■壱 不穏の種は人知れず蒔かれる
朝の澄んだ空気を、大きく吸い込む。冷たさが喉を通って胃に入って、身体の芯にある緊張を少しだけ和らげてくれる。
「二人とも、準備はいいな?」
ビィの声に、僕は剣の柄をぎゅっと握り直して頷いた。正面、十歩分くらい離れた場所で、ナルメアさんが刀の柄に指をかけている。
「グランもナルメアさんも、気をつけてくださいねー!」
「ただの稽古で大怪我なんてすんじゃねーぞぉ!」
「うん、大丈夫だよ。お姉さん、ちゃんと寸止めするから。グランちゃんは全力で来ていいからね?」
暗に手加減すると言われたみたいで、ちょっと悔しく思う。けど、僕とナルメアさんの間に大きな実力の開きがあるのは確かだ。折角手合わせを申し出てくれたんだし、ここは胸を借りるつもりで……やれるだけ、やってみよう。
「んじゃあ行くぞ――始め!」
足下に雑草くらいしか見当たらない場所だから、開始の言葉はよく響いた。
瞬間的に意識が切り替わる。手合わせで命を懸けたりはしないけど、お互いに本気だ。そうじゃなきゃ、真剣稽古の意味がない。
相対するナルメアさんからは、目に見えない強い圧を感じる。腰溜めの姿勢で右手は柄を握り、左手はそっと鞘の鯉口近くを押さえた、源氏の構え。そこから繰り出される居合抜きが信じられない速さなのを、僕は知っている。
ナルメアさんの大太刀は、それこそ彼女の背丈ほどもある。ドラフの女性がヒューマンと比べてかなり小さいとはいえ、僕の片手剣より断然長い。刀身の差はそのままリーチの差だ。こっちより遠い間合いからでも、ナルメアさんの刀は僕に届いてしまう。
だから自然と、距離を詰める足取りは慎重になる。事前の取り決めでナルメアさんは最初の位置から大きく……具体的には一歩分以上は動かないことになっている。じり、じり、と土を擦るように前へ進めば、その度に彼女の指先がぴくりと震える。もちろん隙があったらすぐ踏み込むつもりだけど、ここまでそんな甘い様子は一切見せてくれなかった。
安易に詰めても、こっちの間合いの外から攻められるだけ。
かといって中途半端な小手先の技が通用するはずもなし。
稽古なのを意識してくれてるのか、ナルメアさんが自分から動くつもりはないみたいだ。待ちの姿勢……言い換えれば、誘われてる。それがわかってても、僕は誘いに乗るしかない。
だったら、
「……行きます!」
宣言と同時に、僕は駆け出した。姿勢は前傾、剣は正面に構え、小回りの利く振りを意識する。
正面のナルメアさんが小さく笑った。僕を映した瞳がすぅっと細まる。微かな、鯉口を切る鋼の音。鍔が鞘から浮いたところまでは見えた。でも、目で追えたのはそこまでだ。続く太刀筋は速過ぎて、とてもじゃないけど捉えられない。
朝の陽射しを返す光と、柄を握る手首の角度で、どうにか軌跡を読み切った。胴を薙ぐ剣閃。前のめりの姿勢をさらに低くして、凄まじい鋭さの居合を紙一重で潜り抜ける。ちりっと頭上で何かが掠めて、髪の毛が数本斬り飛ばされた。寸止めしてくれるってわかっててもなかなかに怖い。
僕は躱したのを確認してから手首を捻り、右下から掬い上げるように剣を振る。間合いはもう二歩もなく、抜いた刀を戻す前にこっちの切っ先が届く。だからこれで終わり……なんて、当たり前だけど全く思ってなかった。
少し後ろに置かれた左足を軸に、ナルメアさんが下がるように身を回した。軸足は最初の位置より動いてないからルール違反もしていない。そしてそれだけで僕の剣は宙を掻いてしまう。慌てて振り上げた獲物を戻そうとするけど、何せ鋼の塊だ。どれだけコンパクトな斬り方をしても、一度乗った勢いを押さえつけるのは難しい。
難なく僕の一撃を回避したナルメアさんは、羽織の裾を翻しながら、既に鞘へ納めた刀を再び抜く。二撃目はさっきよりさらに速い。最小限の動きで避けて、無駄なく次の手に繋ぐ。お手本にしたいくらい鮮やかな切り返しだった。
剣で受ける――無理だ。力は上に向いている。ほとんど同じ軌道の胴薙ぎだから、横に躱すのも駄目。
迷ってる余裕もない。反撃の芽を早々に捨てて、上に振りきった武器の慣性を活かし、後ろへ倒れ込むように背中を逸らす。一瞬膝の力を抜いて、がくんと身体の高度を落とした。それで辛うじて、雷光めいた速度の居合をやり過ごす。
見上げた空が遠ざかる。背中から地面にぶつかる前に、気合で踏ん張りを取り戻した。膝と足首の動きだけで下半身を跳ねさせ、土についた左手を軸に後転。かなり無茶な姿勢だったし、危うく手首を痛めるところだったけど、何とか成功した。
これで仕切り直し……できればよかったんだけど。
地に寝かせた武器を持ち上げようとしたところで、いつの間にか伸びてきた右足が、容赦なく剣の腹を踏みつけた。刀身の上半分が軽く土にめり込むほどの威力で、思わず柄から指を離してしまう。
「はい、おしまい」
すっと首の皮一枚外に、冷たい刀が添えられた。
ナルメアさんの言葉通り、誰がどう見ても詰みだった。
「……参りました」
「ふぅ……グランちゃん、大丈夫? 怪我とかしてないよね? 疲れたならお姉さんが膝枕してあげよっか?」
吐息と共に納刀した直後、心配そうに僕の肩や顔をぺたぺた触ってくるナルメアさん。
もうすっかりいつもの調子で、あんまりと言えばあんまりな切り替わりっぷりに苦笑する。
とりあえずナルメアさんの手を借りて立ち上がった。一部始終を見ていたルリアとビィが、お疲れ様、と駆け寄ってくる。
「私、二人が何やってるか全然わかりませんでした……」
「グランは手も足も出ねぇ感じだったし、やっぱ蝶の姉ちゃんほんと強ぇなー」
「ううん、お姉さんなんてまだまだだから。……さ、戻って汗拭いたら村長さんのところに行こ?」
ぱんぱん、と手を叩き、僕の手を掴んだままそう言ってナルメアさんは歩き出す。
明るく笑ったはずの横顔は、けれど何故か少し翳ったように見えた。
発端は、シェロからの依頼だ。
ここしばらくいろんな依頼を団員総出でこなしていたけれど、ようやく一通り終わって落ち着いて、ちょうどみんなが思い思いに散らばったタイミングだった。ゼタやバサラガ、ベアトリクスにユーステスは組織の仕事があるからってどこかに行っちゃったし、王族とか貴族とか、故郷でそれなりの立場な人も多いから、そういうメンバーは自分の国や領地に戻ってるところ。
あんまりそういう都合がない人達も、実家に帰ったり買い物やバカンスに行ったり、自由に過ごしてもらってる。何日かゆっくり休んだら、それぞれが滞在している島を回って順に合流していく予定だ。
初期からのメンバーも例外じゃなくて、カタリナさんはヴィーラに(結構強引に)引っ張られてアルビオンに帰省中。オイゲンさんは漁業組合の集まりがあるとかでアウギュステに泊まってて、ロゼッタさんもバカンスついでに同行してる。ルーマシーにはヨダルラーハさんのお願いで来たんだけど、肝心の当人はファラとユーリを連れてこの時期にしか取れない珍味を探しに森へ入っていった。二人に持たせてた荷物が明らかに多かったし、たぶん数日こもるつもりなんじゃないだろうか。
僕達はと言えば、ちょうどバルツに帰郷するイオと、送りついでに騎空艇のパーツを買いに行きたいというラカムを昼過ぎに見送るところだった。
黒月森に通じる緑道から橋を渡った先、離れ小島にある集落のようなメネア領の港には、グランサイファー以外の艇が全く見当たらない。本当に自然しかない、人の住む場所の方が少ない島だからこれが普通なのかもしれないけど、ポート・ブリーズやアウギュステみたいにすごく賑わった発着場を知ってると、余計に物寂しく感じちゃうものだ。
だからこそ、唐突に現れたシェロの声は、殊更よく響いて聞こえた。
「すみませんグランさん、ちょっとお話よろしいでしょうか~」
相変わらず神出鬼没というか、つい先日別の島で顔を合わせたばかりなのに、いったいどうやって移動してるんだろう。そんな些細な疑問は横に置き、頷いて続きを促すと、それがですね~、といつもの調子でシェロが語り始めた。
ルーマシーは諸島という名前の通り、一番大きな島の他にも様々な小島が点在している。大半は人が暮らせるところじゃないけれど、一部の島ではいくつか村があって、少なくない人達がそこで生計を立てているらしい。
「中でもその村では、オオタケノコという名産がありまして~。煮て良し、焼いて良し、お酒のおつまみなんかにも最適なんですよ~」
「わぁ……! おいしそうですね!」
「はい~。ですが最近、オオタケノコが採れる森で行方不明者が出ているそうでして。このままでは危なくて森に入れないと、よろず屋に依頼が来たんですよ~」
「行方不明者……村人からですか?」
「観光客もですねぇ。おかげで今は渡航制限が出ていまして~。もちろん依頼を受けていただけるなら、私の方で島までの艇は手配します~」
もう少し掘り下げて確認してみたけど、どうもシェロも現地の状況はほとんど把握できていないらしかった。
行方不明者に共通点はなく、手がかりになるようなものも見つかってない。仮に魔物が原因だとして、一切痕跡がないというのはなかなか不気味な話だった。
当然、困っている人がいるなら助けてあげたい気持ちはある。でもこの状況だと、ちょっと人手が足りてないのも事実だ。折角みんな羽を伸ばしてるんだし、緊急の依頼だからってお休みのところを呼び戻すのも気が引ける。僕とルリアとビィ……三人で、何とかなるかな……。
「……ねえグラン、アタシも一緒に行こっか? それなら平気でしょ?」
「いや、イオはザカ大公に会えるのも久しぶりなんだしさ。こっちのことは心配しなくてもいいよ」
「そうですよ。ちゃんと顔見せに行ってあげてください」
「でも……あ、じゃあラカム! ラカム置いてくから!」
「ちょっ、お前なぁ、俺だって割と楽しみにしてるんだからな! ……まあ、人助けってんならしょうがねえけどよ。他に残留組って誰がいるんだ?」
「ええと、確か――」
「グランちゃーん、ただいまー! お姉さん戻ってきたよ……って、みんなどうしたの?」
背後から名前を呼ばれて振り返る。
僕達を見て首を傾げる、自身の背よりも長い大太刀を背負った人――ナルメアさんがいた。
「そういや蝶の姉ちゃんがいたな……」
「いたわね……。なんかもうグラン達のそばにいるのが当たり前過ぎてすっかり忘れてたわ……」
他の団員と同じく、ナルメアさんにもどこかでゆっくりしてきていいとは伝えたんだけど。じゃあグランちゃん達のお世話するね、と言ってあとは完全にいつも通り……どころか、ここ数日は五割増しで世話を焼かれ続けてた。下手に断ると一人反省会が繰り広げられるし、何だか僕達も感覚が麻痺してきちゃって、あれやこれやと身の回りのことをされるのも気にならなくなってしまってる。一番突っぱねがちなビィでさえ最近は諦め気味だ。
そんな調子で色々と微妙な扱いながら、実力としてはこの騎空団内でも随一。僕も何度か手合わせをしてもらったこともあるけど、今のところ全く太刀打ちできてない。戦力的には、間違いなくトップクラスで頼りになる人だと思う。
少し悩んで、僕はナルメアさんに依頼の件を話すことにした。できれば、僕達と一緒に来てほしいとも。
「いいよ。刀の手入れもさっき終わらせたし、グランちゃん達が行くなら、私もその依頼受けるから」
「本当ですか~!? 大変助かります~。それでは夕方前までに艇の手配を済ませますので、皆さんは準備ができたらまたここに来てください~。先方にはこちらからお話ししておきます~」
「あの……ナルメアさん、ありがと。グラン達もだけど、気をつけてきてよね」
「ナルメアの姉さん、そいつらのことは頼んだぜ」
「うん。イオちゃんもラカムさんも、向こうでゆっくりしてきてね」
別れの挨拶を交わし、二人がグランサイファーに搭乗する。渡り板が引かれ、係留用のロープを巻き取ると、緩やかに巨大な艇体が浮き上がり、向きを変えていく。やがて遠ざかるその後ろ姿を見送ってから、シェロが「では皆さん、また後ほど~」と駆けていった。
「……とりあえず、近くで暇を潰しましょうか」
かかる時間がわからなくて、雑な提案しかできなかったのは許してほしい。
目的地の小島には、予定通り陽が暮れる前に着いた。
道中、ここまで送ってくれた操舵士の人にも話を聞いたけど、少なくとも数日に一度、多い時は一日に何組もの観光客を運ぶこともあったらしい。仕方ないけど、早く解決してほしいもんだ――なんて、軽い口調とは裏腹に、切実な響きがこもっていたように思う。
島の港は本当に小さくて、これは確かにグランサイファーほどの大型艇だと泊まれそうにない規模だった。桟橋も小型艇が二隻入ればいい方で、管制塔や灯台の類もない無人港だ。夜に艇が飛ばない理由もよくわかる。
帰りの手配は、シェロによれば明後日の同じ時間。つまり、実質明日までに依頼をこなさなきゃいけない。情報が少な過ぎるし、厳しいようなら一度戻って報告していただければ~、とも言ってたけど、僕達の実力を見込んでくれてるからこその期限だろう。こっちとしても、できる限り早期に解決してあげたい。
港から村まではほとんど一本道だ。しっかり舗装されてるとは言い難いけど、それなりに人の行き来が窺える。森の外側に沿うような平坦な道をしばらく歩くと、木製の家屋が見えてくる。夜が近いからか家に戻ろうとしていた村人達が、僕達に小さく手を振ってくれた。ルリアが笑顔で手を振り返す。ちょっと待ってて、というように年配の女性が一番大きなお屋敷に入り、腰の曲がった優しそうなヒューマン族のお爺さんを連れてくる。
「皆さんが、シェロカルテさんの言っていた騎空団の方々……でよろしいですかな?」
「はい。僕が団長のグランです」
「ほう……その若さで……。では早速依頼についてお話を、と言いたいところですが、もう陽も落ちてしまいましたし、この暗さで森に行くのは危険です。今日のところは村の宿でお泊りください。詳しいことは、明日の朝にお伝えいたしましょう」
