「…………」
「歌わないの?」
「いい……」
「そう?」
元来た道を戻るようにして、俺と一花は集合場所にしていたカラオケ屋に入店していた。イマイチ状況が飲み込めていないが、ひとまずはじっとしていれば良さそうだ。
曲目を選択する機械……確かデンモクと言うのだったか。一花はそれを器用に操って、いくつかの曲を予約していく。流行にはさっぱりな人間なのでそれらがどの程度の人気を誇るものなのか知る由もないが、そんな俺の疑問をよそに一花は続けざまに何曲か熱唱してみせて、その間に俺はなんとなく近くに置いてあったマラカスを振っていた。我ながら何をしているのか謎である。
ドリンクバーから持ってきたグラスに珠のような水滴が浮かび上がっている。少なくとも三十分以上は彼女のオンリーショウに付き合っているが、時間をかければかけるほど、今やっていることの意味不明さが際立った。特に説明もないまま店に来て、特に説明もないまま歌いだしたのだから無理もないことだ。
マラカスを持った腕を規則的に振りながら、彼女の意図を考える。なんだろう、ここの支払いを俺に任せる……とかだろうか。この頃は姉妹の生活費を稼ぐために必死でストレスが溜まっているだろうし、その解消のために。
有り得なくはないように思う。節制を求められる環境下にあって、娯楽に興じる余裕も少ないだろうし。ただでさえ長姉としての振る舞いを自身に義務付けているような奴だから、妹に泣きつくのはためらいそうだ。そこの溝を俺で埋めるというのは考え方としては多いにアリだし、理に適う。丁度いい部外者としての役割だ。
……が。
秘密の代価として支払うものがこれだけというのは流石に安すぎる気がする。人生一発終了レベルの爆弾なのだから、もっと上手い活用法なんていくらでもあるはずなのだ。確かに一花は馬鹿かもしれないが、そこまで頭が回らない奴だとは思わない。これではいくらなんでも手札の切り方が下手くそ過ぎやしないだろうか。
これが俺の深読みであるのが一番なのだが、まだ何か裏がある気がしてならない。女の強かさをここ最近身に染みて感じているせいで、世の事象を素直に納得できなくなってしまった。
「ふー、歌った歌った」
手で作った団扇で自らをぱたぱたあおぎながら備え付けのソファにぼすっと腰を下ろした一花は、そのままの勢いで氷がずいぶんと溶けだしてしまったジュースをあおる。額にはうっすらと汗が浮かんでいるようでもあった。
「どうだった?」
「どうだったとはなんだ」
「私の歌がどうだったかってこと」
「……大変お上手でしたね?」
「他人行儀ー」
歌の上手い下手などよく分からないが、これといって不快ではなかったから、たぶん上手い方に属するのだろう。一応褒めたつもりなんだこっちは。
「あー、損ねちゃうなー。機嫌損ねちゃうなー」
「すげー上手かった」
「冗談だって」
くすくす笑う彼女の片手にはスマートフォンが握られていて、俺としてはもう気が気でない。お願いだから脅さないで。
「……ちなみにフータロー君、私の機嫌を本当に損ねたらどうなると思ってる?」
「今すぐ姉妹に今回の話をあることないこと交えて暴露」
「…………私、そんなに悪い子に見えるかな?」
「見える見えないの問題じゃない。俺は可能性の話をしている」
万が一にも有り得る以上、細心の注意を払わないといけない。下手をすれば家庭教師どうこう言っていられなくなるんだから。
「これからずっと私の態度に警戒して接していくの?」
「仕方ないだろ。それ以外に出来ることなんてないし」
「えー、それは息苦しいよ。私も面倒」
「と言われてもなあ……」
「どうするの、そこで鬱憤がたまりにたまって、結果的に機嫌を損ねることになっちゃったら?」
「…………」
酷いデッドロックだ。まるで上手い解決法が見当たらない。どうすりゃいいんだ……と頭を抱えてみたところで、具体的な対応策が生まれてこない。
「そんなフータロー君に朗報です」
「なんだ」
「今ならもの凄く簡単にこの状況をやり過ごす方法があります」
「マジか」
「マジです」
「……ちなみにどんな?」
藁にも縋る思いで聞くと、指先でちょいちょいと手招きされる。近寄れということかと勝手に理解して彼女の隣に居場所を移すと、再度の手招き。そこで一瞬考えてから、耳を一花に差し出した。分かりやすい内緒話だ。
彼女は「んっんー」と歌で酷使した喉を整え直してから、俺の耳元にその唇を近づけて、
「…………ふぅ」
と生温かい吐息を一かけ。これにはさしもの俺も反射的に跳び上がる。「うぁ?!」みたいな情けない声をあげながら。
「え? え? どういうことだこれ?」
「いたずら」
「おま……シチュエーションを考えろシチュエーションを」
「ごめんって。ほらもう一回」
「頼むぞまったく……」
こんなところで茶目っ気を出されても対処出来ない。神経をかなり尖らせていたので、背中がめちゃくちゃぞくぞくする。
というか、本当にそんな方法があるんだろうか。解決ではなくやり過ごすという言い方がミソなのだろうが、どう頑張っても俺の頭では思いつかない。女子特有の観点とか、そういった角度から切り込むのか?
