※この作品はR-18です。

五等分の〇〇   作:なるせいぶき

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あいまいでぃすたんす⑦

 カレンダーの日付を見れば、今年も残すところ一週間となっていた。センターまでもう一ヵ月を切ったと思えば、時間が流れる早さに驚きもする。

 結局のところ、重要なことはなに一つだって決まっていなかった。自分の行く末も、卒業までにはなんとかしておくと約束したことも。

 忙しさと慌ただしさを言い訳にしてただただ時間を浪費せど、期日が伸びることはない。いつかは必ずそのときが来て、否応なしに選択を迫られることになる。そのことが常に頭の中にあるのは事実だが、現実問題、考えていられるだけの精神的余裕も肉体的余裕もなかった。今はただ、五月をサポートすることのみに尽くさないと、悔いが残ってしまいそうな気がしていたから。

 ……だが、それすらも、きっと言い訳なのだと思う。先延ばしにしておく都合の良い理由として、家庭教師という己の立場と、夢に向かって励んでいる五月を利用しているだけだ。悪用と言い換えてもいいかもしれない。目の前の問題に集中しているふりをして、やがてやってくることが分かり切っている課題から目を逸らしている。逸らし続けている。

 無駄なことだと我ながら呆れる。こんなやり方をして、得られるものなどなにもないというのに。……それでも、どうにかして避けよう、逃げようという意思が働いてしまって、場は全てどっちらけだ。

 俺はなぜ目を背けようとしているのか。どうして手をつけたがらないのか。そこにある思いにどんな名前がつくのかを理解できないまま、刻限だけがこちらに迫ってきていた。まるで俺を追い立てるように、着実に。

 人間関係を楽に紐解く公式も構文も、この世界にはない。その事実に数えきれないほど肩を落としながら、それでも、俺は……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よう」

「……お、おはようございます」

 

 寝不足の目を擦りながら、俺より早く図書室にやってきていた五月の隣に腰を下ろす。ここの椅子の硬さも、今ではすっかり体に馴染んでしまった。もっといいものを揃えてくれよという気もするが、それも努力の証左だと思えば、まあ悪くはないか。

 

「……なぜ避ける?」

「な、なんとなく……」

 

 俺から距離を取るように、五月の体が大きく傾く。元は姿勢の整っている奴だから、かなりおかしな印象をこちらに与えてきた。さて、俺はなんとなくなんてはっきりしない理由で避けられるような悪事を犯しただろうか。……思い当たる節があまりに多すぎて逆に特定困難だが、彼女の知り得る範囲の情報に限定すれば、たとえば。

 

「結局風邪ひいたんじゃないだろうな」

「いえ、健康体です。そういうのでは、ないです」

「なら構わないけど。……で、それじゃあなんなんだ?」

「だから、なんとなくなんですよぉ……」

 

 彼女の体がくてっと脱力した。己の現況を説明するに相応な語彙を保持していないとか、そういう理由だろうか。そうならそうで、擬音でもなんでも使って表現する努力をして欲しい。俺のお察し能力に期待するなとは再三に渡って言っているのに。

 

「そういや昨日の話だけど」

「…………っ」

「だからなんなんだよ……」

 

 昨日、のあたりで目に見えて動揺し始めた。俺でも分かるくらい、と言えば、分かりやすさの指標としてこれ以上はないだろう。

 俺はただ、あの後無事に帰宅できたかという何でもない無駄話をしようとしただけなのに、その慌てようはいったいなんなのだ。なぜ頬を赤らめる必要がある。

 

「やめです。その話はやめです」

「はぁ?」

「話すなら別のことに。そうですね、美味しいものについてなんてどうでしょう」

「そういや昨日の夕飯はカレー……」

「昨日と言う単語はNGで」

「たかが雑談に枷をつけるなよ……」

 

 ゲームでもやっているのならまだしも、今はただのフリータイムだ。こんなところで浪費する体力の持ち合わせは俺の中にない。いっそ黙るのが一番賢い選択に思えたので、しばらく口を噤むことにする。彼女は既にノートやら参考書やらを展開しているので、分からないところがあれば向こうから聞いてくるだろうし。

 で、早速向こうが口を開いたかと思えば。

 

「……その、昨日のこと、ですけど」

「割とめちゃくちゃだなお前」

「NGはあなただけなので」

「暴君でももうちょい理屈を添えるぞきっと」

 

