どれだけ止まれと希っても、時間の流れは変わらない。起きて動いて眠ったら一日は終わってしまい、それを繰り返しているうちに自己決定の期限は着々と俺の元に迫ってくる。
たぶん、生まれてから今までで一番密度の高い冬になる。この先の未来の舵取りを一手に担う時期、季節。二度と戻らない、たった一度の大一番。
抱えてしまったタスクはとうにキャパシティを超え、度重なる処理落ちを繰り返しながら同じところを行ったり来たり。
せめて悔いだけは残さないように、大きな禍根を置いてこないようにともがき足掻けど、大して歩みは進むことなく。それでも必死に生きた今が、いつかの自分を支えると信じて。
とにかく、自分に嘘だけはつかないようにしよう。過程に欺瞞を含んだ結末が、俺を納得させてくれるとは思えなかったから。
学校は冬休みに突入しているが、補講だか入試対策だかの名目で平時とこれといった違いなく通学を余儀なくされている。希望者を募った発展講座などもあって、下手を打てば朝から晩まで学校浸りの可能性もあった。
というか実際に、そうなっている奴がいた。
「精の出るこった」
「出来るだけ、自分を追い込みたいんです」
図書室で自習している俺の元を訪れた五月は、その表情に重たい疲労を滲ませていた。絶え間ない頭脳労働は、確実に心と体に負荷をかけてくる。経験者である俺にはよくわかることだった。
「どっちかっていうと追い詰められてないか、お前?」
「最悪それでも構いません。今を走り抜けないことには明日も明後日もありませんから」
「ここで倒れたら倒れたで一巻の終わりだけどな」
だからといって、俺が止められることでもない。後々への保険……というわけではないが、もしこいつが夢に破れる未来があった場合、振り返った道のりで俺が障害になっていたりしたらどう悔やめばいいか分からなくなる。
そういう重要な事柄に口を挟み過ぎるのはお互いのためにならない。ここまで来たら、思う存分やれることをやるべきだ。
「復習できる体力は?」
「なんとか」
「ならやっちまうか。講義で分からなかったことや怪しいところがあったら教えてくれ。苦手な箇所から潰していくぞ」
家庭教師としてのお勤めも、もうそう長く残っているわけではない。もちろんこちらに尽力しすぎて自分のことを疎かにするのは論外だが、もはや彼女たちを見放せるような距離感ではなくなってしまった。
卒業まではこぎ着けた。本来の役目はここで終わりだが、どうせなら『笑顔で』卒業するオプションまで請け負おう。夢への第一歩を踏み出すのに、背中くらい押してやってもいいだろう。……別案件で泣き顔を増やしてしまいそうだという懸念は絶えず俺の思考の片隅にあって、そのことへの罪滅ぼし的な側面が存在することは、否定しないが。
けれど、純粋な思いとして、この仕事を通して得た経験を彼女たちに還元したいと考える自分はいるのだ。そこに偽りはなく、言うなればこれは、感謝のような――
「じゃあ、始めるぞ」
「よろしくお願いします」
何より、最初期にはあり得なかったこの関係性を心地よいと思ってしまっている。俺が試行錯誤を繰り返しながら、その果てにようやくつかみ取った成果物。せめてこれだけは、最後まで輝かしい思い出として、自分の中で布にくるんで蓄えておきたい。
そんな都合の良いことを思うのだから、代価として、相応の努力が必要だろう。
窓の外を見れば、降り出した雪が世界を白色に染め上げていた。幻想的で結構なことだが、帰る時間までには降りやんでいてくれるとありがたい。
「つくづく運がねえな……」
不満げに呟いても、雪交じりの雨は俺の意図を汲む気配すら見せず、勢いを増して降り注ぐ。
冬にしてはマシに思えた日中の気温が災いした。軒先から手を伸ばして天よりの落下物に触れると、明らかに水気が多いのが分かる。それは、粒の降下速度を見ても明らかなことだった。
雪はやめてくれと願ったが、それは別に雨なら許容するという意味ではない。むしろ、傘が必携になるぶん雨の方が数段厄介だ。折り畳み傘などという気の利いたアイテムの持ち合わせはなく、帰宅までにずぶ濡れになるのはほぼ見えた結末。この時期に水浸しになる辛さは昨年のごたごたで知っているから、今から既に憂鬱になりかけている。風邪を引く可能性まで考えると、さらに億劫だ。
「ああ、やっべ」
「どうしました?」
「先生に呼び出されてるのすっかり忘れてた。長引くだろうから先帰っててくれ」
