抱えているものが多すぎて、それらを消化する時間が追いついてこない。だから必然として睡眠の方にしわ寄せが回ることになって、なんだか体が怠かった。
昨日がそうであったように、今日も渡された問題はさっさと解き終わったので、残り時間は瞑目して過ごすことにする。あくまでも授業の延長なので気分的に居眠りはできないが、視覚を切るだけで多少体は休まるだろう。ペース配分を誤ってこんなところで体を壊そうものなら、五つ子のサポートなどとは言っていられなくなる。
…………そのつもり、だったんだけど。
「珍しいですね、上杉君が授業中に居眠りなんて」
背中を揺さぶられて覚醒。時計を見れば、今は授業間の休み時間。ちょっと休むつもりが、そのまま眠りの世界に誘われてしまっていたらしい。
意識下どころか無意識下でも大分参ってしまっているのだなぁと肩を落としながら、俺を起こした張本人である五月と向かい合った。
「気ぃ抜いたら意識飛んでた。悪いな」
「謝られることでもないですが」
確かにそうだ。俺は五月に不利益を押し付けたわけじゃない。それなのに「悪いな」では、言語的に不調和か。
かと言って、起こしてくれたことに感謝するのはそれはそれで違うような。俺が日本語を自在に使いこなせないだけかもしれないが、こういうときに重宝する表現の一つくらい用意しておいてくれればいいものを。
「そうだ五月。ノート、ちゃんと届いたか?」
「そのお礼を言いに来たのですが」
「別に、後で構わないのに」
今日は全員で集まって勉強する予定が入っている。礼はその時で良いのに、律義な奴だ。このあたりがこいつの美徳でもあるのだろうけど。
「目は通したか?」
「一通りは」
「ならいい。そこまで急いでやる必要はないから、暇を見て進めとけ」
「ありがとうございます、本当に」
「仕事だからな」
仕事が占める領域を逸脱している感は否めないが、乗りかかった舟だ。……いや、それどころか、しっかり腰を据えてしまった舟だ。ここまでくれば、もう最後まで付き合うしかないだろう。当初は呉越同舟っぽい趣があったのをここまで歩み寄るのに相当な苦労をした。それと比べて考えれば、ここからの一押しくらいはなんてことない。
「報酬、弾まないとですね」
「忘れんなよ」
「しっかり記録してありますから」
耳を揃えて~とでも言おうかと思ったが、こいつにはその手の冗談が通じないことを思い出す。下手をすると角をぴっしり合わせた現ナマを用意してくるかもしれないから、この表現は胸の内に秘しておこう。
「で、今のテストの手ごたえは」
「今日は午後から雪が降るそうですよ」
「なるほど分かった。死ぬ気で頑張れ」
「…………うぅ」
大きく項垂れる五月。天気の話題で誤魔化すなんて盛大なテンプレートは俺には通じないのだった。
しかし、そうか。感触薄か。焦ってどうにかなるものでもないけれど、今の段階でそれはなかなかに厳しいものがある。
「中途半端が一番良くないからな」
最近の言葉の中では何より一番感情が乗っている気がする。大いなる自戒を込めた助言に、しかし五月は肩を落としたままだ。
「全然自信がつかなくて」
「そりゃな。自信ってのは成功体験か努力に基づくもんだし」
俺の場合なら学年一位と言う看板。二乃なら料理、四葉ならスポーツ。明確に実績を残せる何かがあるのなら、それは自分の中で強固な屋台骨になってくれる。
だが、そこには大前提として大いなる落とし穴が存在していて。
今しがた俺は自信に関することを言ったが、それは二次的な相関なのだ。最初にあるのは興味か偶発的な成功のどちらか。それを基盤にして努力へと発展し、それを呼び水にして更なる成功を己の手中に収める。このループの過程で、自信と呼ばれるものが勝手に自分の中に居つくのだ。
その点において、やるだけのことをやっているのに失敗続きの五月は弱い。努力と成功が実感として結びついていない以上、何をしようが不安は残る。
それを取り除くのが果たして俺の仕事かどうかは判然としないが、最低限のアドバイスくらいはしてやれるといいんだけど。