 昨日のことを蒸し返されたくなさげなのに、なぜか自ら火種を投下していく怒涛の矛盾スタイル。何がしたいかさっぱり分からない。

 

「ちょっと、手、見せてもらってもいいですか……?」

「どっち?」

 

 こっち、と指を差された。回りくどい言い方をするならば、昨日傘を持っていなかった方の手を。

 

「ん」

「痣とかは……大丈夫ですね。良かった」

「握力だけで痣作るのはバケモンだろ」

「もしそうなっていたら大変じゃないですか」

 

 確かにちょっとだけ鬱血してはいたっけ。どんだけ強く握れば気が済むんだって感じだったが、彼女視点で言えばあれは掴んでいただけらしい。俺から見れば、握るも繋ぐも掴むも意味に差異は見つけられないのだが。微妙なニュアンスを追いかけて言葉遊びをするのは作家にでも任せておけばいい話であって、俺に関わりのあることじゃない。まあ、ここは彼女の意思を尊重して『掴んでいた』ということでまとめておいてやろう。

 

「そんなことより勉強だ勉強。俺を気遣う時間で英単語の一つでも覚えた方がよっぽど建設的だぞ」

「気兼ねなく勉強できるように下準備をしただけですよ」

 

 言いながらも、きちんと手は動いている。頭が付いてきているかは知らないが、手癖で問題が解けるくらいの次元に到達しているのなら問題はないか。本番を見越したときにそれくらいの余力があった方が精神的に楽だろう。

 

「……上杉君、今日の日付はご存知ですか」

「二十四日」

「ですか。ですよね」

「いきなりどうしたよ。はっきりしないならスマホで確認すりゃいいだろ」

「いえ、一応です。一応」

「一応ねえ」

 

 今年の残り日数ばかりに気を取られていたけれど、そうか。今日はクリスマスイブか。ということは、去年にこいつらがあのアパートに引っ越して一周年。全員そろって冬の冷たい水の中に飛び込んでからも一周年って寸法だ。

 感慨深く思う。再雇用から一年の節目を迎えても、俺はやっぱりこいつらに手を焼かされているのだ。道中新たな面倒ごとを数多抱え、それでもやっとこさここまでたどり着いた。自己評価では赤点を免れない道程だったけれど。

 しかしまあ、なるようになるものだ。絶対に途中で崩壊する気しかしなかったのに、なんでかんでのらりくらりと切り抜けている。俺の存在が姉妹の仲に亀裂を入れるかもしれないという心配はずっと消えずに俺の後ろを付きまとい続けているが、薄氷の上を歩くような奇跡的なバランスでもって、強引に関係性を成立させている。

 歪だと言う奴もいるだろうが、俺にはこれが精いっぱいだった。笑いたければ笑ってくれ。

 

 

「お前らはプレゼント交換とかすんの?」

「…………っ」

「なんかおかしいぞお前。今日は一々俺の言ったことに反応しすぎだろ」

「す、すると思いますよ」

「何にも言われなかったような顔で強引に話を続けようとすんなよ……」

 

 どうにもぎこちない。いや、手練れた会話というものがどんな形かは知らないけれど、絶対にこういう形態を取らないとだけは断言できる。そもそも俺は普段、五月とどんな風に話していたっけ。

 何にしたって、五月の態度は不自然そのもの。隠し事でもしているのだろうか。

 

「まあ、クリスマスとか、俺にはよく分からんけどな」

「どういう意味です?」

「そのまんま。その類の行事に馴染みが薄いんだよ」

 

 世間がきゃっきゃきゃっきゃと騒ぐお祭りごとも、俺には関わりのない話。割のいい日雇いバイトの求人が出る程度の認識しかない。実際、去年はケーキ屋で働いていたわけだし。

 

「ガキのときにサンタ服を着た親父を見て真相を察して以来、なにごともそんなもんかって目で見るようになっちまったし」

「それはご愁傷さまで……」

「そんなわけで、俺とクリスマスは縁がないんだ。以上」

 

 この歳になってプレゼントをもらいたいなんて思いはしないけれど、胸の奥底のほんのちょっとしたところに、一抹の名残惜しさみたいなものは確かにあった。だが、思うだけだ。それを望めるほどの身の上ではないと弁えている。