もちろんそんな用事はない。が、五月には妙な世話焼き癖があるので、ここでシンプルに傘を忘れた旨を伝えることが憚られた。幸か不幸か彼女の手には折り畳み傘らしきものが握られているし、お節介を受ける前にさっさと帰らせるのが吉。
五月は俺が進路関係で教員と話し合いの場を持っていることを知っているし、でっちあげの理由としてはこれが一番ツッコミが入りにくいだろう。導入の不自然さだって、今は自身のことでいっぱいいっぱいな五月には気づきえない。元より鈍いというのもあるにはあるが。
「じゃあな。睡眠時間はある程度確保しとけよ」
「あなたがそれを言いますか」
「言ったろ。教訓だ」
それが良くないことだと知っていて、未だに性懲りもなく繰り返しているけれど。
とにかく、今は五月を撒くのが先決。十分に時間をおいてから、俺もなんとか帰宅しよう。
「では、お先に」
軽く礼をした後、五月がこちらに背を向ける。彼女の姿が夕闇に馴染んでいくのをしばし見送った後で、時間を潰すために一度教室に行くことにした。忘れ物があるわけでもないが、理由なく入れる場所が意外と限られている学校において、自分が所属しているクラスというのはある種の気安さが感じられる。
こつこつと反響する自分の足音にそこまでの不気味さを覚えないのは、照明がしっかり灯っているからだろうか。暖房はケチる癖になぁ……とも思うが、暗いよりはマシ。この時期の負の想念の連鎖みたいになっている校舎内で、暗闇を一人歩く図太さはない。
誰もいない教室は、流石に消灯されていた。まあ、これはこれでいいかと思いながら自分に割り当てられた席に座り、なんとなく黒板を眺める。
乱雑に黒板消しを当てられているせいか、直前に実施された授業の内容がなんとなく読み取れた。一部文字が残っていたり、あるいはチョークの跡が消しきれていなかったりで、英語教師がここに立っていた過去が窺える。
残されたアルファベットから推測される単語や文章を頭の中で補足しながら、そこにあったのであろう授業風景を勝手に思い描く。面白味の欠片もない空想だが、時間を浪費するという点においては割と役立ちそうだった。今くらいは、脳みそを休めても許されるのだろうけれど。
ある程度時間が経ったのを時計で確認してから、のそのそと席を立つ。このままだとここで眠ってしまいそうだ。
寝るならせめて家が良い。体を横に出来る環境と言うのは貴重。若いからといって無茶をし過ぎると困るのは未来の自分自身だ。
凝り固まった関節をゴキゴキ鳴らしながら階下に下り、先ほど脱いだばかりの下足をもう一度履く。順当にいけば、五月はもう家に着いている頃合いだろうか。
あいつのことだから、もう勉強を始めているかもしれない。そうでなければお待ちかねの夕飯にありついているかのどっちかだ。
どちらにせよ、やりたいようにやってくれればそれでいい。俺はただ、彼女のやることをサポートするだけ。
こんなときにまで仕事のことを考えるとか、俺もいよいよ社畜めいた思想に脳みそを染め上げられているのかもしれない。
「まあ、そう上手くはいかないか」
一縷の希望としてあった、時間経過でみぞれが弱まるという可能性はバツ印。せめてもの救いとして悪化はしていなかったが、元の勢いが元の勢いなのでそこに感謝の心を抱くことはなかった。
リュックを盾にして走り去る案もあるにはあったが、背中が冷えるので諦めた。どのみちどこもかしこも濡れるのだろうから、多少抗っても意味はない。時間当たりのダメージ率から考えると、走って帰った方がいいのには違いないが。
そんなこんなで、意を決して踏み出す。足元がびちゃびちゃと跳ねて気持ち悪いが、贅沢を言っていられる場合でもない。長い間こんな環境に体を晒し続けようとは思えないので、出来るだけ早く帰宅しよう。体力勝負に自信はないから、きっとどこかで休憩することになるけれど。
連日の疲労と体力不足のダブルパンチで悲鳴を上げる呼吸器を強引に黙らせて、規則的なリズムで駆けていく。本来なら、こういった場面で少ない体力を使い込んでしまうのは好ましくない。だが、後々にやってくるだろう身体的な不調とそれとを天秤にかけたとき、ここで使い惜しむという選択肢は取れなかった。なにせ、自分の面倒だけ見ていればそれで終わるというわけではないのだから。
それらの面で、本当に厄介だと思う。受験は団体戦って絶対こういうことではないだろとも。
だけれども、そのことについて思うたび、不思議と俺の中の負けん気が顔を出すのだ。もう少しだけやってやろうと、何度も何度も背中を押してくるのだ。
