ほんの少しの出来心が、己の存在に大穴を穿った。
あの人の帰りがあんまり遅いのが気になって、心当たりを探りに行ったのが発端。この前と同様に肩を大きく落としながら職員室から出てきた彼を見つけたときには、もうその後ろに三玖が迫ってきていた。
自分でもどうしてか分からなかったけれど、見てはいけないものを見るような気分になって、とっさに体を物陰に潜めた。会話が聞き取れるぎりぎりの距離から息を殺して盗み見る姉の横顔は、普段自分に見せるものとは趣が全く違っていて。
警戒心の欠片もなく弛緩し、ほんのり上気した頬は、それはもう誰が見ても一発で看破できるくらい、恋する乙女のそれで。
『みっけ』
ついでに言えば、声音までもが平時よりも半音上がっていて。
その大きな感情を一身に受けている彼は、いつものぶっきらぼうな調子で、なんでもないように取り合う。
けれど、二人の距離感は、私と彼の距離感よりもはるかに近いことが、なんとなく読み取れてしまった。
息遣い。視線。声のトーン。そういったコミュニケーションの素地一つ一つが、明確に私に向けられるものと違うのが、本能的に、直感的に、理解できてしまう。
それに気付いたとき、なぜだか無性に心臓の下のあたりが痛んだ。心がこんな場所に格納されていることを、生まれて初めて知ったように思う。
良くないことだと理解していて、階段を昇る彼らの後を追いかけた。屋上にたどり着いた二人にバレないよう自販機の陰に身を隠して、扉越しに聞こえてくる会話を拾う。
小慣れたテンポで繰り返される言葉のキャッチボール。その一投一投が、着実に自分の内側を抉ってくる。三玖が今現在立っている舞台に、自分が未だ昇れていないのを時間をかけてじっくりと理解させられる。
そのうちに足に力が入らなくなって、壁に背中を預けてどうにか体重を支えた。心臓が脈を刻む音が生々しく反響し、目も耳も全部塞いでしまいたくなる。
でも、直視したくない現実に限って積極的に提示してくるのがこの世界らしく。
一日一回。その単語の後に扉の向こうで展開された事象を思い描くのは容易かった。
先ほどまで途切れることなく続いていた会話がそのときに限って絶えたのが、全ての証明だったと思う。
その後は、記憶が千々に散ってよく覚えていない。どうにか二人に気付かれないよう体を丸めてやり過ごして、不在がバレないように急いで図書室に戻って。とにかく、必死だったことだけは確かだ。
なんで、あそこに立っているのが私じゃなかったんだろう。
『あの、三玖』
『どうしたの?』
『お昼のことなんですが――』
日頃はただの置物になっている携帯電話が久々に仕事をした。滅多に聴かないコール音をちょっとだけ長く耳に染みこませてから、利き手で通話ボタンを押す。
発信者表示は、『中野三玖』となっていた。
「もしもし。どうした急に?」
『た、大変!』
「何が?」
『だから、大変なの!』
「落ち着け」
いつもは感情の起伏に乏しいのに、今は声だけで分かるくらいあからさまに動揺していた。つまりはそれ相応の一大事が起きているということで、聞いている俺にも緊張が走る。
「まずは何が起きたかから話してくれ。詳しいことはそれからだ」
『五月が――』
五月が家出した、と。彼女は震える声でそう言った。