一瞬値踏みするような視線を向けられたものの、すぐににこやかな調子で応対された。
今までいろんなところで依頼を受けてきたけれど、村長みたいに大勢の上に立つような立場の人は、大抵一筋縄じゃいかないことが多かった。きっとこのお爺さんも、見た目通り穏やかなだけじゃないんだろう。
侮られたんじゃなく、評価してもらったんだと考えればいい。
案内された宿は、元々そんなに多くの来客を想定してないのか、こじんまりとしていた。二階建てで部屋は三つ。階段側から、僕とビィで一部屋、ルリアで一部屋、ナルメアさんで一部屋の割り当てだ。うち一名から「みんな一緒に寝よ? お姉さんが添い寝してあげる!」という意見があったけど、逆に抱き枕にされる未来しか見えなかったので、三対一の多数決により却下。特に僕の場合、ナルメアさんと同じベッドというのは色々と目に毒だ。目だけじゃ済まない可能性も高い。
夕食も有り難くご馳走になったけど、特にルリアが期待してたオオタケノコは残念ながら食卓に並ばなかった。一応出来合いのものはあるらしいけど、折角だから採りたての一番おいしいものを食べてほしい、とはエルーン族の女将さんの弁。……これはもう絶対解決しなきゃいけない気がしてきた。ルリアの視線が痛い。
とりあえずその日は早めに寝て、翌日。早朝に身体を動かしてたところでナルメアさんに真剣稽古をつけてもらった結果が、あの体たらくというわけだ。
結構凹むものもあるんだけど、当然ながら依頼主の前でそんな表情は見せられない。
招かれたお屋敷で、改めての自己紹介の後、僕達は奥さんの淹れてくれたお茶に口をつけつつ、村長さんからここ数日間の出来事を聞いていた。
「まず、この村の名産であるオオタケノコについてですが……普通は毎年一定の時期にしか採れないものなのですよ」
「普通は……ってことは、ここだと違うんですか?」
「何しろルーマシーは森が枯れない自然の宝庫ですから。他の島でもオオタケノコに似た品種は存在するそうですが、この村では土地柄と言いますか、ほぼ一年中採れます。もっとも、危険を察知すると逃げますし、ドラフの男性二人分ほどもある大きさですから、狩るには少し慣れが必要ですな」
「……逃げるんですか?」
「ええ。普段は数十本の根を土に張っておりまして。さほど速くはありませんが、放っておくとどこかへ移動してしまいます」
ルリアの率直な疑問に村長さんが答えてくれたけど、いまいち想像がつかない。人喰い花とか、あとは以前アマツダケを探しに行った時戦った闘虫禍草みたいな感じだろうか。
「島の森は栄養が豊富で、オオタケノコもよく育つ。そのままでは灰汁が強くてとても食べられたものではないですが、しっかり茹でて灰汁を抜くと癖も抜け、非常に歯応え良く爽やかな味になります。刺身、煮つけ、焼き物や和え物にも持ってこいでして」
横を見ないでもわかる。
ルリアの目が爛々と輝いている。
「村ではオオタケノコを狩ってくると、巨大な鍋で調理するのですよ。観光に来た方々にも大人気でしてな。皆さんにも是非お見せしたいものですが……」
「行方不明者が出ている、とはよろず屋からも伺ってます。よければもう少し詳しい話をしていただけると」
「無論そのつもりです。最初に人が消えたのは、おおよそ十日も前でしょうか」
そもそも。
村にとってオオタケノコは、交易の主な資源であると共に、観光資源でもあるらしい。
直接森に入ってのオオタケノコ狩り体験を大々的に打ち出していて、慣れた村の男衆が案内役になり、観光客が四人一組になって自由に狩る。それから村まで運んだオオタケノコを目の前で調理して、できたてを食べてもらう――ついでにお土産なりで村にお金を落としていってもらう。そうやって生計を立てている人達もいるんだそうだ。
観光客が無事に狩ったオオタケノコは、貸し出した台車でそれぞれが森の入口近くまで運ぶ。そこからは村人が引き取る手筈になっているけど、その日、陽が暮れ始めても戻ってこない組が出てきた。村長さんに連絡が行き、他の人手も含めての総出で探したものの見つからず。夜が明けて、再び捜索するも、成果がないどころか今度は村人も幾人かが帰ってこなかった。
「慌ててシェロカルテ殿に相談しましてな。ひとまずこれ以上被害が出ないように森と港を封鎖したのですが、以来我々も森には入れず、他島との交易もできておりません。しばらくは問題ないでしょう。しかし、これが長く続けば、村は立ち行かなくなります」
「森に入れなければ、自給自足も儘ならないから、ですね」
「はい。この村をまとめる者として、最悪島を捨てての移住も考えてはおりますが……生まれ育った場所を捨てるような真似は、やはりしたくないものです」
「……ですよね。森に魔物はどれくらい出るんですか?」
「多少は生息しているようですが、ここ十数年大型は見ておりません。村の衆でも追い払える獣程度ですよ」
「そういや、港はちっちゃいし人もいなかったよな。密猟者とか来たことねぇのか?」
「ビィちゃん、オオタケノコは一応植物みたいだから、
「……密採者とか来たことねぇのか?」
ナルメアさんにさり気なく訂正をもらったビィが言い直すと、村長さんは首を捻ってから、そうですね、と頷いた。
「ないわけではありません。この村は人口も少ないですから、港にあまり人を割けず……余所から艇が来ても、それを知る術がないのです。とはいえ、密採者に関してはあまり心配しておりませんよ」
「え? でも、勝手に狩られちゃったら、困っちゃうんですよね?」
「いえいえ。オオタケノコは非常に大きいので、普通島の港に泊まれるような小型艇ではまず運べないのですよ。村で加工や調理をしているのは、余所に製法を漏らさないためですが、輸送に適した形にするためでもあります。また、この島は外縁が少々複雑な形状をしているので、よほどの腕利きでもなければ港以外に中型以上の艇は泊められないでしょう」
「なるほど……。確かにそういうことなら、その線は薄そうですね」
ここに来る途中、空から見た限りでも、他の艇がいた痕跡はなさそうだった。
もちろん港側だと影になって見えないところもあったけど、それだってごくごく小さな範囲だ。村長さんの言葉通り、立地自体が密採者対策になってると考えていいんだろう。
「密採者以外で不審な人が来たりはしたんですか?」
「私が把握している限りではありません。もっとも、重要なことでなければこちらに話は上がってこないものでして、村に訪れた方々については宿でお聞きになった方がよいでしょうね」
「わかりました。宿の方で女将さんに話を窺ってきます。実地の調査はその後で大丈夫ですか?」
「はい、それで構いません。森に入る際は途中まで案内をつけましょう。……どうか、よろしくお願いいたします」
最後に村長さんは頭を下げて、お屋敷を後にする僕達を見送ってくれた。
穏やかな顔をしていたけど、よろしくお願いいたします、という声にはとても切実な響きがあったように思う。
この村に限らず、ひとつの島から出ることがないまま一生を終える人は、決して少なくない。遙か昔、まだ飛空艇がなかった時代と比べれば、島や土地に縛られず自由な生き方をする人は増えたはずだけど……それでもやっぱり、ずっと暮らして故郷は簡単に捨てられるものじゃない。
「グラン、ビィさん、ナルメアさん。依頼、頑張って解決しましょう」
こういう時、特にルリアは張り切りがちだ。
自分の出自が未だによくわからないからこそ、考えるところもあるんだろう。
優しげにルリアの頭を撫でながらナルメアさんが頷く。僕とビィも気持ちは同じだ。
気を取り直し、宿に戻って女将さんに声をかける。確認する内容は、ここしばらくで村を訪れた人のこと。
「まあ、そんなに来客も多くないからねえ。だいたいの人相は覚えてるけど、期待はしないでおくれよ?」
そう前置きして語り始めた女将さんによると、まず、行方不明になった観光客は全部で四人。植物学者を名乗ったエルーンの男性、ヒューマンのカップルらしき男女、同じくヒューマンの若干ガラが悪かった男性。カップルは非常に仲が良かったみたいで、反対に残りの二人はあまり反りが合ってなかったそうだ。神経質な学者さんと、言ってしまえば粗暴な感じの人なら、確かに相性は悪いだろう。とはいえ、表立って喧嘩するとか、そういう様子はなかったみたいだ。
「案外カップルに遠慮してたのかもね。人は見た目によらないものだわ」
相当いちゃいちゃしてたらしいから、単に毒気を抜かれてただけかもしれないけど。
話が脱線しかけたので、他に何か覚えてることは、と方向修正する。
女将さんはうーんと記憶を辿るように唸ってから、
「あ、そういえば、その四人より前でもうひとつ印象に残ってるお客さんがいたよ」
「どんな人だったんですか?」
「ドラフの男の人でねえ。村にもドラフ族はいないし、今まで見たドラフの人より随分身体が大きかったからよく覚えてるのさ。しかも観光じゃなくて、なんか森の奥に用があるって言っててね。随分経ってるし、もう帰っちゃってるだろうけど」
「森の奥……オオタケノコ以外にも、何か特別なものが?」
「いや、そういうのは見たことも聞いたこともないよ。ああ、そうそう、ドラフのお姉さんが腰に差してる……えっと、カタナっていうんだっけ? そいつよりもっと大きくて長い武器を背負ってたね。剣っていうかもう鉄の塊って感じだったけど」
想像してみたけどいまいちイメージがつかない。
ふっとナルメアさんの方を見ると、何故か妙に真剣な表情を浮かべていた。
腰の刀、その柄に左手で触れながら、どこか信じられないような声色で呟いた。
「……斬馬刀」
「え? ドラフのお姉さん、何か言ったかい?」
「あ、いえ。似たような武器を、昔見たことがあったので」
「ふうん。じゃあただの鈍器ってわけでもなかったのかねえ」
それから、あとひとつだけあったよと話してくれたのは、行方不明になった四人がその前日、宿に泊まった夜のことだ。女将さんが屋内の明かりを消して回っていると、外から物音が聞こえてきたらしい。ある程度栄えた街なら夜でも出歩く人はいるものだけど、これだけ小さくて森に近い村だとむしろ危ないだろう。もし部屋から誰かがこっそり抜け出したなら呼び止めなきゃ、と窓から様子を窺ったものの、暗くて人影が村から遠ざかっていったことくらいしかわからなかったそうだ。
「あたしが覚えてるのはそんなところさ。参考になったかい?」
「はい、助かりました。事件の手がかりにはなりそうです」
「案内役は表で待ってるから、出発の準備ができたらいつでも行っておいで。片手で食べられるものも包んでおくよ」
「わぁ……女将さん、ありがとうございます!」
「頼んだよ。無事帰ってきたら、最高のオオタケノコ料理をご馳走してあげるからね!」
「おう! オイラ達に任せとけ!」
元気な返事と共に、ビィが小さな手で自分の胸をドンと叩く。
勇ましさよりおかしさの方が強かったのか、あはは、と女将さんが笑って、笑われた当人は首を傾げていたのがちょっと面白かった。
案内役の人に森の入口――オオタケノコ狩りの集合場所までついてきてもらい、そこから調査が始まった。
入口といっても、村からはそれなりに離れていた。よく踏み慣らされて草の生え方も鈍い道はある点から途切れ、足首ほどの草花が地面を埋め尽くしている。
そこかしこに並ぶ木々は僕達の背よりずっと高く、伸びた枝葉がまばらに空を覆っていた。昼前なのに森の中は薄暗い。空気もひんやりしていて、あの村とは全く違う、別世界に迷い込んだ気さえしてくる。
「グランはこういう場所、すごく歩き慣れてますよね」
「ザンクティンゼルも結構森が深かったからね。薪とか食べられる草とかよく採りに行ってたし」
「そういや昔、こいつが生えてたキノコ持って帰ってきて、食ったら腹壊して寝込んだことあったよなー」
「ちょっと、ビィ!?」
「えっ、大丈夫だったんですか!?」
「ほんとに子供の頃の話だよ。毒キノコだったんだけど毒が弱いやつだったから助かったんだ。あれ以来、森の植物についてはかなり勉強したんだけど……」
正直、その知識を披露する機会はほとんどない。
自分以上のスペシャリストが団にはたくさんいるし、万が一毒にあたっても割と何とかできちゃうからだ。
治癒の魔法だって万能じゃないけど、簡単な毒程度ならすぐに治せてしまう。
それに、
「……ん? グランちゃん、お姉さんの顔そんなじっと見てどうしたの?」
「いえ。ナルメアさんは頼りになるなと」
「うん、お姉さんに任せて! 遠慮せずに、もっともーっと頼ってもいいからね!」
秘境めいた場所でずっと修行してきたナルメアさんは、僕以上に自然を熟知している。
不安定な獣道でも足取りはしっかりしてるし、先頭を歩きつつ邪魔な枝や草木をいつの間にか斬り払ってくれているから、あんまり深い森に入っている気がしない。
旅をし始めた頃は手足に細かい傷を作ったりしていたルリアも、以前に比べればたくましくなったと思う。いつもの薄いワンピースじゃなくて、丸い帽子に肌を守る長袖とズボン姿なのもあるだろうけど。長い髪は枝に引っかかるのが危険だから、宿を出る前にナルメアさんが三つ編みにしてまとめた。背負ったリュックサックの上でぴょんぴょん跳ねているのが色々と新鮮で可愛くて、なんだか目を向けるのがちょっと恥ずかしくもある。
ちなみに衣装一式は、以前に買い物好きな女性陣がルリアを連れて買ってきたものだ。ゼタとかメーテラとか、あとロゼッタとかクラリスとか。他にも何着か買ったらしいけど、女子会だーっていって男子禁制の集まりだったらしいから、詳しくは僕も知らない。帰ってきた時すごい顔真っ赤にしてたけど、本当にいったい何があったんだろうか。
時折ナルメアさんが立ち止まり、周囲に耳を澄ませる。
そうすると空気がすっと引き締まったような感じがして、自然と僕は息を止めてしまう。