あの五つ子たちと関わる過程で、自身の中枢が歪められてしまった。客観的に見て由々しき事態で、いずれ対処しなくてはならない案件なのは明白。……なのに、それを悪いことだときっぱり断言してしまう気にはなれない。
根腐れ、とでも呼べばいいのだろうか。
あいつらは、俺に水をやり過ぎた。
重症度を見るからに、水は水でも砂糖水だった可能性もある。
「やっぱり。こんなことだろうと思いました」
だから、こうなる。
あっさり、見透かされる。
「風邪を引いたらどうするんですか、もう」
校門の脇に佇んでいた少女から視線の猛抗議を受け、その場で立ち尽くす。
思うことは色々あった。なんで帰ってねえんだよとか、俺が嘘ついてなかったらどうするつもりだったんだよとか、他にも多々。
だけれど、真っ先に口をついて出た言葉が「すまん」だったあたり、いよいよ調教も大詰め感が否めない。
「お前ひとり騙せないとか、俺もヤキが回ったか」
「なら、これを機にバレる嘘をつくのはやめにしてください」
「悪いが、嘘も方便だとお前の姉に教えた都合上、そう簡単にやめるわけにもいかない」
肩に積もったみぞれを払いのける。その方便が上手く機能してくれないことには、何の意味もない。
結果的に彼女の精神的な負担を減らすという目論見は散り、現在進行形でこうやって迷惑をかけている。やることなすこと全てが裏目に出て嫌になるが、自分の内側にある感情は、きっと嫌悪などではなく――
「でしたら、バレない嘘をついてください」
「肝に銘じておく」
会話の最中にも天からの落下物は延々と降り注いできて、前髪やら睫毛やらに付着するそれらのせいで、一定の視界を保てない。
何度も何度もうざったそうに額を撫でている俺を見かねてか、五月がこちらに手招きのジェスチャーをしてきた。
「立地的に、ここなら多少は安全です」
「悪いがこれ以上お前に近づくと持病の発作が起こることになってる」
「さっきの今でその嘘は無謀が過ぎるでしょう」
「だってなぁ……お前、それ……」
「良いんですか。このまま長々とここに留まっていると、二人そろって病院行きですよ」
「それは……そうかもしれないが」
取り立てて丈夫というわけではない。ある程度の条件さえ満たしてしまえば、俺の体はあっさりと発熱する仕様になっている。五月に関してもおそらく同様のことが言えて、だから、屋根のある温かい場所に移動するのが急務だ。
で、この場において、そのうちの片方だけならやんわりと満たしてしまえる方法があった。
しかし、しかしだ。そのやり方を肯定してしまうのは、なんとも言えない敗北感が……。
「私だって恥を忍んでいるんですから、さっさと思い切ってください」
そう言う五月の顔は真っ赤で、寒さ以上に羞恥が機能しているようだった。そこまで嫌ならやらなきゃいいのに……。
善意を踏みにじるようで悪いが、ここで走り去ってしまおうか。そうすれば、ひとまずの落着を見そうな気はする。丸く収まりはしないだろうけれど、案の一つとして保留しておくくらいはありだろうか。
「ちなみにですが、ここで上杉君が無視をすると、私は明日の朝までこの場所に立ち尽くす予定になっています」
「そんな予定はスケジュール帳から消せ」
「ボールペンで書いてしまったので」
「二重線で消せ。消しゴムに頼るな」
「……くしゅっ」
「…………」
「…………」
それはまあ、当たり前の話で。このクソ寒い屋外に長い間放り出されていたら、その分だけ体は冷える。恒温動物の悲しいサガで一定に保たれる体温。そのエネルギーは当然肉体の貯蔵分から持ってくるので、時間に比例して体力はどんどん削られる。
そして、こいつがいつからここにいたかを考えると、そろそろ疲労が無視できないレベルに達している可能性があって。
「……なんです?」
「なんでもないけど」
「別に、あなたのためというわけではありません。自分のこれからを考えたとき、今ここで上杉君に倒れられると、ものすごく大きな不利益を被りますから」
「…………めんどくせぇ」
「め、面倒?!」
どいつもこいつも本当に面倒くさい。本当に厄介。本当にどうしようもない。
誰もが誰も扱いにくすぎて、今になっても正しい距離感なんて分かりゃしない。
……その距離感を掴み損ねているうちに関係を拗らせたせいで、修復不可能になったものが多すぎる。数えきれないほどに多すぎる。
おそらく、始め方を誤ってしまったのだ。今更悔いても過去が覆りはしないけれど、もう少しだけマシなやり口なんてのはいくらでもあって、そして、俺はそれらをことごとく取りこぼしてきた。
でも、本当は、きっと。
「邪魔だろそれ。ほれ、こっち寄越せ」