 だけど、まあ、そういう文化に取り巻かれて育ってきた五月たちを見て、少しばかりの羨ましさを感じることはあった。妬み……とまではいかないけれど、もし自分がその立場にあったらどうだったろうかという、少しばかりの興味関心だ。

 

「でも、その、今年は少し期待してもいいかもしれませんよ?」

「ウチに煙突はねーよ」

「ある家の方が少ないと思いますが……」

 

 欧米文化を強引に日本に取り込んだせいでそこらへんの擦り合わせが上手くいっていないことも、子供のころは気にならなかった。メインはプレゼントだから、窓から入ってこようが玄関から入ってこようが、最悪ポストに投函されていようがどうでも良かったのだろうと思う。滅茶苦茶な話だが、微笑ましいといえば微笑ましい。滑稽だと言って斬り捨てるのはどうにも違う気がする。

 

「期待するとなにもなかったときの反動がデカいからな。話半分くらいで覚えとく」

「そうですね。それくらいがいいのかもしれません」

「無駄話が過ぎた」

 

 何を目的にこんな日にまで登校しているかを忘れてはならない。休みを一日潰すのならば、せめて有益な使い方をしなければならないだろうに。

 

「分からない箇所はあるか?」

「今のところは特に」

「ならいい。しばらく席を立つから、戻ってくるまでに質問すること整理しといてくれ」

 

 首の骨をこきこき鳴らしながら椅子を引く。まだやってきたばかりなのに……という五月の視線が痛いが、言葉に出して聞かれない限りはこちらから委細を話す責任は生まれない。さっさと立ち去ってしまえば俺の勝ち逃げだ。

 昨日の教訓から持ってきていたカイロを片手で弄びつつ、その場から離れる。椅子の軋る音が、やけに印象深く耳に響いた。

 

 

 

 

 

 

 学校が気を利かせたのか、もしくは教員側の要望なのかは明らかでないが、今日に限って特別授業に類するものの予定は組まれていなかった。三年生を担当する教師は気が休まらないだろうから、たまの休息を与える意味もあるのだろうか。どちらにせよ、俺に参加の意思はない以上はどうでもいいことだが。

 

「失礼します」

 

 ……というよりも、講座がなかったところでこうやって招集がかかるのだから、結局どうしたって無駄なのだ。

 

 

 

 

 

 

 進路についての要領を得ない会話を担任と繰り返しているうちに、三十分以上が経っていた。未だ自分の進む道を決めかねている俺と、基本的に進学の方向で話をまとめたがる教師とではどうにも相性が悪く、表面的な話し合いだけで中身が一切進行しない。まるで形骸化した儀礼みたいに、毎度似たようなことを言い合うだけだ。

 そりゃまあ、俺にだって気持ちは分かる。どこにだって受かる学生に就職なんてされてはこの学校の進学実績に穴が空くし、教師間のヒエラルキーにも影響するかもしれない。ただ、決まらないものは決まらないのだから早くしろと急かされたって答えが浮かんできようもないことくらい、うっすらでいいから承知してくれないものだろうか。

 教師としての視点は俺も手にしているから、向こうの苦悩も分かる。俺は本来必要のない迷惑をかける問題児に区分されているに違いない。ただ脳死で受験、進学を選んでくれるのなら、どこにでもいる優等生で終わったのだろうに。

 だけど、俺の精神性がそれを良しとはしてくれなかった。明確な目標を欲する気持ちが強すぎて、向こうが提示する特待生の条件や給付型の奨学金の話もほとんど頭に入ってきてくれないのだ。こんな状態で人生の重要な決定を下すには無理があるというのが正直な自己評価で、だから冷静になれる限界までゆっくり時間を使いたいのだが、それを許してくれるような世界ではない。まさか先方も、学力以外で躓く学生の存在を考慮に入れてはいないだろうから、話に折り合いをつけようがなかった。

 

「ウィーン会議じゃないんだから……」

 

 なんなら踊ってすらいないから、そのたとえの正確性には疑問が残る。俺の手許には使い道の分からない各種説明書だけが残って、今から処分方法を考えていた。

 

「まさかこれがクリスマスプレゼントじゃねえよな……」

 

 プリントを睨みつける。五月の言ったことがこんな形で具現化したのだとしたら地獄が過ぎる。真っ先に捨てることを考え出さなきゃならないプレゼントとはなんだ。

 もらったものを乱雑にリュックに詰め込んで、足早に図書室への通路を歩もうとした、そのとき。

 