……宿から出る前、僕達は情報を整理して、いくつかの可能性を考えた。
例えば、女将さんが夜に聞いた物音の主が本物の密採者だった場合。もしかしたら、まず無関係な観光客を攫い、彼らを餌に村人を釣って、オオタケノコの詳細な調理法を聞き出そうとしているのかもしれない。だとすると、捜索中に消えた村人の処遇が心配だし、観光客の方はもっと心配だ。行方不明になってからもう数日経つし、希望は薄いかもしれない。それでも、生きて見つかると信じるしかない。
線は薄いけど、凶悪な魔物が偶発的に発生したというのも有り得る。その場合、生存の可能性はもっと低い。ルリアの感覚では星晶獣が関わっていることもなさそうだけど、探知を潜り抜けられる星晶獣もいないわけじゃない。そういう前提で警戒するに越したことはないはずだ。
どちらにしても、森で遭難したのなら、まず水場を探すだろうという結論に達した。
だからナルメアさんが聞き取ろうとしているのは、森に流れる川――水源だ。思い返せば村にも水車があったし、どこかから水を引き込んでいるのは間違いない。川を辿って下流に向かえば、道がわからなくても村に着ける。
ひくひくと微かに動いた耳が何かを捉えたのか、こっち、と言ってナルメアさんがまた歩き出す。
注意深く辺りを見回すと、徐々に植生が変わっているように見えた。
水場が近いからだろうか。あるいは、森の奥に来ているからか。
しばらく進み、不意にナルメアさんの足が止まった。
僕も止まったけど、ルリアは気づかなかったらしく、背中に軽い衝撃が走る。
わぷっとくぐもった声が聞こえて、慌てて振り向いた。
「平気?」
「はわっ、すみませんっ。ぶつかっちゃいました」
「大丈夫だよ。それよりナルメアさん、何かありました?」
「うん。みんなは感じない?」
「……何を、ですか?」
血の匂い。
どこか硬い声に、後ろで息を飲む音が聞こえる。
僕は意識して鼻をひくつかせてみるけど、緑の匂いが濃くてわからなかった。ビィに視線を移すも、お手上げだというような仕草で首を横に振られる。
それを感じてるのは、ナルメアさんだけだ。
でも、嘘だとは思わない。彼女がこんなところで、嘘をつくわけがない。
警戒の度合いを跳ね上げる。腰に下げている剣をいつでも抜けるように、意識を切り替える。
進行は遅く、慎重になった。頻繁にナルメアさんが周囲の状況を確認し、安全が確保できたらまた進む、その繰り返し。僕はルリアを背に庇う位置取りを心がけた。
「あ、あれ……!」
ルリアが指を差した先に、巨大な円錐状の何かだったものが転がっていた。だったものというのは、それが真っ二つにされていたからだ。斜めからばっさり分かれている。地面の方には無数の細い根が、これもまたすぱっと一直線に切られている。
村長さんから聞いた話だと、オオタケノコは普通、四方から囲んで斧で根元を刈っていくらしい。確かにこの大きさなら、そうでもしないと難しいだろう。
なのに、これは。
「ナルメアさんなら、同じことができます?」
「……できるよ。グランちゃんだと、ちょっと難しいよね」
言われた通りだ。
僕が持つ剣の刃渡りじゃまず不可能。属性力を纏わせて刀身を一時的に伸ばすことはできても、持続させるには凄まじい精度と集中力が必要になる。それに、切られたオオタケノコや根の断面が異様に滑らかだ。剣を振る速度と角度、整った刀身の形成。どれが欠けてもこうはならない。
密採者の中に、相当な腕利きがいるのか。
突然変異の魔物なのか。
少なくとも一筋縄じゃいかない存在であることは、もう疑いようがない。
「ルリア、絶対に僕の後ろから離れないで。ビィもね」
「はい」
「わかってらぁ」
鞘から剣を抜いた。
もし急に襲われでもしたら、抜刀する時間さえも惜しいからだ。
そのままゆっくりと歩く。さっきナルメアさんが感じたという血の匂いが、僕にもわかるほど濃く漂ってくる。
やがて起伏のない、開けた場所に出て――目の前の光景に、僕達は揃って言葉を失った。
■弐 修羅の辿り着く先
いくつもの死体が転がっていた。
首を刎ねられた人、胴を二つに斬られた人、身体を縦に割られた人。全て一太刀で殺されているのは間違いなかった。その上で、ついでとばかりに四肢や首を
まるでどうやったら効率良く殺傷できるかを実験したかのような、そういう思惑が傷口に見える。手を下した者は、
数は六つ。村で聞いていた、行方不明の観光客より二人分多い。もっとも、死体を検分する余裕はないだろう。ひ、と後ろでルリアちゃんが引きつった声を出しかけたけど、気丈にも自分の手で口を塞いで抑え込んだのがわかった。できれば抱きしめて慰めてあげたい。こんな酷いものなんて、見なくて済むならその方がいい。グランちゃんも、ビィちゃんも。
けれど残念ながら、みんなを甘やかしてあげられるような状況じゃなかった。
一歩前に踏み出す。
死体の奥、こちらに背を向けて座禅を組んだ人影がある。
私達の存在には、もう随分前から気づいてたはずだ。向こうは抑えていたつもりだったのかもしれないけど、かなり遠く――水の音を感じた時点で殺気が伝わってきていたから。私は水源を辿りながら、ずっとその気配の主を探していた。
人影が静かに振り返る。
丸太のような筋肉と、頭の横に生えた一対の太くねじれた角。座ったままの姿勢で私に並ぶ身長の高さ。何より、背負った幅広の、鉄の塊めいた武器――斬馬刀。
村宿の女将さんから聞いた、行方不明になった観光客より前に島へ来たというドラフの男だ。
そしてその男の顔を、私は知っていた。
「……ダムシダ」
「ナルメアか。久しいな」
実家の道場では兄弟子だった、かつての父の門弟。
すっと立ち上がり、ダムシダが私を見下ろす。
薄暗い森の中で、ぎらつく輝きを宿す瞳。
それは越えるべきでない境界線を踏み越えてしまった、狂気の色だ。
乱雑に撒き散らされた殺気に反応して、背後のグランちゃんが咄嗟に剣を構えたのがわかった。
「ここは私に任せて」
「で、でも……!」
「ダメ。グランちゃんじゃ、まず勝てない」
突き放すような言葉になっちゃったかもしれない。でもあなたは賢いから、きっと理解してるでしょう。
どれだけ実力が隔絶しているか。この男が、恐ろしい相手かを。
微かに硬いものを擦り合わせたような音が聞こえた。誰の歯ぎしりだったかは、考えなくても判別できた。
その悔しさを、忘れないでいてほしいと思う。
さらに一歩、距離を詰めながら問う。
「あなたがやったの?」
「然り」
「何故?」
「貴様のような輩をおびき寄せるためだ」
ダムシダが背に右手をやる。伸びた武骨な柄を掴み、片腕の力だけで鉄塊を持ち上げた。
振り下ろされた斬馬刀が地面に突き立てられる。着弾点の土が吹き飛ばなかったのは、武器の重量を完璧にコントロールしている証だ。
「刀を振るい数十年、ようやく己が剣の極致に至った。だが、獣や魔物の斬り方を覚えても、人の斬り方には繋がらぬ」
「だからって……この斬り口、ほとんど無抵抗だったでしょう。六人も殺す必要がどこにあったの」
「強者でなくとも、試し斬りの藁程度にはなろう」
「そんな程度の理由で?」
「然り」
ふざけてる。
明らかに破綻した思考だ。
武を学ぶ者こそ、己が強さに振り回されてはならない。父の道場では、そう教えていたはずなのに。
「撒き餌となる噂は、不明瞭でなければならぬ。我が求むるは強者のみ。秩序の騎空団のような組織を相手にするつもりはない」
「……そう。私達を殺したら逃げるつもりね。目撃者を全て消せば、あなたの正体は露見しない。逃げるだけなら密採者が使っただろう艇がある」
後ろのグランちゃん達にも聞こえるように、わざとらしく説明してみせる。
推測は間違ってないだろう。転がっている死体は六、行方不明になった村人は四。二人多いのは外から足されたと考えるのが自然。村で聞いた情報から考えれば、ダムシダや観光客以外の人間は、密採者しか有り得ない。
あの小さな港には私達が乗ってきた艇しかなかった。となると、島のどこかに密採者の艇が隠されている。場所も殺す前に聞き出したはず。
つまり、ここで逃せばこの男は他でも同じことを繰り返す。
いや……あるいはもう、同様の手口で既に殺してきたか。
「愚直な鍛錬をするしか能のなかった娘が、しばらく見ないうちに回る頭も得たようだな」
「褒められたところで嬉しくはないわ」
「ふん。同門の
「外道が、尋常な果たし合いを望むか」
「人斬りという意味では貴様とて同類だろう」
「あなたと同じにしないで」
「否。剣の本質とは殺しの技術。貴様とて目的は己と同じではないのか。ザンバを殺し、屍を踏み超えるためにその刀が在るのではないか」
「違う!」
挑発に乗るつもりはなかったけど。
それは。その言葉だけは、否定しなきゃいけない。
私の目標を。憧れを。夢を。在り方を――お前が決めつけるな!
ダムシダの左側、斬馬刀の位置とは逆側へと一気に踏み込む。その勢いのまま身を回し、左の親指で鍔を押し上げ、鯉口を切る。腕の力で振るのではなく、全身の力を伝達させるように。回転の速度を活かすように。鞘を走る刀身は、当然の帰結として抜き放たれた。
狙うは脇腹。秒にも満たない世界の中、しかしダムシダは正確に私の姿を捉えていた。
地面に突き立てた斬馬刀を軸に、巨体が軽く浮き上がる。ふわりと飛んだ巨体が軸を中心に反対側へ回った。居合は宙を切り、鞘へ戻しきれない私の横から、難なく着地したダムシダがさらに回るようにして引き抜いた斬馬刀を薙いでくる。
躱すには踏み込んだ足が伸びきっていた。胴を割る速い一撃だ。仮に刀で受けてもこちらが一方的に武器を折られる。
そう判断してすぐ、私は限りなく姿勢を低くした。
ブーツの踵が古い血に濡れた草を容赦なく蹴散らす。頭上をすり抜ける鉄塊が鳴らす風切りの音。余裕を持って回避したけれど、渦巻くような何かに引っ張られる感覚と共に、髪の毛が幾本か斬り飛ばされた。
次が来る前に姿勢を戻す。鞘に仕舞った刀を再び抜こうとするも、それより早く相手の二の太刀が襲いかかってきた。
疾い。
竜巻のように一回転しながらの横薙ぎを、さらに半歩引いて紙一重で避ける。
瞬間、服の胸元がすぱりと切れた。布の合わせが裂けて、胸の上半分が露わになる。
薄皮が切れた肌から、微かに血が滲んだ。
「取り繕う程度の時間をやろうか?」
「不要よ。女体に惑わされて鈍るような腕でもないでしょう」
「然り。無用の問いだったな」
冗談めいた言葉を口にしながらも、獣のようにぎらついた瞳は揺らがない。
その不気味さに心の内で舌打ちしながら、間髪入れず私は攻めに転じた。
今度は立ち位置を散らし、居合を八方から叩き込む。
手数を増やしたものの、それもあっさりと凌がれた。武器の重さをまるで感じていない、小剣を振っているような速さで時に逸らされ、時に斬馬刀を盾にされて弾かれる。
切り返しも的確だ。見極めの良さもあるだろうけど、巨体に合わない身の軽さを発揮している。
都合十二太刀で、呼吸が限界だった。一瞬だけ足を止め、忘れていた息を吸う。
当然、黙って相手が見ているとは考えない。微かな、しかし力強い呼気の起こり――単純な、故に重く速い袈裟斬りが来る。反射的に半身で回避しようとし、すぐに思い直して充分に間を取って躱した。遠ざかれば攻め手に欠けるのは間合いの短いこちらの方だけど、仕方ない。
胸元を過る複雑な気流の剣風。刀に触れていなかったのに斬られた髪と服、肌。巨体に似合わぬ身軽さ。
向こうの業の種が、少しばかり見えてきた。
さらに二歩、グランちゃん達とは別の方向へ跳ねるように退く。ダムシダは私を追わず、余裕の表情で動かずにいた。
「仕切り直しか? それとももう勝てぬと諦めたか?」
「まさか」
摺り足で緩やかに距離を詰める。あちらも同じだろうけど、幾度か刀を交えれば、おおよそ刀身の長さと振りの間合いは肌が覚えるものだ。勘ではなく、経験則から弾き出す剣閃の予測。己の未熟さはよくわかっているけれど、培ってきたその感覚だけは信頼している。
残り半歩。まだ、切っ先の届かない間合い。そのはずだった。
ほぼ前触れのない、初速から勢いの乗った横薙ぎが来た。
あるべき構えを無視した、異形の一閃。それを敢えて正面で捉える。
引き延ばされた時の中、私は目を凝らし、意識を研ぎ澄ませた。迫る斬馬刀が大気を割る音に紛れて、高い風切りの音が聞こえる。微量の魔力を宿した瞳に映るのは、刀が纏った翡翠の燐光。それは刀身のみならず、薙ぎ払いの軌跡、そしてダムシダの全身からも明確な指向性を持って噴き上がっていた。
「ナルメアさん……!」
焦るグランちゃんの声を合図にするかのように、私は軽く爪先で地面を蹴った。半歩分追加で身体が下がり、横薙ぎの余波が前髪を揺らす。
身を回したダムシダは、何事もなく立つ私を見て、ほう、と呟く。
「次こそ胸を削いでやろうと思っていたのだがな。我が剣の間合い、見切ったか」
「……その武器、風の属性に寄っているのね」
おそらくダムシダ自身も、風の扱いに長けているはず。
斬馬刀の振りに合わせて追い風を出す。
全身の動きの補助に使う。
刀に風を纏わせて間合いや鋭さを変える。
特定の属性に寄った武器は、対応する属性力の伝達性が高く、操作を容易にするけれど……もちろん全て、当人の修練あってのものだろう。相当に精密な属性操作力がなければ実現し得ない。ある意味私とはまた違った、剣術と魔法の融合技術だ。
――厄介なのは、種が割れても対応し難いのに変わりはない、ということ。
にやりと厭らしく笑ったダムシダが、初めて向こうから間合いを詰めた。
地面が揺れたと錯覚するほど強烈な踏み込みから、右斜め下よりの斬り上げ。左に少しずれ、その流れに従い上半身を傾けて回避。途端、振り上げたはずの斬馬刀が軌道を直角に変え、右肩からこちらを断とうと真っ直ぐ振り下ろされる。風で強引に修正したか!
