心地のいい朝日だった。全身に陽光を浴びながら、桂花は胸を反らせてのびをする。
足取りは軽い。毎日の出仕は、自分にとっての生き甲斐だと言ってよかった。
乱世に君臨する覇王にして、最愛の人。どれだけ言葉で飾ろうとも、思いを語り尽くせることはないのではないか。風が言っていたように、曹操孟徳という女性は大地を照らす日輪そのものなのである。かけがえのない存在。こうして仕えるべき主君となったのは、きっと自分に与えられた天命に違いなかった。
曹操、華琳のためならば、いくらでも献策が湧いてくる。桂花の抱えた竹簡。昨夜、ふと思いついたことが頭の中をめぐり続け、かたちにするまで寝付けないくらいだった。
自分の頑張りを、華琳は褒めてくれるのだろうか。うるわしい指先。頬を撫でられるところを想像するだけで、身体の芯が熱くなってしまう。もしくは、冷静にあしらわれるだけで、求めているような言葉は出てこないのかもしれない。だが、華琳の素っ気ない態度こそが、桂花の内に潜むなにかを駆り立てる。
「はあ、華琳さまぁ……」
通行人の怪訝な視線。いけないと思っていても、華琳のことを考えるだけで心が躍る。それを咎められるいわれなど、どこにあるというのか。
魏王の威光をあきらかにする、重厚な造りの門をくぐる。もうすぐ、華琳に謁見することができるのだ。宮中で駆け出しそうになるのを我慢しつつ、桂花は道を急いでいた。
謁見の間から、話し声が聴こえていた。いつも付きまとっている夏侯の二人が、華琳と楽しげに話している場面が想起される。今日の華琳は、どのような召し物を身に着けているのだろうか。自分の格好には、どこか粗相はないだろうか。そんなことを考えながら、桂花は謁見の間に踏み込んでいく。
「お待たせして申し訳ありません、華琳様。この荀文若、本日も貴方様のため身命を賭し……」
そこまで言って、桂花は唖然として口を開いた。
求めていた人の姿が、そこにない。彩られた玉座の中心。そこに座っているのが、よりによってあの男なのである。叫びそうになるのをこらえながら、桂花はそばに控えている秋蘭に視線を向けた。こんな時、春蘭では話になるはずがない。それにしても、見ているだけで目眩がしてきそうな光景だった。
「秋蘭。これは、一体なんの冗談なのかしら? もしかして、その男が華琳様に対して謀反でも企てたの? だったら、いい機会ね。この私が、直々に処罰してやりましょうか」
「ふっ。笑えない冗談はやめておくのだな、桂花よ。それに、一刀がそんな大それたことを仕出かすはずがあるまい。それは、華琳様がもっともよく存じられていることだ」
「ちっ……。だったら、どうしてそいつが華琳様の御座所を堂々と汚しているのよ」
「なんだ、昨日通達されたことをもう忘れてしまったのか? 本日、華琳様は休息をとられることとなっている。それで、試しに代理を置いてみるという話になっていたではないか」
「うっ……。そ、そういえばそんなことを聞いた気がしなくもないわね……」
「うむ。どこにでも顔が利くという意味では、一刀ほどの適材はいるまい。それに、な」
玉座の中で縮こまったままの男。昨日の自分は、この事実を忘れたくて、夜更けから仕事に打ち込んでいたのではないか。寝不足なせいか、頭の端がきりきりと痛む。秋蘭のからかうような視線が、ちょっと腹立たしかった。
「それで、殿。桂花も参ったことですし、そろそろ朝議を開始しようと思うのですが」
「はあ? そいつが、殿ですって? 春蘭、日頃から馬鹿だとは思っていたけど、あんたついにまともな認識すらできなくなったのね」
「なんだと!? おまえこそ、態度を改めないか、桂花。ご休息に入られる前、華琳様はこうおっしゃっていたのだぞ。一刀のことを自分だと思い、誠意を持って仕えよとな」
「そ、そういえばそんなことも……。華琳さまぁ、私はもうこれ以上耐えられそうにありません。一日だけとはいえ、こんなどこの馬の骨とも知れない男を主君と仰ぐくらいなら、いっそのこと……」
「くくっ……。一刀以上に名の知れた牡馬など、魏国のどこにもおりはすまい。っと、これは殿に対する批判などではありませぬゆえ、平にご容赦を」
袖で口もとを隠しながら、秋蘭は愉しげに声を洩らしている。
受け入れがたい事実だが、受け入れる以外に道がないのもまた事実だった。一刀様、と桂花は心の中だけで呼んでみる。一瞬で、肌という肌に粟が生じた。それだけはありえない。殿というのも、春蘭たちに合わせるようでなにか嫌だった。ならば、自分はどうするべきなのか。流れ行く時の中、桂花は考えに考えた。
「ぐっ……。はっ、はあっ、はあっ……。んっ……、ごっ、ごしゅ……。ごしゅじん、さま……」
言った途端、手足の先にまで、しびれのようなものが走り抜けていく。
桂花の心の中にそびえ立っていた、うず高い壁。そこに、確かな亀裂が生じた瞬間だった。