二十四節季でいう大雪を通り過ぎた十二月の半ば。日に日に強くなっていく冷え込みに度重なる厚着を強要されながら、今日も今日とて家庭教師だと中野姉妹が住まうアパートへ足を運ぶ。
開けっ放しになっている玄関ドアの鍵は、俺に対する信用の表れか、あるいはただの不用心か。
「五月は?」
こたつに座して待っている面々は、勢ぞろいというわけではなかった。いつも五月が座っているところだけがぽつんと歯抜けになっていて、妙な違和感がある。
さては無理がたたって熱でも出したか。そう思って寝室の方に視線を向けると、俺の考えを否定するように、三玖が壁掛けのカレンダーを指さした。
「……そういうことね」
「朝一番に訪ねてすぐ帰るって言ってたけど、長引いちゃってるみたい」
「了解。お前らは自習しててくれ」
入って来たばかりの玄関に逆戻りして、靴を履き直す。つくづく俺の領分じゃねえなあと思うが、やらないことには始まらない。
「入れ違いになったら連絡頼む」
それだけ告げて家を出た。一度温かな空間に立ち寄ってしまったせいで、寒さはいっそう際立ったように思う。
「風邪ひくぞ」
「…………!」
墓石の前で手を合わせている五月を捕捉し、横に並んだ。
本日は十二月十四日。そして、毎月十四日は彼女たちの母親の月命日にあたる。五月が毎月欠かさず墓参りをすることは知っていたが、ナイーブな時期にいることもあってか、予想以上に長居をしてしまっているらしい。
「あ、ご、ごめんなさい! すぐ帰るつもりだったのに!」
「線香余ってるか?」
「……? ええ、一応」
「分けてくれ。供え物する余裕はないが、それくらいはな」
百円ライターで線香数本に火を灯し、供える。面識もない相手の喪に服するのは、なんだか変な感じがした。
「お前の母親、学校の先生だったって言ったか」
「はい」
「ならご利益もあるか」
碑に刻まれている横並びの没年月日と戒名を順に辿って行って、明らかに名づけの法則が異なる一つを見つける。病死した人物にありがちな、疫を雪ぐ名前。それが彼女たちの母親の名であることは想像に難くない。
きちんと傍記されている本名に意識を吸われかけたが、今はそれを気にしている場合でもないだろう。こいつをさっさと家に連れ帰って、少しでも多くの知識を叩き込んでやらないと。
「なんだか意外です」
「何がだよ?」
「遅刻したことを怒られるものだとばかり」
「俺を何だと思ってんだ……」
風に吹かれて、線香の燃焼速度が増した。実家の香炉にも手を合わせてこようかなんて考えながら、五月の方に視線を向ける。
「サボりだったら怒るだろうが、そうじゃないことくらい俺にだって分かるっての」
「そもそも上杉君の場合、こういう信心深さとは無縁のような気がして」
宗教的な価値観の話。確かに、俺はそこまで信仰心が篤い人間ではないけれど。
「神サマは信じてないが、仏に関してはそうでもない」
「……その心は?」
「神がいるなら俺の母親もお前の母親も死んでない。逆に、俺の母親やお前の母親が死んでる以上仏はいる」
「暴論……」
「自分で納得できればそれでいいんだよこんなのは。現にこの解釈が一番しっくりきてるし疑ってない。俺は信仰を自分の軸に据えていないし、適当なくらいがちょうどだ」
少なくとも墓前でするような話じゃないがな、と付け足す。時と場所と場合は見極めないといけない。
まあ、そういうのは置いても、五月の気持ちが分からないわけではないのだ。人事を尽くさずして神頼みに走るのは論外だが、出来る限りの努力を積み切ったうえでそこに不安が残るのであれば、後はスピリチュアルなものに縋るしかない。そして一般的な環境下で育ってきた日本人の場合、それが先祖の類である可能性が高いのも分かっている。
空から見守ってくれているという考え方。正しい努力には正しい顛末が付いて回るはずだという理想論を、もうこの世界にはいない誰かに肯定してもらいたい。
それを一概に弱さだと断じて括ることは、俺にはできなかった。
「なんというか、上杉君らしいです」
「どこらへんが?」
「迷いのなさが。私は、道に迷ってばかりで」
「……そうでもないんだな」
「はい?」
「なんでもない。で、その迷いってなんだよ?」
「信念、でしょうか」
五月は自分の心臓のあたりに手を当てる。疑似的に、心に触れているのか。
「上杉君と違って、自分の信じたことをそのままに受け入れる力が私にはありませんから」
「初耳だぞ、そんな力の存在」
