「うげっ」
「その反応は人としてどうなのよ」
チラシに挟まっていた特売情報に釣られてやって来た、日頃利用しないスーパーで知った顔に遭遇した。時に、この知った顔という表現は俺にとってかなり厄介なものであるように思える。なにせ、別人のくせに顔が同じという面倒な連中と付き合いを持ってしまっているものだから。
「ちょうどいいから手を貸しなさいよ。この卵、おひとり様一パックまでらしいから」
「……ったく」
差し出された10個入り1セットの生卵を渋々受け取る。我が家ほどではないが、彼女たちの家計も贅沢が許されないレベルのものなのは知っているので、ここで無碍に断るのは良心が痛む。本当は、もっと他に痛めるべきポイントがあるのかもしれないが。
元から自分が持っていた買い物カゴにそのパックを詰め込み、ゆっくりフェードアウトしようとしたところで彼女に腕を掴まれる。二乃は、こういう時に簡単には逃がしてはくれない奴だ。
「あんたにどっか行かれたら意味ないじゃない」
「そこはほら、また後日的な」
「待ってる間に消費期限が来ちゃうわよ」
たいてい二週間くらいの猶予はあるのだし、それに間に合わないことはないだろうと思った。しかし、その言葉は胸の奥底にしまいこむ。揚げ足を取るのはいいが、そうすると自分の揚げ足が取られる確率まで上がってしまうからだ。失言や失態と無縁ではない生き方をしている自覚があるのも相まって、ここで余計なことをするのは悪手だという直感が走った。
諦めて、二乃の横につく。が、無抵抗の意思表示をしているにも関わらず、彼女は俺の腕を返してくれなかった。
「逃げないっての」
「分かってるわよ」
「それが分かるなら俺の言いたいことも察しろ」
言葉を濁して自分の意思を他人に推し量ってもらうというのは酷い甘えだし、傲慢であるとも思う。だが、その理由を口に出すのも出すので憚られるという極大のジレンマが、俺の動きを鈍らせた。公衆の面前で女子と引っ付くのが恥ずかしいだなんて、堂々と言えることではない。
「これ?」
二乃は、解放するどころか自分の腕を俺に絡めてくる。いたずらっぽい笑みは、『意図を理解した上でやっている』というおちょくりか。
「もちろんわざとやってるんだけど、なんでだと思う?」
「なぜクイズ」
「正解は、見せつけたいから、でした」
「答えさせてもくれないのか……」
思ったことをそのまま伝えてくれるのは、裏を疑わなくていいという点ではものすごく楽だ。楽だ……が。それにしたって、時と状況を選んでもらわないことには、こちらが対応策を用意できなくなってしまう。端的に言えば、すごく困る。
「しょうがないでしょ。こうでもしないとあんた、私のこと意識もしないんだろうし」
「俺はそこまで鈍い奴だと思われてんのか」
「思ってるからやってるのよ」
ごもっとも。だからといって受け流せるかといえば、それもまた別問題だが。
「誰かさんが直々に、『卒業までは考えさせろ~』なんて言うもんだから、私はそれまでの得点稼ぎに必死なの」
「その発言が俺の心象を悪くするとは思わなかったのか?」
「薬まで使って色々やった人間に対する感情が、たかだか一つや二つの言葉で変わるわけもないでしょ」
それもまたごもっとも。酷い正当化だとは思うけれど。
しかし、彼女の言う点数稼ぎとやらは、かなり体を張る行為らしい。その証拠として、毅然と振舞おうとしているのはなんとなく分かるけれど、二乃の瞳は妙に揺れている。
「恥ずかしいならやらなきゃいいものを」
「うるさいわね。慣れてないだけよ」
「お前、これに慣れるつもりなのか……?」
「ゆくゆくはね」
ゆくゆく、というのがどれくらい先を指しているかは不明だった。卒業までか、あるいはもっと未来までか。万一後者だったとして、こいつはいつまで俺に執着する気なのだろう。
「式ではどうせこのスタイルなんだし」
「俺はお前が怖いよ」
式と言うのはたぶん、冠婚葬祭の頭から二つ目のアレだ。確かにバージンロードを歩く新郎新婦は腕組みをしているイメージがあるが、そこまで見据えているというのは流石に恐ろしい。なぜこの段階から俺と添い遂げる覚悟を固めているんだこの女子高生は。
「もう否定するのも疲れたから聞くんだけどさ、お前の人生設計ってどうなってんの?」
「子供は二人以上欲しいわね」