疑問符を浮かべながらももう一度耳を貸す。なんにせよ、聞かないことには始まらない。
「……あのね」
「おう」
「……フータロー君も私の秘密を握っちゃえばいいんだよ」
「……?」
耳元でぽしょぽしょ呟かれた内容を理解するまでには、思いのほか長くの時間を要した。だって、どう考えてもそのやり方を選ぶ益が一花にはない。総合的に考えれば、俺の一人勝ちになってしまうんじゃないのか。
「意味が分からん」
向かい合って問う。どういうこっちゃと。
「お互いが弱みを握り合えば、一周して何しても平気になるでしょ?」
「いや、その理屈は分かる。問題なのはお前にメリットがなさすぎることだ」
「…………意外にあるんだよねそれが」
「……どういう意味だ?」
「こっちの話こっちの話」
そう言われれば首を傾げる以外に俺が取れる行動はなくなる。とにかく、自身に分の悪い取引を望んでしてくれるというのなら、俺にとっては願ったり叶ったりだが……。
「あの、一花……?」
「どうかした?」
「いや、ハンガーあるんだからドアに上着かけなくてもよくないか……?」
「ううん、これでいいの。むしろこれじゃなきゃダメ」
「……ほう」
おあつらえ向きの密室。唯一ののぞき窓は衣類でシャット。内緒話のスケールがどんどん大きくなっていくことからも分かる通り、教えてくれる秘密の内容がとんでもないのだろう。俺はそれを胸に秘めて、今後は前のように健全な付き合いを心掛けるだけ。憂慮の全ては今ここで断ち切られるって寸法だ。一花には感謝してもしきれない。……だけどなぜだろう。先ほどから、悪い予感が溢れて止まらないのは。
「あの、一花……?」
「どうかした?」
「いや、暑いんだったら冷房入れれば良くないか……?」
「ううん、これでいいの。むしろこれじゃなきゃダメ」
「……ほう」
妙に脱衣している気がした。いくら暑いからって、靴下まで脱ぐことはなかろうに。節約生活の影響か、こんなところでまで電気代を気にしてしまっているようで微笑ましい。……微笑ましいか? 本当かそれ?
頬は妙に上気しているし、呼吸は荒いし、俺はこんな感じの女の子に非常に見覚えがあるんだが……。
「あの、一花さん……?」
「どうかした?」
「なんで下着姿に……?」
「え?」
「え?」
「だって、着たままじゃ面倒でしょ?」
「え?」
「三玖とは着たまましたみたいだけど」
「え?」
「お姉ちゃんとして、妹に先を越されっぱなしなのもどうかと思うし」
ソファの上をじりじり後退する俺を追い詰めるように、ほぼ裸の一花が一歩ずつこちらににじり寄ってくる。
やがて俺が後ろに退がれるだけのスペースは消え、後は一花との距離が詰まるだけ。
「待て一花。一体何をするつもりだ」
「セッ――」
「――やっぱ言うな。早まるな。話せばきっともっといい妥協点があるはずだから」
「……もう、しょうがないなぁ」
「ふぅ、見立て通りやっぱりお前は話が分かる奴――」
「フータロー君が耐えられたら、考えようね」
オレンジジュースだろうか、この味は。目線で机の上を追うと、ちょうどそんな感じの色をした液体が置かれていたので、俺の味覚もまだまだ捨てたものではないらしい。
で、問題なのは、その味をどこから感じているかなのだが。
「…………」
しかし自身の口許を確認しようにも、目の前に人間大の障害物があるためどうにもならない。というか実際に人間が立ちふさがっている。覆いかぶさっている。俺の胸部にはこれまた覚えのある柔らかな感触が押し付けられていて、機能不全に陥った口の代わりに鼻で息を吸うと、風呂場で感じるような甘い香りがした。
とっくに理解できてしまっている現状を知らんぷりで誤魔化すべく必死になっていると、上の前歯あたりからこつっという衝撃が響いた。これは知らない感覚で、思考が一気に現実に引き戻される。
「……下手くそだね、私」
眼前の一花が気まずそうに笑い、俺からちょっとだけ離れる。彼女の右手は口許を覆っていて、今の一瞬に何が起きたかを薄ぼんやりと把握した。
「…………醒めたか?」
たぶん、歯が当たったんだと思う。流石は大理石を超えたモース硬度。暴走した人間に自我を取り戻させることくらいなんてことない。
「なんか、ごめん……」
「いや、謝られても……」
なんだか超絶気まずい空気が流れている。情動を支えるには最低限のテクニックが要るんだなあとどうでもいい発見を得て、肌面積が大きすぎる一花から目を離した。長時間眺めているのは体に毒だ。