「みっけ」

「びっくりするから普通に話しかけてくれよ」

 

 手の甲をぺしっとはたかれたので振り向けば、そこには覚えのある顔が。ついでに言えば覚えのあるヘッドホンが。

 

「びっくりさせようと思ったんだもん」

「ああ、さいで」

「む、感触薄」

「めんどくさい話の後で疲れてんだよ」

「話って?」

「進路。担任と」

 

 しまい込んだばかりの書類を再び引っ張り出して見せると、三玖は「あーっ」という表情で、ちょっとだけ眉を下げた。事情のなんたるかは察してもらえたらしい。

 

「大変だね」

「向こうは仕事で俺は人生の一大事だ。まあ仕方ないだろ。……で、お前はなんで登校してんの?」

「ん」

 

 袖をくいくい引かれる。ここでの説明はお預けか。

 

「どこ行くつもり?」

「屋上」

「カツアゲかよ……」

 

 ジャンプしても小銭の音はしねーぞと思いながら、進路を変更して階段を昇っていく。この時期、積極的に屋外に赴く性質ではないので、ちょっとだけ脚が重かった。

 

 

 

 

 

 連日の天候不順が災いしてか、屋上の各所が凍り付いていた。そこまで雪の多い地方ではないはずなのに、今年はやけに降り積もる。現在進行形で空は曇って、均衡がわずかに崩れようものなら容赦なく世界を脱色してしまいそうに見えた。

 

「お前も教員の呼び出し受けたのか?」

「ハズレ」

「違うのか」

 

 当たり前に勉強してくれるようになったとはいえ、根っこの勉強嫌いが失われたわけではないから、喜んで学校に来る奴ではない。講座がないのは既に明らかな以上、そういった類の招集を受けたものだとばかり思ったのだが。

 

「五月に用事?」

「それも違う。あったら家で済ませばいいし」

「それはそうか」

 

 わざわざ不要な労力を支払う必要性は薄い。じゃあ、どこに理由があるのだろうか。

 

「フータローに会おうと思ったら、取りあえず学校かなって」

「俺に用事?」

「うん。ほら、今日が何の日かくらい知ってるでしょ」

「アポロ八号が世界で初めて月の周回飛行をした日だよな」

「ふざけてる……?」

「こんなことを大真面目に言う奴がいたら縁切ったほうが身のためだぞ」

 

 俺なら切る。間違いなく。

 

「クリスマスだろ。そのくらい知ってる」

「ん。プレゼント、出来るだけ早く渡したくて」

「俺は何にも用意してないんだが」

「……お返しくれるの?」

「一旦忘れろ。怖え。目が怖え」

「くれるの?」

「血走らせるな。落ち着け」

「じゃあ、後からもらうってことで」

「ええ……」

 

 こちらからは何も発信していないのに決定事項のように処理されてしまった。まあいいけどさ……。いや、良くねえな。ねだられる前にちょうどいいものを見繕ってこないと無茶な要求を通される未来が見えすぎる。それはさすがに勘弁だ。

 

「そのうちな、そのうち」

「今忙しいのは分かってるから大丈夫。余裕出来たらでいいよ」

「じゃあ、年度内には……」

「には?」

「……なんでもない」

 

 年度内。つまりは高校卒業までだ。俺はそのタイミングを期日に設けたデカすぎる約束を彼女らと結んでいるので、あまり積極的に話題に上がる可能性のある単語を発したくはなかったが、常に気を張っていられるわけもなく、こういう形で墓穴を掘ることになる。三玖の顔を見るに俺の失言には既に気づいている様子だ。

 

「楽しみにしてるからね」

「……俺の甲斐性に期待すんな」

 

 明言されなかったから、楽しみにしているのがお返しなのか、それともまた別のものなのかははっきりしない。……でも、そんなに単純に終わるわけはないんだよな。

 というか、プレゼントとやらを送られる前からお返しの話をしてどうする。あくまで釣り合いが取れるような範囲で授受を行うべきだというくらいは俺の理解の内だから、向こうの贈り物の格を計ったうえで、こちらも弄策すべきに違いない。

 なのでまずは受け取ってみてから。

 

「気に入るか分からないけど」

 

 そう前置かれてから、三玖はごそごそと自分の鞄を漁り始めた。その場所に収まりきるサイズだという前情報をゲットだ。……いや、それくらいは言わずとも知れたことだけども。

