季節は巡る。時間は過ぎる。途中でどれだけぐだぐだとやっていても、それだけは間違いのないことに思える。悩みも葛藤も、苛まれている期間にはそれが永遠に続くような気がしてならないが、後から振り返ってみれば、それがなんてことない出来事だったなんて事態はザラだ。
なら、俺が今胸中に抱えているはっきりとはしない靄のかかった感情も、数年後、数十年後から見れば取るに足らない些末事に映るのだろうか。
「上杉さん?」
「…………悪い。考えごとしてた」
一応は仕事中なのに、意識を散らしてしまっていた。目先に色々な障害があるせいで、ここ最近は何事においてもイマイチ集中できていない気がする。
「体調悪いんですか?」
「そうじゃない」
手を振って否定。寝不足など今に始まったことではないし、その他体に異常が出ているわけでもない。ただ、進路のことだとか、保留しまくっている告白のことだとか、簡単には片付いてくれそうにもない問題たちに追い込まれているだけだ。
「でも、最近元気がないように見えます」
「お前と比べればな」
「前の上杉さんと比べてもです」
左右の手を上下させて、比較を表そうとする四葉。表出するほど参っているつもりではなかったが、知らず苦しんでいる部分もあったようだ。それを指摘されたら、否定できないかもしれない。
「私、そんなに危ないですか?」
「それも違う。むしろ良くやってる方だ」
採点し終えたばかりの答案を彼女に返す。〇と×の比率は目算で半々程度。進学意思があるなら相当マズいが、目標を卒業だけに据えるなら余裕の合格点だ。当初のスカスカな解答用紙を思い出せば、これだけ大きな成長も他にはないだろう。
だから、俺が妙に気の抜けた仕事をしてしまっているのは、環境が寄与するところもあるのかもしれない。
「ノルマは全員クリアしていて、しかもバイトのブッキングで今日居るのはお前だけ。そのせいで変に落ち着いてんのかもな」
姉三人組の前では色々な意味で気が抜けないので、その分の揺り戻しを四葉と五月にぶつけている気がする。こちらの勝手な事情に巻き込んで申し訳ないが、緩急をつけないと俺が早々に死んでしまうから。
姉妹間で扱いに差をつけているつもりはないが、どうしても意識の外で、妹二人に甘えている感じはあった。あからさまな恋愛感情から逃げるためにはそうする外になかったし。……いつか必ず向き合う問題とは分かっていても、相応の準備期間は要るのだ。向こうもそれはなんとなく承知してくれているみたいで、一時期の烈火のごときアプローチは鳴りを潜めてくれたけれど。
「まあ、俺の問題だからお前は気にすんな。このペースを維持できれば、卒業はほぼ確実だ」
俺の懸念を他所に、勉学には全員が真摯に取り組んでくれている。だからもう、俺の役割は教師ではなくモチベーターと言った方が近い。誰かが息切れしないように、少し後ろで見守ってやるだけでいい。
正直、この時点で任の大部分は完遂したと言っても良かった。後は彼女たちが、自分の力で勝手に欲しいものをつかみ取ってくれる。
「あの、上杉さん……」
「ん?」
「それなら一つ、おねだりしてもいいですか……?」
「……ん」
特に何を考えることもなく首肯。他人のことばかり考えて行動する四葉が、明確に自分の願望を遂げようとするその光景に、少し興味が湧いたというのもあった。
「その、ですね――」
告げられる言葉を、そのままに受け入れる。
それはやっぱり、彼女にしてはかなり意外なお願いで――
「秋晴れの気持ちいい空です!」
両腕を目いっぱい広げて、四葉が息を大きく吸い込んだ。言葉の通り空の色は澄んでいて、程よい陽気に包まれている。
休日の昼間にこうして出歩いた経験が少ないもので、感じる光や匂いがどうにも新鮮に思えた。別に、大気の組成が他の日から変わっているわけもないというのに。
「なあ四葉」
「なんです上杉さん?」
「どうして急に散歩?」
「まあまあ、たまにはこういうのもいいじゃないですか」
四葉が数歩前を先行し、俺がそれに続く。本来ならば勉強に充てている時間をこんな風に使う罪悪感は消しきれなかったが、あのまま続けたところで、という思いもあった。なら、今日は四葉に付き従ってみるのもアリかもしれない。
「ずっと家の中にいてばかりじゃ、体にカビが生えちゃいますし」
「ちなみにカビ菌は誰の体にでも常在してるぞ」
「えっ」
凍り付いた四葉を追い越す。秋色に染まった世界は全てがゆっくり動いているようで、自然と自分の中にも余裕が生まれてくるような気がした。思えば最近、小休止すら挟むことなく駆け抜け続けていたかもしれない。そんな溺れかけの頭で何を考えようと、画期的なアイデアは生まれないだろう。
だから、今日はこうやって一息つく機会を与えてくれた四葉に感謝すべきなのかもしれない。サボりの正当化と言われればそれまでだけれども。
