まった声だった。
6
涼歌の意識がなくなったのを見て男は盛大に落胆した。
「はぁ、これも失敗ですか……」
「貴様……、その小瓶の中身は……!」
「流石に猫の女神様にはこれが何かわかりますか。そうです、これは貴女の大事な眷属の血と魂が混ざったものですよ」
男は微笑みながら言う。それに猫耳様は先程よりも怒りの色を強めた瞳で男を睨むが、動くことはできなかった。
涼歌が貫かれたあと急いで助けようと顕現した猫耳様は、突然身体を見えない何かで拘束され身動きが取れないようにされたのだ。必死で拘束から逃れようと力を籠めるなどしてみるがそれでも拘束が解かれることはなかった。そうこうしている間に己の大事な同胞を使って作られた不気味な液体を飲まされた涼歌は、かろうじてあった意識をとうとう手放してしまった。
眷属たちが殺されその力が弱まっていたとしても猫耳様は神である。神であるが故に
涼歌の魂がゆっくりと液体に侵されて溶かされていく様を。
本来ならば死した魂は肉体を離れ、
だが、あの液体は魂を無理矢理肉体に縛りつけ、そのまま溶かしていっている。このままでは魂だけでなく身体も溶かされ、死体すら残らないものになるだろう。そして、涼歌は二度と輪廻の輪に入ることもなく本当の意味で死んでしまう。もう二度と、昏内涼歌として人生を歩んだ魂と出会うことができなくなる。
マリーもそのことを感じ取ったのだろう、静かに目を閉じた涼歌の顔に己の顔を擦り付け哀しそうに鳴いた。
「貴様、我の同胞を使って何をしようとした……」
「何って……死の恐怖から解放されようと思ったのですよ」
男はそんなこともわからないのかというような視線を猫耳様へと向ける。
「もっとわかりやすく言うならば、
死なない身体になれば、死の恐怖など感じなくて済むでしょう、と男は言う。
その言葉に猫耳様は愕然とした。
生命とは生まれた以上、絶対に死ぬことが確定されている。そう世界の
眼前の男は、
「私だって最初は何とも思ってなかったのですよ。代り映えのしない毎日を普通に生きて、そしていつか死んでいくのだと。それが当たり前なのだと」
けれど、男は続ける。
「ある日から私は夢を見るようになりました。自分が死ぬ夢を。死ぬ夢を見ること自体は初めてではなかったので、そこまで気にも留めていませんでした。でも、それが毎日毎日続くようになったのです」
最初は病死。次は車に轢かれて。次は上から鉄骨が降ってきて貫かれて。次はトラックの荷台から落ちてきた鉄柱の下敷きに。次は仕事場が燃えて。次は後ろから誰かに押されて電車に轢かれて。次は屋上から飛び降り自殺をした人物の下敷きにされて。次は出されたコーヒーを何も警戒せずに飲んだら毒が入っていて。次は船が沈没して。次は後ろからいきなり刺されて。次は強盗と遭遇してしまい、頭を銃で撃ち抜かれて。次は、次は、次は次は次は次は次は次は。
男は夢の中での死因を上げていく。
「何度も何度も何度も何度も。死にたくないと願っても、夢の中で私は殺されました。眠らないようにしていても気がついたら意識が飛んでいて殺される夢を見ました。いつからかどちらが現実か分からなくなったんです。ずっと怯えながら暮らしていました」
でもある日、声が聞こえたのだと男は言う。
その声はどうすればその恐怖から解放されるかを知っていると言った。
死の恐怖で冷静な思考をもっていなかった男は、藁にも縋る思いでその言葉に従った。
言われたようにあるものを召喚し、その召喚したものに言われるがままに材料を集めた。それだけが死の恐怖から逃れることができるただひとつのことだったから。
「彼らに集めろと言われたものは魂と血。たくさんあればあるほど良いと言われました。たくさんの記憶を保持している猫の命はちょうどよかったのです。たったひとつで人間やほかの動物の倍以上の力を持っていますからね。ただ、予想以上に強すぎて人間の肉体も魂も持たないから改良が必要なんですが……」
何度も死ぬ夢を見て気が狂ったのであろうことは猫耳様にも理解できた。
だが、そんなことで。その程度の理由で。自分の大事な同胞が殺されたというのか。自分たちのことを考えて協力することを受け入れてくれた子を殺されたというのか。
神とは死なない存在である。ここで猫耳様が死んだところで信仰心がいれば代替わりが起き、また新しい猫耳様が生まれるだけである。神が死ぬときは人からの信仰心がなくなったときだけである。
だからこそ、猫耳様には死の恐怖というものが本当の意味で理解できていなかった。
彼女がわかったのは、そのようなくだらない理由で理から外れるために己の大事な同胞を殺されたという事実。たった一日程度の付き合いではあるが、それなりに気に入っていたヒトの子が殺されたという事実。それだけである。そして、彼女が眼前の男へ殺意を向ける理由はそれだけでよかった。