 

「フータロー、いつも寒そうにしてるから、ちょうどいいかなと思って」

 

 言いながら、一歩ずつ俺の方へと距離を詰める三玖。手元には、毛糸を組んだ細長い一品が。

 三玖はそれをそのまま俺の首元にするすると巻いて、満足げに鼻を鳴らした。

 

「本当は手編みにしたかったんだけど、そんな時間があるなら勉強に回した方が良いだろうから」

「ああうん、サンキュ……」

「無難過ぎたかな?」

「いや、あまりにもちゃんとしたものでびっくりしてるだけ……」

 

 一晩自由権やらなんやら、とにかくやばいものをもらってばかりいた気がするので、ここまでストレートにありがたいものを渡されると反応に困る。なんてプレゼントっぽいプレゼントなんだ……。格とかいうふざけた単語を持ち出した自分の浅ましさが滅茶苦茶恥ずかしくなる。

 これは真面目に考えないとなーと思いつつ、左右で微妙に長さにズレがあるマフラーを上手いこと調節した。当たり前だが、暖かい。

 

「風邪、引かないようにね。もっと早く渡した方が良かったのかもしれないけど、クリスマスの誘惑が強かった」

「ありがたく使わせてもらう。うん」

「他の子と被っちゃうかもしれないけどね」

「それならそれでローテ組めば……」

「えー」

「いや、気持ち多めに使うから……」

「ならよし」

 

 いいのかそれで。本人が言うなら問題ないってことだろうけど。

 

「じゃあ、俺は五月のサポートにもど……」

「一日一回」

「最近控えめだったろ……」

「今日くらいいいでしょ……?」

「日に依るのか?」

「依るよ。すごく依る」

 

 依るらしい。初耳。

 今のことがあるので俺もあまり強く出られず、そのうちに彼女の接近を許してしまう。相変わらずの甘い匂いが体に毒でしょうがない。

 今巻いたばかりのマフラーをきゅっと引っ張られ、必然的に俯く。そこには既に、朱に染まった三玖の顔が用意されていて。

 

「……っ」

「…………ん」

 

 なんでかいつもよりも長めにくっついた唇をやっとこさ離して、気恥ずかしさに任せて彼女の肩をぐっと押す。明るいうちから近づくのには慣れていないから、自衛だ自衛。

 

「ほら戻るぞ。防寒具があっても寒いもんは寒い」

「フータロー、顔真っ赤」

「どの口で言ってんだお前」

 

 やいのやいの言いながら屋上を後にする。暖房をケチる学校とはいえ、流石に風がないぶん体感温度も多少はマシになった。

 階段をとぼとぼ降りながら、ふと思い立って振り返る。なんだか、いつもと様子が違うような――

 

「何やってるのフータロー。早く行こ」

「ああ、うん」

 

 三玖に急かされて、前を向く。誰かが物の配置を変えたのか何なのか絶妙な違和感が消えなかったが、それを明かしてどうにかなるということもあるまい。

 

「このまま帰るのか?」

「そのつもりだけど」

「じゃあ下駄箱まではお供するか……」

 

 ここでハイさよならではさすがに淡白すぎる気がした。先ほどの恩義込みで見送りくらいはしてやらないと。

 

「フータロー、そういう気遣い出来るようになったよね」

「おかげさまでな」

 

 ご機嫌取り、とも言うんだけど。

 

 

 

 

 

 

「遅くなった」

 

 結局一時間ぶりくらいに図書室に舞い戻る。案の定、五月は姿勢よく勉強を続けていた。

 

「ん……?」

「どうしました?」

「背中、妙に埃っぽくなってないか?」

 

 瞬間、過去目の当たりにしたことがないレベルの俊敏さで五月が己の背を払った。こいつ、このレベルの潔癖症だったっけ……?

 

「なんでもありませんが」

「なんか息荒いぞ。大丈夫かお前?」

「なんでもありませんが!」

 

 やっぱり今日の五月はどこかおかしい。そのどこか、というのがパッと分からないのがもどかしいが、何かが狂っていることに違いはなさそうだった。

 まあ、今は態度がどうであれ勉強さえ進めばいい。俺が注力すべきはその一点だ。

 とにかく、ここがスタート。今日も出来るだけのことをしよう。

 

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