「水虫とかがそれだな。まあ、若いうちにはそこまで気にすることでもない」
「不吉なこと言わないでくださいよぅ」
白癬菌がどーたらとか、カビと言えばペニシリンだとか、そこから話を広げる手段はいくつか自分の中に用意されていたが、要らない蘊蓄を垂れ流す場面でもないだろうと思って控えた。インテリジェンスな事柄からは、少しの間だけ距離を置こう。それが、今の俺に必要なことな気がする。
正しく気を抜こう。自分の体の中にあるガスだまりを少しでも小さくすれば、もう少しだけ、頑張れる気がするから。
「で、ここから何すんの?」
「色々考えてありますよ。行きたい場所、たくさんあるので」
「……まあ、ほどほどに付き合おう」
なんなら、このまましばらく歩き続けるだけでも良かった。だが四葉に案があるというのなら、それに乗っかるのもやぶさかではない。積極的休養というやつだ。
さっき追い越した四葉がまた俺の横に並ぶ。別に競争をしているわけじゃないのに俺の中の負けず嫌いが顔を出して、更に一歩前に踏み出そうとする。
しかし、それは四葉の手によって阻まれてしまった。
「もう」
「なんだよ」
「歩幅、気を付けないとダメですよ」
「……?」
「女の子と歩く時はちゃんと足並みそろえないと」
「そろえないとどうなる?」
「愛想をつかされます」
「じゃあ俺は今、お前からの愛想とかいうものを全部失ったってわけか?」
「はい。……ですが」
「ですが、なんだ?」
「これまでの貯金分があるので、ギリギリ一回コンティニューですね」
微笑む四葉。困惑する俺。どこにそんな蓄えがあったかは謎だが、継続してくれるのならまあ、悪くはないか。
こんなところで信頼関係を砕く意味は感じられない。自分からアクティブに失っていこうと思えるものでもない。
彼女がゆっくり歩けと言うのなら、それに合わせるくらいは、良いとしよう。
「それと、上杉さん?」
「ん?」
「女の子と二人っきりの時に『落ち着く』は禁句ですよ」
「どうした急に」
「さっき家で言ってたじゃないですか。居るのはお前だけだから落ち着くって」
「まあ、確かにそんなこと言ったような、言ってないような……」
「それは良くないです」
「なぜ?」
「なんでもです。少なくとも私はちょっぴり傷つきました」
「落ち着いてないほうが良いのか?」
「それもちょっとだけ違いますけど……。でも、さっきのはアウトです。だから今日はもうツーアウトなんです」
「もう一回アウトになると?」
「本当に愛想をつかせます」
「うえぇ」
かねてから一番協力的だった四葉に背を向けられては、さしもの俺も心が折れてしまうかもしれない。それは好ましくないことだと、素直に思った。
「綱渡りみたいだ」
バランスを取りながら狭所を歩いている感じ。あまり俺の得意とするところではない。
「もちろん、得点を稼げばその限りではありませんよ」
「なんだ、ご機嫌取りでもすればいいのか」
「もう、上杉さんはすぐそういうこと言う」
「そういうこと言わなきゃいいの?」
「それもちょっと違いますね」
言って、四葉は俺の手を取って。
「ほら、こういうの、なんて言うんでしたっけ?」
「は?」
「休日、男女でお出かけするの、なんて言うんでしたっけ?」
「…………」
「去年も一回したじゃないですか」
「…………デートだな。デート」
「正解です!」
そのまま、腕を絡めとられる。ちょっと前にも二乃から同じことをされたが、彼女と四葉とでは筋肉のつき具合に違いがあるせいか、今はより強固に、腕を引っ張り込まれている感覚があった。
「これで1ポイントですね」
「ちなみにそのポイント、貯めるとどうなるんだ?」
「428ポイントまで貯めるとギョウザ無料券と引き換えできます」
「ラーメン屋かよ」
道のりの長さに対して景品が異様にしょぼい。途中でカウントが忘れ去られそうだという懸念もつきまとう。なんにせよ、カウンターがストップすることはなさそうだ。少なくとも、俺の手によっては。
しかし、デートと来たか。こいつはそのあたりのフットワークは軽そうだから、大した意味があるわけでもないのだろうが。それこそ去年の例もあるし。
だからきっと、腕を持って行ったのも雰囲気作りの一環だ。去年の段階でやられたら多少は狼狽していたかもしれないが、今の俺には、その程度ならなんでもない。この前衆人環視の下で接吻を喰らった人間を甘く見ないで欲しい。
「じゃ、ぼちぼち行きましょうか?」
「おう、どこでもいいぞ」
俺の反応に対し、四葉が「ちっちっち」とややオーバーに顔の前で人差し指を振る。何やらもの申したげな様子だ。
「そこは、『お前と一緒ならどこでも楽しいぞ』ですよ」
「オマエトイッショナラドコデモタノシイゾ」
「これで2ポイントですね♪」
どこまで形から入るつもりなんだとため息を吐いた。あと426ポイントは、やっぱり絶対貯まりそうにない。