私は大太刀を居合の要領で抜き、下から相手の刃に合わせる。分厚い刀身が纏う風圧に斜めから当て、ほんの僅か、自分の刀に属性力を通した。押し込んでくる相手の力に逆らわず刃を滑らせ、柄を握る指先の微妙な加減で、私の刀を右の外側に
そうして右へ飛ばされる逆刃に自分の胴を引っかけ、属性力を一瞬だけ強めた。触れた一点に発生した反発力が刀身を小爆発のように吹き飛ばし、逆刃に押された私の身体を宙に浮かせる。
横向きに回る視界で、ダムシダが目を見開いていた。
……別に、曲芸師じゃないんだけど。
すぐそばで地を叩く轟音を聞きながら、右腕を回る身体の外側に伸ばした。手首の動きで刃を返し、斜め縦回転の速度を利用して一閃を見舞う。無理な姿勢でダムシダは躱すも、切っ先が左脇腹を掠る。布を裂き、鮮やかな血が数滴跳ねた。
痛みからか、ダムシダがよろめく。私は着地し、そのまま慣性を活かして横薙ぎ。これは防がれる。
やはり刀身の戻りが速い。さっきの有り得ない挙動といい、振りとは反対の逆噴射で強引に反動を殺し、また動かしているんだろう。
それはつまり、武器の巨大さ故にわかりやすいはずの太刀筋が、読みにくくなるということでもある。
思っていた以上に厄介な手合いだ。
「甘く見ていたこと、謝罪しよう。速度を上げるぞ」
己が剣に絶対の自信があるからこそ、わざわざ宣言してみせる余裕を持っている。
一太刀与えれば多少は冷静さを失ってくれるかとも考えたけど、表情が揺らいだ様子はない。剣筋の鈍りを期待するのは難しそうだった。
鞘から刀を抜き敢えて構えず、来なさい、と無言で伝える。
眼前から放たれる殺気がぐっと強まった。
腰溜めからの斬り上げ。左より迫る斬馬刀は姿勢を右寄りに下げて躱す。頭上で風が荒れ狂う。ダムシダの腕の筋肉が膨らみ、鉄塊の軌道が鋭角を描く。再び左側からの袈裟斬り。私は地面を蹴り、斜めに下りてくるダムシダの一閃を飛び越えた。一瞬天地が引っ繰り返る。逆さになった視界の横で、超重量の一撃が草土を吹き飛ばすのが見えた。
足が地面に着く。小さな土煙が上がる右手から来た三の太刀、薙ぎ払いは屈んで回避。そこから戻しとばかりに振り抜かれる四の太刀、五の太刀も丁寧に凌いでいく。
先の言葉通り、ダムシダの剣速はさらに増していた。速く、重く、全てが必殺。受け損なえば即死しかねない。あらゆる剣閃が風を纏い、触れずとも不可視の刃に肌を薄く切られ、周囲に撒き散らされる余波でこちらの動きも阻害される。
時間が経てば出血も嵩み、真綿を締めるように体力が削がれてしまう。
攻防一体、使い勝手が良く単純に強い。小細工ごと真っ向から斬り伏せる、恐るべき実力。
……それでも。
私が目指すべき高み、あの人とは比べるべくもない。
嵐のような猛攻を往なしながら、追い詰められたと見せかけるようにして、少しずつグランちゃんから遠い場所に聳え立つ木の側へ誘導する。こちらの背に幹が触れ、これ以上下がれないと判断したダムシダが繰り出した横薙ぎを前に、私は逆手で幹に切っ先を刺した。自分の肩辺りの高さに突き立つ鋼を軸に、少しの間だけ魔力の刀身を伸ばして刃がしならないよう強化し、片手だけで逆上がり。直後に大樹が断たれ、ダムシダの側に倒れかかる。
視界が傾くより早く、握力で姿勢を逆さに固定。私はブーツの踵で幹を蹴って刀を引き抜き、その勢いで無理矢理腰を捻り反対側に刃を回した。微かに樹皮へ食い込んだ刀身を、くるりと同じように反対側に回り込んだ足裏でもう一度蹴り飛ばして外す。
「雄雄雄雄雄雄ォォッ!!」
全長が窺えないほどの巨木が、ダムシダに覆い被さる直前。
大気を震わせる叫びと共に、斬馬刀の腹が幹に正面から叩きつけられた。
少なからず水気を含んで重いはずの巨木が、みしみしと破滅的な音を立てて半ばから圧し折られていく。
こちらが着地するのと同時、足下を揺らす轟音が響き渡る。眼前では肩で息をしながらも、巨木を真横に押し飛ばしたダムシダが、五体満足で立っていた。
「……随分と身軽なものだ。よく凌ぐ」
「褒められても、嬉しくはないわ」
「ふん。それより貴様、まだ本領を発揮していないな」
不満気にダムシダが吐き捨てる。
確かに、ここまで私は本来の業を見せていない。
けれど別に、余裕があったわけでも、舐めていたわけでもない。
手の内を隠しておきたかったのがひとつ。
向こうの手を暴いておきたかったのがもうひとつ。
だからずっと、相手の技術を引き出すように動いていた。
「ゼラーニャを斬ったという貴様の魔剣、この程度ではあるまい」
「……人斬り同士の情報網でもあるの?」
「噂なぞ、火種さえあれば
「そうね」
まさか、その名前が出てくるとは思わなかった。
ゼラーニャ。
以前グランちゃんのお願いで
外法により魔物に魂を売った、剣士の成れの果て。
あちらも厄介な手合いではあったけど、それは己が剣のみを頼りにした戦い方ではなかったからだ。
剣技という意味では、目の前にいる男の方がよほど恐ろしい。
もっとも――
「何故力を隠す」
「あなた程度にすぐ見せるのも勿体無かったから、って言ったらどうする?」
どれほど速く、重く、鋭い刃でも。
来るとわかっているものを、対処できないはずもなし。
「――大言壮語、その口で吠えたな」
「本当にそうか、その身で確かめなさい」
安い挑発に歯を剥いたダムシダが、握った柄を振りかぶる。
けれど、私は
淡い紫色の蝶が無数に溢れ、四方に散った。それは私の肉体であり、精神であり、魔力でもある。眠りに就いた意識が夢から覚めるように、飛び立つ胡蝶はダムシダの背後に集まり、私の身体を再構成する。
一瞬見失ったにもかかわらず、ダムシダは即座に反応して斬撃を叩き込んでくる。が、遅い。魔力を乗せた居合は最初に見せたものより数段速く届く。
刀身が脇腹に入る、と見た直前、風の唸りと共に斬馬刀が角度を変えた。ダムシダ自身を庇うように、居合の軌道上、刀身が盾になる挙動だ。
当然、素直に打ち込むつもりはない。
刃が触れ合う寸前に、大太刀が蝶になって溶ける。柄を握る手から鋼の重さが消失し、そして違う感覚で戻ってくる。
刀身を魔力で
変じるは槍。
僅かな衝撃も斬馬刀には与えないまま、無防備な胴に片手突きを見舞う。
線から点への急激な変化に、ダムシダの回避は間に合わなかった。腹を貫くには至らなかったものの、右の脇腹を薄く抉る。でも浅い。私は突いた姿勢で腕が伸び、一歩踏み込んだ状態だ。繰り出される鉄塊の一太刀は、そこから槍を引いて突き直すより早く私に届くだろう。
これが、尋常な剣術の斬り合いであれば。
私の手元から槍が解けていく。握る
引く動作はそのまま身を回す流れに置き換わる。左足を軸に、渦を巻くような回転斬り。それがダムシダの身体に吸い込まれる直前、爆発的な風圧が足下で起きた。破裂音と共に斬馬刀が跳ね上がり、強引にこちらの刀を弾こうとしてきた。
私は手を止めない。躊躇わず、振り切っていく。
私の背の方を回った刀身は、ダムシダには見えなかったはずだ。
だからこそ、この、たった一度だけの奇襲が意味を持つ。
「なっ……!?」
斬馬刀が纏った風が、刀身から散った
本来自然現象である風を燃やすことなんてできない。でも、それが属性力によって生み出されたものなら話は別だ。
火は風を克する――本来闇の属性に偏った大太刀に、元素魔法の応用で疑似的に別の属性を付与する、胡蝶刃のもうひとつの力。
最初の居合も次の槍突きも、全ては風圧による受けを引き出すための布石だ。
それさえ凌げばいい、と思わせるために。
刀身を押す風が消失して、ダムシダの腕に武器の重さが上乗せされる。一気に減速した斬馬刀は私の太刀を遮れず、素通りした刃はダムシダの脇腹から腹を深く斬り裂いた。
命をこぼす、手応えがあった。
ぐお、と呻いたダムシダがよろめく。大きく斬った傷から血が溢れ、腰より下を赤く濡らす。
目の前の相手は倒れなかった。落としかけた鉄塊の柄を強く握り直し、杖にしてふらついた姿勢をどうにか保っている。
けれど、もうそれはほとんど致命傷に近い。
「その傷では、十全に刀を振れないでしょう」
「…………」
「命までは取らないわ。武器を置いて、降伏しなさい」
グランちゃん達の前で、血生臭い光景を作り出したくはない。
だからそう宣言してみせたけど、ダムシダは無言でじっと私を睨んだ。
血走った瞳が、憎しみとも侮蔑ともつかない感情を宿しているように思えた。
ゆっくりと巨体が立ち上がる。杖代わりの斬馬刀を頭上から背中側に回す。
振りかぶるにしてもあまりに大袈裟な、隙だらけの構え。ただ一撃のみに懸けた、二の太刀を全く考えていない姿。
さっきまで見せていた凄まじい圧は見る影もないし、おそらく次は私の居合にも反応できないだろう。斬り捨てるのは簡単だ。
でも私は、剣士だから。
静かに鞘から大太刀を抜く。柄は右耳の横へ、切っ先を相手に、刃を天に向け、腕を交差させるように、縁金辺りを右手、柄尻近くを左手で握る。
構えた瞬間、刀身が紫の光を帯び、無数の胡蝶が生まれて羽ばたく。
「舞えよ胡蝶。刃は踊り、神楽の如く――」
それは私にとっての儀式であり、暗示であり、詠唱だ。
ダムシダが先に動いた。大木を振り払った時よりさらに凄まじい雄叫びが大気を震わせる。地を揺らす踏み込みと同時、その背後で風が爆発した。腹から血を噴き出しながらもなお重く力強く、音さえも置き去りにする速度で、あらゆるものを断ち割る上段からの振り下ろしが。
来る。
目では追えない。見てからでは間に合わない。
だから私を動かすのは、五感以外のものだ。
鍛練と戦いの中で培ってきた感覚。
死線を乗り越えるための、見切り。
「――斬り拓く」
囁いた言葉は、きっと誰にも聞こえない。それでいい。ただ自分がそう在れるのならば。
散っていた胡蝶が儚い身を解き、私の刀に、腕に、足に群がって吸い込まれていく。
腕は柔らかく。手首を捻るように。
足は軽く。風と踊るように。
最小の動きで刃が翻り、迫り来る巨体を袈裟の太刀筋がするりと抜けた。
斬馬刀の一撃が地を叩き割る。粉砕された大量の土と草がぐちゃぐちゃにかき混ぜられて噴き上がる。
私は残心を保ちつつ、刀をゆっくりと鞘に納めた。
振り返る。
武器を下ろしたまま固まったダムシダの、左肩から斜めに向かって、深い傷が走った。ぐぅ、と呻いて、巨体が前のめりに倒れる。流れ出る血が、この場に転がっていた死体達と同じように地面を濡らし始める。
やがてうつ伏せから苦しそうに横へ転がり、ダムシダが仰向けになった。
「……地に伏せたのは、己の方か」
「ええ。もう一度やったなら、わからなかったかもしれないけど」
「ぬかせ。死合いとは元より一度きりのもの。貴様が己に
淀んだ眼差しがじっと私を見つめた。
「ザンバどころか、貴様にも及ばぬとはな……」
「私程度に勝てないようじゃ、あの人とは勝負にもならないでしょうね」
「ふん。……殺せ。それが、修羅の辿るべき末路だ」
憎々しげに息を吐いてから、ダムシダがそう告げてきた。
あまりにも直接的な物言いに、思わず眉をひそめる。
けれどこちらの態度には一切構わず、淡々と続けた。
「加減、しただろう。甘いことだ。傷は深いが、この程度なら、運が良ければ死にはしない。ここで己を殺さねば、己は貴様の命を、狙い続けるぞ。貴様を超えねば、ザンバには辿り着けぬ。貴様が逃げるならば、貴様の周囲の者を、悉く殺そう。死骸を積み、その山上に、貴様を重ねるまで。武人として終われぬのなら、修羅として、堕ちるところまで堕ちるのも一興よ」
それは。
「再び会うた暁には、まず、貴様の後ろにいる子供達を、殺そうか」
反射的に、グランちゃん達の方へ視線が行った。
気丈にルリアちゃんの盾になっている彼は、途端叩きつけられた強烈な殺気に、微かに足を震わせていた。
守られているルリアちゃんも、神妙な顔で浮かぶビィちゃんも、小さく怯えている。
それだけは――絶対に、許してはいけない。
「そう」
自分でも驚くくらいに酷薄な声が出た。
鞘に仕舞った刀を抜き直す。仰向けのまま不敵にこちらを見上げるダムシダの、太い首筋に切っ先を当てる。
生かして逃せば最後、この男は宣言通りのことをするだろう。一度斬り伏せられたんだから、二度、三度、追い払うことはできるかもしれない。でも、私は――そんなに強くないから。さっきの言葉だって嘘じゃない。もう一度やればあっさり負ける可能性は充分ある。誰かを守り続けられるほどの、全てを取りこぼさずにいられるほどの高みには、辿り着けていないから。
もし私の目が届かない場所で、みんなを失うことになったら……正気でいられる、自信がない。
ダムシダが瞳を閉じる。この状況には似つかない穏やかな、それでいて何かを喜ぶような表情。
努めて心を殺し、私は僅かに刀を振りかぶる。
死になさい。
と、柄を握る右手に力を込めようとした瞬間、横合いから伸びてきた手が、私の手首を押さえた。
関節の根元を掴まれ、皮一枚で刀が止まる。
いつの間にか、隣にグランちゃんがいた。
「……グランちゃん、お願い。手を離して」
「離しません」
「ダメだよ。ここで見逃したら、グランちゃんもルリアちゃんもビィちゃんも……団のみんなが、危険な目に遭う」
そう言ったはずなのに、やっぱり手は離れなくて。
どころか、ルリアちゃんも近づいてきて、私とグランちゃんの上に手を重ねてきて。
「ナルメアさん、今、すごく怖くて……でも、辛そうな顔してます」
「僕達のためだってことはわかります。だけど……だからって、ナルメアさんがそんな顔しちゃダメです」
「グランとルリアの言う通りだぜ。蝶の姉ちゃんがやりたくないことなら、無理にするこたぁないだろ」
三人の目に。
私の表情はいったい、どんな風に見えていただろう。
もう一度ダムシダを見下ろす。つまらない茶番を前にしたような、呆れと蔑みの感情がこもった視線が返ってくる。
幼子の戯言に耳を貸すなと。
己と同じ修羅が人の真似事をするなと。
それは私の妄想だったのかもしれない。出血量が多く、既にダムシダの眼差しは朦朧としていたから。
息を深く吸い、深く吐く。
二人の手のひらをそっと外して、私は刃ではなく峰で軽く首筋を打った。
意識を奪う一撃に、ダムシダの全身から力が抜ける。属性力もあれだけ派手に使っていれば、相当な消費になっているはずだ。しばらく目覚めはしないだろう。
「ふぃー……一時はどうなることかと思ったぜ」
「いや、まだ終わってないよ。この人が犯人なのは間違いないから、村長に引き渡して報告しないと」
「そうですね。亡くなった人達のことも、ちゃんと伝えなきゃいけないですよね」
「ならダムシダは置いて、一旦村に戻る?」
簡単に提案してみると、グランちゃんは少し考える仕草をして、
「さすがにこのまま放っておいたら死んじゃいそうですね……」
「……えっと、じゃあ私がちょっと治しますっ。ナルメアさんも、小さいけど傷だらけですし」
「ルリア、お願い。あ、荷物下ろしてもらっていい? 確かロープ持ってきてたよね。ビィ、手伝って」
「おう!」
てきぱきと指示を出しつつ、ルリアちゃんの背負ってたリュックサックから取り出したロープでダムシダの手足を固く縛っていく。気絶しても手放さなかった斬馬刀を太い指から剥がし、芋虫のように転がる巨体の前で、ルリアちゃんが目を閉じ集中する。
その背後に浮かび上がるのは、リヴァイアサンの影だ。
以前聞いた話だと、ルリアちゃんの中にあるのは星晶獣本体ではなく、力の一部、写し身とも呼べるものらしい。遠くの彼らと繋がっていて、ちょっと力を借りている、くらいの理解でいいのかもしれない。