「家族計画はまた今度聞くから今は控えろ。俺が聞きたいのは、何歳で何をして~みたいなのだ」
とんでもない爆弾発言が飛び出たが、そこまで驚きもしなかった。既にそれを目的とした行為を重ねてしまったからというのが主要因だと思う。俺は二乃が怖いが、それ以上に自分も怖い。
「取りあえずはまあ、高校卒業よね」
「そっちの見通しはだいぶ立って来たな」
今は屋根の下にいるから感じないが、外に出れば既に秋の匂いが漂う時期だ。途中途中のテストなんかも順当に突破してきていて、よっぽどのことでもない限り彼女たちは当初の目標通りに高校修了の有資格者となる。
「そうしたら、料理の専門学校にでも行こうかしら」
「得意分野だもんな」
自分の店を持つみたいな話もあった。なら、そこに至るまでに必要とされるものをかき集める必要があるだろう。俺が思いつく範囲では、調理師免許とかだろうか。
「で、そこも卒業したら就職よね」
「おう」
当たり前の流れだ。ここまでは俺でも予想できる。
「その場所で二年働いて」
「なるほど」
起業のための準備金を貯めると。プランとしては悪くない。ただ、二年でどこまで貯金できるかがネックか。そこは彼女の頑張りにも依るだろうが、それにしたって昨今の労働状況では、二十代前半からがっぽり稼ぐのは厳しい。だから銀行にでも頼るのかと思って、次の言葉を待つと。
「そして、ちょうど大学卒業のあんたと入籍ね」
「おい」
「しばらくは家事育児に追われるだろうから専業主婦で」
「おい」
「子供から手が離せるようになったら、そこでようやく夢の実現に向けて頑張ろうかしら」
「おい」
「何よ?」
「それは俺の台詞なんだけど」
「どこかおかしかった?」
「全体的にな」
具体的にどこが、と指定するなら、大学卒業~のくだりからだろうか。何と言うか、自分の人生設計に他人を絡めすぎていやしないか、これ?
「あんたとくっつくのは確定事項だもの」
「おかしいな認めた記憶がない」
「認めさせるわ、近いうちにね」
背中に鳥肌がぶわぁっと広がった。嫌な予感は、今日も休まず俺の後方数センチの至近距離に詰めてきている。
この強引さが二乃らしさなのだろうとは思うが、やっぱりしばらくの間はこいつから供与される飲食物に対して一定以上の警戒心を持っていた方が良さそうな気がした。それから、ハンコの類は絶対に隠していようとも。
「あれだけ色々したんだもん、責任取ってもらわなくちゃ」
「ピンポイントで俺の弱点刺すんじゃねえよ……」
そこを指摘されたら何も言い返せないのだ。だから、そればっかりは勘弁してもらわないといけない。それからその理論で行くと、俺にはあと二人ほど責任を回収しなきゃならない相手がいる。
先のことを考えてため息を吐くと、二乃との距離がいっそう縮まった。いつだかにたっぷり堪能した柔らかさが一瞬だけ呼吸を乱すが、しっかり落ち着いて「あんまりくっつくな」と冷静な返答を選択する。
「卵が割れるだろ」
「必要経費よ」
「まだ未購入だってのに……」
それでも離れてはくれないらしくて、なおも腕をホールドされたまま、生鮮売り場やら野菜売り場やらを巡る。忘れかけていたがこれはそもそも我が家のための買い物なので、自分の目的物も手に取っていかなければならない。
夕時のスーパーは仕事帰りのサラリーマンやら材料を買い込みに来た主婦やらでごった返していて、そんな中で女子とべたべたくっつきながら歩くのはなかなかにキツかった。主に浴びせられる視線が。
「そういえばさ」
「なんだよ?」
「私さっき、あんたが大学行く前提で話しちゃったけど、そういうのって考えてるの?」
「問題のある仮定はそっちの方じゃないだろ」
「いや、これは割と真面目な話」
「……どうだろうな」
学びを深めるという点では、間違いなく大学進学は価値のある行為だ。ただ問題があるとしたら、俺は別に好きで勉強をやっているわけではないということ。いつか獲得した知識や知恵が役立つようにと思って励んではいるが、そこに重きを置き過ぎたせいで将来像はまるで固まっていないように思う。過程と結果が存在する世界で、過程に力を注ぎ過ぎてしまったのかもしれない。
だから、迷いがある。
「知ってるとは思うが、ウチに俺を道楽で進学させられるほどの余裕はない」
「まあ、なんとなくはね」