「当たり前に思っている人ほど気づかないものですよ」
笑いかけられる。その笑顔が絶妙に脆くて、表情とは裏腹な思いがないまぜになっているのが分かった。
「ついついよそ見をしてしまいますから。普通は」
「俺が普通じゃないみたいな言い方はよせ」
「なら、なおさら撤回しかねます」
変人認定など要らないのに、彼女はそれを取り消してくれない。こちらには否定材料がないせいで、言われるがままだ。
墓所で軽口をたたき合うのは、マナー的にどうなのだろうか。
「……よしんば俺が普通じゃなかったとして、別によそ見をしてないわけじゃねえよ」
「そうでしょうか?」
「よそ見ってのは、選択肢を複数持つ人間の特権だ」
それだけ言って、今いる場所から離れる。彼女の返しを待ちはしない。
「ほら、そろそろ行こうぜ。お前の姉連中が待ってる」
「あっ、ちょっと」
慌ててついてくる五月を尻目に、石段を降りる。感傷に浸れども今抱えている問題が解決するわけではないので、きちんと実になることを積み上げないといけない。
それ以前に、負い目があった。……その、なんというか、彼女たちの母親に申し訳ないことをしているというか……。
「どういう意味ですか、今の」
「どうもこうもない。そのまんまだ」
連日の降雪で薄ら白む歩道に足跡を残しながら、来た道を逆戻り。春の遠さに目が眩むが、いざ春が来たら来たで、また新たな課題が俺の目の前に姿を現すのだろう。悩みも課題も天壌無窮。生きている限りその輪から逃れる術はない。
意識的に、俺が数分前につけたばかりの足跡を上書いて歩く。真っ直ぐやって来たつもりがところどころで歪んでいて、自分の認識のずれを見せられているようだ。
「それ以前に、この前のお話もまだ聞いていませんし」
「この前?」
「職員室の近くで会ったときです。追い追い話すって言っていたじゃないですか」
「ああ、あれ」
機会が機会だ。二人で話す時間があるうちに、言っておくのが吉か。
だが、タイミングが微妙な気もした。俺に対して余計な心遣いをされても困るし、現在余裕がないのは彼女の方に違いないのに。
だから、極力なんでもないように装うことに決めた。深刻な雰囲気を醸し出さないように、気をつけて。
「大したことじゃないから聞き流せよ」
「それは私の判断次第ですね」
「進学か就職か聞かれた。以上」
「大問題じゃないですか」
「だよなー」
我ながらそう思う。人生設計が甘すぎだ。
だからこいつには言いたくなかった。少なくとも、成績が安定するようになるまでは話題に出さないつもりでいたのに。
「ま、まさかまだ決まってないなんてことは……?」
「取りあえずセンターは受ける」
「それだけですか……」
「願書の締め切りで考えればまだ一月くらいは時間あるし、そこまで大した問題でもないだろ」
「大した問題ですって。私の面倒を見ている場合じゃないでしょう」
「まあ、なんだ。人生なるようになる」
「それはなにもかもが円満に片付いた後で言うセリフです」
ごもっともだ。楽天家の自己肯定に使っていい言葉ではないことだけは確か。
しかし、どう考えたところで結論は出てくれないのだから仕方ない。勉学を極めれば何者かになれるものだとばかり思っていたけれど、現実はそんなに甘くなかった。課題の類は次から次に提示され、息つく暇もなく自分に襲い掛かってくる。
そんな中にあって、冷静な判断を下す自信がない。後悔を残す予感しかしない。
俺は一体、どこに向かって歩いているのだろう。
「これも一つの教訓だと思って見ておけよ。お前が欲してやまない学力という武器を持っている人間だって、その使い道を知らなければこうなる」
「笑えませんよ」
「結局、テストの出来なんてのは手段の一つでしかないんだよ。気付くのが遅すぎた気もするが、俺も一つの学びを得た。そこを突き詰めれば学者という選択肢が生まれるのかもしれないが、残念ながら俺は学問自体に魅力を感じているわけじゃない」
「それは真理かもですが……」
勉強だけが全てではないことを、彼女たちとの関わりを通して学んだ。そのせいで、今まで絶対だと信じて疑ってこなかった自身の価値観が揺らいでしまうことにも繋がったわけだが、それが学生の間に訪れたことはむしろ僥倖であろうとも思う。
人間、何かを始めるのに遅すぎるなんてことはない……などとは言うけれど、それは恵まれた側にいる人間の戯言だ。資本主義の底辺層で燻っている俺に、そう何度もリカバリのチャンスは訪れない。
