過去に忘れてきました。何を? 体力を。
膝を地面につけてぜーぜーと荒い呼吸を繰り返しながら、そんなことを考えていた。自分のポテンシャルを満遍なく散らしてしまうくらいだったらと、一極集中で勉学の徒になったはいいものの、捨てた体力がここにきて尾を引いている。衰えた筋力のせいで足は震え、特に鍛えられてこなかった心肺機能は早々に体に危険信号を出し、さらに悪いことには、『運動なんて別に……』という俺の中の舐め腐った根性までもが顔を出し始める始末だ。いよいよもって救いがなくなってきたなと内心毒づきながら、さっきからずっと目の前に差し出されたままの手を取って立ち上がる。
「上杉さん、運動神経自体は悪くないんですよね」
「他に……悪いところがあるみたいな言い方だな」
息切れのせいで、言葉と言葉の間が滑らかに繋がっていかない。可能であるのなら酸素マスクでもつけたい気分だ。心臓は大忙しで脈を打って、劣化した血管が今にも張り裂けんとしている。
「この年齢の健康な男の人なら、バドミントンをちょっとやったくらいですぐにへばったりはしないと思うんですよ」
「もう三十分くらいは経ってるだろ……」
「三十分はちょっとですって」
「いや、感覚のズレ……」
関節に無理を言わせて肩をぐるんと回すと、あちこちから悲鳴が聞こえてきた。俺の外見年齢と肉体年齢とが不一致なのは火を見るより明らかだ。そのくせ、俺以上にあっちこっちへ走り回っている四葉は未だにしゃんしゃんしているのだから、なんとも言えない。若々しさで彼女に勝つ術はどこにも存在しないようにすら思える。
「頑張りましょうよ。体力は、あった方がうれしいですよ」
「身に着ける段階が苦しい……」
「ファイトですファイト! 競技のテクニックとは違って、持久力はやればやるだけ伸びますから」
彼女に激励されるまま、どうにかシャトルを上に打ち出した。出来るだけ高く飛ばせばラリーが穏やかになるのではないかという小ずるい思惑が混じったが、あの程度の質量物体だと空気抵抗があんまり大きいせいでロクに時間稼ぎも出来ない。それどころか、勢い込んで打った右手に余計な負担をかけてしまうだけだ。四葉は限りなく直線に近い軌道で返してくるので穏やかに構える時間はないし、下手に逸らしでもしたら拾うために屈まないといけない。それは、今の俺の脚にとって非常に酷な作業に違いなかった。
搾りかすの力をどうにかひねり出して、打ち返す。汗が一筋、額から流れ落ちてきた。
まさかこの歳になって、公園でのバドミントンに誘われるとは思っていなかった。別に昔誘われたことがあるわけでもないが、それにしても、意外だった。想定できていたのは、俺の体力が目も当てられないレベルで落ち込んでいたことだけだ。
「だんだん夏めいてきましたねー」四葉が言う。彼女の顔に疲労の色はなく、むしろ楽しげですらあった。「この国の四季はどこに行ったんだよ……」「まあまあ。春夏秋冬がぴったり四等分ってわけにもいきませんからね」
古典のざっくりした四季観は、一、ニ、三月が春、それから三ヵ月区切りで夏、秋、冬だったと記憶している。もちろん、当時を生きた人々と俺の感覚は違うから一概に言い切ることは不可能だが、なんだかここのところ、やけに地球が優しくない気がする。
「俺はもう、最高気温が五十度くらいになっても驚かん」
「流石にそこまでいくと溶けちゃいそうですね」
「あつー」と四葉がシャツの裾をぱたぱたはためかせて、上半身に風を送っていた。それに乗って、制汗剤だか香水だかの甘い匂いが運ばれてくる。ちらとそちらに視線をやると肌色の面積がやけに多くて目に毒だった。「はしたないからそこらへんにしとけ」「……ちらっ」「ヘソ見せんな。わざとやってたろお前」
そもそも暑いんだったらまずそのリボンを外せばいいのでは? そう思って頭に手を伸ばしたら、唐突に彼女の動きが止まった。面倒だから外してくれってことだろうか。
「……あれ?」
「なんだよ」
「遂に上杉さんが頭ナデナデを習得したと思ったのに……」
「脈絡なく頭触ってくる他人とか怖すぎだろ」
「私は上杉さんなら一向に構いませんので」
「多少は構え」
「あっ、汗でしっとりしてるから今はちょっと……」