「……とは言え、一朝一夕でどうにかなる問題じゃねえんだよなぁ」
自分に甘い奴なら、一生懸命頑張った自分自身を肯定することができるだろう。だが、中野五月は堅物だ。そんな妥協を良しとするタイプの人間性を持ち合わせてはいない。
融通が利かないと言えばそれまでだが、俺は心のどこかで、その頑固さを評価している節があった。出来ることなら彼女にはその愚直さを後生大事に抱えてもらったまま、理想のゴールにたどりついて欲しいとさえ思っている。
しかしそれを成し遂げるには高いハードルがあまりにも多すぎて、どうやって打倒すればいいか困りものだ。
「まあ、そのあたりはなんとか知恵出しとくわ。精神論以前の問題として知識量が足りてないってのはあるし、今はひたすら勉強するしかないわな」
「……毎度お手数おかけします」
「仕事だって言ってるだろ。もっと楽に構えとけ」
肩肘張るなと言ったところで、真面目な奴は余計に気負ってしまう。だからといって無言で突き放すわけにもいかず、そのあたりのパラドックスが俺をちくちくと突き刺してきた。
『教える』という行為の難しさはこの一年で嫌というほどに理解させられてきていて、それでも未だに分からないことまみれだ。相手の力量を推し量りながらラインを引いて、性格を考慮しながら物言いを考えて。たかだか五人を相手にこれだけの労力を払わせられるのに、一クラス四十人なんてとてもじゃないが面倒を見切れる気がしない。……全員が全員こいつらレベルの問題児と仮定した場合だけれど。
「とにかく頑張れ。俺も頑張る。今んとこはこれだけ」
五月の背中をグイっと押して彼女の席に押し返す。俺とばかり顔を合わせていては気が滅入ってしまうだろうから、不可欠の措置だ。
「あ、あのっ」
「話があるならまた後で。そろそろ次の授業始まるぞ」
会話を断ち切る。次の授業ってやつまでの間にはまだ五分程度の猶予が残っているけれど、彼女の姉に言わせればその時間は『ちょっと』に過ぎない。なら、『そろそろ』と表したところで問題らしい問題は見受けられないだろう。
頑張ると本人に宣言してしまった以上、半端なことは出来ない。俺のことは二の次においてでも、対策を練らないと。
「フータロー君から見て、五月ちゃんはどんな調子?」
「正直に言って良いか?」
「嘘つかれた方が困るな」
「ならぶっちゃける。かなりヤバい」
学校での勉強会を終え、五つ子と俺とで夜道を歩いていた。その中の流れで、俺は前方のグループから少しだけ距離を取り、一花と一対一で話す態勢になっている。
「なんて言うか、目に見える数字以上に五月の心が置いていかれてる。たぶんだけど、あいつにはイメージがないんだ」
「イメージって?」
「自分の目標をつかみ取るイメージ。過去の失敗の多さが災いしてるんだかなんだか知らないが、五月にはそれが薄い」
「なるほど」
「で、だ。一応は夢に向かって前進してるお前から見て、この状況はどうするべきだと思う?」
使えるものはすべて使うことにする。この際、それが猫の手だろうが姉妹の手だろうが構わない。
「私と五月ちゃんじゃ、そもそも性格が全然違うからなぁ」
「分かったうえで聞いてる。今はとにかく意見が要るんだ」
「うーん、たとえば……」
一花は何かを指折り数えて、そしてその後、折った指を元に戻す。何のためのアクションかは良く分からないが、彼女なりに意味があってのことなのだろう。
「たとえば?」
「たとえば……なんだろね?」
「おい……」
「分かんないものは分かんないよ。こればっかりは五月ちゃんの気分次第だし」
「まあ、それはそうなんだが……」
だからこそ、家族として長年付き合ってきた連中の意見が欲しかった。俺では理解しかねることだって、彼女たちならなんとかしてくれるのではないかと思ったから。
けれど、血縁があろうがなかろうが、結局のところ人が二人いればそいつらは他人なのだ。俺だって、らいはのことをなんでも知っているわけじゃない。兄妹仲は決して悪くないのにだ。
解決策がどこかに隠されているのだとすれば、その在り処は五月の心中以外にあり得ない。それが理解できただけで収穫だとすべきか、それとも足踏みしていると見るべきか。
