それなりの人生を生きていれば、ほぼ確実といって良いほどに、勇気を試される瞬間が訪れる。それは未知への挑戦であったり、あるいは恐怖への抵抗だったり、押しなべて語ることはできないまでも、個人における一大決心を言う。
それが、俺の場合は羞恥を耐え忍ぶことだった。
「これはなかなか……」
「なかなか美味しいでしょう?」
頬を膨らませてご満悦の五月に、意図しない補完をされる。二人掛けのテーブルには所狭しと甘味が並べられていて、あちこちから蜂蜜やチョコレートの匂いが漂ってくる。その香りの発生源はこの場所だけということもなく、右から左から、方向を問わずに甘ったるい風が運ばれてきていた。
「ああ」
思考停止で、目の前のショートケーキを口に運んだ。見て分かる通りに甘い。スポンジの加減も悪くない。俺の味覚が鈍感だということを差し引いても、美味ではあるのだろう。
しかし、ことこの状況下では、味がどうのこうのと講釈を垂れる余裕はなかった。なぜか。味覚よりも働いている五感があるからだった。
「一応聞くんだけど、ここ、男が入っていい場所なのか?」
「ダメな理由がありますか?」
「いや、不文律というか、暗黙の了解というか」
「あなた以外の男性だっているじゃないですか」
「全員女連れだけどな」
何度か見回したので、これ以上確認する必要は薄い。けれど、もう一度首をぐるっと回して、周囲の様子を確かめた。結果、何も変わらず。男性グループが存在している様子はない。ふと、特権階級という言葉が脳裏をよぎる。考えようによっては、ここは社交界のように一定のステータスを得て初めて上がれる舞台なのかもしれない。スイーツ食べ放題なんてキラキラした場所に、冴えない男だけで突っ込むのは半ば自殺だ。
「あなたも彼女連れです」
「一文字多い」
「良いじゃないですか少しくらい。小論文の添削指導でもあるまいし」
言いながら、五月はまたもケーキをパクり。申し訳程度の時間制限があるので、多少ペースには気を遣っているようだ。もっとも、男女を問わず、三十分も食べ続けたら満腹になってしまうと思うのだが。……それが彼女にも適用されるかは、どうだろう。
「色々な事情があるから男子禁制にするのは難しいんだろうが、それならせめて上杉風太郎立ち入り厳禁にしてもらえねえかな」
「いったい何をすればそんなことに」
「一人で厨房を壊滅させれば経営上の理由でなんとか」
「そんな細身でどうやって成し遂げるんですか」
「お前が食べたぶんも俺の消費量だったと偽装する」
「……馬鹿にしてます?」
「尊敬してるよ」
少なくとも、食べっぷりにおいては。俺がもし食材だったとしたら、気持ちよく食されたい。意味不明な仮定だが、いやいや消化されるよりはいくらか救いがある。その点で、いつでも幸せそうに食べ物を口に運ぶ五月は、理想なのではないかとさえ思う。
「ただ、俺を誘うにしたって、もうちょっと男女比が釣り合ってる場所はなかったもんか」
「実益を考えると、どうしてもここ一択に」
「誰か暇してる姉妹は?」
「いましたけど、今週末は私の番なので」
「不穏なワードを出すな。なに、もしかしてとは思ってたけど、ローテーション組んでんの?」
「乙女協定です」
「そこまで強かな女を乙女とは呼ばない」
「呼ぶんです」
呼ぶらしい。初耳なので勉強になった。できることなら、学習せずにいたかった。
「いや、前々から怪しんではいたんだ。毎週のように約束を取り付けられる割に、誰もブッキングしないなと」
「もし被ったとき、あなたがどちらを選んだかで揉める未来が見えるので」問題の先送り感は否めませんが、と五月。
ここで彼女が口に出した『問題』という単語に背筋が震えるが、意図的に無視する。これに取り合うと、長い。
「五人の中の二人で、組み合わせでは十通りですか。最初は、全通り試せば上杉君の好みの傾向が見れるとも考えたのですが、さすがにそれではギスギスするので」
「人が知らない場所で総当たり戦を組もうとするな」
「仕方ないでしょう。五人ではトーナメント式にできません」
「対戦形式に文句を言ったわけじゃない」
「今すぐ私に決めてしまえば、今後そんなことは起こり得ませんが」
「……人の弱みに付け込むなって教えるの忘れてたな」
教師としての俺の落ち度か。これは。教えたことを満足に扱えるようになるまでにも時間がかかる連中に、俺の教育外のことを覚えておけというのは、果たして無茶な話なのだろうか。……そんなわけないな。さすがに常識だ。
「着々と弱らせて、弱り切ったところをガブっと」