「えっ、ちょっと……!」
「たまたま手隙なんでな、俺は」
「……あなたの方が五倍は面倒くさいです」
「なんか言ったか?」
「いいえ、何も」
半ば強引に、五月の手にあったものをひったくる。
雨の中にあっても外を出歩けるようにという意趣を持って作られた、自身の上に無理やり天蓋を形成するアイテム。
しかもそれを持ち運びが可能なサイズにまで小型化してしまった、人間の飽くなき探求心による成果物。
つまるところの、折り畳み傘。
そんな叡智の結晶は、突き詰め過ぎたミニマライズの反動で、高校生二人を風雨から守るにはいささか頼りなく。そして、それ以上に厄介なこともあって。
「詰めすぎだろどう考えても」
「どう考えてもあなたが傾けすぎなんです」
なおのこと、肩やら腕やらに直撃するみぞれには容赦や手心といったものがなかった。落ちて、溶け、服に染みる。その繰り返し。ワンサイクルごとに着実に体温が奪われていくのが分かり、かじかんだ指先は感覚が薄れている。
そのくせ、体は熱に浮かされたようで、ぼやぼやとした輪郭を伴わない感情が波のように押しては返してを連続させていた。
「私が濡れても、あなたが濡れても、どちらもダメなんですから」
そう言いながら、また一歩分距離が詰まった。進むたびに腕がバシバシ当たって邪魔くさいので、黙って傘を持つ手を交換し、自由になった五月に近い側の右手をポケットにねじこむ。ずっと外気に晒していて冷え切ってしまったというのも理由の一つに数えられる。
「転んだらどうするんですか」
「気合で耐えるだろ、たぶん」
「手を怪我しても終わりなんですから、もう少し気を遣ってください」
五月は自分のコートをまさぐって何かを取り出すと、それを無遠慮に俺のポケットに突っ込んできた。すると、そこを中心にじんわりと熱が広がって、彼女が握っているのがカイロなんだなと理解する。
「一日使っているので、そこまで温かくはないですが」
「いや、ありがたいけど……」
気遣い自体は丁重に受け取っておくとして、それと同タイミングで投げ入れられた爆弾にはどのように対処するのが正解なのだろうか。これが分からない。
「ありがたいけど……これじゃ共倒れだろうよ」
「問題です」
「突然どうしたお前」
「カイロはどんな理屈で発熱しているでしょうか」
「鉄の酸化過程で熱エネルギーが生まれてるんだろ。中学レベルだ」
「では、日常身の回りにある鉄製品がそうやって熱くならないのはなぜ?」
「鉄粉と鉄パイプじゃ反応する表面積が違う」
「同じことです」
「…………何が?」
「今、こうしているのと同じことです」
「絶対ちが」
「同じことなんです」
否定の言葉は言い終わる前に遮られた。どんな角度から考察しようにもあり得ないことだが、真っ向から斬り伏せられた。
五月的にはきっと、アレゴリーのつもりなのだろう。俺は認めないけど。……だが、認める認めないを差し置いて、現状がややこしくなっていることは客観的な事実であって。
…………なんで手を突っ込みっぱなしなんだよ、こいつ。
「表面積を減らせば、反応速度は抑えられますから」
「お前の服にもポケットついてるじゃん……」
「カイロは一個だけです。譲れません」
「じゃあお前が独占していいよ。なくてもあったまるにはあったまるし」
「それはダメです」
「なぜ」
「ダメなものはダメと世間の相場が決まっているからです」
「とうとう理屈抜きの力技で来やがったな」
言い訳のレパートリーが貧弱だった。せめてもう少しくらい用意しておいても良かったのに。
そこまでして俺にカイロを押し付けたいか……とも思うが、善意であるのが分かっているから強く断りにくい。こいつの根っからの不器用さを加味しても、強引が過ぎる気がしてならないけれど。
それとも、これは一周まわった利己なのだろうか。彼女の言を額面通りに受け取って、そのまま飲み下してしまうのが正しいのだろうか。
「ってかお前、これはどういう心境の変化だ」
「これ、とは?」
「手、無理なんじゃなかったのかよ」
「いつの話ですか」
「一年前」
「それはほら……物を介しているので」
確かに、繋いでいるというよりは、たまたま触れあっているといった方が今の状況を説明するのにはしっくりくる。ちょうど、カイロが間仕切りの役割を果たしていて、どこからどこまでが五月の手なのかが分かりにくかった。
この場合、俺はどうすればいいのだろう。一年かけての成長を喜ぶべきか、あるいはこれが進歩のないことだと嘆くべきか。
「……訂正します。少し、嘘です」