「どうしたもんか」
「大変だね、先生も」
「まったくだ」
予報通りに降り出した雪にはしゃぐ四葉を遠巻きに眺める。これだと、先生と言うよりは保護者って感じが強い。
「ただ、ここまで来たらもう引き返せねえ。死なば諸共だ」
「死なないでよ」
「今のままだと結構な確率で死ぬからな。そろそろ墓の準備をしておく頃かもしれない」
「ならいっそ、ウチのお墓に一緒に入る?」
「いや、俺んちにも……待て。唐突に爆弾投げてくんな」
「そのためには籍を入れとかないと」
「ブレーキオイル切れてんじゃねえのか」
慣れとは恐ろしいもので、近頃誰も停止位置を守ってくれなくなってしまった。せっかく真面目な話をしていたというのに、これじゃあもうどっちらけだ。一気にそういう気分じゃなくなってしまう。
「フータロー君ちのお墓に入るのでも良いよ」
「さっきのは『止まれ』って意味だ。分かったか?」
「上杉一花……いい響きだね」
「…………」
どう考えてもわざと話をこじらせているので、耳をつねって地獄の妄想吐き出しタイムを中断させた。タチが悪いにしたって、限度があるだろうに。
「日本の離婚率は三五パーセントだ」
「六割以上も一生を添い遂げるだなんて素敵だよね」
「強い強い強い」
「私たちなら絶対その六割に入れると思うな」
「怖い怖い怖い」
他人に詰め寄るのに数字を用いるのは暫く控えよう。どんな開き直りをされるか分かったもんじゃない。
俺としては一花の発言内容にひやひやするというのはもちろんあったけれど、そこに加えて前の連中が聞き耳を立てている可能性まで思い浮かんで、本当に気が気ではなかった。これが新しいトリガーになったらマジでどうしてくれるんだ。
「なーんてね。演技演技」
「それ言えば何でも許されると思ってないか?」
「思ってるわけないじゃん。本当だよ。嘘じゃないよ」
「…………」
なんだろう、一瞬背中がヒヤッとした気がする。何に反応したかは定かじゃないけれど。
しかし、他の姉妹がいる中でガンガンこういう話をされていいことなんて何もない。ついでに言えば二人っきりの時にされてもいいことがない。つまり、いつだっていいことはないのだ。
来るところまで来た実感はあるので、ここはもういっそ盛大なクズ路線で走ろうか。俗にいうガン無視。興味を向けなければ、彼女だって大人しくなるだろう。
そう思って、即座に行動に移す。一花から目を逸らして、努めて彼女の言葉を聞かないようにする。
…………が。
「フータロー君の手あったかー」
「…………」
「フータロー君の腕ながー」
「…………」
「フータロー君の唇――」
「構うから許してくれ」
「フータロー君の唇――」
「マジでブレーキ故障してるだろお前」
バックステップで一花から距離を取り、一度大きく息を吐く。まともに取り合っていたら命がいくつあっても足らない。
これで一旦仕切り直したつもりなのに一花はこちらにじりじりとにじり寄って来ていて、第二ラウンド開始のゴングが俺の頭に響こうとしていた。
と、その時。
「上杉さーん! 見てくださいこれ! 雪の結晶!」
「お、おう」
「写真、写真撮ってください!」
「お、おう」
「素早くお願いしますね! 溶けちゃうので!」
「お、おう」
たったか走ってきた四葉が、自分の手袋にくっついた雪の粒を俺に見せてくる。で、そのままスマホを手渡され、慣れない手つきでパシャパシャ二、三枚だけ撮影して、彼女に返した。
四葉は礼を言って、すぐさま前列に帰っていき、再びはしゃぎ始める。まるで台風みたいな奴だ。しかしこの状況においては願ってもない最強の助け舟。そこに関しては素直に感謝。
「四葉は相変わらずだな……」
「そうだね。そんな子まで手にかけちゃうフータロー君も相変わらずだね」
「俺に怨みでもあんの……?」
ウィークポイントばかりをぐさぐさ突き刺してきて困る。しかしそれが事実である以上は否定しようがなく、そのあたりがまた一段と厄介。