「ガブっとどうするんだよ」訊くと、五月はケーキの残りを頬張って、両手を合わせた。「ごちそうさまでした」なぜか、上目遣いで俺を見ながら、言った。ケーキに関しての言葉だと思いたかった。
「とまあ、それは冗談として」
「笑えねーよまったく」
「そうですね。ご馳走と呼ぶには、まだまだ肉付きが悪いので」
対面から身を乗り出して、俺の頬肉をつまむ五月。食生活が壊滅的な自覚はあるので、否定はできない。
「ですから、もっと食べてくださいよ。さっきから手が止まってるじゃないですか」
「今のを聞いた後に食べるのは、色々試されてる感じがするぞ」
「試されるって、何を?」そうだな、と一拍置いて、答える。
「勇気、とか」
それを受けた五月が、反芻する。
「勇気、ですか?」
これは俺の個人的な考えなので五月に開示することはしないが、行動そのものが答えになってしまうようなことは、極力慎みたいと思っている。前段階として、言葉がなければならないと思っている。行動と態度と言葉、全てが原因でこじれた関係だから、いずれはきちんとしたプロセスで、片をつけたいのだ。
清算とはいかないまでも、整理整頓くらいはできる。全て良しとはならないが、まあまあな出来には持っていける。繕える体裁は、繕っておくべきだ。
「優柔不断な上杉君が、勇気を語りますか」
「だからこそじゃねえの」
「そんなに大変ですか、一人に絞るの?」
「生々しい言い方すんな。……どっちかといえば、むしろ」
「四人、選外にするのが心苦しい?」
「分かってるなら勘弁してくれ」
二者択一ならなんのその、しかし俺に課されたのは驚異の五者択一だ。悩みもするし、迷いもする。この葛藤を保留だのキープだのと呼ぶようだから、俺はとっくにクズ男の仲間入りを果たしていたらしい。まあ、分かり切っていたことだけれど。
「思い出しますね。私が発作的に家出して、そのあと色々あって、全員で集まったんでしたか」
「いきなり傷口を抉りだすな」
「なんでしたっけ。『いつか必ず答えを出すから』でしたっけ?」
「あー……」
「私、ずっと健気に待ってますよ。『いつか』を」
「弱らせるというより、追い詰めようとしてないか?」
「私が上杉君にとっての安らぎだった時期もありました」
「…………」
「一向に構いませんよ。また私で安らいでもらって」
卓上に載せていた俺の手に、五月の手が重なった……までは良かったのだが、そこから普通に握ってきた。代謝がいいせいか、体温が高い。俺と違って、かさついてもいない。
「大きい手……」
「男だし」
「そうですね。男の人の手です」
たくさん食べて眠気にでも襲われているのか、妙に目元がとろんとしていた。一歩間違えば、このまま上半身を投げ出してしまいそうな、そんな予感さえあった。場面場面で切り抜くと確かに、こいつが末っ子なのだろう。そう思わせる脇の甘さが感じられた。
「お前、意外と妹気質だよな」
「どういう意味です?」
「さあ?」
「さあと言われましても」
明確に言語化するのが難しそうだったのではぐらかした。他四人と比べて油断幅が大きいと言っても、伝わらないだろうし。
「雰囲気の話だろうな」
「そんなこと分かるんですか?」
「イメージだから、現実に則しているかどうかは謎が深い」
「…………?」
いつまでも手を握り合っていてバカップルだと思われたら厄介なので、立ち上がることにした。ついでに、なにか新しいケーキを見繕ってくることにでもしよう。
「おい」
「なんでしょう?」
「なぜ離さない」
「…………?」
「なんだよ」
「前にもお伝えしてますよ」
「え…………あっ」
そういえば、あのときも、左手だったか。具体的な情景はこの真昼間からイメージするような代物ではないが、掴まれていたのは左手だったはずだ。いいや、それも、彼女に言わせてみれば。
「こうやって、繋ぎとめているんです」
指先の一本一本をいたずらっぽく絡めて、笑って。なんなら俺の腕まで引き寄せたりしながら、五月は言う。
「あなたは、浮気性だから」
「存じてますよ。俺が一番」
彼女が珍しく丁寧口調を解いたので、俺が代わりに敬語を使った。先ほど尊敬の旨を伝えたばかりなので、ちょうどいいタイミングだ。ただ、違和感が酷くて、言い終わって口許が歪んだ。慣れないことはするものじゃない。
それは五月も同じだろうと、彼女の表情を覗き見る。ただ、俺の予想は外れていたようで。
「なぜ笑う」
「たまにはいいかもしれませんね。敬語を外してしまっても」