俺の反応を見て、一花は腕で自分の上半身を掻き抱いて、ちょっと恥じらってみせた。女性とは恥じらいの生き物だったなあと肝心なことを思い出す。どうにも俺の周りの女子はスタンダードではないらしいので、徐々に俺の感性がメインストリームから逸れていっている気がしないでもなかった。
「…………これで十分だろ、共有する秘密。キス下手くそって。黙っておくから、そっちも頼む」
「うん……」
重っ苦しい空気感から脱しようと努めて、手持無沙汰な右手で未だくすぐったさが抜けない耳を掻く。次いで立ち上がってかけっぱなしになっている一花の上着を取り、乱雑な手つきで彼女に羽織らせた。
「ごめん……」
「だから謝られてもどうしようもないんだっての……」
「いつも余裕ある風に気取ってるのにこれはちょっとね……」
「弁解は後から聞いてやるからとにかく今は服を着ろ。目のやり場に困る」
しかし一花は三角座りのままどんどん小さくなっていくばかりで、一向に行動に移らなかった。なんというかもう、見ていて痛々しいばかり。
俺の感性ではよく分からないが、世間一般的にキスの技能は必須だったりするのだろうか。ここまで凹むってことは、実際そうでもないと説明がつかないし。二乃も三玖も、まあ取り立てて下手だったわけでもないし。
でも……なあ?
「そんなに落ち込むことか?」
「もうちょっと上手く出来ると思ってたの」
そう言われようにも、歯が当たってしまった事実は消えてくれないし、ここはどうにか切り替えてやっていくしか選択肢がないと思うのだが、気持ち的にそう簡単には割り切れなかったりするのだろうか。理想と現実との乖離が思った以上に大きくて、そのギャップに打ちひしがれているとか。
でも、それは彼女個人の問題だから、外野の俺がどうこうしてやれることじゃないし……。そもそもまた女の子から強襲されて、いよいよ誰を信じればいいんだよ状態に陥ってるし……。
「ねえ、フータロー君」
「なんだ」
「……三玖はどんな感じだった?」
「…………」
あいつはもう、キスがどうとかいったレベルではなかった。異常な暴走っぷりだったし。……かなり気持ちよかったのは認めるけど。
だからといって、それを馬鹿正直に教えて誰が得をするのか。俺は言い損だし、一花は傷心が加速するだけでは……?
なら、ここは優しい嘘で誤魔化すのが一番正しい選択なのではないかとさえ思う。拗らせるのは勘弁願いたい。
「似たようなもんだったよ」
「嘘だ」
「…………」
「あ、本当に嘘ついてたんだ」
「なぜここでひっかけを……」
「そっか。三玖は上手だったんだ」
更に一花が小さくなった。自信とか尊厳とか、人が生き抜いていくうえで大切なものが根こそぎ破綻していっている感じだ。さっきまでとは別の意味で見ていられない。
「恥ずかし……」
「キスの巧拙とか人生においてそこまで重要じゃないだろ」
「でも、今後フータロー君はさ、私がみんなに対してお姉さんっぽい言動をするたび、『でもこいつはキス下手なんだな』って思うじゃない」
「それがなんなんだよ……」
「フータロー君が行き詰ったときに『困ったらお姉さんに相談するんだぞ』って言っても、『そんなこと言ってるけどこいつはキス下手なんだよな』って思うんでしょ」
「被害妄想すげーなお前」
「でも、心のどこかでちょっとは考えるじゃない。キス下手なのに強がってるんだなあって」
「それは悪いことなのか……?」
「悪いよ……居心地が」
俺の評価なんかで何が変わるとも思えないが、一花的に俺に舐められっぱなしなのは癇に障るらしい。まったくもって謎な価値観だが、この落ち込みようを見ると、彼女にとってはものすごく大事なことなのだろう。
「三玖と私が話してるところを見たフータロー君は、これから絶対考えるようになるんだよ?『あ、上手い奴と下手な奴だ』って」
「お前の中で俺がどんな認識を受けてるのか分からなくなってきた」
どんだけ根が深いんだこれ。正直ちょっと怖くなってきた。一花のキスに対する執着は異常だ。
「……フータロー君はさ、きっと上手なんだよね」
「え、そこに飛び火すんの?」
「三玖と上手なキスしたんでしょ? なら、私よりは絶対に上じゃない」
「……確かに歯は当たらないかもしれんが」
「ほら、そうやっていじめる。キスマウント取ってくる」
「なんだよそれ……」
どんどん小さくなる一花がややむくれた。情けなさが憤りに変換されてきたようだ。おかげか八つ当たり期に入ってしまっている。
「……ねえ、フータロー君」