借金は伏せてあるが、それにしたって切迫した懐事情については既にバレバレだ。そんな中、なんとなくで四年間も家の負担にはなれない。進学するなら、明確な理由が要る。
それが今の俺にあるかと問われれば、答えに窮する。『いつか役に立つように』は明確な理由足りえない。
「だから、ギリギリまで考える。何をしたいかとか、何が出来るかとか」
「人の進路ばっかり気にして自分の将来設計がすっからかんなところとか、すごいあんたらしいわね」
「うっせ」
奨学金に頼ればどうにかならないこともない。だけど、それだって一応は借金の部類だし。
「ま、最悪路頭に迷った時は私が養ってあげるから安心して」
「迷わねえからお前も安心しろ」
こういう場面での軽口は、素直にありがたかった。今までに色々あったが、そこで培われた信頼の一端を見ることが出来たように思えるから。邂逅から一年、忙しない毎日を駆け抜けてきたが、走った後にはちゃんと道が出来ている。この事実が救いになるかどうかは、今はまだそこまで分からないけれど。
「あんた向きの仕事、私は一つ思いつくけどね」
「なんだ?」
「秘密。こういうのって、自分で気づくのが大切なんじゃない?」
「そういうもんか?」
「あんただって、最初から答えは教えないでしょ」
「そういうもんか……」
動機づけの根っこはあくまで自分であるべき、か。他人の言葉を原動力に走るのは美しいが、それ以上に脆い。理由が自分の中にないわけだから、迷った時に立ち返る場所が消え去るのだ。やっぱり、最終的な責任は自分自身で負えるように立ち回る方が理性的。誰かのせいにして、己の惨めさに潰されないようにするためにも。
「前途多難だ……」
「頑張りなさいよ。頼りにしてるんだから」
そうだった。俺の双肩には、五姉妹の未来ものしかかっている。ここでダウンするのはあまりに早すぎるだろう。
もうひと踏ん張り、だ。
「手間賃」
引き止められてイートインスペースに座らされると、二乃にホットココアを手渡された。特売の卵で得た利益が消し飛んでいる気がしたが、もらえるものはもらっておくことにする。……だけど、その前に。
「ほれ、毒見」
プルトップを持ち上げて、最初の一口目を彼女に譲った。気が付いたらベッドの上……なんて事態はもう御免だ。やり過ぎな感もあるが、これくらい警戒しているのだというスタンスを示すことで大きな牽制になる。俺としては、むしろそれがメインの狙いだった。
「ん」
何事もなく二乃が数口飲み干して、ちょっとだけ容積が減った缶をこちらに返してくる。当たり前だが、何かが盛られてはいなかったようだ。
「もちろん薬は入ってないわ」
「……似たようなことしたなあ」
「……?」
「こっちの話だ」
見たところ、鼻水が入っていることもないだろう。だからそのままごくごくと、貴重な甘味を摂取していく。
そういえばこれは、世間で言うところの間接なんちゃらにあたるのだろうか。直接どころか舌の感触まで知っている身なので、特に気にすることもなかったが。
それは彼女も同じようなものだろうなと思って、顔をちらと覗くと。
「……そういえば間接キスは初めてよね」
「新たに倒錯した性癖に目覚めるな」
「喉渇いたからもう一口ちょうだい」
これはやべーぞと、一気に残りを飲み干した。炭酸ジュースでなくて良かったと一安心だ。
「けち」
「倹約家と呼べ」
近くにあったゴミ箱に、空き缶を投げ捨てる。もし回収されたら何に使われるか分からないので、出来るだけ奥の方を狙って。
「……まあいいわ。付き合わせて悪かったわね」
「気にすんな」
足元に置いたレジ袋を持って、自動ドアの方に足を向ける。当然彼女もそうするものだとばかり思っていたが。
「…………っ」
気の抜けた一瞬の隙に、もう奪うだけの価値が残っているのかどうかすら分からないものを、目にも止まらぬ速さで奪取された。あまりに手際が良すぎたせいで、反応らしい反応も、抵抗らしい抵抗も出来なかった。
「一日一回、今日はまだしてなかったでしょ……?」
「じゃ」と短く言って、二乃はすたこらと店外に出ていった。残された俺はと言えば、にわかに色めき立った周囲の視線に晒されながら、ただ一人で項垂れるだけ。
「…………くそ」
変なルール作るんじゃなかった。
呟きは喧噪に溶けてしまって、きっと誰の耳にも届いていない。