「家族にも敬語友達にも敬語のお前が、今更アイデンティティを投げ捨てるのか」
「私にも、いわゆるタメ口を使っていた時期がありましたよ」
「母親の模倣、やめていいのかよ」
「失った誰かの幻影を追いかけてばかりじゃ、前に進めないから」
「…………」
「それに――」
最後の言葉に限って、わざわざ俺に向き合って言うのは、なんだろう。なんと言えばいいのだろう。
「――今目指すのは、あなたの隣にいる私だから」
卑怯、という言葉が浮かんで、慌ててひっこめた。彼女の成長と決別を阻害してはならないという、俺にしては珍しい配慮からの行動だった。
その言葉にたじろいだのは、俺以上に五月本人だったらしく、すぐさま「ですから」と言って語尾を和らげた。「段階を追って変えないと、さすがに恥ずかしいですね」「なら無理するなよ」「でも、効果アリと見たので」
見られてしまったので、今後は不意打ちで飛んでくるタメ口の対処にも気を遣わなくてはならない。バカ丁寧な口調になれてしまっていたから、新鮮というよりは驚きが前面に出てくる。これを受けた四葉までもが真似してくるなんてことがあれば、いよいよお手上げかもしれない。
「さ、まだまだ時間はあるので、もっと食べますよ!」
「やっぱり離してはくれないのな……」
諦め交じりに呟くと、「うん」と返事がくる。……これは、ちょっと効く。
「やっぱり効果絶大です」
「俺で遊ぶな」
「面白いので……」
悪びれているようで実は全然そんなことのない彼女の手に引かれて、人が密集している場所に連れていかれる。これに適応するまでにはどれくらいかかるもんだかと頭の中でそろばんをはじきながら、猫背で進む。
天井を見上げると、照明が目に入って眩しかった。電灯くらいは、俺に優しくしてくれよ。
夏めいてきたとはいえど、夜はまだまだ涼しかった。毎週のように休日が潰れるが、それをなんとも思わなくなってしまっているから慣れは怖い。
「そういえば、らいはちゃんは元気ですか? 連絡は取ってますけど、会う機会が作れなくて」
「元気も元気だ、心配するな。ってか、らいはを完全に懐柔されたらどこにも逃げ場がなくなるから勘弁してくれ」
「三玖が前にそんなことを言っていましたね。なんでしたか。馬をどうとか」
「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ?」
「それです」
「意味は調べんなよ?」
「相手を打ち負かそうと思ったら外堀から埋めていけという解釈であっていますか?」
「勉強教えて後悔したのは今が初めてだ」
「確かに、それもいいかもしれません」
「良くない。なんにも良くない」
安住の地が奪われて行くのには断固抗議する。俺の妹を人質に取るのはルール違反ということにしておいて欲しい。
「乙女協定とやらに条文追加しとけ。『上杉らいはにはノータッチ』」
「それじゃあ遊びにいけません」
「それなら、節度を持って接してくれ」
「ええ、もちろん」
「変なこと吹きこむなよ」
「…………」
「なんとか言え」
冗談なのか本気なのか分からないから怖いのだ、こいつは。まあ、らいはの自由意思を尊重する必要もあるけれど。
「私がお姉さんになったら嬉しいか聞くのはぎりぎりセーフですか?」
「完全にアウトだよ」
「誰が上杉君のお嫁さんに相応しいと思うか聞くのは?」
「むしろなぜそれがセーフになると思った」
「塩梅が難しいです……」
「質問はもう俺を通してくれ……」
どっと疲れが押し寄せてきて、近くにあった電柱に体重を預けた。それを見た五月が、なにやら思いついたような顔で近寄ってくる。
「なに?」
「いえ、面白いことを考え付いたので、ちょっと耳を貸していただければなと」
「…………? いいけど」
身長差を考慮して、体を傾ける。彼女が近づく。で、唇を奪われる。…………は?
「は?」
「面白いこと、です」
「えぇ……乙女協定的にはどうなんだよそれ……」
「…………」
「絶対にアウトの顔じゃん……」
「久しぶりだと恥ずかしいですね」
「話題を逸らすな。俺はとことん追及するからな」
彼女は慌てて俺から距離を取って、逃げるような構えを見せた。俺も、それに付いて行こうとしたのだけれど。
その場で放たれた一言のせいで、そんな気概は、一切奪われてしまった。
「またね、風太郎君!」
自分の名前で硬直する機会なんてきっと二度と訪れないだろうなと、おぼろげながら、思った。
そんな初夏の日。晴れた夜。見上げた空に浮かぶ星々を、俺は一生忘れない。……気がする。