「おぬしが何故我の同胞に手を出したのかは理解した」
「そうですか! それは良かった。そして、不躾な質問ですが――」
男はそこまで言って吹っ飛ばされた。
まるで漫画やアニメのように容赦なく二、三度地に叩きつけられそこでやっと勢いが止まった。
「ぐぅ……っ」
鈍い痛みが走る腹部を押さえながら立ち上がった男は、己を吹っ飛ばしたものを見て痛みに歪んでいた顔を今度は嬉しそうに綻ばした。
「ああ……、完成していたのですね!」
恍惚とした表情を浮かべる男の視線の先には、先程まで眠るようにして意識を手放し、そのまま
その瞳には憎悪と殺意が籠められていた。
7
「涼歌……、おぬしは死んでいたはずでは……? まさか……っ」
猫耳様は涼歌を見て、あることに気がついた。
もっと詳しく言うならば、涼歌の足元を見て、である。涼歌の足元では、先程まで生きていたはずのマリーが眠るように死んでいた。
本来ならば死んだはずのものが生き返ることなどあり得ない。奇跡を起こせるほどの力を持っている神ですら、死した者を生き返らせることは禁忌と定めている。それは理を壊すことになるからだ。理が壊れるということは世界が壊れると同義だった。だからこそ、禁忌とした。
だが、例外は存在する。
きちんとそれ相応の対価を払えば、生き返らせることも可能なのだ。
その対価とは何か。
それは、―――
生き返らせたいと願うならば、生き返らせる者の代わりに自分の命を差し出すこと。それが、生き返らせる条件だった。
死した者のことを大事に想っている者しかその対価を払うことはできない。
マリーは涼歌のことを気に入っていたのだろう。大事に想っていたのだろう。だから、自分の命と引き換えに涼歌を生き返らせたのだ。
マリーの命と引き換えに生き返った涼歌は、意識を取り戻して早々に殺してくれたお礼とばかりに、完全に油断をしていた男の腹を容赦なく蹴り飛ばしたのだった。
涼歌が生き返った経緯を知らない男は、蹴り飛ばされておきながらそれに対して苛立ちを感じるわけでもなく、自分が作っていたものが完成したことを喜んでいた。狂気染みたその様子に涼歌は眉を顰める。
男は不気味な笑い声を上げながらゆっくりと近づいてくる。
涼歌がいつでも迎撃できるように拳を構えると、その肩にふわりと猫耳様が手を置く。どうやら、動けるようになったようだ。
「涼歌、お守りを出してくれぬか?」
大人しく右ポケットからお守りを取り出せば、猫耳様はそれを手に取り目を瞑る。淡い光がお守りを包み込むと、それはゆっくりと形を変えた。丸みを帯びた光は段々と長細くなり、最後に目が眩むほどの光を放ったそれに涼歌は咄嗟に目を瞑る。瞼の裏を焼くほどの強烈な閃光が収まり、恐る恐る目を開ければ猫耳様はおらず一振りの刀がアスファルトで舗装された地面に突き立てられていた。
「……え?」
突然消えた猫耳様を探すように周囲を見渡すが、何処にも見当たらない。もしや、男に捕まったかと思い男の方を見るが、男は先程の閃光を直視したのか目を焼かれているようだった。
『刀を取るのじゃ』
「え? これを?」
『我は今、この刀に憑依しておる。この刀を使えば、あの男を倒すのも容易じゃろう』
「な、なるほど?」
あまり理解できてはいないが、突き立てられている刀以外に武器になりそうなものなど存在していないのでそれを手に取る。初めて持つその刀は竹刀と同じ程の重さだった。本物の刀ならば鉄が使用されているのでここまで軽いはずはないのだが、猫耳様が憑依しているようなのでもしかしたらそれで軽くなっているのかもしれない。
これならば、普段と同じように動けそうだ。
刀を構えなおすと男と向き合う。男は未だに視界が焼かれているのかこちらに気がついた様子はない。
元々、相手が整うまで待つという考えが涼歌には存在しない。いつでも誰でも全力で倒しに行くがモットーなので、隙を見せるならばそこを全力で突きに行くのが昏内涼歌という人間である。そして男に対して憎悪と殺意を抱いている涼歌にとって、男の現状はどうぞ殺してくださいと言わんばかりのものであった。
涼歌にとって眼前の男の印象は、得体のしれないものであり人間ではないというものもあって、涼歌に男を殺すことを躊躇うという思考回路は存在していない。
故に、涼歌の動きはとても滑らかだった。
強く地面を蹴れば、猫耳様のおかげで身体能力も向上しているのか瞬時に男との間合いを詰める。刀を大きく振りかぶり、そのまま斜めに斬り下ろした。俗にいう袈裟斬りと呼ばれるものである。
容赦なく左肩から右脇腹を斬りつけられ、傷口から血が噴き出る。痛みによってやっと斬られたことに気がついた男が触手らしきもので攻撃しようとするが、それらが涼歌に当たる前に一歩後退る。涼歌がいたところに触手らしきものが突き立てられた。
