ん、ん、と数回咳ばらいをした五月がそんなことを言う。しかし、少し嘘とはなんだろうか。日本語は成立しているのか、それ。
「何がどう嘘なんだ?」
「どう、と言われましても」
「いや、聞き返されても俺が困るだけなんだが」
答えが五月の中にしかないのだから、それを彼女が開示しないことには始まらない。こればかりは俺の取り扱いではないのだ。
五月が言い出した以上、その発言の回収は五月がする。なんてことはない、当たり前の摂理。
だからきっと、ここから詳細の説明が始まるのだろうと思って待機していた俺を襲ったのは、盛大にその予想を裏切っていく展開で。
「…………それを聞くのは野暮でしょう」
「なんでだよ」
「だからその……あるじゃないですか、色々」
「具体的に言ってくれ」
「察してください」
ぷいっとそっぽを向かれてしまった。これはつまり、会話はここで終了という意思表示と見ていいのだろうか。どうせならそれくらい分かりやすくその嘘とやらについて解説を願いたいのだが、今の五月は打てど響かずといった具合で、コミュニケーションが成立しそうにない。そもそもお互いがかなりの譲歩をしたうえで相互干渉を可能とした間柄なので、こうやってどシャットを喰らったらもうおしまいだ。
類似の状況に立たされた機会は数えしれないが、あれはそもそも心の開き具合が今とは比べ物にならない頃合いだったので、そこそこ理解を深めた気になっている相手からガン無視を決め込まれるとなかなかにクるものがある。言葉の脆さというやつを、こういうときほど思い知らされる。
「俺に言外にこぼした意図を拾う能力はない」
「……自慢げに言うことじゃないでしょうに」
素直に告白したら反応をもらえた。分からないことは分からないと言う。変に意地を張っても意味がない。学ぶことの根本に共通する姿勢だ。じゃあこの会話から何を学べるのかと聞かれたら、それもまた正直に「分かりません」なのだが。
「悪いが成長過程で捨ててきた」
「それはそれは大変ご立派なことで」
「ちなみに今のが皮肉だってのは分かる」
「……程度による、と」
「何事もな」
分かり過ぎるということもなければ、分からな過ぎるということもない。俺の能力は、他人の想像の範疇の中にすっぽり収まりきるぐらいのもの。
だから、こいつの言うことの一欠片くらいは理解できている気でいた。それが実態に即したものかどうかは重要ではなく、過去の五月の言動を考えたときに、一番有り得そうな心境を。
しかし、わざわざ口に出すのはそれこそ野暮というもの。ついでに、間違っていたら赤っ恥だし。
そしてさらに言うのなら、俺が俺っぽい行動パターンで動くとしたら、まあ間違いなくここで本人に直接聞くのがセオリーだ。間違った予想が自分の中だけでの真実、事実として定着してしまうくらいなら、顰蹙を買うことを承知してダイレクトに問う。その結果として白い目で見られようが何をされようが、そこに誤解がないのならそれでよかった。
思えばこれは、一種の偏執であるのかもしれない。正解に固執し過ぎて、それ以外の全てがどうでも良くなってしまったような。本当は過程にだって意味があるはずなのに、正解という一つの結果を大々的に掲げ、その他を不要だと淘汰していくような。
少なくとも、去年以前の俺ならば、ここからでも容赦なく踏み込んでいった。解答が見えないままでいることにイラついて、行動を起こしていた。
だけれど今は、わずかながらに違って。
「俺に野暮だの野暮じゃないだのは分からん。人との付き合いが浅すぎるからな」
「それも自慢することではないですね」
「ただまあ、なんとなく見えてきたものはある」
「たとえば」
「ここでこれ以上ずけずけ行くと、しばらくお前の機嫌を損ねることになる。それは好ましくない。だから、このあたりで分かったふりでもして黙るよ。空気読んでな」
「それは成長ですか?」
「そういう基準で考えてねえよ。ただの処世術だ」
「大人にはなっているかもしれませんね」
「嫌な言い方するなぁと思ったが黙っておく。これも処世術だ」
「黙れていませんけどね」