水は万物を巡るものの象徴、癒しの力と親和性が高い。
青みがかった光がダムシダに降り注ぎ、こぼれていた血がやがて止まった。
失われた血液まで戻るわけではないから、応急処置に過ぎないけれど、とりあえずこれで放っておいてもすぐ死ぬことはないだろう。
同じように治癒を受けた後、横たわるダムシダを眺め、ふとあることに思い至って私は近づいた。
すらりと鞘から刀を抜く。
「ナルメアさん?」
「大丈夫。変なことはしないから」
縄を避けながら、靴に覆われた両足の踵をかすめるように斬る。
微かに血は流れたけど、もちろん命を脅かすほどじゃない。
私がしたことを察し、グランちゃんは一瞬表情を強張らせた。
裂いたのは、足の腱だ。
足首から下とふくらはぎの筋を繋ぐ箇所。ここが切れるとまともに歩けず、踏ん張りも利かなくなる。
魔法による治癒だって万能じゃない。基本的には自己治癒力を促進するものだというし、一度切れた状態で傷が塞がってしまえば、身体はそれを正常な状態と判断してしまい、もう治らなくなる。
足腰はあらゆる武における根本だ。
失えば即ち、武の道が閉ざされたに等しい。
生の全てを剣に捧げてきたのであればあるほど、酷い絶望に苛まれるだろう。
次に目覚めたダムシダが、己の状況をどう思うかはわからない。
例え、自ら命を絶ちたくなるのだとしても――そこから先の話は、私達が考える必要のないことだと苦笑した。
■参 胡蝶の夢に浸る
横になるでもなくベッドに腰かけて、ぼんやりと天井を見上げていた。
もう随分いい時間のはずなのに、なんだか眠れない。
目が冴えてるというよりは、ずっと頭の中で考え事がぐるぐるしてる感じだった。
さっきまでは武器の簡単な手入れで気を紛らわせてたけど、それも終わってしまった。僕は鍛冶師じゃないし、今使ってる両刃剣――プロトタイプは出所が出所だ。セスラカと呼ばれた機神から出てきたこの剣は、これまでどんな硬いものを斬っても刃が欠けるようなことは一度もなかったし、もしかしたら手入れさえ必要じゃないのかもしれない。ただ、騎空団でも剣に詳しい人や鍛冶師の人はみんな、そうすることで自然と身体に馴染んでいくんだと言っていた。
それはきっと愛着を持つとか、大事に扱うための儀式みたいなものなんだろう。
だから僕も、なるべく毎日使った武器の手入れは欠かさないようにしている。
……とはいえ。
「ちゃんと手入れしたからって、それだけで強くなれるわけじゃないんだよな」
ナルメアさんがダムシダと呼んでいたドラフの身柄については、無事村長に引き渡した。殺された観光客と村人のところへもすぐに案内して、状況をありのまま伝えた。死体はできる限り整えた上で丁重に弔い、亡くなった人の家族にも後で謝罪をするそうだ。
事件が解決したところで何もかも元通りというわけにはいかないけど、僕らの報告を聞いた村の人達は、みんなほっとした顔を見せてくれた。
ダムシダの処遇は少しばかり揉めた。酷い殺され方をした村人の家族が、私刑を主張したからだ。それを止めたのは村長と、あまりにもタイミング良く島にやってきたシェロだった。
偶然様子を見に来ただけですよ、なんて言ってたけど、どこかで状況を察知したのかもしれない。未だに底の知れないところがシェロにはある。
ともあれ、村長は憤る村の人達を宥めた上で、シェロにダムシダを預けた。彼女から聞いた限りでは他の島でも似たような事件を起こしてた疑いがあるそうで、この後は秩序の騎空団によってアマルティアに移送され、ファータ・グランデの普遍的な法に則って裁かれることになる。本当は色々事情を説明しなきゃいけないんだけど、そこはシェロが上手くやってくれるらしい。グランさん達は一晩ゆっくりしていってください~、とにこやかに言い残して、足早に島を離れていった。
もうその頃には陽が落ちていたのもあって、村長に勧められた通り、明日まで泊まることになった。
宿では朝に約束した女将さんがオオタケノコ料理を大盤振る舞いしてくれた。テーブルに所狭しと並べられたお皿を、目を輝かせたルリアが物凄い勢いで食べていって、一口ごとに「おいしいですー!」って笑顔になって。その光景だけでお腹いっぱいになっちゃって、結局僕らはそんなにいっぱい食べられなかったけど、確かにすごくおいしかった。シャキシャキと気持ちいい歯応えなのに柔らかくて、繊維が舌でほどけながら、たっぷり染み込んだ出汁やソースの味が口の中にじわっと広がる。焼いただけのオオタケノコも本当に香ばしくて、噛む度に深い森の匂いが鼻に抜けていくような、優しくて深い味わいだったと思う。
いつにも増したルリアの旺盛な食欲に、小さな手で器用に焼きタケノコをかじっていたビィは苦笑していたけど、珍しくリンゴが欲しいとは言わなかった辺り、ビィなりに満足してたんだろう。
その中で、ナルメアさんはいつものように、甲斐甲斐しく僕らの世話を焼こうとしていた。
横から「はい、あーん」されること十数回。ソースや汁で汚れた口周りを拭かれること六回。空になった取り皿に食べ物を山積みされること二回。いつも通りというか、いつもより激しい構いっぷりだった。
けれど僕達の誰も、何も言わなかったのは、たぶん。
ナルメアさんの表情や仕草に、どこか翳りがあると気づいたからだ。
食事も着替えも終わってあとは就寝するだけというところで、ルリアがビィと一緒に寝たいと言い出した。
「僕はビィがいいなら構わないけど……どうしたの?」
「えっと、その……一人で寝るのが、ちょっと怖くて」
理由を聞いて納得した。
間違いなく森で見たものが原因だろう。僕達だって、今までひとつの死体も前にしてこなかったわけじゃない。帝国との戦いでも、それこそ目を覆いたくなるほど残酷なことはたくさんあったし、空で爆散する艇、星晶獣や魔物に殺される兵士、ほとんど戦争に近い大規模な攻勢の中で殺されていく人達……数えきれないくらい多くの人が、僕らのいた場所で命を落としていった。
理不尽な死に方も両手じゃ足りないほどあったけれど、それでも今回は、とびきり惨たらしかったと思う。
だってあれは、殺されたんじゃなくて、壊されたんだろうから。
人が物のように解体されて、捨てられていた。ルリアは強い子だけど、それでも普通の女の子であることに違いはない。むしろあの時、吐いたり倒れたりしなかったのはすごいことだ。
僕自身、嫌悪感を抑えられなかった。耐えられたのは、ルリアを守らなきゃって気持ちと、ナルメアさんの存在があったから。
なので一人が心細いのはすごくよくわかるけど、さすがにじゃあ僕が一緒に、というのはダメだろう。もしかしたらナルメアさんに声をかけるつもりだったのかもしれないけど、それができなかったのも理解できる。ルリアの言葉を受けてビィに視線で問いかけると、しょーがねぇなぁって顔で頷いて、ルリアの肩近くまで飛んでいった。
「抱き枕にするのは勘弁してくれよな!」
なんて宣言してたけど、ならずに済むかどうかは微妙なところだと思う。結構ルリアは押し強いし、ビィはルリアに甘いし。
二人におやすみを告げて、僕は自分の部屋に入って。
それからずっと、答えの出ない問いかけを繰り返している。
――どうして。
どうして僕は、まだこんなに弱いんだろう。
重い溜め息を吐いて、もう無理矢理横になって寝ちゃおうかとベッドに入ったところで、不意に扉の方からノックの音が聞こえた。
「グランちゃん」
ナルメアさんの声だった。
起きて、扉を開ければいいと思った。
なのに何故か、僕はそのまま目を閉じて、眠ったふりをしてしまった。
咄嗟のことだった。そうしてしまった自分がわからなくて、まだ頭の中はぐるぐるしていて、どこか後ろめたいような、胸がきゅっと締まるような罰の悪さを感じていた。
こんこん。こんこん。
さらに二度、扉の木板が叩かれる。しばらくしんとなって、次にきぃ、と蝶番の軋みが室内に響く。
足音がゆっくり近づいてくるのがわかった。ナルメアさんの歩き方は恐ろしく静かだけど、ここまでそばにいると、完全に気配を殺すのは難しい。人や物が動けば空気が変わる。微かな風の流れと、身体がそこにあるという存在感。少し遠く、立ったままナルメアさんが僕を見下ろしているのを、視界によらない感覚で捉える。
「……もう寝ちゃった、よね」
本当に小さく、囁くようなその声が。
かつてないほど弱々しくて、寂しそうで。
だから僕は、もう寝たふりさえできなくて、そっと目を開けた。
月明かりが射し込むベッドの上で、僕とナルメアさんの視線が合う。
「あ……ごめんね。起こしちゃった?」
「いえ。実は、上手く眠れなくて」
「そっか」
暗がりに浮かぶナルメアさんの瞳は、淡い紫色の中に、微かな蒼が輝いていた。
夜なのに、朝焼けの色みたいだと思った。
「……あのね。もし、もしよかったら、お話、聞いてもらっていい?」
わがままを叱られるのが怖い子供みたいな表情で尋ねられて、断れるはずもない。もちろん初めから断るつもりもなかった。
はい、と頷いて起き上がる。ベッドの縁に腰かけると、ナルメアさんはおずおずと僕の隣に座った。
何度か口を開こうとしたみたいだけど、その度声が出なくなったようになって、はっとして、辛そうに俯いて。
僕は隣の小さな肩に手を伸ばしかけ、ダメだと思って引っ込めることを繰り返した。優しくしてあげたい、励ましてあげたい気持ちは強かったけど、彼女が勇気を出せるまで待たなきゃいけないとも感じていた。
やがてきゅっと唇を結んで、ナルメアさんが顔を上げる。
「私の実家が、かなり大きな道場だってことは前に話したかな」
はい、と頷く。
確か鍛錬の途中だったか、以前にそんなことを聞いた覚えがある。
剣だけじゃなく、武芸全般を修めようとする家だとか。
そこで彼女が憧れた人に出会ったということも。
「あの人の剣は、本当にすごくて……速く、力強く、なのに寒気がするほど精密で、とても綺麗だった。あんな風に剣を振るいたいって思ったの。でも、このまま鍛えたんじゃ、一生かかっても届かないってわかった。尋常じゃない時間と執念で編まれたものだってことは、私も、私の父も……父の門下生も、あの家にいた全ての人が理解してたから」
だから私は、届くようにしようと思ったの、と。
当たり前のようにナルメアさんは言う。
「ザンバに追いつくためには、周りを見てる余裕なんてなかった。毎日、一分一秒が惜しかった。家伝の技術は全部覚えて、剣術だけじゃ届かないってわかったから、魔法も必死に学んだ。それも覚えて、強くなって、まだまだあの剣には全然及ばないけど、昔より強くなったよって伝えたくて。振り向いてほしくて。家を出て、彼を探して、旅をして」
「……それで、僕達に?」
「うん。グランちゃん達に会うまでは、ずっと一人だったよ」
十天衆オクトー、ザンバ。
全空最強の刀使い――剣神とも呼ばれるひとの話は、僕も聞いた記憶があった。
曰く、異形の三刀流。武の頂に立つ者。人ならざる刀の化身。
様々な噂に共通しているのは、彼が本当の強者以外に興味を示さないということだ。
正直に言えば、信じ難い。
だってナルメアさんは物凄く強い。団内でも間違いなく上から数えた方が早い実力だし、精神的にはちょっと打たれ弱いところもあるかもしれないけど、少なくとも戦いにおいて、彼女が膝をつくような姿は一度も見たことがなかった。
それでも、仮に今ザンバに会えたとして、全く見向きもされないなんて有り得るんだろうか。
僕の疑問というか不満というか、そんな感情が顔に出てしまってたのか、ナルメアさんはこっちを見て苦笑した。
「もう……グランちゃんがそんな風に気にしなくたっていいのに」
「気にするに決まってるじゃないですか」
「どうして?」
「いや、どうしてって……」
別に他意があっての質問じゃないんだろうけど、改まって問われると非常に答えにくかった。
結局上手く返せなくてもごもごしていると、変なこと聞いちゃったね、と軽く謝られる。
ナルメアさんのせいじゃないですよとさらに返せば、そういうことにしとこっか、みたいな大人の対応めいた余裕を見せられ、なんだか異様に気恥ずかしかった。
それから緩んだ空気を引きしめるように座り直して、ナルメアさんが話を戻す。
「前に私が、バルツまで八命切を探しに行ったことがあったでしょ?」
「ああ、あの時は本当にすみません……。団でも気になるって人が多かったし、せめて僕が一緒に行きたかったんですけど、ちょうど他の依頼と重なっちゃってて」
「ううん、私も気になってたから。ゼタちゃんが手伝ってくれたしね」
「でも、せめて噂の出所とかをもうちょっと調べておけばよかったなって」
後から聞いた話では、バルツの刀工街が商売目的で流したということらしかった。そんな話に踊らされたこっちの甘さを悔やむべきか、商魂逞しい職人を褒めるべきかはわからないけど。
ナルメアさんは珍しく怪我もしてちょっと疲れてたみたいだったし、ゼタは「ほとんどナルメアがやってくれたし、楽な仕事だったよー」としか言わなかったから、当時はあんまり掘り下げて聞かなかった。徒労をさせちゃったのが申し訳なくて、しばらくお休みしてもらったくらいだ。ちなみにゼタは組織絡みの任務もなくて、ここぞとばかりに何人か引っ張って買い物とかで飛び回ってた覚えがある。休暇中でもすごいバイタリティだなーと感心してたんだっけ。
「あの時向こうで、顔馴染みと斬り合ったの。実家の道場の同門だった」
「……背中を斬られたって言ってたのは、その人が相手だったからですか」
「うん」
「強かったんですか?」
「剣の腕だけで言えば、私より少し下だったと思う。ただ、ゼラーニャは魔物と契約する外法に手を染めてたから」
ゼラーニャというのが、かつて同門だった相手の名前らしい。
響きから考えてヒューマンだろうか。何にしろ、彼女が傷を負わされる程度には強かったわけだ。
そこまで聞いて、ふとナルメアさんがダムシダと対峙した時の反応を思い出した。
「もしかして、ダムシダも?」
「そう。ゼラーニャと同じ、道場の元門下生」
偶然なのか、という思考は口にできなかった。
ナルメアさん、ダムシダ、そしておそらくはゼラーニャ。三人の目指す先が、全てザンバに繋がっている。
「あの頃私はまだ小さくて剣を交えるまでいかなかったけど、ゼラーニャもダムシダも、何度もザンバに挑んで、負け続けて、最後には見向きもされなくなってた。積み上げてきた技術や努力を、全部否定された気持ちになったのかもしれない」
「だからって……あんなこと、していいはずないです」
「うん。グランちゃんの言う通り。いくら強くなるためでも、人として大事なラインを踏み越えちゃいけない。ゼラーニャを斬った時、私は違うって思った。やっぱり今でもあの人には認めてほしいだけだって。強くなったな、って言ってほしいだけなんだって」
暗い天井を見上げながら、少しだけ声に熱がこもったナルメアさんの表情は、誰もいない場所に取り残されて寂しそうな子供みたいだった。
僕はまた手を伸ばそうとして、諦める。
でもね、と呟いた言葉の響きに、痛々しい色を感じたから。
「ダムシダに、殺せって言われた時。じゃないとグランちゃん達を殺す、って言われた時、仕方ないって考えちゃったの」
「……そんなこと、」
「ある。あるよ。だって、私はまだ弱いから。もし団の誰かを……グランちゃん達を狙われたら、きっと守りきれない。ザンバみたいに、どんな相手を前にしたって何もかも斬り伏せられるような強さは、私にはない」
ゆっくりと下りていく彼女の視線が、膝に乗せられた両手まで辿り着く。
ぎゅっと握りしめられた寝間着の布が皺になって、僅かに引っ張られた生地は白い足首を露わにさせていた。
