『数学や物理というのは神様のやっているチェスを横から眺めて、そこにどんなルールや法則があるのかを探していくことだ』こう言ったのは、ファインマンだったか。未知を既知に落とし込む作業を例えるのにチェスを持ち出す小洒落た感性に、初見のときは唸ったものだ。
空調が良く効いている。視界の範囲内には十に満たない程度の人。目の前にはまな板やフライパンといった調理道具が多数。一人に対し一尾となるように、トレーに入った魚が置かれている。誰もがエプロンや三角巾を身に着けていて、そしてそれは俺についても同様だった。
数学も物理も関係しなさそうなこの場において、なぜ俺が有名物理学者の金言を想起しているかと言えば、眼前に繰り広げられる光景が、俺にとってまさしく神様のチェスであるからにほかならない。
「アジはさ、まさか自分の死体が三枚におろされるなんて思ってもみなかったんだろうな」
「そもそも自分の死因が人間に捕まることだってところから、丸っきり予想外だったんじゃない?」
指導員の華麗な腕さばきが光っていた。簡単な説明をしながらぜいごを外し、頭を落とし、内臓を取り除いていく。先ほどまでの流れに乗じて付け加えるのなら、腸をいじくり回されることだって想定外だったはずだ。人間が美味しく食するための試行錯誤の過程で、アジの尊厳が大きく踏みにじられていくのを感じる。でもしょうがない。残念なことに、連中は大変美味なのだ。
海遊するアジの群れを頭の中に思い浮かべる。それから、その場を突如取り囲む網のことも。群れにとってそれはまさしく晴天の霹靂で、未知なる外敵の襲来になすすべなくお縄になっていく。アジは、人間が用いたまき網漁法のルールを理解して、生涯を終える。彼らにとってのチェスは、網に置き換えられると思う。もしかしたら、真に規則を看破した一部の個体は、小さな抜け穴から逃げ出しているのかもしれないが。
しかし、目の前にいるのは呆気なく掴まってしまった個体だ。中骨を基点に右身と左身に分断され、小骨の一つに至るまで抜き去られてしまったそれは、もはや海を自由に泳ぎ回っていた頃の面影を一片だって残していない。人間は、特にこれは日本人に関して顕著なことだが、美食に対する探究のために一切の躊躇を捨てる。アジもまた、その犠牲だ。
「上手いもんだ」
素直に感嘆する。手順自体はなんとなく知っていたが、俺が同一の工程をこなそうと思ったら当たり前に十倍程度の時間を要するだろう。料理教室を主催するに相応しい熟達ぶりだ。理解が及ばない力加減やらコツやらが多くあるに違いない。
「しかしまた、なんで料理教室なんだ?」
「チラシが回ってきたのよ。それで、たまにはこういうのもいいかなと思って」
真隣に立つ二乃が答えた。彼女もまた、料理をするのに相応しい格好をしている。
「お前、魚は捌けんの?」
「ある程度はね。まあ、レパートリーが増えるに越したことはないじゃない」
それもそうかと軽く頷いて、周囲を一度見回した。右から順に女性、女性、女性。そしてそのまま左端まで女性だ。指導員も女性であるので、この場における男は俺だけということになる。当然他の人たちもそれについて多少気になるところがあるらしく、度々ちらちらとこちらに視線を向けてきていた。針の筵とは、こういうことを言うのか。滲み出る場違い感が凄まじい。
そもそも、こんな場所に連れてこられること自体が予想外だった。きっかけは、遡ること数日前。二乃から電話で、土曜の午後を空けておけと言われたところから。幸か不幸かバイトの都合がなかったことを伝えてしまったのは、今思えば俺の明確な落ち度だった。それにしたって、まさか料理教室に連れてこられるとは寝耳に水もいいところだが。
実演が終わったところで、今度は参加者が作業をする番に移ったらしい。周りがにわかに忙しなくなって、蛇口から水が流れる音が響く。俺も慌てて、手をすすいだ。
「お手並み拝見ね」
「期待してもらってるところ悪いが、マジでさっぱりだぞ。手順は分かるが実際にやったことはない」
「なんだ、残念」
「ってわけで、先にお前の腕前から見せてくれ。長年家事当番で磨いた技術を」
「ん、仕方ないわね」
けが防止のためにかかっていたと思われる布巾を包丁から取り外して、二乃が作業に移行した。先ほど見た動きをなぞるようにして、特に困ることもなく、アジが分解されていく。これだけできるのならわざわざ料理教室にくることもないのに。さてはこいつ、俺に勝つことで優越感を得ようとでも……?