少ないチャンスをものにするために、より多くの観点が必要だった。俺は、それを与えてもらった。
「お前、夢あるんだろ?」
「……一応」
「ならその時点で俺より上だ。胸張って生きろ」
夢や目標を原動力にするやり方がなにより健全だったのだ。その点で、俺は彼女を尊敬できる。
「……正直、お前が学校教師になっている姿はまるで想像出来ないが」
「えっ」
「なんだよ。これはただの個人的な感想だ」
「いえ、私、直接伝えましたっけ……?」
「模試の志望欄が全部教育学部のやつが先生目指さねえってことはないだろ……」
それが分からない程鈍い奴だとでも思われていたのか俺は。それはさすがに心外だと訴えるために薄眼で彼女を見ると、五月はぽかんとした表情で視線を虚空に彷徨わせるばかりになっていた。
「確かに……」
「むしろあれで隠してるつもりだったってのが怖い」
「い、いつか自分の口で宣言しようと思って」
「いつかが遠すぎる。ほら、今言え今」
「今ですか?!」
「お前の口からは聞いてないしな」
なんの儀式だって感じだが、こういうのが意外と大事だったりする。逃げ道が消えることによって力を増すタイプの人間がいることは知っているから、五月もそうである可能性を願おう。
「いえ、でも、今のままだと……」
「できるかどうかはこの際どうでもいいだろ。この場合、重要なのはなりたいかどうかだ」
それっぽいことを言って励ます。退路の一切を絶たせてしまう恐ろしいやり方だが、彼女にはこれくらいでちょうどいいと思う。保険も予防線も、挑戦という概念の前では邪魔なものでしかないから。
「それに、聞く相手が俺だしな。気負うことなんか何もない」
「……だから言えなかったんですよ」
「…………?」
会話のどの部分を受けて「だから」という言葉が湧いて出てきたのかは推察できなかった。しかし、そんなことはどうでもいい。さっさと宣誓させて、迷いから抜け出させてやらないと。
「…………先生に、なりたいです」
「少し違う」
「違うと言われても」
小声でぼそぼそ言ったって、大した効果が望めるようには思えなかった。もっと、何もかもかなぐり捨てて突っ走る感じがいい。
「それはただの願望だろ。宣言ってのはもっとこう、我がままで、無根拠な自信に満ちたものじゃないと」
「つまりは、どういうことでしょう?」
「なりたいんじゃねえ。なるんだよ、お前は」
「…………」
失敗した自分の姿を勝手に想像して、それを恐れるようではいけない。確かに無駄に知恵をつけて、社会を知って、そういう過程で保身に走る能力を身に着けてしまうことは分からないでもない。でも、いつもそうやって自分の殻に閉じこもっていては、前に進む気力が枯れ果ててしまうと思うから。
「それともなんだ? 口だけで終わるのが怖いか?」
「なっ!」
「そんな奴が夢を実現させられるとは思えねえなあ」
「ななっ!」
俺の低レベルな煽りにきちんと乗っかってくれるのはありがたい。その煽り耐性の低さは、後々修正していかないとまずそうだが。
とにかく、堰を一つ破ろう。がむしゃらにやるしかないんだ、今の五月は。
「……そこまで言うなら、やってみせようじゃないですか」
「ほう?」
「なりますよ。なってみせますからね、絶対に」
「……ま、ここらへんが落としどころか」
息を吐いて、彼女に背を向ける。こちらの思惑通りに動かされてしまった五月を見ていたら、堪らず噴き出してしまいそうだから。
「聞いていますか?!」
「聞いてる聞いてる。ちゃんと記憶したかんな」
「絶対にさっきの言葉を撤回してもらいますからね!」
「出来たら喜んで靴でも足でも舐めてやるよ。出来たら、だけどな」
「このっ、この人は……! 後悔しても遅いですよ!」
「はいはい」
適当にのらりくらりとかわしながら、少しずつ歩を進める。一気にジャンプアップする方法があれば楽でいいが、バカ不器用な五月に限ってそれは無理。なら、せめて俺が階段くらい作ってやろう。
本当に、問題児の先生と言うのは楽じゃない。
「なんで笑ってるんですか!?」
「笑ってねーよ」
せめて「ほくそ笑んでいる」とかにしてくれ。「可笑しがっている」でもいい。
楽しいことがなくても、どうやら人は笑えるらしい。不思議なことだ。
「見返すために全力で頑張れ。まずは今日の課題から」
「言われなくても」
後ろにいた五月が俺を追い越して、そのまま家の方へと早歩きしていく。俺も、それに付いて行くように、少しだけ歩調を速めた。
家庭教師が走るから師走か。なるほど、なんにも上手くねーや。