「適用がはえーよ」
実践のタイミングをもう少し見てもらいたかったなと思いながら、外しかけたリボンを元に戻す。この謎リボンは彼女のポリシーなのか、未だに外さず身に着け続けている。
「それにしても上杉さん、最近は他のみんなから引っ張りだこって話じゃないですか」
「今はお前から引っ張りだこだ。ついでに茹でだこになりそう」
手でうちわをつくってぱたぱた自分をあおぐ。なかなか息は整わないし汗は止まらないしで散々な様相だった。確かに、この現状を見つめさせられては常日頃から運動する必要性を考えることにもなり得る。
「っていうか、昔からずっと引っ張りだこだよ。引っ張られなかった試しがない」
「綱引きなら得意です」
「なんと驚いたことに、お前の姉三人と妹一人も同じことを思って疑わないんだな」
「より強く引っ張る自信があります」
自信の表れかどうかは知らないが、四葉が俺の袖を己の方に引き寄せようとしている。「伸びるだろ」「それを恐れた上杉さんの体は次第に私の方へ傾くんです」「策士」
汗だくの体を押し付けられても不快感しかないだろうに……というのは俺の感性であって、四葉にもそれが適用されるかは分からない。ただ、俺は汗まみれの状態で他人にくっつきたくはない。
「今が冬で、汗かいてなかったら可能性はあったな」
四葉の手を丁重に引き剥がして、膝の上へ返す。手から既にびしょ濡れなので、できるだけ素早く済ませた。
「じゃあ、冬に再チャレンジしてみます」
「頑張れ」
結果は約束できないけれど。……でも、こいつなら俺が根負けするまで粘ってくるだろう。面倒になって諦める自分の姿は、情けないことに簡単に思い浮かべられた。我慢比べをしたら、基本、勝てない。こいつらは、そういう場所にカテゴライズされている。
「でも、今から冬のことを考えるのも気が早いですね。秋もありますし、夏本番だってまだですし」
「インドア派には関係ない話だ」
「上杉さんアウトドア化計画は着々と進行していますよ」
「らしいな」
うっすら汗ばんだ二の腕は、日の光に負けて赤くなっていた。今年は例年と比べて、だいぶ日焼けすることになりそうだ。
「海と山だったらどっちがいいですか?」
「海」
「……私の水着姿に興味が?」
「山は絶対に歩かなきゃいけないが、海ならパラソルの下でじっとしてればなんとかなる」
「なるほど。……えっちですね」
「どんな幻聴聞いてんだ」
四葉の耳たぶを引っ張る。今のは明らかに、受け答えが成り立っていなかった。「分かってます。上杉さんがシャイなことくらい」「ありもしない行間を読むな」「大丈夫です。ちゃんと攻めたやつを着ていくので」「ちゃんとってなんだちゃんとって……」
さりげなくむっつり認定されていることに納得がいかない。そもそも……
「……そういえば、水着の下まで把握済みでしたっけ」
「自爆するなら言わなきゃいいものを」
一人で言って一人で真っ赤になった四葉の頭をラケットで小突いた。最近こいつらにはしてやられてばかりだったので、精神的優位に立てたのは久々だ。
「本当はここから水着選びにまで付き合ってもらう予定だったんですけど、なかなか上手くは行きませんね」たはは、と四葉が笑う。「駆け引き、苦手です」「綱引きは得意なのにな」
ほんのり紅潮した頬はそのままに、四葉がゆっくり立ち上がる。
「やっぱり、得意な方法で頑張ろうと思います」
「綱引きで?」
「ええ」
まだ座ったままの俺の腕を抱えるように、四葉が引っ張ってくる。「上杉さん、押しには弱いですから」「なんだそれ」
お前は今、俺の腕を引いているくせに。その言葉は、優しさで飲み込むことにした。
現代に拷問の概念が残っているのだとすれば、おそらくあれのことだ。店を後にしてほくほく顔の四葉とは対照的に、俺の顔はたぶん、実年齢プラス五歳くらいになっている。
「お前の横に立ってる間はギリギリなんとかなったけど、試着室に行かれてからは生きた心地がしなかった」
いっそ、男子禁制だったら良かったのに。女連れだったらOKみたいな暗黙のルールが横行しているせいで、かえって犠牲になる人間の数を増やしてはいないか。堂々としようがこそこそしようがどうしたって不審者然としてしまって、あちこちから刺さる視線に耐えるしかなかった。