こんなに強い人なのに、今はすごくちいさく見える。
膝に置いた手の力を抜かないまま、ナルメアさんは顔を上げ、僕に向かって笑ってみせる。
けれどそこに明るさはなくて、つつけばすぐ崩れそうな、取り繕った笑顔だった。
「グランちゃんと、ルリアちゃん。ビィちゃん。三人が止めてくれて、嬉しかった。相手の命を奪うことを、一度仕方ないって思ったら、もう戻れなくなる気がしたから。……グランちゃんだって、帝国の兵士とか、できるだけ殺さないようにしてるでしょ?」
「はい。甘いってよく言われますけど、自分も相手も、両方死ななくて済むなら、それが一番いいと思います」
「そうだね。みんな、そんな風に考えて生きていければいいのにね」
「ナルメアさんは……違うんですか?」
その問いかけに、答えはなかった。
「……ゼラーニャやダムシダみたいに、あの人と出会って歪んでしまった門下生の人は他にもいたの。実力があればあるほど、彼がどれだけ隔絶した腕前なのか理解できてしまうから。言葉通り、あれは魔剣だったと思う。魅入られて、あるいは心を折られて、道を踏み外してもおかしくないくらいの」
「それはつまり、ダムシダ以外にも同じような人間がいるかもしれないってことですか?」
「うん。彼らもきっとザンバを求めてる。なんか想像以上に私の名前は広まってるみたいだし……私があの人を探し続ける限り、いつまたそういう相手と戦うことになるかわからない。だから」
一度言葉を区切り、きゅっと唇を強く結んで。
それから何かを決意するかのように、静かに息を吸ったナルメアさんが、口を開く。
「私、グランサイファーを降りた方がいいのかなって、思って」
反射的に引き止めようとして、僕は喉まで出かかった声を抑えた。
ナルメアさんだって、悩んだ末の結論なはずだ。本当に艇を降りたいなんて考えてるわけがない。僕らが危ないから、迷惑がかかるからって、最初から最後まで自分の気持ちなんて横に置いて、僕らのことだけを心配してくれてる。
冷静に考えろ。僕は団長だ。団のメンバーを、艇を守る責任がある。仮にダムシダと同格の相手が襲ってきたとして、自衛できる人は決して多くない。一人でいるところを狙われたら。人質に取られでもしたら。ナルメアさん個人、僕個人の問題で収まらなくなるかもしれない。
それに、僕は弱い。弱いんだ。ナルメアさんに止められたとはいえ、ダムシダには立ち向かうことさえできなかった。勝てないとわかっていて、それでも僅かな可能性を信じて戦うのか。この命は僕だけのものじゃないのに。僕が死ねば、ルリアも死ぬ。自分のわがままでルリアの命まで賭けるのか。そんなの、許されるのか。
いろんな思いが頭の中でぐるぐるとまわって、息苦しささえ覚えた。
どうすれば。
弱音を何とか飲み込みながら、もう一度ナルメアさんの顔を見る。
薄闇の中で淡く輝く、綺麗な瞳が僕を映していた。
ごめんね。こんな言い方ずるいよね。
嫌な決断、させちゃってるよね。
そんな気持ちを滲ませて、でも僕を心配させないために、無理してでもまた笑おうとしていた。
「嫌です」
全ての悩み、全ての考えがその瞬間に吹き飛んだ。
だって、思い出したんだ。ルリアを助けた時、僕は何も考えちゃいなかった。守りたいと思ったから、身体が勝手に動いたんだ。それで自分が死ぬことになるとわかってても、胸を突く感情から目を背ける真似だけはできなかった。
そうしなければ、僕は僕じゃない。
だから今、この時でも。
自分が信じられることに、正直でいたいと思う。
「僕は、ナルメアさんに降りてほしくない。ここにいてほしいんです。一緒に、旅を続けたいんです」
「でも私、私がいるとグランちゃん達が危険に」
「でもじゃないです。ナルメアさんはどうなんですか」
「そ……そんなの、離れたくないに決まってるじゃない!」
「だったら僕達、同じじゃないですか。それだけじゃダメなんですか?」
「じゃあ、もしまた襲われたらどうするの!?」
「それまでに考えます」
ナルメアさんが絶句した。
我ながら、清々しいまでに問題の先送りなのはわかってる。
詭弁も詭弁、まともな議論にすらなってない。カリオストロ辺りに話したら、間違いなく一蹴される言い分だ。
けれど。
「一人で考える必要なんてどこにもないんです。ナルメアさんだけじゃ無理なら、僕も考えます。ルリアも、ビィも、きっと一緒に悩んでくれます。艇に戻れば、みんなだって。相談して、意見出し合えばいいじゃないですか。全部自分だけでやろうとしなくていいじゃないですか」
「……いいの? 迷惑とか、邪魔とか、思われたりしない?」
「したら団長権限で怒ります。だからもっと頼ってください。僕も、ナルメアさんを守りたいから」
膝に置かれたその手の上に、自分の左手を重ねた。
言葉にしきれない自分の気持ちが、少しでも伝わるように。
剣の腕では敵わなくても。
不器用なその心を守ることは、僕にだってできるはずだ。
初めきょとんとしていたナルメアさんは、じっと見つめる僕の視線を浴び続けて、だんだん頬を赤く染めていった。
「――なんだか、グランちゃんに告白されたみたい」
「えっ」
「あ、あのね、違う、違うの。嫌とかじゃなくて、嬉しいんだけど、こういうのはじめてだし、経験ないし……でも、守りたいって言ってくれて、胸の奥がね、ふわーって軽くなって、あったかくなったみたいで」
「ちょ、ちょっと待ってください、落ち着きましょうナルメアさん。確かにそんな風に聞こえたかもしれないけど、さすがに僕もそこまで空気読めないわけじゃないっていうか、こんな状況で告白はいくら何でもないじゃないかっていうか、いやしかしあながち間違ってもないような気もするし、ええと、ええと……」
「…………ちがうの?」
上目遣いで。潤んだ瞳で。
そう言われて、否定できる男は果たしてこの世の中に存在するだろうか。
僕は無理だった。
お互いに見合った状態で、頭の中は真っ白なまま硬直して。
くすくすと。
先に笑って均衡を崩したのは、ナルメアさんの方だった。
「うん。団長権限なら、仕方ないよね。それに、グランちゃんのお願いだもの」
「ナルメアさん……それじゃあ」
「帰ったら、みんなに相談する。私、グランちゃん達と離れたくない。できればずーっと、一緒にいたいから」
さっきまでとは明らかに違う、どこか晴れやかな声色。
本音で話してくれてるのがよくわかった。本当によかったと心中で胸を撫で下ろす。
そうしてようやく落ち着いてくると、彼女が尋ねてきてからもう結構な時間が経っていることに気づいた。これ以上夜更かしすれば明日に響くかもしれないし、元々一人部屋で取ってるのに、ナルメアさんと二人きりでいたなんて知られたら、あらぬ誤解をかけられかねない。僕は百歩譲って構わないとしても、ナルメアさんが迷惑するだろう。
だから送りますよと言うつもりで立ち上がろうとして、何故か僕の上半身はそれ以上動かなかった。
その原因にゆっくりと視線を移す。
ナルメアさんが、いつの間にか僕の手を両手で捕まえていた。
「……あの、ナルメアさん」
「なあに?」
「このままだと立てないんですけど……」
「どうして立とうとしてるの?」
「いや、どうしてって、そろそろ部屋に戻って寝ないと明日に響きますよ」
「戻らないよ?」
「え?」
問いかけにもならない疑問を口にした直後、世界がくるっと回転した。
踵からふくらはぎの辺りに何か力がかかった、と感じたのが理解の限界だった。たぶんそこから僕の身体の重心は器用に操作されて、ベッドに仰向けの姿勢で転がされたんだ。天井の代わりに、僕を押し倒すようにして見下ろすナルメアさんの姿が見えた。
わかってたつもりだったけど、剣術だけじゃなくて体術も超一級だこの人。恐るべきことに、ほとんど投げ飛ばされたようなものなのに一切痛みがなかった。着地先がベッドだったからかもしれないけど、それにしたって凄まじい技巧と言わざるを得ない。
というか。
そうじゃない。そんなどうでもいいことを考えてる場合じゃない。
いきなりナルメアさんが僕のズボンを脱がし始めた。
「今日はいっぱい迷惑かけちゃったから……たっぷりお世話してあげるね」
「まっ、な、ナルメアさん、ストップ、ストップ!」
「しーっ。静かにしなきゃ。ルリアちゃんとビィちゃんが起きちゃうかも」
「それは申し訳ないですけど、な、なんでこんなことを」
「だって……グランちゃんのここ、おっきくなってるし」
嘘だと言いたかったけど、股間を意識すると残念ながら下着越しでもわかるほど結構しっかり勃ってた。
真面目な話をしていたはずのこの場で、死にたくなるほど恥ずかしい状況証拠だった。
「……違うんです。生理現象なんです」
「うん、わかってるよ。男の人はみんなよくこうなるんだよね?」
今日一番優しい眼差しで見られて、あんまりにもあんまりな辱めに心が痛い。
というか、なるべく意識しないように努めてたけど! ナルメアさん本当に無防備だし、寝間着姿はいつもの服より明らかに布地薄いし、ちゃんと女将さんはドラフ用だって言ってたけどすごいぴっちりしてるし! 髪の毛とかからなんかすごいいい匂いもするし!
ルリアやビィにとってはちょっと世話好き過ぎるお姉さんで済むところでも、僕にとっては割と死活問題だ。男的に。
「ナルメアさんは、これがどういうことかちゃんとわかってる……んです、よね?」
「もう、グランちゃんは私を何だと思ってるの?」
「結構危うい人だなとは」
「そ、そうなのかな。やっぱり私って危うい?」
「少なくとも、自分だけで何とかしようと色々思い詰めちゃうところが」
正に今日の話なので、一応自覚もあるらしい。
罰の悪そうな顔をしたナルメアさんに、このまま話題を逸らせば何とかなるかもと淡い希望を抱いたものの、想定以上にすぐ持ち直した。持ち直して、今度はナルメアさん自身の寝間着のボタンを、上からひとつずつ外していく。
先ほどまで僕の肩を押さえていた手が退いた代わり、お腹に跨られる。小柄な身体相応の体重が腹筋にかかる。全然重くはないけど、押しつけるようにナルメアさんのお尻が潰れて、布越しでも引き締まった程良い柔らかさが伝わってくるので色々ときつい。理性がごりごり削られる。
何とか上半身を起こそうとしてみたけど、その度ナルメアさんが軽く座り方を変えただけでびくともしてくれなかった。全身の支点を押さえられてるからだ。
ささやかな抵抗も空しく、ふぁさ、と寝間着の上が床に落ちた。
ベッドの横からうっすら注ぐ夜明かりが、ナルメアさんの艶姿を映し出す。
ズボンより上、おへそのラインは充分に筋肉がついてるはずなのに、一見そうとわからないくらい滑らかで割れ目のない肌だ。そこからさらに上へ行くと、暴力的に揺れるふたつの膨らみが目に入る。見上げる角度によっては大き過ぎて顔が見えない。種族的に小柄なドラフの女性らしく肩幅が小さい分、余計に胸がアンバランスに思えてしまう。
でも、なんというか。
色んな意味で、圧巻の光景だった。
寝間着を横合いに放り投げたナルメアさんの右手が、そっと僕の股間を撫でさすった。
控えめなタッチがむず痒くて、く、と呻きが喉から漏れる。
「私、グランちゃんになら何でもしてあげたいから」
「いや、でも、そんな軽々しくやっていいことじゃ」
「軽々しくなんてないよ。さっきグランちゃんに守りたいって言われて、胸の奥がきゅうってしたの。それからずっとドキドキしてる。私の全部が、グランちゃんに、いいよ、って言ってるの」
「………………」
「それとも……私じゃ、イヤかな?」
もしここで、頷ける人間がいたとしたら。
僕はそいつを同じ男だとは思わないだろう。
ただ首を横に振ったのかもしれない。そんなことはないとか、いいえとか、何かを口にしたのかもしれない。正直この辺りのちゃんとした記憶はなくて、ただひとつ間違いないのは、もうナルメアさんの好意を否定したり、目を背けるのは止めた、ということだった。
僕の両肩にナルメアさんが手のひらを当てる。ゆっくり顔が下りてきて、近づいて、目が合って、鼻と鼻の先がほんの少しだけずれて、お互いの距離がなくなった。触れた唇はずっと喋り通しだったから随分乾いてたけど、熱い。息が止まる。呼吸を忘れる。ちゃんとしたキスなんてはじめてだからどうすればいいのかわからないまま、唇を押しつけ合うことしかできなかった。
限界が来て離れる。その瞬間だけ僕らは死んでたのかもしれない。生きてたことを何とか思い出して息を吸った。そしてまた、どちらからともなく触れ合う。次はもっと長く続くように。手探りで呼吸しながらのキスを覚えた。三回目。ぴっちり閉じた唇を、ナルメアさんの舌がつついてきた。躊躇いながらも迎え入れる。触れた唇よりずっと熱くて、一瞬火傷するんじゃないかと錯覚したけど、大丈夫だと気を取り直す。おずおずと伸びてきた舌先に自分の舌を絡める。当てて、重ねて、表面をこするようにして、少しざらついた感触と奇妙な柔らかさを味わう。ぷあ、と離れかけた唇を、ナルメアさんが貪るようにまた食んできた。近過ぎてよく見えないけど、瞳が熱っぽく潤んで、揺れている。吐息と唾液が流し込まれる。熱くほんのりと苦い、ナルメアさんの味。飲み込むことに抵抗はなかった。そうすることが自然だと、不思議と確信めいたものがあった。
たぶん十回まではいかなかったと思う。名残惜しげに唇が遠ざかる。どっちのものかもわからないねばっとした唾液の糸が、僕達より離れがたいと言うようにか細いアーチを作って、すぐに千切れた。
「ボタン、外すね」
とにかくナルメアさんは、僕の手を煩わせたくないらしかった。
上着のボタンをぷちぷちと外し、左右に服を開く。ばんざーい、と言われ、いやいやそこまで子供扱いは、でもそうしないと脱げないでしょ、みたいな一連の流れを受けて、結局宣言通りのことをさせられてしまった。その恥ずかしさを拭いきれないまま、最後の砦である下着も脱がされる。
さすがに勢いでやるのは無理だったのか、恐る恐るといった手つきだったけど、それでも解放された僕のそれは、ぶるんとかそういう雄々しい効果音が聞こえそうな動きで、天井に向かってまっすぐ屹立した。もうバッキバキだった。今までにないほど血走ってる。
それがどういうことかくらいは、ナルメアさんもわかっているんだろう。真っ赤になりながらも興味津々といった風に、じーっと視線を注いでくる。じーっと。穴が開きそうなほど。長い。こっちが不安になるくらい見つめられる。
「あ、ちょっとへなってなったね」
「見つめられ過ぎると、恥ずかしいっていうより怖いので……」
目が獲物を仕留めようとする獣みたいだった、とはいくら何でも口に出せなかった。
戦いの後は気持ちが昂るとはよく言うし、半ば殺し合いに近い修羅場を昼に潜り抜けたからか、まだナルメアさんの中には興奮が残ってるのかもしれない。うん。だからいつもより箍が外れてるんだろう。そう思いたかった。
触るね、と前置きされ、ナルメアさんの手が股間の肉棒をそっと握った。冷たくはないけれど、血走って熱を持ったそこよりは温度が低い。身体を巡る血が僅かながら冷やされるような感覚に、腰がぴくっと小さく震える。その反応が手のひらに伝わったのか、少しの間だけ固まって、けれどすぐナルメアさんは指を動かし始める。
遠慮がちな刺激。五本の指が太い木の幹みたいな肉棒に絡み、緩やかに上下させる。最初こそ股間に視線が集中してたけど、僕の表情を窺った方がいいと思ったのか、こっちの顔を見ながら指の動きを効率化していく。
怖いくらいに覚えが速い。僕が気持ちいいと感じた箇所を、的確に見極めてくる。