「とまあ、こんな感じ」
手で皮を剥ぎ取りながら二乃は言う。心なしか、自慢げな表情だ。どんな感じなのかは正直さっぱり分からない。
見よう見まねで、俺もなんとなくウロコを削ぐ。どれだけ削ればいいのか具体的な数字で教えてもらえれば最高なのだが、残念ながら『適当に』としか言われていない。その適当の壁が、初心者の多くを挫折させているのは言わずもがな。取りあえずの見切りをつけて頭を落とすが、正直どこからどこまでが頭なのかも良く分からなかった。人間みたいに首があれば簡単で良かったのに。とんでもない言いがかりだなこれは。悪戦苦闘しながらなんとか内臓も除けて、続いていよいよ三枚おろしのタイミング……なのだが。
「……これは、どこのラインに包丁通せばいいんだ?」
「なんとなくでいいのよ」
「経験者のなんとなくと未経験者のなんとなくの間には、たぶんお前が思う以上の隔たりがあるぞ」
「なら、手伝ったげる」
二乃が俺の背面に回り込んで、包丁に手を添えてくる。それは本来指導員の仕事じゃないかとも思うが、そっちはそっちであちこちからお呼びがかかっててんてこ舞いの様相を呈している。そうなってくると、彼女に頼ることもやむなしか。
「骨の上を滑らせるイメージかしら」
「おっかないたとえだな」
「それ以外に言いようがないもの。そう。別に焦らなくてもいいから、ゆっくり」
たどたどしい手つきで、右の身を剥いだ。切断面はぐちゃぐちゃで、二乃が手をつけたものと比べると差異が一目瞭然だ。素人っぽさが一目で分かるようになっている。アジも、どうせならもっと上手く扱ってもらいたかったのではなかろうか。
「もう片面は自分一人で頑張って」
「やるだけやってみるけど」
それでも、すぐに上達したりはしない。引っかかったり軌道を逸らしたりしながら、非常に不格好な三枚おろしが完成する。身の寄り加減がパッと見て分かるほどに不均等だ。無言でアジに謝罪しながら、横でニヤニヤしている二乃と目を合わせる。
「初めてにしては上出来なんじゃない?」
「台詞と表情をリンクさせてくれ」
「あんたに勝てるのなんて料理くらいなんだから、ここでは調子に乗らせてよ」
上機嫌のまま、予め取り置きされていた野菜を刻み始める二乃。確か、アジのムニエルを作るのが教室の主目的だったか。アジとムニエルの組み合わせに馴染みがないが、まあ、出来ないこともないか。小麦粉をまぶして焼くだけだし。というわけで、野菜の方は付け合わせという認識で間違いないのだろう。最初の方に軽い手順表が配られていて、そこに『野菜は適当な大きさに切って』とある。出た、適当。とち狂った俺がみじん切りにしても許してくれればいいのだが。
パプリカのヘタを取って、よたよたと長方形に切っていく。手際は良くないが、これくらいなら教わらずともできる。とっくに作業を終えた二乃の凝視が気になるが、自分のペースでやればいいのだ。問題はない。
徐々に要領を理解しながら二個目に手をかける。俺よりもたついている人もいるので、時間的に問題はなさそうだ。今度はもう少しスムーズにやってやろうかと包丁を持つ手に力を込めたとき、横から迫ってきた指導員が立ち止まった。アドバイスでもあるのかと作業を止め、そちらを向く。
「奥さんはずいぶん手慣れてるみたいだけど、旦那さんは初挑戦?」
聞き慣れない単語に一瞬思考が停滞した。旦那さんとはアレか、夫婦でいう夫の方か。で、誰が旦那だと? ……そういえば、この場にいる男って、何人いたのだっけ。
「いや」
「そうなんですよ。いつか一緒に台所に並べたらなと思って、今日は勉強に」
「…………」
ニコニコ笑顔の二乃。口の端が引き攣る俺。しかし、二乃の目は俺に対して「否定しちゃダメよ」と圧をかけてきている。
彼女の前向きな対応に気を良くしてか、指導員は「若いのにしっかりしてるのね」的なことを言って去って行く。邪魔するべきでないとの判断かもしれないが、あなたの理解には大きな間違いが含まれている。それから、空調はばっちりなので、どこもお熱くなんてない。
「もしかして」
「なあに?」
「このシチュエーションを引っ張ってくるのが、今日の目的か?」
半分呆れて、そしてもう半分は諦めて聞くと、二乃はそっと唇を俺の耳元に寄せて。
「ぴんぽーん」