「また一緒に入るんでした?」
「ぶっちゃけそっちの方がずっと楽だったかもしれない」
「それはそれで、私が落ち着かなくなっちゃいますけどね」
四葉は仰々しく胸のあたりを覆い隠す素振りを見せながら、
「上杉さん、とてもえっちなので」
「今更否定もしねーよ」
「…………」
「認めたら認めたできょろきょろすんな」
「今物陰に連れ込んだらいいことあるかなと思って」
「んなわけ」
男の俺が連れ込まれる側なのは釈然としなかったが、力関係を考えればどうしても自然にそうなってしまう。それがなんとも不甲斐ないやら、情けないやら。
「しかしなぁ。買ったからにはマジで行くことになりそうだ」
「観念してください。逃げ場はどこにもないですよ」
その通りだった。それどころか、海やら山やらに誘ってくる可能性があるのは、四葉に限った話でもない。
「どうせなら、全員そろって行っちまうか」
その方が、俺の肉体的負担が小さく収まる気がする。ただ、精神的負担がそれに反比例するのも分かり切ったことだった。けどまあ、たまには全員集合も悪くないか……というのは、どうやら俺に限った意見らしく。
「…………」
「なんだよ……」
「デートの時に他の女の子のことを考えるのはマナー違反です」
「五つ子ハラスメント?」
「中野四葉ハラスメント」
「別名は嫉妬か?」
「大当たり」
にっこり笑う四葉。ずいぶんと清々しい嫉妬もあったものだ。
「なので、私はなんとしても、ビーチで上杉さんの視線を独り占めしたいわけなんです」
「欲望に正直なことで」
「うかうかしていると、売約札が張られちゃいそうなので」
「俺は売り物じゃねえっての」
そもそも取り合いになるほど上等な品ではない。それでも現状大変なことになっているんだから、好事家というのはどこにでもいるのだなあと謎の感心を抱く。
「っていうか、ビーチで独り占めにするのは男どもの視線であって、特定の誰かの視線ではなくないか?」
「……俺以外に肌を見せびらかすなと?」
「なんか一段と飛躍してんな今日は」
「上杉さんもだいぶ嫉妬深くなってきましたね!」調子づいた四葉が背中をぺちぺち叩いてくる。「上杉さんの独占欲ならいつでもウェルカムなので!」
何かを自分の手中に収めてやろうという意欲は基本的に薄いので、「ねーよ」と手を振った。「好き嫌いはともかく、独占欲はない」
「それはつまり、私のことが好きって解釈で大丈夫ですか?」
「ええ……」
「なら、嫌い……?」
「まーた答えにくいことを聞く」
「ほら、ここでちゃんと否定しないともやもやが残っちゃいますよ?」
「……嫌いな相手の誘いに乗って休日潰すほど、酔狂な人間じゃないつもりでいるんだが」
「…………」
「急に照れだすのやめろ」
「か、緩急だと思ってもらえれば……」
両手で俺の視線を遮りながら、四葉は言う。なんとなくは気づいていたことだが、こいつはかなりの赤面症らしい。思っていることがことごとく顔に出る。だから今は、赤くなりながらにやけるという、非常に複雑な表情をしていた。
「見ないでくださいよぉ……」
「撮らないだけマシだと思え」
「上杉さん、意地悪って言われません?」
「さてな。でも今日は、久しぶりに上手を取れて気分がいい」
さっきから妙に周囲の視線を感じるが、それは特に気にもならなかった。水着屋での針の筵状態を思えば、なんてことはない。
「夏までにもっと体力つけておきましょうね」
「程々で頼む」
「ジョギングとかどうですか? 早朝にちょこっとだけ」
「要検討。朝はあまり強くない」
「じゃあ夜にできる運動ですか…………ぁ」
「だから自爆やめろっての」
再び真っ赤になった四葉の頬をつねって、引っ張った。今日の綱引きは、俺の勝ちということで。
「あ、お帰りお兄ちゃん」
「おう」
「……あれ、お兄ちゃん、いつから売り物になったの?」
「は?」
「ほら背中、『売約済み』って張り紙が」
「…………」
前言撤回。綱引きの敗者は、いつも通りに俺だった。今頃ほくそ笑んでいるであろう四葉の姿を想像し、ため息をつく。
結局、彼女の言ったままだ。俺は、押し込まれるのに弱すぎる。