過去の過ちを論ったところで、何かが覆るわけじゃない。そのうえでなお会話のテーブルに載せるということは、どこかに意図なり思いなりが隠れているはず。一花においては、俺に残った良心をいたぶることが目的だろうか。
「怨みっていうよりは、妬みっていった方が近いかも」
「妬みの対象はなんだよ」
「フータロー君の感情が私以外に向くこと?」
「なぜ疑問形……」
「自分でもはっきり分かってないからね。ただ、君が他の女の子と話してるのを見るともやもやする」
「…………」
「しかも面倒なことに、それが妹でも例外じゃないみたいで」
「…………」
「どうせ同じ顔なんだから私でいいじゃんって思っちゃうんだよね」
「極論だろ、それは」
「フータロー君的には、容姿って二の次?」
「どう答えても角が立つ質問はすんな」
あって困るものではないが、第一優先ときっぱり言い切ってしまえば反感を買うと分かる。他人を好きになるとき、ファクターをルックスに求めるのは不純と言う向きが通念としてあって、だから人はそのあたりを上手く繕って当たり障りない理由を探そうとする。内面を愛することが何より美しいことなのだと、そんな考えが世には蔓延している。
正直なところ、俺は何も分からない。少し前までは他人に好意を向けられたこともなければ、他人に好意を向けたこともなかった。俺の人生に存在するのは親愛のみで、恋愛という概念とは人生を通して関わり合いがないものだろうとも考えていた。
ただ、近頃の狂騒の中、嫌でも考えざるを得なくなった。人が人を好きになるメカニズムや、どうしてそれを伝えるのか。もちろんのことまるで答えは出てくれなくて、時間ばかりが失われていくだけなのだが。
「他人に興味を持たない人生を送っていた俺に、いきなりそういうのは難しいんだっての」
「そもそも私たちって可愛く見えてる?」
「難しいって言ってるだろ」
女優なんてやってるんだから、自身の見てくれについてはある程度理解しているのだろう。ただ、それは一定の分母を用意したときの支持率の話であって、個人レベルにまで通用する理念ではない。だからこそ、こうやって直接確認せざるを得ない状況というのも存在する。
ただ、俺が馬鹿正直に答えるはずもなく。
「それはお前の中で結論付けといてくれ。口ならいくらでも出まかせが言える」
「気付いたら手を出しちゃうんだから、超かわいいってこと?」
「俺を理性が欠如したバケモノみたいに言うな」
「…………」
「……事実であろうがもう少し言いようがだな」
慌てて訂正するも虚しく、明らかにもの言いたげな視線が突き刺さってくる。行為中の自分とそうでないときの自分とを切り離せるならどんなに楽だろうか。
「まあ、良い方に捉えておくね」
「勝手にどうぞ」
気に召すようにしてもらえればいい。下手に否定を挟んでも、肯定を挟んでも、どっちみち話は拗れそうだ。それくらいなら、彼女の想像に任せてしまおう。
「っと、今は勉強のことでいっぱいいっぱいなフータロー君をいじめるのはここまでにしておいて」
「いじめている意識があるのならもっと加減しろよ……」
「罪悪感を募らせておこうと」
「発想が怖いんだって」
「そうしておけば逃げられることはなくなるかなーと思ってね。……でも、今は本当に余裕なさそうだし、これくらいが限度かな」
一花の手が、すっと俺のスラックスのポケットに差し込まれる。ひんやり冷たい感覚が急に襲ってきたせいで、俺は思わず変な声を漏らしてしまった。
「あったかーい」
「手袋しろよ。なんで剥き身なんだ」
「手をつなぐ理由にするつもりだったんだけど、どうやら無理っぽいし。だから、これで妥協するの」
「妥協のラインが絶対におかしい……」
わきわきと蠢く一花の手に何度も身震いする。スラックスのポケットと言うことは、必然的に急所が近接している。こいつが何をしでかすかなんて分かったもんじゃないので、布越しに彼女の手を押さえつけた。
「……あ」
「なんだよ……」
「フータロー君、意外とツンデレだよね」
「男に貼るレッテルじゃないことだけは確かだ」
こんな会話の間にも、雪は静かに降り積もっている。
雪解けが、遠くないといいんだけど。