ここで、ようやく五月がこちらに向きなおった。ひと段落、か。
正直なところ、俺も分かりかねている。なぜこいつらのご機嫌を取る方法なんかを知らぬ間に覚えて、しかもそれを当たり前に実行するようになってしまったのか。別に懐柔されたわけでもなければ、前までのように借金への焦りがあるわけでもないのに。
単純に、教師業を円滑に進めるため、というのは理由ひとつになり得ると思う。へそを曲げられたままでは会話すらままならないし、そういう奴が一人いるだけで場の空気は最悪だし、それに辟易してはいた。
だが、そういうものを最たる理由として揚げるのはどうかと思った。これは上手く言語化できる感覚ではないのだが、なんだかこう、しっくりこないのだ。
五月の言葉を借りるのなら、少し嘘がある。どこかに異物が混じっている。確かに正解という大きなくくりの中の部分集合に属してはいるが、それはただの構成要素であって全てではない。しかも、根幹をなしてもいない。
では、どう表すのが正解なのだろうか。疑念が生まれ、思考している以上、どこかに必ず答えはあるはず。思考と存在が等価なものであるとどこかの誰かが大昔に提唱していたことを思い出す。それに倣えば、間違いなく答えはある。ただ、見つけられていないだけで。
「個人的には、語らない美しさというのがあっても許されると思います」
「それを理由を話さないことへの免罪符にしちまうのはアリなのかよ」
「ずるいとは感じますよ」
「でもやっぱり、アリだとは思ってんだろ?」
「女の子は、ずるいくらいがちょうどいいものでしょう?」
これまた予想できない類のセリフが飛んできて瞠目する。道理に従うタイプのキャラクターだと思っていたので、そんな凡百のロマンチストみたいな発言をするとはこの目で直に見ても信じられなかった。
俺のぎょっとした様子を不審に思ったのか、五月のカイロを握る手に、先ほどよりも少しばかり力がこもる。
「似合わないですか?」
「合う合わない以前に、お前がその手のことを言うと思ってなかったんだよ」
「でも言いましたよ」
「聞いちまったよ」
「じゃあ、私はそういうことを言うかもしれない子だったという話です」
「なんてことない一言で印象がガラッと変わるから、人付き合いは苦手なんだ……」
何千何万と繰り返すやり取りの中のたった一節。それだけのせいで、「こんなものだろう」とこちらが勝手に規定していた幅をあっさりと跳び越え、乗り越していく。想定の範囲をどれだけ広く持っていてもこうやって越えられてしまうのだから、まともにやっているのが馬鹿らしく思えてしまう。
俺が難しく考えすぎているのは分かっている。分かっているが、誰もがこんな指針も方策もない超高難易度の試験をクリアしているのかと思うと、俺なんかよりもそいつらの方がよほど出来の良い人間に見えてくる。実際、そういう価値観で世界を運営している人々の視点に立ってみれば、落第の烙印を押されるのはきっと俺の方なのだろう。
本当に、こいつらからは余計な気付きを得てばかりだ。気付き過ぎて、そのたびそのたび頭がこんがらがっている。
「しかもお前、さらっと本題から逸れた方向に俺を誘導しようとしてるしよ」
「…………」
「まあ、これ以上は聞かないことにしとくけど」
何がどう嘘なのかは、やっぱりまったく分からなかった。知らないうちに脳みそが人物評やら俺の思考パターンの変遷やらについてリソースを割き始めていたせいで、そっちについての解析がまるで進んでいない。というよりは、先んじて門外漢であることを知ってしまっているせいで、入り口前で足踏みしているとでも言えばいいだろうか。
「総括する。あったかいから後はどうでもいい。以上」
「ずいぶん適当なまとめですね……」
「考え疲れたんだよ。あとねみぃ」
帰宅途中くらい気楽にいたいものだ。家に帰ったらまた勉強勉強勉強なのだし。
「……本当に体調は大丈夫なのでしょうか?」
「限度は弁えてるよ。経験則でな」
「その、生徒としてのお願いではないので、聞いてもらえるかどうかは分からないのですが……」
「ん?」