「なんだよ」
「一つお願い聞いて」
「それで解決するならこの際聞いてやるよ……」
「…………やり直し」
「は?」
「もう一回、やり直し、させて」
「いや、いやいやいや。それとこれとは話が違うだろ」
「本当にそれだけだから。私を助けると思って、どうかもう一回だけ」
「……それが上手くいけばさっきの面倒くさいいじけは終わるのか?」
「終わる。約束する」
「…………本当に一回だけか?」
「もちろん」
「………………金輪際こういうのはなしだからな」
なんだか上手く流されてしまった気がするが、あんな面倒な状態の一花をこの先慰める手間を思えば、ちょっとちゅっとやって納得してもらった方が早いと自己完結してしまった。生憎というか幸運というか、同じ体のつくりをした連中で事前練習はばっちりなので、俺が上手いことリードしてやればすぐ終わる。俺もこんなことを考える人間になってしまったんだなぁと変わり果てた自分の姿に悲しくなるが、背に腹は代えられまい。
一花と目線を合わせるべくソファに両膝をついて、はーっと大きく息を吐く、大義のために短期的な犠牲は止むを得ないのだと必死に自分を説得しながら。
「……とりあえず目を瞑れ」
「……ん」
「……高さの都合的に、ちょっと上向いて」
「……ん」
「……あとはもうちょい力抜け。またぶつかるぞ」
「……ん」
いざ行程を口に出していくと、自分たちが今めちゃくちゃ恥ずかしいことをしているというのが分かってしまった。これまでは行為の中の流れで口づけるか、そうでなければ一方的に奪われるかの二択だったせいで、割と心に余裕がある状態、つまりは理性的な状態でこの状況を俯瞰してしまうと、これがなかなかにキツイ。過去俺はとんでもないことをしていたのだというのが分かってしまうのが、その思いに拍車をかける。
「……じゃあぼちぼち行くから覚悟決めとけよ」
「…………ん」
さっき一度唇どうしがくっついているので、それに対しては抵抗感が少ない。守るものが少ないと、人は無敵になれるらしい。とにかくちゃちゃっとやって後は何事もなく帰ろう。それが俺のためだし、ゆくゆくはこいつらのためにもなると信じている。
背に手を当てて、彼女の体をゆっくり引き寄せ、口づけた。その瞬間、一花が怯えるようにびくりと体を震わせたがそれは無視。いちいちそういうのに構っていては日が暮れてしまうというか、もう夜だから朝が来てしまう。
先ほど感じた仄かに香るオレンジは時間経過のせいか消え去っていて、そこにあるのは素で少し甘い唾液の味だけ。このなんとも言えない風味をまた感じることになってしまったのは遺憾としか言えないが、今後のことを考えるなら仕方ない。
一花は借りてきた猫のように大人しく、俺の舌の動きを緩慢になぞるだけだった。これではまるで俺が二乃に犯されたときの構図を逆転したようで、奇妙過ぎる因果に頭が痛くなってくる。
というかこれ、一花は下手くそなままじゃないのかという疑問は、そっと胸にしまい込んだ。そんなことを言っていたらもう一回、あと一回と無限にだらだらループしていくのが丸わかりだし、俺が保たない。正直今もかなり恥ずかしいのにこれ以上なんて勘弁被る。
自分が冷静であるからこそ、この行為の異常性は承知している。ここ最近色々あったせいで俺の中にある心理障壁がずいぶんしょぼくれたものになってしまった。人並みの貞操観念は持ち合わせていたはずだったのに。
それなりの時間唇を触れさせ合って、それなりの量唾液の交換を終えたと判断したので、ゆっくりと彼女から離れる。伝う唾液の橋は見て見ぬふりをすることにした。
「お、終わり……?」
「終わり」
なぜか目を瞑ったままで聞いてくる一花。どうも思考と行動がちぐはぐになっている感じがする。
震える手で何度も口許をぺたぺた触っている様子は、なんだか小動物のようにも思えた。
「こ、こんな感じなんだね」
「分かったら今度こそ服着てくれ」
未だに下着のままなので、やっぱり目線を迷わせざるを得ない。もし着衣状態だったとしても、顔をじろじろ見ることが出来たかどうかは謎だけど。
「なるほど……」
「なんだよ」
俺の顔と自分の手許とを交互に見比べる一花の一言。一体何に納得したかは不明だし、これと言って聞き立てようとも思わなかった。
というのも、こういう状態のままで拘泥していると碌な結末を迎えないのが火をみるより明らかだからだ。閉鎖環境は人を充分に狂わせ得る。早急に立ち去らないことには、まーた面倒なことが起きるに違いないのだ。