「グランちゃん、何かねばっとしたのが出てきたけど平気? 痛くない?」
「大丈夫です。それは……なんていうか、気持ちいいと出てくるものなんです」
「そっか。ならちゃんと、私の手で感じてくれてるんだね。うれしい」
何故自分は先走りについて説明しているのか、僕が深淵へ問いかけていたところで、不意にナルメアさんが遠ざかった。
お腹にかかっていた重みが消え、どうしたんだろうと思った直後、肉棒を何か異様に柔らかいもので挟まれる。まさか、と上半身を起こして見てみれば、股間のそれがうつ伏せの姿勢を取ったナルメアさんの両胸で完全に埋もれていた。
えっ。
そんなすっぽり入っちゃうの。
信じられない光景を見ている気分だった。
なんかすごい。とにかくすごい。
まともな言葉が頭の中から失われるくらいの衝撃だ。
明らかな異物を収めてるはずなのに、ナルメアさんの胸はほとんど形を崩していない。先っぽの尖りや強い張りを損なわないまま、それが上半身の動きに合わせて揺れる。たぷん、たぷん。僕の下腹部に当たって弾んで、その時肉棒の根元が一瞬見えるけど、また落ちてきた胸に覆い隠される。股間にはむにゅむにゅとした柔らかい圧迫感が絶えずあって、特に持ち上げる時、ナルメアさんが胸を横から両手で押し込むものだから、中で一気に圧力が高まって、押し潰されながら肉棒の皮が引っ張られ、こすられる。これがもう有り得ない。有り得ないくらい気持ちいい。何より、ナルメアさんにこんなことをされてるという状況が、ちょっと見下ろしただけでそこにある奉仕の光景が、あまりにも強い毒だった。
「たまに、グランちゃんから視線を感じてたんだ」
「……そんなにあからさまでした?」
「あんまり意識しないようにしようとしてたのは知ってるよ。でも私、他人の視線というか、気配には結構敏感だから」
「つ、次からはちゃんと見ないようにします……」
「別にいいのに。グランちゃんならいくらだって見てもいいからね」
本人に公認されて、わーいじゃあ遠慮なく見ます、と言える奴は筋金入りの馬鹿じゃなかろうか。
安かろうと儚かろうと、なけなしのプライドというものが男にはあるわけで。
意地を張ってみせたいところだったけど、それより先に股間の方が限界近かった。
先走りの汁が肉棒を挟む胸の内側に塗り込まれ、たぷんたぷんという音が、ぐちゅっ、ぐちゅっ、と粘ついた音に変わっていた。まぶされたぬめりが卑猥なリズムを加速させ、僕は股間の根元から熱の塊がせり上がってくるのを感じる。
「ナルメアさん、っ、出る……!」
それがどういう意味か、ちゃんと彼女が理解していたのかはわからない。
僕の声に応えるように、一際深く沈めた両胸をぎゅっと両側から押さえすぼめて、最後の一押しとばかりに下から上へ搾り取ってくる。
耐えられるはずがなかった。
川の堤防が決壊するみたいに、肉棒の先端から熱いものが迸る。ナルメアさんの胸に隠れていたはずなのに、強い勢いで谷間から飛び出した白い粘液は、直上にあった彼女の顔と胸の表面を容赦なく汚した。
射精の後は、何とも言えない強い喪失感が残る。決して軽くない気だるさを振り払い、正面から精液を浴びてしまったナルメアさんに、大丈夫ですか、と聞いた。よくよく考えれば間抜けな質問だけど、いったい他にどう言えばいいのか。
しばらく呆然とした様子の彼女は、少しふわふわしたまま、顔についた精液を指で拭った。薄く糸を引くそれをじっと眺めて、唐突に口に含む。
止める間もなかった。
舌で転がすようにして、こくりと喉を鳴らす。
それから上目遣いで僕を見て、
「にがいけど、グランちゃんのにおいと味だね」
――この人は。
絶対意識なんてしてない。わざととかじゃない。素だ。本気で言ってるんだ。
どれだけ男心をくすぐってくるのか。全力で自制心を破壊しに来てるとしか思えない。
そこから躊躇いなく、綺麗にするね、なんて笑顔で言い放って、ナルメアさんは浮いた胸を再び沈める。さらにぐっと押し潰すと、谷間の底から肉棒の先端がにゅるりと飛び出してきた。頭を下げる。ほんの十数分か前に僕とキスをした唇が、今度は肉棒に口付ける。
……ここまで、終始主導権を取られっぱなしだ。
確かにナルメアさんは、根っからの奉仕体質なのかもしれない。普段の過剰な世話焼きの延長……というにはやり過ぎなところもあるけど、僕に心から喜んでほしいって思ってることは、痛いくらいよく伝わってくる。
それは嬉しい。本当に嬉しい。男冥利にだって尽きる。
でも、されっぱなしでいるのはやっぱりよくない。
僕だってナルメアさんにちゃんと返したい。喜んでほしい。
そのためにできることは、何だろうか。
股間に走るくすぐったさと心地良さをどうにか噛み殺しながら考える。視線をめぐらせ、ふとナルメアさんの頭頂部が目に入った。長い薄紫の髪。普段着けている髪飾りはさすがに寝る前だからか取っていて、後ろの方で邪魔にならないよう軽く紐でひとまとめに結わえられている。それでも括りきれなかったんだろう両耳周りの房を、そっと指で掬って耳の後ろへやる。
そこからほんの少し上。ドラフ族特有の角。僕から見て右側の生え際を指の腹で優しくこすってみた。
ん、と下から声が聞こえた。
鬱陶しいような感じじゃない。気のせいでなければ、艶があった。
恐る恐る、もう一度指先でなぞる。股間に覆い被さったナルメアさんの身体が微かに震えたのがわかった。
感じて、くれてるんだろうか。くすぐったいだけなんだろうか。
それを確かめるために、人差し指と親指で輪を作り、根元からゆっくりとしごき上げる。横向きに生えた角は途中でほとんど直角に曲がり、正面に伸びて緩く尖っている。木の年輪みたく刻まれた小さな溝のへこみを指の腹で感じつつ、先端より少し手前まで行き、また根元へ戻る動きを繰り返す。
しゅっ、しゅっ、と響く、指と角がこすれ合う音。
僕の股間に顔を埋めたナルメアさんが、時折もどかしげにベッドの奥へ投げ出したお尻を震わせる。少なくとも嫌じゃないんだろうと思って、角をこする右手はそのまま、左手でそっと髪を撫でた。さらさらして瑞々しくて、指を通しても全く引っかからない。手のひらで持ち上げると、薄く窓からの光に透けて輝いていた。
柔らかくて、いいにおいもして、きらきらしてて。
あんなに強くて格好いいのに、これ以上ないほど女性らしくて。
ちょっとだけ現実感を見失って、夢の中にいるような気持ちになる。
けれど下から伝わってくる刺激や感触が、すぐに僕をナルメアさんへと向き直らせた。ぼぅっとしちゃいけない。続けなきゃ。
とはいえだんだんナルメアさんもこっちの干渉には慣れてきたらしく、あんまり動揺というか、びくっとしなくなってきた。それが悔しいような惜しいような気もして、一旦右手を角から放す。今度は頭の下でちゅっちゅと吸いつく音が聞こえて、その直後、肉棒の先端に強烈な痺れが来た。キスどころか、中身を吸い尽くすつもりじゃないかってくらいの勢いだ。今まで味わったことのない感覚に、腰が砕けそうになる。
「ふぁんひゃん、ひもひいぃ?」
たぶん「グランちゃん、気持ちいい?」って聞いてきたんだと思うけど、肉棒くわえたままでもごもごされるといろんな意味で辛い。声が口の中でこもって震えて、それだけで全身の力が奪われるかと思った。
返事よりもわかりやすい反応に満足したのか、ナルメアさんがさっきと同じ攻めを再開した。二回目はギリギリ我慢できたたけど、そう何度も耐えられるものじゃない。このままじゃ呆気なくまた射精させられてしまう。
焦った僕は無我夢中で、ナルメアさんの額を舐めていた。前髪を舌で除けながら、さっき歯噛みして溜まった唾液をべっとりと塗りたくる。急な刺激に驚いたナルメアさんが、思わず股間から唇を離した。きゅぽんと間抜けな音がして、べとべとになった肉棒が小さく前後に揺れる。僕は気にせず額から髪の生え際まで上り、指でこすっていた左角の根元を舌先で押し込むように半周する。
ほんの僅か、角の周囲だけ肉が盛り上がっているのがわかった。だから少し敏感だったんだろう。
そのまま次は舌の裏側を押しつけて、角の上側を舐めていく。特に味もなく、ざらついた舌触りだ。曲がり角に辿り着いたら、横合いから角を唇でくわえる。舌腹で舐め回しながら頭を引き、角の先が口内に刺さらないよう気をつけつつ甘噛みした。硬く詰まった感じが立てた歯から響いてくる。
ひゃんっ、と可愛らしい声が聞こえたので頭を咄嗟に引くと、ナルメアさんが顔を真っ赤にしながら僕を見上げていた。
「も、もうグランちゃんっ、いきなりそんなことされたらびっくりしちゃうよ」
「……気持ち良くなかったですか?」
「え? えっと、そ、そういうわけじゃないけど……角って音とか空気の震えとかがよく伝わるところだから……」
「だから?」
「だから……その、よかった、かも。って、お世話してるのは私なのにぃ……」
恥ずかしそうに呟いてから恨めしげな表情で文句を言ってきたけど、当然止めるつもりはなかった。
にっこり笑い返して、また角に僕が口付けると、ナルメアさんも負けじと僕の股間に頭を落とす。普通に考えればどうやったって僕の方が不利なんだけど、なんていうか、彼女はこの手の攻められることにすごく弱い。ずっと一人でいて、僕らと一緒に旅をするようになってからも人の世話を焼くばっかりで……善意とか、好意とか、与えられるのに慣れてないんだと思う。
でも、最近は少しずつみんなと触れ合う中で、甘えることを覚えたりしてくれてるし――それはきっと、ナルメアさんの力になるはずだから。
誰かに頼ったり、力を借りたりしてもいいんだってこと。
一人じゃないんだって、実感することが。
お互いのより気持ちいいところを探るように奉仕し合う。今もぴりぴり股間には甘い痺れが走り続けて、気を抜けば爆発しそうな感覚がある。というか、もうやること為すこと全部で男心をくすぐってくるナルメアさん相手にここまで耐え抜いてるのを褒めてほしいくらいだ。
それでもまだ気を抜かないのは、男の意地ってものが残ってるからで。
さすがに二回射精してまた頑張るのは難しいかなーというのもあって。
若干気は進まないけど、そろそろ限界も近いので強引に行くことにした。
歯を立てながら舐めていた角から離れ、両手をナルメアさんの膨らんだ頬に当てる。たぶん思いっきりくわえ込んで強く吸うつもりだったんだろう。そんなことされたら間違いなく決壊する。阻止したのは正解だ。
どうして、と言いたげなナルメアさんに躊躇いなくキスをする。大きく目を見開いて、一瞬振り払おうとする気配を感じたけど、頬に添えた両手で動きは抑え込む。しゃぶってたんだし汚いよ、とか考えたのかもしれないけど、ナルメアさん自身は一切嫌な顔をせず頑張ってくれてたんだ。僕が嫌がる理由なんてどこにもない。
舌を入れる。舌が絡む。一番最初、こっちが服を脱がされる前の長い応酬で、僕達は鼻で息することを覚えた。すん、すん、と空気を鳴らしながら、どうしても残る苦しさを逃すように喉から溢れる吐息を相手に送り込む。精液と涎がぐちゃぐちゃに混ざって、苦さと青臭さを足したような味がする。当たり前だけどおいしくはない。むしろまずい。だけど、僕らはキスをし続けた。
「触っていいですか」
「うん。グランちゃんの好きにしていいよ」
名残惜しげに顔を離し、ナルメアさんがもぞもぞとうつ伏せから正面に座り直したのを見て尋ねる。
肯定を受けて、僕は白くねばついたもので汚れたナルメアさんの胸に右手のひらを押し当てる。柔らかい。あったかい。子供みたいな感想しか出てこない。指を開いてめり込ませても、到底掴みきれない大きさと重さ。こっちが力を抜けばすぐにでも指が弾かれるほどの張りもある。いつまでも揉んでいられそうだった。こんなので挟まれてぐにゅぐにゅされてよく耐えられたと自分でも感心する。
もっとも、本当にそれだけをするわけにもいかない。目的はもっと下だ。空いた左手のひらをお腹へ。微妙な冷たさにナルメアさんがぴくっとする。おへその近くを通り過ぎて腰回り、寝間着のズボンとそれに隠された下着に指をかけた。
片側から下ろそうとするも、生地の端が反対側の腰骨につっかかる。苦戦する僕に、ナルメアさんは自分の左手で少しだけ寝間着をずらし落とした。あとは比較的抵抗なく、するすると脱げていく。
横に足を崩してもらい、爪先から服を引っ張ってまずズボンが。下着はさらに時間がかかったけど、何とか脱がせることに成功した。
これで僕も、ナルメアさんも、揃って裸だ。
脱がす過程で丸まって、よくわからない布の塊みたいになった下着を放り投げた左手が、好奇心を抑えきれずにナルメアさんの股間へと伸びる。触れたそこはじっとりと湿っていて、何をするまでもなく準備万端なのが理解できた。
聞きかじりの話だと、ちゃんと濡れるまでは手であれこれする必要がある……らしいんだけど。
どうしよう。
ここに来て経験のなさが露呈してきた。
最終的に何をするのかはわかる。
ただ、ストレートに言うのもどうなのかとか、もしかしてまだ濡れ方が足りないんじゃないかとか、色々考えて躊躇ってしまう。
ぴたっと手を止めた僕の顔を覗いて、ナルメアさんは不意に小さく笑った。
グランちゃん、と耳元で名前を囁かれる。
そのくすぐったさと吹き込まれた息で、一瞬全身の力が抜けた。抜けて、あれ、と思った時にはもう、天井とナルメアさんの上半身しか見えなくなっていた。
また押し倒されたんだと気づくには、何秒かを要した。
展開が速くて若干ついていけてない。
「ごめんね。でも、今度はお姉さんに任せてほしいな」
「……というと?」
「グランちゃんはそのままじっとしてて」
嫌味なくそう言って、ナルメアさんが僕の肩に押しつけた両手を浮かせる。たぶん膝を立てたんだろう、視界から遠ざかる身体が少し持ち上がったかと思うと、緩やかにまた下がっていく。
一度は射精し、二回目はかなりいじられてしばらくお預け状態だった肉棒の先端に何かが触れた。それはあったかくぬめっていて、ナルメアさんが腰を落とすにつれ、みっちり詰まった柔らかい肉をぐっと押し広げるような抵抗が伝わってくる。
「な、ナルメアさんっ」
「待っててね。もう、ちょっと、だから」
「そうじゃなくて……! それじゃナルメアさんだけが辛いじゃないですかっ」
「大丈夫……ううん、違う。これがいいの。私が、私から、あなたにあげる、実感が欲しいの」
せめてナルメアさんの顔を見たくて、頭だけを上げる。
僕に跨るようにして左右に立てた両膝が、じりじりと横に開いていた。その分だけナルメアさんの腰は沈み、割れ目に肉棒が埋まっていく。夜明かりに照らされた横顔に、うっすらと汗が滲んでいる。
痛みを耐える呻き。鍛えられた太腿を震わせ、はっ、はっ、と細く鋭い息を吐きながら、ある地点から一気にナルメアさんが上半身を落とした。僕の背中側まで来る衝撃。ぷつんと薄いものを貫く時の確かな手応えが肉棒の先端にあった。
それが何か、わからないはずがない。
外気に晒されていた肉棒は、すっかりナルメアさんに飲み込まれていた。互いの繋がりにはもう隙間もなくて、命を懸けた戦いの時にも似た熱が宿っている。
薄暗い部屋でも微かに見える、結合部から垂れるねっとりした液体。
戦場でなくても流れる、最初で最後の血だ。
その赤さも。熱さも。痛みも。
全て、僕のためだけに捧げてくれた。
「ちゃんと、全部入ったよ」
「はい。初めてなのに、すごいですよ」
「……えへへ。ありがとう。こんなことで褒められるのも、うれしいね」
痛いですか。辛くないですか。無理しないでください。