と、やけに甘ったるい声で言うのだった。
「お前らさ、やっぱり五つ子なんだな」
「なんの話よ」
「発想があんまり似通ってるから、どうしてもな」
その昔、第三者に彼氏彼女であることを認めてもらいたがった誰かさんの存在を思い出す。結論の出し方が大いに異なっているものの、基本構造やら導き方は、概ね一緒だと分類できるだろう。大枠では同じこと。血は争えない、か。
「まあ、料理自体は役立つ経験だから悪くなかったが」
「役に立たないわよ?」
「いや、そんなことないだろ。自炊する機会は遠くなく来るだろうし」
俺の発言に対し、二乃は心底呆れたような顔をした。お前、何を意味の分からない話をしているんだと、そんな感じの顔。確かに下手くそではあったけれど、不器用なりにどうにかすることは可能になったわけで、完全に無意味な経験という話にはならないと思うのだが。
「私が家事を片付けるんだから、フー君は安心してていいのよ」
「お前は本当にぶれないな……」
頑なに結婚前提で話を進める姿勢には慣れたつもりが、たまにこうやって無警戒のところから背中を撃たれるから堪らない。常時暴走していては、暴走の定義が崩壊してしまわないだろうか。
「いいでしょ、夢に向かって真っすぐなの」
「御しやすいと言えば御しやすいが、やっぱり厄介なのは変わらん」
前々から、真っ向勝負は得意じゃない。だから、二乃のやり方はとにかく対処に難儀するのだ。俺が手を焼くのを知っているからこそ、彼女もそのやり口で一貫させているのだろうが。
「そろそろ慣れてよ。一生このままなんだから」
「一生だとか人生だとか、そのあたりの単語を迷いなく使えるのがお前の何より怖いところだよ」
でもまあ、規則性は見えている。彼女のこれまでの発言、行動を通して、中野二乃という人物の恋愛観を推し量ることは可能だ。それもまた、神様のチェスに似た何かなのかもしれないなと、ふとここで思った。……いや、違うか。こんなところで軽々しく神様のたとえを使ってばかりいると、近いうちに神罰が下りそうだ。
そう一人ごちて歩いていると、二乃が何かを見つけたようで「あれあれ」と近くを指さした。
「寄り道、いいでしょ」
エンジン音と世界の喧騒が心地よく混ざり合っていく感覚があった。全身で風を浴びながら、颯爽と道路を駆けていく。
二乃の懇願でバイクをレンタルし、そのままの流れで海沿いにまでやってきてしまった。だいぶ久しぶりに運転するのに、これだけ長距離を移動することになろうとは。少なくとも今日の朝の段階では、バイクに乗る心づもりなど一切俺の中になかった。
「きーもちー!」
後ろに座っている奴は、知らぬ間にアトラクション気分になってしまっているらしい。そのテンションのまま振り落とされたりしたら罪悪感が酷いなと、脇に回された腕をきつく締め直した。なんとも安全性に難があるシートベルトだ。
それでもこちらの意図はなんとなく伝わったようで、二乃の体重が俺の背にぐっとかかる。それにしても、今回はこいつの分までヘルメットがあって本当に良かった。もしノーヘルだったら、俺の首にどんな悪戯をされたか分かったもんじゃない。
「じっとしとけよ。落ちたら大根おろしみたいになるぞ」
「どっちかと言ったらもみじおろしじゃない?」
「同じだどっちも。ほら、とにかくもっとちゃんと掴んどけ」
言うと、ぎゅーっと腹のあたりを抱きしめる感触があった。力加減が微妙になっていなくて苦しいが、落ちられるよりはこっちがマシなので妥協する。
しかしまあ、ここまで密着されるのは俺でも多少恥ずかしいので、その気分を紛らわせようと気持ち強めにアクセルを回した。どちらにせよ落ちれば死ぬので、スピードはあまり関係しない。合理的判断だ。
「今えっちなこと考えてるでしょ」
「冤罪」
「さあ、どうだかー」
楽しげな声音で俺の図星を突っついてくる二乃。神罰が下るにしても、ここまで早くなくていいのに。
「あはは、走れ走れー!」
「俺は馬か」
エンジンをふかす。また、ちょっとだけ加速する。周囲を流れる景色はより曖昧に、暮れなずむ夕空はより茜色に、それなのに、彼女のやたらと早い心音だけはますます鮮明に。
とりあえず、気持ちの整理をするために、水平線の向こう側まで駆けて行ってしまおうか。