今度は右足を前に踏み込むと、男の首元目がけて切っ先を突き立てる。肉を貫き、骨を砕く感触が刀を通して伝わった。男の身体を蹴り飛ばしながら刀を引き抜けば、喉元から血が流れ出る。そのまま男は仰向けで地面に倒れこんだ。
人間だと思っていないのでいつ起き上がってもいいように涼歌は警戒を緩めない。
男は呻き声を上げるだけで起き上がる気配はなかった。そのうち、男の背中から生えていた触手らしきものが男をゆっくりと包み込んでいく。それが男を覆い隠すと、まるで逃げるように地面の中へと消えて行った。その場には黒く濁った小さな球体が宙に浮いた状態で残っていた。
『どうやら終わったようじゃな』
「これなに?」
『それはあの男の魂じゃ。普段ならば白いはずじゃが、変なものと契約したせいか黒く濁っておるのう』
「ふーん……」
さて、この魂はどうしたものかと考えている猫耳様を放置して涼歌は刀を上段で構える。
『ん? 涼歌よ、なにをしようとしておるのじゃ?』
猫耳様の問いかけを無視して、刀を振り下ろした。綺麗に真っ二つに斬られた魂は、形を保つことができなくなったのか砂のように消えた。
もう使用する必要のなくなった刀を地面に突き立てれば、淡い光が刀を包みお守りを手にした猫耳様が現れる。それを横目で確認すると、涼歌はマリーの傍らにしゃがみ込む。
「マリー……」
もうマリーは息をしていない。撫でれば毛はふわふわとしていて気持ちいいのに、その体温はとても冷たかった。
「ありがとう、生き返らせてくれて……」
ごめんね、と言うのはどこか違う気がして、結局お礼を言った。
マリーが自分の代わりに死んだことを知ったら幕ノ内はどう思うだろうか。これでも幕ノ内のことは気に入っていて、彼に嫌われるのはどことなく嫌だった。
「涼歌、マリーをこちらへ……。我が持って帰ろう」
おぬしの服や返り血をどうにかせねばな、と猫耳様が言いながら指を鳴らせば返り血で汚れていた全身は何事もなかったかのように元通りになっていた。勿論、貫かれた服も貫かれる前の状態に戻っている。
「とても助かった。礼を言おう」
「足を引っ張っただけのような気はするけど……」
苦笑する涼歌に猫耳様は頭を深く下げると、マリーを連れて姿を消した。
本殿へと戻ったのだろう、と涼歌は推測する。
周囲は何事もなかったかのように時が動き始めていた。
死んだ感覚は残っていた。肉を断つあの感触も、肉を貫く感触も、骨を砕く感触も全部残っている。貫かれた痛みも全て残っている。
「あー……」
空を仰げば、太陽が眩しく涼歌たちを照りつける。
帰ろう、と涼歌は小さく呟いて踵を返した。
8
あれから数か月。
涼歌は変わらず鬼師範代として門下生の指導をしていた。
涼歌はあのときあったことは心の中でとどめている。
あんな摩訶不思議なことを誰かに言ったところで信じてもらえないのだから、言わなくて正解だろう。幕ノ内に対しての罪悪感は存在していたが、それを面に出すことはなかった。
猫耳様は一時期来ていなかったが、最近になって週一の間隔で涼歌の元へと訪れるようになっていた。お守りも持っていないというのによく本殿の外に出てこられるものだと言えば、縁ができたおかげでお守りなど介さなくてもよくなったのだという返答があった。涼歌からすれば、なんだそれはという話ではあるが。
最近、幕ノ内が新しく子猫を飼い始めたようだ。
真っ白な毛を持つ子猫だそうだ。
とても可愛いんだよ、と周りに言っていたのを覚えている。そういえば今日見せてもらえるという話だったな、と思っているといいタイミングで幕ノ内から声をかけられた。そちらへ顔を向ければ、腕に子猫を抱き抱えていた。
「師範代、この子です!」
嬉しそうにそう言いながら子猫を差し出してくる。まさか、本物を見せてくれるとは思ってもいなかった。どこにこの子を隠していたのだろうか、などと首を傾げながら子猫を受け取る。
何故だろうか。この子猫を自分はどこかで見たことがあるような気がする。
子猫は嬉しそうに鳴くと、ぺろりと涼歌の頬を舐め、そして顔をすり寄せた。
ああ、と心の中で確信する。この子のことを知っていると。
「どうやら師範代のこと、気に入ったみたいですね!」
「そう、みたいだね」
こみ上げてくる涙をなんとか堪えながらなんとか言葉を返す。
また会えたね。
涼歌はそう、小さくそう呟いた。
end
~~読まなくてもいいです~~
こっちに本文を持ってきて、最終確認をする必要もないだろうと思いながらも念のため最終確認をすれば、僅かだけども誤字脱字を見つけてとてもショックを受けました。
提出前にあんなに読み直したのに、とリアルorzをやりました。(あ、これ通じる人いるのかな?)
疲れ切っているときに確認するものではないですね。本当に。
見直しましたが、それでも誤字脱字があるのが人間というもの。あった場合はこっそり教えていただくか、もういっそスルーしていただけるととても嬉しいです。