そういう気遣いの言葉がいくつも喉まで出かかったけど、きっとナルメアさんはそんなものを望んでないんだと思った。
だから僕は、本当にすごいと感じること、心から信じる気持ちを正直に伝える。
目尻に滲んだ涙が、痛みから出てきたのか、それ以外の理由で溢れたのか、聞くつもりもなかった。
ただ、できれば。
前者だけでなければいいな、と思う。
「手、握ってくれる?」
「これでいいですか?」
「うん。こうしたら、お姉さんは無敵になれちゃう」
「僕もです」
「そっか。お揃いだね」
こっちに向かって伸ばされた両手に、自分の手のひらを重ねる。互いに指を折って、離れないように絡める。
「血、布団についちゃうかも」
「あ……ちょっと怪我しちゃって、って言えば誤魔化せるかな……」
「どっちにしても、汚しちゃったら悪いし、そしたら一緒に謝ろっか」
「ですね」
ナルメアさんが腰を浮かせる。ずるりと抜けかけた肉棒を、また逃がさないというように今度は落としてくわえ直す。
それだけで正気を失いかねない気持ち良さが来る。ナルメアさんの中は締まりが強く、けれど決して苦しいほどにきついわけでもない。腰や足回りを鍛えてる分、感覚的に調整できるのかもしれなかった。
僕はほとんどされるがままだけど、流され続けるつもりもない。腰の沈みに合わせてこっちからも突き上げる。互いの動きが噛み合った瞬間、骨にまで響く痺れが走って、ナルメアさんの背筋が強く伸びた。お腹の奥を削るような感覚。ひっ、と引きつるような声が聞こえた。弱いところだと本能的に悟った。
ギリギリのところで理性を手放さず、けれど人間というより、獣のように相手を貪る。たぶん僕らはその時、すごく根源的なものに突き動かされていた。ナルメアさんの甘い声、艶めかしい肌、濡れた瞳、上下前後に揺れて弾む胸、何度も何十度も突き上げてぱちゅんぱちゅんと水音を立てる結合部、快感に喘ぎながら僕をまっすぐ求める顔――何もかもが自分だけのもので、そこにはお互いの存在だけがあって、ナルメアさんも同じ気持ちだという妙な確信があって、二人でどこかに辿り着けるような、そんな感情で身体の隅から隅まで満たされていた。
僕はナルメアさんを、ナルメアさんは僕を呼んでいたはずなのに、まともな言葉にはならなかった。
なのにわかる。僕らは繋がって、足りないところを埋め合って、それが本当に嬉しかった。
長い時間そうしていた気がした。けれど一瞬のようにも思えた。もしかしたら人生の中で、最も凝縮された数分間だったのかもしれなかった。
気持ちはまだだと言っていても、身体が限界を訴えていた。下腹部から一回目よりも強く重い熱が上ってきている。本能に従うなら遠慮する必要はないけど、なけなしの理性でどうにか押し留める。
あっ、あっ、と繰り返すナルメアさんの声が次第に短くなっていく。頭の裏側がじんと痺れる。噛む力を強め、繋いだ手をぐっと引いた。浮きかかった腰が今までのリズムを崩す形で一気に沈む。ナルメアさんの背筋が一層伸びて、大きな胸が前に張り出た。お腹の中で肉棒に対する刺激が、締めつけるというより搾り尽くすような収縮に変わった。僕は最後の力で腰を引き、ずるりと肉棒をナルメアさんから引き抜く。
直後、凄まじい量の精液が先端から吐き出されて、ナルメアさんのお腹をびしゃびしゃと汚した。
精も根も一緒に抜けていったみたいに、僕はそのままベッドに倒れる。ナルメアさんもやっぱり限界だったらしく、くたりと僕に覆い被さってきた。
互いのお腹で吐き出した精液が潰れてこすれる。生温かさと固い粘りがあって微妙に気持ち悪い。でもしばらく動ける余裕はなくて、呼吸を整えるのが精一杯だった。
「……中に出しても、よかったのに」
僕に重なって、角が刺さらないよう心臓に耳を当てながらナルメアさんが言う。
「さすがにそれは……こども、できちゃうかもしれませんし」
「グランちゃんならいいよ?」
「妊娠したら、刀、振れなくなっちゃいますよ」
「それは困るけど……でも、グランちゃんとの子供は、やっぱり欲しいかも」
恥ずかしげに呟かれた返答に、僕は目を見開いた。
一瞬頭が真っ白になる。そして気づけば、ナルメアさんの鼻先が触れそうなほど近くまで来ていた。
冗談だよ、というようにはにかんで、唇を塞いでくる。
それに応えながら思う。
強くなることを、彼女が諦める日はないだろう。
だから僕は――僕達は、できる限りナルメアさんに寄り添いたい。
ひたむきで、不器用で、誰より自分に自信がないこの人の生き方を認めてあげられるように。
そしていつかは、彼女の隣に、しっかり立てるように。
■肆 俄然として夢から覚むれど
朝の目覚めは、少し気だるかった。
昨日の戦いでいくらか血を失ったからだろう。ルリアちゃんの治癒も、一度流した血までは戻せない。ご飯をきちんと食べれば回復するものだけど、さすがに半日程度だと本調子とまではいかないみたいだった。
起き上がるとお腹の下辺りに微妙な違和感があった。違和感というか、奥の方までをぐっと押し広げられたような、普段使わない筋肉を無理に使ったような。その理由が何となくわかって、じんわり顔に熱が上ってくる。
嬉しい気持ちが胸の中に今更ぶわーっと溢れて、そのままベッドに倒れ込みそうになる。とはいえそんなことしてたら朝の鍛錬もままならないことになりそうだから、ちょっとだけ深呼吸。感情を制御し、寝起きの頭を切り替えた。
身嗜みを整え、寝間着からいつもの服に着替えてブーツも履き、立てかけた刀を取って部屋を出る。廊下を歩きながら、そういえば昨夜、後処理をし終えて自分の部屋に戻る時、グランちゃんの部屋の前がちょっと湿っていたことを思い出した。各室には水差しが置いてあって、なくなったら一階で補充できるようになってたから、たぶんルリアちゃんかビィちゃんがこぼしちゃったんだろう。今はすっかり乾いてて、特に建物の水漏れなんかを心配する必要もなさそうだった。
階段を下り、朝食の準備を始めていた女将さんに、少し外へ出る旨を伝える。
「あら。先ほどお連れの二人……と、あの羽根トカゲ君も出ていったよ」
「どこに行くって言ってましたか?」
「昨日の朝と同じ場所ですって。お客さんに伝えるように言ってたね」
「なるほど。ありがとうございます。朝ご飯ができる頃には戻ります」
「遅くなるようならこっちで声かけに行くから気にしなくていいよ。場所はわかるしね」
女将さんの厚意に感謝して宿を後にする。
村から少し離れた、森の近くにある開けた空間――昨日真剣稽古をした場所には、先ほど聞いた通り、既にグランちゃんとルリアちゃん、ビィちゃんがいた。
剣を片手で握ったグランちゃんが、正面に構えて淡々と素振りをしている。頭の僅か後ろまで刃先を振り上げ、膝下まで一気に振り下ろす。鋭く、よくまとまった動き。振った剣は決して地面に当たらず、ある一点でぴたりと止まってる。立てた刃がぶれないのも、風を切る音が最小限なのも、制動が上手くできてる証拠だ。
グランちゃんの剣閃は、日に日に力強く、綺麗になっている。
それは毎日欠かさない鍛錬の積み重ねであるはずだし、よくないところ、雑な動きをちゃんと修正していっているからだとも思う。
父と違って人に教えるのはあまり得意じゃない。そういう自覚くらいは一応持っているけど、着実に上達していく姿を見るのは嬉しいし楽しい。何だかとても不思議な気持ちだった。
「グランちゃん」
短く呼ぶと、素振りを止めた彼が私の方を向く。
ナルメアさん。その口から聞こえる声で一瞬昨夜の光景が蘇り、跳ね上がった鼓動の様子が表情に出ないよう努めながら「いいよ、続けて」と言葉を返す。
しばらく静かな鍛錬を、ルリアちゃんビィちゃんと一緒に見守った。
やがて額に浮かんだ汗を袖で拭い、剣を鞘に仕舞ってグランちゃんがこっちに歩き寄る。
「おはよう。早いね」
「おはようございます。目がいつもより早く覚めちゃって、なんか、居ても立ってもいられなかったので」
「そっか」
「ナルメアさんは……って、聞くまでもなかったですね」
「うん。私も鍛錬。一緒にする?」
汗の感じからして、おそらくまだ始めてさほど時間は経ってない。
それなら横についた方が色々お世話もできるし、と思ったんだけど、何故かグランちゃんは首を横に振った。
「えっ、もしかして一緒は嫌だった……?」
「あ、違います。そうじゃないです。嫌とかじゃなくて……その」
「どうしたの? もしかして夜の――」
言いかけた口をものすごい勢いで押さえられた。
「おいグラン、なんでいきなり蝶の姉ちゃんの口塞いでんだよ」
「いやいや、何でもない。何でもないから。ちょっと昨日の夜、ナルメアさんと話す機会があっただけだから」
「そうなんですか?」
「ですよね?」
よくわからないけど必死そうだから、こくこくと頷く。
ほっとしたように息を吐いて、グランちゃんの手が口から離れた。
それからキリっとした顔になって、
「ナルメアさん。もう一度、真剣稽古をお願いできますか?」
「いいよ」
どんなことであれ、グランちゃんのお願いを私が断るわけがない。
ルールも昨日と同じ。真剣だから寸止め、相手に怪我はさせない、参りましたと言わせれば勝ち。私だけはその場から一歩より大きく動いたら負け。ほとんどはどっちかというと私が気をつけるべきことだけど、念のために意識合わせだけして、互いにおおよそ十歩分の距離を取る。
「ったく、グラン、マジで怪我だけはすんじゃねーぞぉ!」
「わかってるって。ビィ、合図お願い」
「二人とも頑張ってくださーい!」
ルリアちゃんの可愛らしい応援を聞いて、ちょっと頬が緩む。もちろんそのまま気を抜くわけにもいかない。構える。
足裏は強く地を踏み、左手は鞘、右手を柄に沿える。細く息を吐き、戦意を研ぎ澄ます。
正面、グランちゃんが剣先を私に向けながら、姿勢を低くした。こちらの様子を窺う時間も程々に、行きます、と今日は声に出さず唇だけが動いたのを視界の奥で捉える。ざ、と土草を蹴る音。静から動へ、引き絞られた矢が放たれるように真っ直ぐ飛んでくる。
普通に考えれば、愚直に過ぎる攻めだ。
間合いを測り、私の一手が届く範囲を見極める。鞘走る刀は寸分違わず、迫る胴体を横から両断する軌道を描く。
――予想通り迫ってきていたならば。
グランちゃんが急制動をかけた。峰が彼の腹より僅かに手前で空振る。一刀を透かされた。私はすぐに刀を戻し、摺り足で半歩分だけ詰めて再び居合を放つ。ほとんど前傾姿勢での疾走だったから、急に止まれば足に極端な負担がかかるはずだ。不意は打たれたけど、まだ一方的な間合いであることに変わりはない。
それでも二刀目は難なく防がれる。ぎぃん、と右手に伝わる痺れ。剣を寝かせて逸らすんじゃなく、敢えて立てて受けてきた。
元々刀というのは、武器同士の衝突をあまり考慮していない。刀身は薄く長く、鋼も硬さより粘り強さに主眼が置かれているものだから、握る柄まで衝撃が響きやすい。
属性力で強化すれば、多少は刀身を保護できる。けれど、手のひらに来る痺れまでは消せない。
三刀目、斜め下からの掬い上げ。これも弾かれる。さらに数発、近づけさせないように放った居合もきっちり全て正面から止められた。
そっか。
全部、受けきるつもりなんだね。
昨日のグランちゃんは、明らかに攻め気が強かった。相手の手を躱して、そうして生まれた隙に一撃を見舞う。基本の戦い方としては間違ってないけど、気が逸った分、それが私の誘いだと気づくのが遅かった。
だからだろうか。
あるいは――ダムシダとの戦いを、目の当たりにしたからか。
相手の手を耐えるには、あらゆる攻めに対応しなきゃいけない。そのために必要なことが何か、理解できてるかを確かめたい。
だから私は加速した。手数を倍に。余分な思考、余分な動作、戦いに不要なものを排した先にそれはある。呼吸さえも時間の無駄だと惜しみ、自分の全てを刀に乗せて叩き込む。
鋼を弾く音色が多重に聞こえ始めた。心臓の鼓動より速く、それでもまだ足りないとさらに速度を上げる。手元が霞むほど連続で居合を打ちながら、私はひたすらに受け続ける彼を見る。
とても綺麗で、澄んだ目。
今は私と、私の刀だけが映ってる。
――ダムシダとの戦いを、おそらく彼はずっと見ていた。一挙一動、交わされた駆け引き、私達の何もかもを僅かたりとも逃すまいというように。
そして今度は、吸収したものを自分自身の動きに反映しようとしている。
きっと、グランちゃんはこの先もっと強くなる。
もしかしたら私より――ひょっとしたら、あの人より。
何故かそう思ってしまったことが、嫌じゃなかった。
どうしてかはわからない。そして今は、わからなくてもいい。
グランちゃんと刃を交わす、この瞬間が大事だから。
何十回放ったか数えきれないほどの攻め手は、完全に凌がれた。無呼吸の居合は限度がある。右手に来る痺れも重なれば厳しく、少し握力が落ちてきていた。隙を見て溜まった息を吐く。その一瞬、刀を抜く手が止まる。
彼がついに前へ踏み込んだ。一歩半。一呼吸の間に許したのはそこまでだ。もう充分グランちゃんの剣も届く。
それでもまだ、私の方が速い。
左斜め上から斬り下ろす一閃。姿勢を低くしながら、剣で上に逸らされる……ことを予測して、刀身を解く。胡蝶刃――引き戻し再構築した刀で、右斜め下から膝を刈るような逆斬り上げ。蝶の集まり方で軌道は読まれるけど、跳んで躱すには態勢が悪く、剣で受けるにもまともな差し込みじゃ間に合わない。
どうする、と心の中で問いかける。
直後、私の前で、彼の両足が後ろに跳ねたのが見えた。
刀の奔る先に、グランちゃんが剣を強く突き立てた。土と草を削り、剣先が地面に埋まる。既に振った刀は止められなかった。斜めに突き立てられた剣の腹から、刃に沿って刀がうわ滑るように当たる。グランちゃんの武器、プロトタイプと呼ばれる剣は、刀身の中程に返しめいた溝がある。その溝に刀が噛まれ、これまでとは比べ物にならない衝撃が右手を襲った。柄から手は離さない。けれど、しっかり振れるほどの握力はもう残っていない。
地面に刺した剣の柄尻に手のひらを当て、グランちゃんが腕の力だけで逆さまに飛び上がる。私の刀が剣を左側に弾き、遅れて見上げた視界の中心で宙返りを成功させた彼が、私の肩を掴むようにして押し倒した。
刀が手から落ちる。
朝陽を背に、グランちゃんが私を見下ろしている。
「……参りました」
そう言った自分は、どんな顔になっていただろう。
悔しいような、嬉しいような、愛おしいような――たぶん、ちょっとだらしない表情だったと思う。
気が抜けたのかへなりと倒れかかってきたグランちゃんを抱き留めて、その背中をよしよしと撫でさする。
きっちり正面から不意打たれた。しかも思い返せば、見事に昨日の意趣返しだ。
「すげぇなグラン、やったじゃねーか! 蝶の姉ちゃんに勝ちやがった!」
「あはは……何とかなったよ」
「だ、大丈夫ですか!?」
「うん。平気。グランちゃんも、頑張って力が入らなくなっちゃっただけだよね」
「すみません。なんか最後に情けないですね」
「いいよ。起き上がれるようになるまで、こうしててあげる」
「あっ、じゃあ私、グランの手を握りますっ」
「ルリア、それ何の意味があるんだ?」
「え? えっと……こうしたらグランが落ち着くかなって」
健気なルリアちゃんに微笑ましさを感じながら、少しの間だけ目を閉じる。
あたたかくて、私より大きな身体。
いつか、私はザンバと戦うだろう。あの人に認めてほしい、それだけを考えて生きてきた。
けれど今は、こうも思う。
その時はあなたが、隣にいてくれたらいいと。
そうしたら私は、世界の誰より強くなれるはずだから。