「上杉君に体を壊されるのは嫌です。すごく嫌です。……なので、もう少しだけ自分に甘くなってもらえませんか?」
「……考えとく」
俺も、積極的に病院の世話になりたくはない。乞われたからには、多少見直してみる必要があるか。
たとえば、せめて今日くらいは体が許すまで眠るとか。
「ちなみに、生徒としてではないのならなんなんだ?」
「それはその……友人、は少し違いますかね。なら、中野五月個人の、ええと、なんというか……」
「なんというか?」
「……………………それを聞くのは野暮でしょう」
「了解。貴重な助言をもらったってことだけ覚えておく」
ここで聞き返そうものなら、またあれやこれやと思考の応酬が始まるのは目に見えていた。今しがた体に気を遣えという旨のことを言われたばかりなので、ここは何も考えずに彼女の言葉に従おう。
そうやって楽をすることも、たまには必要なんだ。きっと。
そのままてくてくと歩を進めて、俺の家へと近づいて行く。口に出してはいないけれど、このペースだと五月は遠回りしてでも俺の家に寄るルートを選んでくれるらしい。そのことについて言及しようかとも思ったが、きっと野暮になってしまうだろうから、胸の内に留めておいた。大丈夫。この会話の中にも、俺はきちんと学んでいる。
沈黙が続いているが、居心地の悪さは感じなかった。なんというか、ほどほどにちょうどいい空気感だ。こうやって二人並んで歩いていても息苦しくない。
でも、そういう心理的な問題とは別に、物理的な問題は生じていた。
というのも。
「痛いんだけど……」
「か、加減が分からなくって」
「もう冷えは引いたから心配いらねーよ」
凍えてしまった俺の指先を溶かすように、五月の手が重なっていた。しかしなんだ。そこにかけられている力があんまり強いものだから、少し痺れが回ってきている。最初のうちはかじかんだとき特有の感覚の鈍さかとも思っていたが、いざ暖まってくるとどうやらそうではないことが判明してしまった。
「だからもう放していいぞ。カイロも返す」
「…………」
「謎の意地張らなくていいって。マジでもう大丈夫になったから」
「…………このままでいると、不都合がありますか?」
「手が痛い」
「っ、そ、それ以外に」
「特には思いつかないが」
「…………なら」
「ん?」
「なら、別に、いいじゃないですか。上杉君のお宅まで、そう遠くもないんですから」
「まだ結構」
「…………ダメですか?」
「そういうわけじゃ……」
全身から捨て犬のような雰囲気を漂わせるのはやめて欲しい。俺が悪いことを言っている気分になるだろ。
五月がどんな事情を抱えてこんなことを言っているかは知らないが、このスタイルでいることに強いこだわりでもあるのだろうか。さっぱり推察することはできず、また余計に思考をめぐらせることになってしまう。
「ならせめて、もっと緩く握ってくれ。それが妥協点だ」
「に、握ってません!」
「はぁ?」
「掴んでるんです!」
「同じだろどっちも」
「違いますから! 全っ然違いますから!」
「痛い痛い痛い」
「とにかく、握ってないんです。これは重要なことなんです!」
「痛いって」
「分かってください。絶対に!」
「分かった。分かったから緩めてくれ」
「…………あっ、熱くなりすぎました……」
「まぁ、これくらいなら許そう」
ちょうどいい塩梅の力加減になったので、認めてやることにする。もう掛け合いをするのに疲れたから、言われたままに流されてしまうのが一番楽でいい。
俺には彼女自身の言葉という免罪符がある。だから、思考はそろそろ放棄だ。
「このやり取りがお前の息抜きになってれば嬉しいよ俺は……」
「……私は、まるで休まりません」
あれだけ言ったのに、また五月の手が強張り始めた。仕方ないので、指先だけでも痛まないよう、両者のそれが重なり合わない形に手と手を無理やり組み替える。
「…………ちょっとぉ」
「勘弁してくれ。俺は疲れた」
途端に全身脱力してしまった五月を引きずるようにして、帰路を急ぐ。
俺たちに交際関係はないので、差し詰めこれは変人繋ぎとでもいったところか。 …………やっぱりなんにも上手くねーや。